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老夫婦

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 60代半ばで仕事を引退して数年。子供も全員独立し家を出て行った。残されたのは妻と二人きりの余生。
 大人しく俺の三歩後ろを静かに歩くような妻は、表情乏しく非常につまらない女だ。それでも仕事をしていた頃は良かった。家の事は全て妻にまかせ、自分はただ仕事さえしていれば良かったのだから。
 家に帰れば食事が用意され、入浴を済まして晩酌。テレビを見ながらツマミと酒を口にして、のんびりとした時間を過ごすのが好きだった。
 いつでも暗い顔をして、笑顔の無い辛気臭い妻との会話などほぼ無かった。それでも仕事をしていたから気にならなかった。

 だが引退した今はどうだ。
 毎日毎日家にいる妻と自分。笑うことも楽しい会話をすることもなく、無言の食事、無言の二人きりの空間。
 買い物に行くと言うので、では車でも出してやろうと言えば、微かに浮かぶ眉間の皺。スーパーに着けば車の中で待ってやると言えば、何か言いたそうにして結局何も言わずに店の中に入っていく妻。戻って来た妻に遅いぞと言えば、溜め息をつく始末。

 一体何が不満だと言うのだ。
 これまで何不自由なく生活出来たのは、俺が汗水流して働いてきたからではないか。
 こうして老後の生活を不安なく過ごせるのも、これまでの俺の功績のおかげではないか。
 息子たちが立派に成長できたのも、俺が金を稼ぎ塾に通えたからではないか。そうでなければ一流校に通うことなど出来なかったろうに。
 引退生活の今、同じく妻も年老いた。だからこそ買い物にも車を出してやってるというのに、なぜ不満タラタラの顔をされねばならないのか。集中できないだろうと待ってやると言ってるのに、何が不満なのか。だからと言って、遅い妻に注意することも俺には許されないのか。

 ウンザリだった。退屈だった。楽しくなかった。俺の老後はこんな風になるはずではなかったのに。どこで間違えたのか、俺には分からない。

 いっそ何か趣味でも見つけて、家にいる時間を減らそうか。妻と共に趣味を、なんて考えたくもない。俺は妻から離れたいと思っていた。

 そんなある日、妻が言った。

「ねえあなた。たまには旅行でも行きませんか?」

 そう言えば、随分長いこと旅行に行ってなかったなと思った。
 子供らが居た頃は家族旅行に行ってはいたが、それも大きくなるにつれ無くなった。ましてや妻と二人きりの旅行など、新婚旅行以来ではないか。
 まあたまにはいいか。気分転換になるかもしれない。
 そう思って俺は承諾した。
 だが直ぐに後悔することになる。

「なんだここは。何も無いじゃないか」

 妻が選んだツアー旅行は、なんとも退屈なものだった。
 かつての金持ちが建てたという山奥の洋館に泊まる、ただそれだけのものだったから。
 しかも山奥すぎて、他に何も無いときてる。普通周囲に土産物屋とか、飲食店とかあるだろうに。

「お前なあ、もう少しマシな旅行を考えられなかったのか?」
「そんなこと……私の好きにしていいと仰ったじゃないですか」
「だからってこれは酷いだろ。俺のことも考えろよ。まったく、お前は本当に何も出来ない女だな」

 俺の責めは当然の結果だ。悲しそうな顔をするくらいなら、もっと俺を楽しませる旅行を考えられなかったのか?そもそも旅行代金は誰が出してやってると思ってるんだ。
 溜め息をついたところで事態が好転するわけでもない。今更戻るのも面倒だ。
 一週間もここに滞在だなんて気が遠くなるが、なに嫌になれば早々に帰る事も出来るだろう。なにせ毎日スタッフが通いで来るという話だから。そのスタッフ送迎バスにでも乗せてもらえば良いこと。
 とはいえ珍しいシチュエーションなのだから、一泊くらいしても良いか。
 そう思って、グループ分けの後に案内された館内を見て回った。案の定退屈そのものだった。
 だが飾られた調度品の数々には、少なからず興味をそそられた。それは今や入手困難であろう高価な物が多かったから。何よりかつての金持ちの生活に興味が少なからずわいたから。
 自分もこんな生活を送ってみたかったものだ。──現実は、退屈な妻との退屈な日々だったが。

 そうして一日が終わり、自室に戻って深々と溜め息をついた。

「はあ……なんだこの風呂は。せめて温泉があれば良かったのに」

 脚のある、独立した風呂桶を見た瞬間、その言葉が漏れた。ジトリと妻を睨めば、やっぱり暗い顔で「ごめんなさい」と返って来た。

「お前は謝ることばかりだな。謝るくらいなら、そうならないように考えろよ」
「ごめんなさい」

 これ以上その暗い顔を見ていたくなくて、俺は蛇口をひねった。すぐにお湯が湯気を立てて、風呂桶にどんどん溜まる。それを見て、俺は服を脱いだ。妻がバスルームから出るのが、扉が閉まる気配で分かる。背後を振り返ることなく俺はビニールのカーテンを閉めて、風呂桶に体を沈めた。まだあまり溜まっていないが、自分が入ることでカサは増す。
 徐々に体を温める湯に目を閉じた時だった。

 ピチャンと、溢れた水を踏む足音が聞こえたのは。

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