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~奇跡のターフ~
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「やっぱりここは最高だな」
牧村の言葉に山城は第3コーナー付近で呆然とただ立っていた。
「おい、お前、何をぼーっとしてんだ」
山城は目の前にある光景が信じられなかった。どういうことだ。あのドアを開けたら競馬場に繋がっていた。しかも訪れたのは夜だったはずだ。だが、目の前には雲一つ無い快晴の下、自分たち以外は誰も居ない東京競馬場がある。
「これを…信じろって?」
牧村が隣に並び、目を丸くしている山城の右肩に、左手をポンと乗せて言った。
「真樹さんも言ってただろ?信じても良いし、信じなくても良いよ。お前次第だ」
山城は慌てて後ろを振り返る。今、通ってきたはずのドアは神隠しのように、すでに姿を消していた。おもむろに右手を頬に当ててみる。やはり、触覚の感覚はある。嗅覚も視覚もここが現実だと訴えている。
「おーい!」
牧村が声を張り上げる。誰かを呼んでいるようだったが、その誰かは数秒後に判明した。コースの向こう側からこちらに走ってきたのは二頭の馬だった。いずれも気持ちよさそうにその鬣を靡かせながら、芝のコースを駆け抜けてくる。山城も、ここまでくればさすがに誰が来るかは想像出来た。だが、その姿を間近で目の当たりにすると、さすがに腰が抜けそうになった。と、同時に再び愛馬たちに逢うことができた喜びを噛み締めた。
「ソウタ!ウインドブラスト!」
二頭の馬は二人の近くまで来ると、足並みを徐々に緩め、山城の方の前に来る頃にはすでにゆったりとした歩調になっていた。
「お前たち、久しぶりだな。もう絶対に逢えないと思ってたよ」
いつの間にか滲んだ涙を山城は右手で拭う。そして、ソウタとウインドブラストを交互に撫でながら声を掛ける。
「また、逢えるなんて。本当に、本当に嬉しいよ」
ソウタとウインドブラストが目の前にいる。その光景は信じられなくもあった。だが、これが夢であったとしても、幻であったとしても、山城にはもう、どうでもよくなっていた。紛れもなく自分の目の前に若くしてこの世を去った馬たちが居るのだから。
「さて、やるか」
牧村が意を決したようにソウタに近づく。山城は不思議そうに牧村を見つめた。
「お前、こいつらがなんでわざわざ、ここに来てくれたのか分かるか?」
山城は牧村の言葉に「いや、分からない」とだけ答える。
「お前をな、日本ダービーで勝たせるためだよ」
「いやいや、もう勘弁してくれよ。俺には無理だよ。騎乗依頼だって絶対に来ない」
あきらめを含んだ山城の言葉に、牧村は呆れたような表情で反論した。
「お前さ、いつからそんな人間になったんだ?普通、人間ってのは日々、成長していくもんだろう?若い頃のお前はもっと前向きだった。なんだか、不幸を全部背負ってます、っていうような顔しやがって!」
「いや、実際に不幸だ。俺の大切な人や馬は皆、俺をおいて死んでいった。今、俺に残されたのは俺だけだ。だから、俺が居なくなっても誰も困らない」
山城の言葉は牧村の怒りに火を点けた。ただ、牧村は意外にも本当に怒ったときほど、冷静に話す。それを山城は知っている。この時もそうだった。
「へえ、それじゃ、騎手人生の半ばで死んだ俺よりも、お前は不幸なんだな。本当なら、もっと、もっとターフを走りたかったソウタやウインドブラストよりもお前は気の毒な人間なんだな。自分の子供を残して、若くして死んでしまったお前の母さんよりも、お前は苦しいんだな」
山城は俯いたまま、黙り込んだ。牧村は続ける。
