BAR eternityの奇跡

冬野俊

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~奇跡のターフ~

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 牧村がそのバーを見つけたのは偶然ではなかった。むしろ必然と言って良い。
一ヶ月前から体調不良が続いていた。三十代で、それまで大病とは無縁だった牧村にとって、まさか自分がガンになるなど、露程も思わなかった。
 主治医に病名を宣告されたとき、牧村には自分でも驚くほどの恐怖が襲ってきた。「俺の人生が終わってしまうかもしれない」。そこで感じたのは、健康な時には気付くことが出来なかった、生への執着だった。
 治療が始まった。放射線と抗がん剤の治療は、毎日が地獄かと思うほど牧村にとって苦痛だった。だが、ここで諦めてしまえば、全てが終わる。騎手としての生活も、家族を持つという夢も、全てが終わってしまう。そう考え、毎日を必死に耐えていた。ただ、病気の進行は早かった。医者もとうとう、さじを投げた。「もって半年です」。告知の場面はテレビドラマのようだったが、それは残念ながら現実の出来事だった。
そんなある日、山城が病室に来たとき、牧村は悔しかった。これまでの騎手生活で腹を割って話すことができる存在。そんな親友であっても「何故、こいつではなくて、俺なんだ」と何度も思った。
 ただ、そんなことを言っていても病気が治るわけではない。自分が死んで、山城が生きていく。その状況はどう足掻いても変わりそうになかった。
 山城はそんな牧村の心中など知らずに、穏やかに、そしていつも通りに話をした。牧村も表面上は笑顔で過ごしたが、それは作り笑いだったはずだ。心が笑わなければ、顔は本当に笑わない。山城が気付いたのかどうかは分からないが、それでもやはり、いつも通りだった。
山城が帰った後、脳内が冷静になっていくにつれ、牧村は恥じた。「自分がガンになったのは山城のせいではない。当たり前だ。誰も悪くない。人が死ぬのは当たり前なんだ」と。立場が変われば良いなどと一瞬でも思っていた牧村は、自分の人間の小ささを実感し、そして、もうすぐ訪れるであろう死への恐怖も相まって、真っ暗な病室で、声を殺して泣いた。

 外出許可が下りた。ただ、それは病状が回復したわけではなく、残された時間を悔いのないものにするための時間だった。
牧村が向かったのは、騎手に成り立ての頃、よく通っていた飲み屋街だった。自分の人生を振り返りたいと、なんとなく思って、まずはその飲み屋街に足を向けた。しばらく歩いただけで息切れがして、飲み屋街の入り口から五十メートルほどの場所で、その場にへたり込んでしまった。病気は確実に自分を蝕んでいる。一時的に外出して、一番最初に思ったのは、自分の気持ちを盛り下げる、そんな現実だった。
「牧村さんでしょうか?」
 地面を向いて呼吸を整えていた牧村が顔を上げると、若い女性が立っていた。長い黒髪を後ろで束ね、その目には凜とした強さのようなものを感じ取れた。その女性がバーテンダーのような格好で牧村を眺めている。前に会ったことがある人だろうかと、牧村は記憶を辿ったが、目の前の女性には辿り着かなかった。
「誰だ、あんた」
「私はそこの路地を曲がったところでバーテンダーを務めている者です」
「な、なんで俺の名前を知っている」
「その質問にはお店の方でお答え致します。とりあえず、お時間は取らせませんので、うちの店に来ていただけませんか?」
 牧村が、そんな唐突な勧誘に同意したのも、偶然ではなく、必然だったのかもしれない。「この男は誰なのか。そして、これから何が行われるのだろうか」。そんな疑問を抱きながらも、言われるがままに店に着いて行ってしまったからだ。
 そのバーは、外からでは何の店か分からず、看板も出ていなかった。あるのは一枚のドアのみ。真っ昼間なのだから、おそらくまだ営業はしていないのだろう。それにしても殺風景な外観だった。
 女性がドアを開け、牧村を導き入れると、そこには一人の男がグラスを傾けていた。
「営業、してるんですか?」
 女性は牧村が入ったのを確認してドアを閉めるが、質問には答えようとしない。その代わりに、先に飲んでいた男が口を開いた。
「お待ちしておりました。牧村様」
 この男も自分の事を知っている。だが、自分はこの二人を知らない。何度、自分の脳に「知っているか?」と尋ねてみても、返ってきた答えは「NO」だった。
「不思議に思われるのも無理はありません」
 先客の男は牧村に近づき、自己紹介をした。名を「真樹」と名乗ったが、やはり知らない名前だった。
「話は簡単です。牧村様、貴方はもうすぐ死にます」
 その言葉は牧村に怒りと悲しみを溢れさせた。「確かに自分はもうすぐ死ぬかもしれない。だが、そんな言い方はないだろう」。口にこそ出さないが、そう思いながら真樹をにらみつけた。
「いえ、そんな言い方しかできません」
 一瞬で牧村は血の気が引いた。「こいつは人の心が読めるのか」。当てずっぽうかもしれないとも思ったが、人の考えていることが感じ取れると考えた方が、どう考えても自然だった。
「ただ、だからこそ、あなたはここに来ることが出来たとも言えます」
 どういうことなのだろうか。ここはいずれ死ぬ人間だけが辿り着ける場所だということか?牧村はその言葉の真意を探りながら真樹の様子を伺った。
「その通りです。といっても、人間はいつか必ず死にます。結局、すべての人間が辿り着ける資格を持っていることになるんですがね」
「一体、どうなってんだ?あんた、俺の考えてることが分かるのか?」
 牧村はあえて言葉を発せず、真樹を見ながら、そう心中で問い掛けた。
「ええ、あなたの体調が良くないことを承知し、このように話した方が貴方にとっては良いかと思いまして」
 真樹の表情はいたって穏やかだったが、その瞳の奥には一種の不気味さのようなものも感じられた。真意が、分からない。
「あなたは、何か思い残されたことはありますか?」
 自分が思い残したこと。ある。そう、ダービーだ。俺はまだ、ダービーに勝っていない。
 真樹は相変わらず、牧村の心の声を汲み取っていく。
「ですが、あなたはもう騎手を続けることはできない」
 牧村はゆっくりと縦に頷いた。
「そこで、少し調べさせていただきました。あなたはある人物に夢を託しましたね?そうダービー制覇という夢を」
 牧村は山城の事を思い浮かべた。病室で確かに夢は託した。山城は嘘をつくような人間ではない。だが、もしも自分がこの世を去った後、山城は本当にダービーを勝ってくれるのだろうか。
「そう、山城様に託された夢。あなたにとっては叶えきれなかった夢ですね。それを実現させるには、ある種の『奇跡』が起きなければ無理ではないかと思います」
 奇跡。ダービーを勝つことは簡単ではない。確かに昔の山城ならともかく、いまのあいつには、若い頃の切れ味が失われている。
「奇跡が起きる可能性はどれくらいだ?」
 真樹は「半々でしょう」と告げ、さらに続ける。
「ただ、牧村様には、その手助けをすることが可能なのです」
 手助けとはどういうことなのだろうか。ただ、何らかの形で力を貸せるのであれば断る理由もない。
「俺は何をすればいい?」
 「なるほど」と真樹はうなずき、牧村の表情を確認してから納得する。
「牧村様の意向は承知致しました。ただ、それには布石が必要となります」
 布石とはどういうことだろう、と考えていると、真樹は「まあ、大丈夫です。セッティングはこちらにお任せください」とだけ言って、店の奥にある扉を開けて、引っ込んでしまった。
 目の前のバーテンダーは真樹の言葉が終わると同時に、カクテルを作り始める。
「お客様はカクテルというものを飲んだ経験はありますか?」
 バーテンダーは銅製のマグカップに何やら洋酒のようなものを注いでいる。
「いや、ない」
 そう答えている間にも、カウンターの奥では次々と作業が進められていた。程なくして、目の前にそのマグカップが置かれる。
「お待たせしました。モスコミュールでございます」
「ちょっと待ってくれ、俺は何も頼んでなんかいない。どうせなら、ビールはないのか?」