「いや、いいんだよ、それでも。無理にとは言わないさ。元々、俺たちはすでにこの世に居ないんだ。厚かましいとも思ってる。俺たちの夢をお前に叶えてもらおうなんて虫が良すぎるよな」
牧村の声は微かに震えていた。
「ただな、俺たちは皆、信じてきたんだ。お前なら叶えてくれるって。もし、その可能性が無い人間だったら、俺たちも期待しなかった。ただ、俺たちの気持ちを分かってくれているお前なら、必ず叶えてくれると、そう、思ってたんだ」
山城はやはり言葉を発することなく牧村を見やる。牧村はぽつりと呟いた。
「お前が出来ないというなら、俺は誰にこの夢を、ダービーの夢を託せば良かったんだ…」
牧村がターフに膝を突き、崩れ落ちる。何度もターフを拳で叩いている。肩を落とした牧村を見ていると、山城には「どうにかしてやりたい」という情が沸き上がってきた。ただ、情だけでダービーを勝てるかというと、そんなに甘いものではない。安請け合いしても、牧村たちの期待を裏切ってしまいそうで、山城は怯えていた。これ以上、誰かを不幸にはしたくない。すでに死んでしまっていてもなお、託してくれた牧村たちの夢を、もし叶えられなかったら、自分は一体、どんな償いをすれば良いのだろう。
「俺には、やっぱり出来ないよ」
その言葉を聞き、牧村が叩いていた地面から山城に視線を向ける。
牧村は涙を流していた。
「牧村…」
それは、山城が初めて見た牧村の涙だった。騎手生活で、落馬して骨折し、レースに出られなかった時も、闘病生活でどんな苦しいときも、牧村は山城に対して常に笑顔だった。それが、山城に余計な心配をかけさせまいとする牧村の思いやりであったことは、当然気付いていた。
「覚えてるか?昔、俺がダービーに出走するってことになって、初めてエタニティーに連れてきてくれたときのことを」
牧村はゆっくりと頷く。そして泣き笑いで答える。
「当たり前だ」
山城はウインドブラストに近づき、そっとその顔を撫でる。
「そうか。俺はあの時のカクテルの味を忘れたことはない」
心地よい風が吹いた。これまでに何度も感じてきたであろう、このターフでの風が、山城には何処か懐かしく思えた。
「あの時のモスコミュールは本当に美味かったんだ。もちろん、バーテンダーさんの腕も良かったのかもしれない。ただ、お前が競争相手である自分のダービー出走を、心から祝福してくれたから」
牧村は何も言わずに右腕で涙を拭う。
「なあ、牧村。勝負しないか?」
突然の提案に牧村は山城に聞き返した。
「勝負?」
「ああ、距離はダービーと同じ二千四百メートル。お前はソウタに乗れ。俺はウインドブラストに乗らせてもらう。もしお前が勝ったら、お前たちの夢、必ず叶えてやる。約束するよ。俺は叶えるまでターフを走り続けてやる」
牧村は納得したように「分かった」と言い、続けた。
「男に二言はないな」
山城はウインドブラストを見る。「まさか、また乗ることが出来るなんてな」。そう山城が声をかけると、ウインドブラストは嬉しそうに嘶いた。
久しぶりのウインドブラストの背中は温かかった。上から何度も撫でるが、まるで本当にウインドブラストが蘇ったかのようだった。
「よしそれじゃ行くぞ」
牧村がそう言うと、山城が合図を出した。目の前には真っ青な芝の絨毯が広がっている
「三、二、一…スタート!」
ソウタとウインドブラストはそれぞれ牧村、山城の指示で一斉に走り始めた。ウインドブラストは先行馬だ。集団で走る場合、前方につけて、最後に粘ってリードを守り切る。逆にソウタは追い込みが得意な馬で、序盤は最後方から様子をうかがい、最後の直線で末脚を爆発させて差し切る。正反対のタイプの馬だが、持っている力は互角だろう。そうなれば、勝ち負けは騎手の技量で決まる。