 体調不良は相変わらずで、酒を飲む気にはあまりなれなかったが、牧村の喉は渇いていた。カクテルというものは甘ったるいイメージしかなく、どうせ死ぬ身なのだから、飲み慣れている酒の方が良いと感じ、そう心の中で伝えた。だが、バーテンダーは「一口で構いません。飲んでみてください」と言う。
 牧村が眉間に皺を寄せながら、渋々、マグカップに口を付ける。ただ、人生で初めてとなったそのカクテルは、逆に牧村へ生気を与えた。
「どうでしょうか?」
 これが、カクテル。甘ったるいとは少しも思わない。むしろ清涼なイメージしか湧かない。さっぱりとした味が喉を潤していく。
「そのカクテルはモスコミュールと申しまして、そのカクテルが生まれた経緯にはいくつかの説があります」
 バーテンダーは独り言のように、そのカクテルの解説を始めた。
「その中の一つが、こんな話です。一九四〇年代の米国で、ある一人のバーテンダーがピムズというお酒と組み合わせたカクテルを作るために、ジンジャービアを大量に仕入れました。ただ、そのカクテルが売れなかった。大量の在庫を抱えることになってしまった訳です。時を同じくして、そのバーテンダーの友人も、銅のマグカップが売れずに困っていたんです。その友人は銅のマグカップにカクテルを入れて販売することを提案します。さらに、もう一人困っている人がいました。それはウオッカを売っていた会社の社長です。そこでバーテンダーが考案したのが、このカクテルです。ウオッカとジンジャービアを混ぜ、銅のマグカップで飲む。これがたちまち人気となり、今では全世界に広まっています」
 このバーテンダーは何が言いたいのだろう。牧村は呼吸が乱れている自分の身体に苛立ちを覚えながらも、口を挟むことなく耳を傾け続けた。
「面白いと思いませんか?もし、その三人が同時に困っていなければ、今、あなたが飲んでいるこのカクテルはこの世に存在しないわけです」
 バーテンダーは微笑みながら続ける。
「逆に言えば、その三人がその時、偶然にもそこに居たから、世界の歴史は変わった。そう、思いませんか?」
 偶然とは、想像していない、予想されていなかった出来事。ただ、その偶然が日常に溢れている何気ない小さな出来事だったとしても、世界を変える可能性もある。ただ、俺には、世界を変えることは出来なかった。騎手になっていなければ、その世界を変えることは出来ていたのだろうか。牧村はカクテルの水面に浮かんでいる氷を何となく見つめながら、そう、思った。
「いえ、まだ可能性はあります」
 バーテンダーの言葉にハッとする。「どういうことだ?」と問い掛けようとした時、店の奥の扉から真樹が出てきた。
「お待たせしました。いろいろ準備がございまして」
「準備とはどういうことだ?」
 牧村は先ほどと同じように、真樹と口ではなく、思考で会話する。
「まあまあ、落ち着いてください。それではご説明致します」
 真樹は牧村の方に歩み寄ると、丁寧に手順を話し始めた。
「あなたの思い残したことを山城様に託す場合、先ほども言ったように布石が必要となります。その布石ですが、貴方と山城様がまずこのバーにまず来ていただくことが第一の条件です。ただ、現在ではなく過去。そう、山城様が日本ダービーに臨む直前辺りが良いでしょうか。そこが一番、山城様の思いが強い時だと思われます」
「過去?そんな無理なことを言うな。お前は俺をバカにしてんのか?」
「いえ、至って真面目ですよ。まあ、百聞は一見にしかずです。奥の扉を開けて、先に進んでみてください」
 牧村は恐ろしくなってきた。何故なら、今、真樹が話している事がまるで狐につままれているかのような、夢物語だったからだ。過去に戻れるのであればもう一度、騎手人生を送り直して、自分の手でダービーを勝つ。ただ、そんな考えを真樹は先回りしたかのように否定する。
「あ、それは無理ですよ。戻れる時間は僅かです。そして、貴方に出来るのは、山城様をここに連れてきて、夢を託すことだけです」
 もしかして、自分はもう死んでいるのか?脳内で都合の良い話を作り上げているだけなのではないか?