スタートから四百メートルが過ぎた。ウインドブラストは山城の指示に反することなく、気持ちよさそうに走っている。その感触を山城は噛み締めた。「これが本当に最後だ。こいつの背中に乗るのは」。後ろから牧村が声を上げる。
「気持ちよさそうに走ってるだろ、そいつ!そりゃそうだ!ずっと待ってたんだぜ、お前を!」
山城が様子を確認しようと、ウインドブラストの表情を覗き込む。山城の予想に反して、ウインドブラストはひたすら前を見て、徐々にスピードを上げていく。ただ、オーバーペースでも、馬が先走っているわけでもない。「そうだ、これだ。これがウインドブラストのスピードだった」。山城は当時の感覚を思い出していた。確かにターフを走っているのだが、何処か空中に浮いているような、空を飛んでいるような、そんな感触。山城の腕に一気に鳥肌が立った。
「これだ。この走りだ」。山城は過去の記憶を呼び起こしながら、現在の感覚と重ね合わせ、そのスピードをはっきりと身体に刻み込んでいく。
二頭の感覚は八馬身ほどだろうか。千八百メートルを過ぎても、その差は変わらず進んでいる。だが、ソウタが力を発揮するのはここからだ。
残り四百メートル。牧村はソウタに囁いた。「いよいよ、勝負だ」。その言葉に反応し、ソウタが一気にギアを上げる。そして、猛烈なスピードでウインドブラストとの差をみるみる詰めていった。
残り百メートル。山城はソウタの位置を確認しようと右後方を振り向いた。
すぐそこにはソウタと牧村がいた。
ハッとして山城は馬を追う手をさらに速める。
「おい、山城!こいつもだ!こんなに楽しそうに走ってるんだぜ!こいつだって待ってたんだよ、お前を!」
そう叫ぶ牧村も笑いながら、さらにソウタのスピードを上げる。
「そして、俺もな!」
「お前ら…」
山城は嬉しくてしょうがなかった。もう、二度と逢うことがないと思っていた存在と、今こうしてターフで一緒に走っている。
山城はゴールが目の前に近づいてきているにも関わらず、何故か自分の騎手人生を振り返っていた。大して華があった訳ではない。どちらかと言えば、自分はサラリーマンの方が向いているとも常々、思っていた。だが、こうも思った。自分がこうして騎手としてここに居ることには、意味があったのではないかと。ソウタが騎手になるきっかけをくれて、牧村とウインドブラストが騎手としての夢を与えてくれた。そうだ。これは牧村たちだけの夢じゃない、自分にとっても、大きな夢だったんだと。
ゴール直前、ウインドブラストとソウタはとうとう横一線に並んだ。
「うおりやああーーー」
二人は同じように叫びながら最後の力を振り絞って、馬を追い続けた。
ゴールを駆け抜けた瞬間、飛び込んだのはほぼ同時だったが、山城は手応えを感じていた。勝ったはずだ。山城が牧村の方を確認すると、牧村は苦笑いを浮かべていた。
「やっぱり現役にはかなわんよ」
だが、その表情には悲しみはない。
「いいのか?俺の勝ちだが」
馬を流しながら、牧村がソウタをウインドブラストの真横に併走させる。
「ああ。これできっぱりと諦められる」
強がりを言っているようには見えなかった。
「ただ、最後にお前と走ることができて良かったよ」
山城も同感だった。これまで跨がってきたどのレースより、心地よく、楽しかった。
何より、一緒に走ったのが自分の大切な友人たちだったことが、なによりありがたかった。
「すまない。俺はどうしても日本ダービーに出られるとは思えないんだ。だから、お前たちには本当に申し訳ないが、お前たちの夢を背負うことは、やはり出来ない」
牧村はもう何も言い返さなかった。
いつの間にか日が傾いていた。ターフにはオレンジ色の光が差し込み、山城たちを包み込んでいた。.
「これで、最後か。お前たちと会うのも」
山城は空を見上げながら呟く。
「ああ、これで本当にお別れだ」
牧村も笑いながら空を見上げた。夕日に染められた雲はゆっくりと頭の上を漂っている。
山城はその空を見て感じた。
「俺の人生がこの先どれだけ続くかは分からない。でもな、この空の色は一生忘れることはないよ」
牧村がゆっくりと山城の背後に向かって歩き出す。そこには何の存在も認められなかったが、透明な空間に向かって、牧村はノックをした。すると、そこにバーに繋がるドアが現れた。山城は一瞬、驚いたが、今、目の前で起こっていることに比べれば大したことではない。ただ、その時間も終わりを迎えようとしている。
「それじゃあ、ここで」
ドアノブをひねり、ドアを開けた牧村はそう告げた。
「牧村、そしてウインドブラスト、ソウタ。みんな…、みんな本当にありがとうな」
山城はそう言って、ドアの方へと身体を向けると、バーの中に向かって歩みを進め、ゆっくりとドアを閉めた。
牧村の言葉に山城は第3コーナー付近で呆然とただ立っていた。
「おい、お前、何をぼーっとしてんだ」
山城は目の前にある光景が信じられなかった。どういうことだ。あのドアを開けたら競馬場に繋がっていた。しかも訪れたのは夜だったはずだ。だが、目の前には雲一つ無い快晴の下、自分たち以外は誰も居ない東京競馬場がある。
「これを…信じろって?」
牧村が隣に並び、目を丸くしている山城の右肩に、左手をポンと乗せて言った。
「真樹さんも言ってただろ?信じても良いし、信じなくても良いよ。お前次第だ」
山城は慌てて後ろを振り返る。今、通ってきたはずのドアは神隠しのように、すでに姿を消していた。おもむろに右手を頬に当ててみる。やはり、触覚の感覚はある。嗅覚も視覚もここが現実だと訴えている。
「おーい!」
牧村が声を張り上げる。誰かを呼んでいるようだったが、その誰かは数秒後に判明した。コースの向こう側からこちらに走ってきたのは二頭の馬だった。いずれも気持ちよさそうにその鬣を靡かせながら、芝のコースを駆け抜けてくる。山城も、ここまでくればさすがに誰が来るかは想像出来た。だが、その姿を間近で目の当たりにすると、さすがに腰が抜けそうになった。と、同時に再び愛馬たちに逢うことができた喜びを噛み締めた。
「ソウタ!ウインドブラスト!」
二頭の馬は二人の近くまで来ると、足並みを徐々に緩め、山城の方の前に来る頃にはすでにゆったりとした歩調になっていた。
「お前たち、久しぶりだな。もう絶対に逢えないと思ってたよ」
いつの間にか滲んだ涙を山城は右手で拭う。そして、ソウタとウインドブラストを交互に撫でながら声を掛ける。
「また、逢えるなんて。本当に、本当に嬉しいよ」
ソウタとウインドブラストが目の前にいる。その光景は信じられなくもあった。だが、これが夢であったとしても、幻であったとしても、山城にはもう、どうでもよくなっていた。紛れもなく自分の目の前に若くしてこの世を去った馬たちが居るのだから。
「さて、やるか」
牧村が意を決したようにソウタに近づく。山城は不思議そうに牧村を見つめた。
「お前、こいつらがなんでわざわざ、ここに来てくれたのか分かるか?」
山城は牧村の言葉に「いや、分からない」とだけ答える。
「お前をな、日本ダービーで勝たせるためだよ」
「いやいや、もう勘弁してくれよ。俺には無理だよ。騎乗依頼だって絶対に来ない」
あきらめを含んだ山城の言葉に、牧村は呆れたような表情で反論した。
「お前さ、いつからそんな人間になったんだ?普通、人間ってのは日々、成長していくもんだろう?若い頃のお前はもっと前向きだった。なんだか、不幸を全部背負ってます、っていうような顔しやがって!」
「いや、実際に不幸だ。俺の大切な人や馬は皆、俺をおいて死んでいった。今、俺に残されたのは俺だけだ。だから、俺が居なくなっても誰も困らない」
山城の言葉は牧村の怒りに火を点けた。ただ、牧村は意外にも本当に怒ったときほど、冷静に話す。それを山城は知っている。この時もそうだった。
「へえ、それじゃ、騎手人生の半ばで死んだ俺よりも、お前は不幸なんだな。本当なら、もっと、もっとターフを走りたかったソウタやウインドブラストよりもお前は気の毒な人間なんだな。自分の子供を残して、若くして死んでしまったお前の母さんよりも、お前は苦しいんだな」