「あなたは、まだ生きてますよ」
 真樹に考えをことごとく否定されて、牧村は少しばかり錯乱した。そもそもこのバーはおかしい。確実に現実世界のものではない。
ただ、もう死ぬだけの自分にとって、何かが出来るのであれば、やって損はないとも思った。それが、自分の夢を託すことに繋がるのだとしたら、行動しない理由は何一つない。
 牧村は何も答えず、店の奥に向かった。
「それでは、行ってらっしゃいませ」
 バーテンダーの言葉を背中に受けて、牧村はドアをゆっくりと開けた。


 ドアの先に繋がっていたのは、先ほどまで牧村がカクテルを飲んでいたバーだった。最初はその風景に驚いた。店が繋がっているのかと後ろを振り返ったが、ドアはいつの間にか姿を消していた。
「お待ちしていました。と言っても、時間が遡っただけなんですがね」
 真樹は牧村の表情を伺いながら確認する。
「体調の方はどうでしょうか?」
 牧村はそう言われて初めて、自分の身体に意識を向けた。呼吸が苦しくなくなっている。
「話が普通に出来ている・・・」
「ここには鏡がありませんから分からないでしょうけれども、外見も七年前の姿に戻っていますので」
 牧村はさらに驚きながらも、自分のやるべき事を思い出し、外に出ようとした。真樹がそれを呼び止める。
「あ、まだ、説明が終わっておりません」
「山城を連れてくれば良いんだろう?もう分かってるよ」
 口調は面倒そうだったが、会話に苦しさがないことを、牧村は密かに喜んでいた。
「いえ、ただ連れてくるだけでは駄目です。連れてきて、モスコミュールを注文してください。山城様にはモスコミュールを飲んでいただく必要があります」
「ふうん、それで、他には?」
「ありません。モスコミュールが大切なので、それを飲んでいただければ大丈夫です。それと今がいつかということですが、先ほども申しましたように、山城様が日本ダービーに臨まれる直前です。ただ、日本ダービーではあなたもご存じのようにウインドブラストが亡くなることになっています。それらの未来の出来事は変わらないようにご配慮を願います。まあ、普通の会話でしたら問題ありませんから」
 そういうことか。もし本当に過去に戻ってきたのだとしたら、ウインドブラストは死なないかもしれない。
「牧村様?これは忠告ですが、もし未来が変わってしまった場合は、貴方の夢が叶う機会を失うばかりでなく、それ相応のペナルティーが発生します。変な気は起こされないようにお願いします」
「あ、ああ、分かったよ」
 それまでにこやかだった真樹の形相が一瞬にして、真顔に変わったことで、牧村は少し狼狽えながら、なんとか答えた。それは、その目の奥に潜んでいる、底が見えないような不気味さ、雰囲気を本能的に感じ取ったからだった。真樹の表情は再び、緩んだいつもの顔に戻る。
「それでは、行ってらっしゃいませ」
 またも、バーテンダーからのその言葉を背中に受けて、今度は店の入り口のドアを開けた牧村は外の世界へと足を踏み出した。


 山城は牧村の予想したとおり、自宅に居た。郊外の静かな住宅街にあるアパートだ。山城は昔から贅沢という言葉を知らないのではないかと言うほど、質素な生活を送っている。一流騎手ともなればもちろん収入は多額だが、自分や山城くらいの成績であれば、年収は一千万程度。それほど生活に困るということもない。しかも、二人ともまだ独身なのだから余裕があって当然とも言えるが、山城は酒も飲まず、高級な外車を買うなんて事もない。恐らく相当な額を貯め込んでいるのだろうと、牧村は考えていた。
 そのアパートもやはり、築二十年以上が過ぎた1Kの部屋で、牧村も何度となく訪れたことがあった。これまで訪れたときと同様に、牧村がインターホンを押すと、山城が少々、息を切らしながらタンクトップとジャージのパンツ姿で現れた。額にはびっしりと汗が浮かんでいる。
「牧村か。どうした?今、筋トレ中なんだが」
 山城はこういう人間だ。誰も見ていない所で、努力が出来る人間。結果になかなか繋がらなくとも、そういう積み重ねを怠らないのだ。
「いや、実はな、お前がダービーに出るお祝いをしようと思ってな。お前を連れて行きたかった場所があるんだ」
 山城は牧村の提案をすんなりと受け入れた。山城は一旦、部屋の中に戻り、慌てて着替えると、すぐに外へ出てきた。
 あらためて見てみると、山城はやはり若かった。まだ、馬に乗るのが怖くない時だ。その表情にも明るさが感じ取れた。
 アパートから出て歩き出すと、山城が不意に訊いてきた。
「なあ、牧村」