山城は俯いたまま、黙り込んだ。牧村は続ける。
「いや、いいんだよ、それでも。無理にとは言わないさ。元々、俺たちはすでにこの世に居ないんだ。厚かましいとも思ってる。俺たちの夢をお前に叶えてもらおうなんて虫が良すぎるよな」
牧村の声は微かに震えていた。
「ただな、俺たちは皆、信じてきたんだ。お前なら叶えてくれるって。もし、その可能性が無い人間だったら、俺たちも期待しなかった。ただ、俺たちの気持ちを分かってくれているお前なら、必ず叶えてくれると、そう、思ってたんだ」
山城はやはり言葉を発することなく牧村を見やる。牧村はぽつりと呟いた。
「お前が出来ないというなら、俺は誰にこの夢を、ダービーの夢を託せば良かったんだ…」
牧村がターフに膝を突き、崩れ落ちる。何度もターフを拳で叩いている。肩を落とした牧村を見ていると、山城には「どうにかしてやりたい」という情が沸き上がってきた。ただ、情だけでダービーを勝てるかというと、そんなに甘いものではない。安請け合いしても、牧村たちの期待を裏切ってしまいそうで、山城は怯えていた。これ以上、誰かを不幸にはしたくない。すでに死んでしまっていてもなお、託してくれた牧村たちの夢を、もし叶えられなかったら、自分は一体、どんな償いをすれば良いのだろう。
「俺には、やっぱり出来ないよ」
その言葉を聞き、牧村が叩いていた地面から山城に視線を向ける。
牧村は涙を流していた。
「牧村…」
それは、山城が初めて見た牧村の涙だった。騎手生活で、落馬して骨折し、レースに出られなかった時も、闘病生活でどんな苦しいときも、牧村は山城に対して常に笑顔だった。それが、山城に余計な心配をかけさせまいとする牧村の思いやりであったことは、当然気付いていた。
「覚えてるか?昔、俺がダービーに出走するってことになって、初めてエタニティーに連れてきてくれたときのことを」
牧村はゆっくりと頷く。そして泣き笑いで答える。
「当たり前だ」
山城はウインドブラストに近づき、そっとその顔を撫でる。
「そうか。俺はあの時のカクテルの味を忘れたことはない」
心地よい風が吹いた。これまでに何度も感じてきたであろう、このターフでの風が、山城には何処か懐かしく思えた。
「あの時のモスコミュールは本当に美味かったんだ。もちろん、バーテンダーさんの腕も良かったのかもしれない。ただ、お前が競争相手である自分のダービー出走を、心から祝福してくれたから」
牧村は何も言わずに右腕で涙を拭う。
「なあ、牧村。勝負しないか?」
突然の提案に牧村は山城に聞き返した。
「勝負?」
「ああ、距離はダービーと同じ二千四百メートル。お前はソウタに乗れ。俺はウインドブラストに乗らせてもらう。もしお前が勝ったら、お前たちの夢、必ず叶えてやる。約束するよ。俺は叶えるまでターフを走り続けてやる」
牧村は納得したように「分かった」と言い、続けた。
「男に二言はないな」
山城はウインドブラストを見る。「まさか、また乗ることが出来るなんてな」。そう山城が声をかけると、ウインドブラストは嬉しそうに嘶いた。
久しぶりのウインドブラストの背中は温かかった。上から何度も撫でるが、まるで本当にウインドブラストが蘇ったかのようだった。
「よしそれじゃ行くぞ」
牧村がそう言うと、山城が合図を出した。目の前には真っ青な芝の絨毯が広がっている
「三、二、一…スタート!」
ソウタとウインドブラストはそれぞれ牧村、山城の指示で一斉に走り始めた。ウインドブラストは先行馬だ。集団で走る場合、前方につけて、最後に粘ってリードを守り切る。逆にソウタは追い込みが得意な馬で、序盤は最後方から様子をうかがい、最後の直線で末脚を爆発させて差し切る。正反対のタイプの馬だが、持っている力は互角だろう。そうなれば、勝ち負けは騎手の技量で決まる。
スタートから四百メートルが過ぎた。ウインドブラストは山城の指示に反することなく、気持ちよさそうに走っている。その感触を山城は噛み締めた。「これが本当に最後だ。こいつの背中に乗るのは」。後ろから牧村が声を上げる。
「気持ちよさそうに走ってるだろ、そいつ!そりゃそうだ!ずっと待ってたんだぜ、お前を!」