 牧村が並んで歩く山城の方に顔だけを向けると、山城が続ける。
「俺さ、騎手になって良かったよ」
「どうしたんだ、いきなり?」
 含み笑いをする牧村に対し、山城は落ち着いた様子で呟く。
「俺はさ、自分が生まれてきた意味って何だろうっていつも考えてきた。それは、ソウタも母さんも死んで、俺には二人とも救うことが出来なかったからだ。もし、自分が生きていることで他人が不幸になるのなら、居なくなった方が良いかとも思ってた。でもさ、こんな俺でも、役に立つことがあるんだと思ってな。田代さんも、ダービーを俺に任せてくれた。俺を必要としてくれている。もちろん、ウインドブラストも直接聞いたわけじゃないけど、自分を頼りにしてくれているんじゃないかと思ってる。そして、牧村も俺がダービーに出ることを応援してくれて、喜んでくれている。だから、俺はそれに応えなくちゃならない」
 山城のダービーに懸ける思いは強かった。ただ、そのダービーで、山城は再び、大切な存在を失うことになるのだ。牧村は一瞬、ダービーに出ることを止めようとも考えた。もし、ここでダービーに出なければ、ウインドブラストが死ぬこともなくなり、山城も馬に乗るのが怖いとも思わないだろう。真樹に釘を刺されていなければ、うっかり忠告してしまっていたかもしれない。
「そうか。そうだな。ここでお前の力を存分に見せてやれ」
 牧村にはどうしても言えなかった。これまでの出来事を包み隠さず言ったところで、山城は信じないだろうし、ダービーに出ると言うだろう。当たり前だ。それならば、真樹の言うとおり、自分の夢を託すために山城をあのバーへ連れて行くことに専念するべきだ。
 そこから二人は特段、何かを話すわけでもなく、牧村の先導で目的地に向かった。


 
 バーに着いてからモスコミュールを頼み、乾杯した。山城は元来、アルコールに強いわけではなかったので、数杯飲んだだけで、あっけなくカウンターの上に突っ伏して寝息を立て始めた。ただ、その表情は七年後のそれとは対照的に、底抜けに明るかった。
 店の奥から真樹が顔を出す。カウンターの山城の様子を確認すると、二人の元に近づいた。牧村は真樹に問い掛ける。
「これで良かったのか?」
 真樹はゆっくりと顔を立てに振る。
「OKでございます。これで布石は打たれましたので、あとは山城様の行動次第です」
 山城の行動次第とはどういうことだろう。これで、山城がダービーを勝てるというわけではないのか。疑問が牧村の頭をよぎり、「どういうことだ」と説明を求める。
真樹は一息つくと、ゆっくりと語り出した。
「牧村様、奇跡が起きる、夢が叶うということは、そんなに簡単な事ではありません。もちろん、誰かがそれを願うことが前提条件となりますが、そこに辿り着くのも、幾つもの偶然が重なり、タイミングが合って初めて起きるのです。こちらに出来ることはしました。後は山城様が、自らの力でその扉を開ける必要があるのです。それはいつになるかは分かりません。もしかすれば、その扉が開かれない可能性もあります」
「言っていることがよく分からんが、要するに、待つしかないって事か?」
「ええ。そして、それは貴方がこの世を去った後になります」
 自分が死んだ後…。牧村は自分の余命があと僅かであることをすっかりと忘れていた。
 ただ、それでも良い。どうせ死ぬなら、どうせ、自分がもうレースに出られないなら、目の前で酔いつぶれているこの親友に、ダービーを勝つ喜びを味わってほしい。そして、山城に生きている意味があったと感じてほしい。
「そうか。それじゃ、これからどうすれば」
「戻りましょう。元の時代に」
「山城はこのままでいいのか?」
 真樹は「大丈夫です」と返答して、牧村をまたも店の奥の扉へと誘う。牧村は歩き出した直後に一度振り返り、山城の顔を見つめた。「もしかしたら、これが最後になるかもしれない」。山城は熟睡しながらもにやにやと笑顔を浮かべている。楽しい夢でも見ているのだろうか。「頼んだぞ」。そう、つぶやき、牧村は七年前を後にした。


 真樹が話していた「奇跡」の内容については、あえて訊かなかった。起こるかどうかも分からないことを訊いたとしても、間もなく寿命を迎える牧村にとっては何だか無意味のように思えたからだった。真樹もその辺りは、詳しく説明しなかった。
 もし、奇跡が起こらないならば、それはそれで極々、当たり前の出来事なのだ。ただ、この思いだけは、自分の肉体が無くなっても、山城の中で生きていてほしい。
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