山城が様子を確認しようと、ウインドブラストの表情を覗き込む。山城の予想に反して、ウインドブラストはひたすら前を見て、徐々にスピードを上げていく。ただ、オーバーペースでも、馬が先走っているわけでもない。「そうだ、これだ。これがウインドブラストのスピードだった」。山城は当時の感覚を思い出していた。確かにターフを走っているのだが、何処か空中に浮いているような、空を飛んでいるような、そんな感触。山城の腕に一気に鳥肌が立った。
「これだ。この走りだ」。山城は過去の記憶を呼び起こしながら、現在の感覚と重ね合わせ、そのスピードをはっきりと身体に刻み込んでいく。
二頭の感覚は八馬身ほどだろうか。千八百メートルを過ぎても、その差は変わらず進んでいる。だが、ソウタが力を発揮するのはここからだ。
残り四百メートル。牧村はソウタに囁いた。「いよいよ、勝負だ」。その言葉に反応し、ソウタが一気にギアを上げる。そして、猛烈なスピードでウインドブラストとの差をみるみる詰めていった。
残り百メートル。山城はソウタの位置を確認しようと右後方を振り向いた。
すぐそこにはソウタと牧村がいた。
ハッとして山城は馬を追う手をさらに速める。
「おい、山城!こいつもだ!こんなに楽しそうに走ってるんだぜ!こいつだって待ってたんだよ、お前を!」
そう叫ぶ牧村も笑いながら、さらにソウタのスピードを上げる。
「そして、俺もな!」
「お前ら…」
山城は嬉しくてしょうがなかった。もう、二度と逢うことがないと思っていた存在と、今こうしてターフで一緒に走っている。
山城はゴールが目の前に近づいてきているにも関わらず、何故か自分の騎手人生を振り返っていた。大して華があった訳ではない。どちらかと言えば、自分はサラリーマンの方が向いているとも常々、思っていた。だが、こうも思った。自分がこうして騎手としてここに居ることには、意味があったのではないかと。ソウタが騎手になるきっかけをくれて、牧村とウインドブラストが騎手としての夢を与えてくれた。そうだ。これは牧村たちだけの夢じゃない、自分にとっても、大きな夢だったんだと。
ゴール直前、ウインドブラストとソウタはとうとう横一線に並んだ。
「うおりやああーーー」
二人は同じように叫びながら最後の力を振り絞って、馬を追い続けた。
ゴールを駆け抜けた瞬間、飛び込んだのはほぼ同時だったが、山城は手応えを感じていた。勝ったはずだ。山城が牧村の方を確認すると、牧村は苦笑いを浮かべていた。
「やっぱり現役にはかなわんよ」
だが、その表情には悲しみはない。
「いいのか?俺の勝ちだが」
馬を流しながら、牧村がソウタをウインドブラストの真横に併走させる。
「ああ。これできっぱりと諦められる」
強がりを言っているようには見えなかった。
「ただ、最後にお前と走ることができて良かったよ」
山城も同感だった。これまで跨がってきたどのレースより、心地よく、楽しかった。
何より、一緒に走ったのが自分の大切な友人たちだったことが、なによりありがたかった。
「すまない。俺はどうしても日本ダービーに出られるとは思えないんだ。だから、お前たちには本当に申し訳ないが、お前たちの夢を背負うことは、やはり出来ない」
牧村はもう何も言い返さなかった。
いつの間にか日が傾いていた。ターフにはオレンジ色の光が差し込み、山城たちを包み込んでいた。.
「これで、最後か。お前たちと会うのも」
山城は空を見上げながら呟く。
「ああ、これで本当にお別れだ」
牧村も笑いながら空を見上げた。夕日に染められた雲はゆっくりと頭の上を漂っている。
山城はその空を見て感じた。
「俺の人生がこの先どれだけ続くかは分からない。でもな、この空の色は一生忘れることはないよ」
牧村がゆっくりと山城の背後に向かって歩き出す。そこには何の存在も認められなかったが、透明な空間に向かって、牧村はノックをした。すると、そこにバーに繋がるドアが現れた。山城は一瞬、驚いたが、今、目の前で起こっていることに比べれば大したことではない。ただ、その時間も終わりを迎えようとしている。
「それじゃあ、ここで」
ドアノブをひねり、ドアを開けた牧村はそう告げた。
「牧村、そしてウインドブラスト、ソウタ。みんな…、みんな本当にありがとうな」
山城はそう言って、ドアの方へと身体を向けると、バーの中に向かって歩みを進め、ゆっくりとドアを閉めた。
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