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第一章~矢井田と奥田
2、
しおりを挟む制服に着替えて鏡に映る自分を見る。相変わらず平凡な男子学生だ、というのが自身の感想。
まあいいさ、変に悪目立ちするよりもこのほうが。なんて自分に言い聞かせていると「良善~、伊織ちゃんが来たわよ~」と階下から母の呼ぶ声が。
「早いな」
ハアと溜め息をついてカバンを引っ掴む。何か食べよう、伊織は待たせておけとキッチンに向かえば食卓に座ってベーコンエッグにかじりつく女子高生。
「……お前なにやってんの」
「朝ご飯食べてる」
「いや自分ちで食ってこいよ!」
「別にいいでしょー。減るもんじゃなし」
「俺の飯が減るんだよ! それどう考えても俺の分な!?」
食卓に並べられた朝食はワンセット。母はとうに食べ終わっているのはいつものこと。
つまり伊織が食べているのが、俺の朝食なのである。
「固いこと言いっこなし。ほら、この半熟卵のように柔らか~い考えでもって……」
「柔らかろうが固かろうが、俺の朝食が無くなったことに変わりないんですが」
いつも伊織はこの調子。俺の家にまるで住人のように入り浸る。それを母は喜々として受け入れるのだ。
「ごめんねえ伊織ちゃん、私もう出なくちゃいけないからバカ息子のこと頼むわね」
「はーい、おまかせください!」
エプロンをはずしてスーツ姿になる母に、伊織はビシッと敬礼する。それに笑顔を返してから、母が俺の前に立った。
そっと伸ばされる手が俺の頬に添えられる。そこには湿布が貼られている。
「もう喧嘩は駄目よ? いくら男の子とはいえ、問題になって停学にでもなったらどうするのよ」
「……気を付ける」
「よし、いい子」
母にはいつも男同士の喧嘩だと言っているが、そろそろ無理がある気がする。毎日顔をボコボコにして帰ってくる息子を心配するも、母は何も言わない。きっと何かしら察しているだろうに、俺が言うのを待ってくれているのだろう。その気持ちがありがたくも申し訳ない。
チラリと視線を向ければ、椅子に無造作に置かれた母の通勤バッグ。チャックの開いた先には財布が見て取れた。
『なら親の財布から抜き取ってでも持って来るんだな。殴られたくなきゃな!』
矢井田の言葉が頭の中で再生される。だが俺の指は動かず、母はそのまま出社して行った。
「よく耐えました」
「よせよ」
行ってらっしゃいと告げた俺の頭を、伊織がヨシヨシと撫でる。子供扱いはやめろと手を払えば、不服そうに頬を膨らます。
伊織はどこまでも幼い頃のままだ。学校ではちょっとクールで神秘的、なんてことも言われているのにな。
そうかと思えば友情にも熱く、悪事を許さない熱血漢な一面も。それが彼女の人気の秘訣。
俺には無理なキャラだ。
「はあ、腹減った」
「食べる?」
「食いさしなんていらねえっつの」
「リンゴくらい食べていきなよ」
差し出された皿には、綺麗にカットされたウサギリンゴ。俺はそれを指でヒョイとつまんで口に放り込んだ。
シャクシャクと音が口の中で鳴り響き、甘い汁が喉を伝って降りる。
「甘い」
「美味しいよね、これ」
「って、残り全部食ってんじゃねえよ!」
「あ、もう時間だ」
「げ、マジか」
見れば時計は結構ギリギリな時間を指し示している。ああ、こりゃ走らないと遅刻だな。
別に優等生ぶっているわけではない。だが成績が平凡な俺は、せめて無遅刻くらいは貫いて内申点を上げなきゃ将来に響くというもの。
慌ててカバンを引っ掴んで外へと飛び出した。
「良善、早く早く!」
鍵を閉める俺をせかすのは伊織。その場駆け足をしながらの彼女の声に、俺は知らず焦る。
しっかり閉まったのを確認して、俺は走り出した。「わ、待ってよ!」と意表を突かれた伊織が慌てて追いかけてくる気配を感じた。
伊織の前を俺が走る形。──が、あっさりと追い付かれてしまった。そりゃそうだ、俺は運動神経皆無で、相手は陸上部からなにから運動部の勧誘ひっきりなし女子なのだから。
「遅いよ良善!」
必死で走る俺に対し、汗一つかかずに余裕の顔で俺を振り返る伊織。これはいつもの光景。
そう、いつだって同じ光景が続く。
だがいつもと同じではない光景が、目の前に迫っていた。
俺を振り返る伊織が交差点へと差し掛かる。その瞬間見えたのは、角から曲がって来た車の影。
「伊織!?」
瞬間、俺の耳に何かが聞こえる。
【伊織ちゃんは明日、死にます】
なんだこれは、なんの声だこれは。いいや違う、俺はこの声を知っている、聞いている。
なんだっけなんだっけ? これは一体なんだったっけ?
【伊織ちゃんは明日、死にます】
そうだこれは、夢で聞いた声だ。
声は言ったんだ、伊織が明日死ぬって。
明日ってなんだ、夢の中での時間なんて分かるものか、夢を見た時点で日付は変わっていたのか否か。それで『明日』ってのがいつなのかが変わる。
日付変わる前の夢なら「今日が明日」だ。だが日付変わっての夢なら、「明日は明日」のはず。
【伊織ちゃんは明日、死にます】
だから明日っていつだよ、何度も同じこと言ってないでそれに答えろよ!
苛立つ俺の目の前で、伊織がようやく背後の気配に気づいたように振り返る。だがそれはもう遅い、全てが遅い。曲がってきた車の運転手は横を向いて脇見をしている、正面を見ていない。なんだよおい、曲がる時は左右の確認もだがなにより進行方向の確認だろうが。一体どこを見てやがる、前を見ろ前を!
全てはスローモーション。伊織の目前に車は迫る。曲がる車のスピードはゆっくり……ではない。あの野郎、脇見しつつなんてスピードだ、曲がる時はもっとスピード落としやがれ。
なにもかもがゆっくりなのに、けれど俺の足は追い付かない。伊織に追いつかない。伸ばした手はけして彼女に届かない。
「伊織!」叫んでも届かない。「お、なんだ相良じゃねえか、金持って来たかー?」俺にかかる声など気にしていられない。
瞬間、音が消えた。何も聞こえない。ただ無音の世界で、俺の目の前の伊織に車が向かって──正面からぶつかって。
「い、おり……?」
血が、飛び散った。
綺麗に、嘘のように伊織の体が宙を舞う。
ドサリと地面に体が落ちる。
遅れて車のブレーキ音が響き渡る。
次いで、誰かが悲鳴を上げた。
「伊織、嘘だろ……?」
【伊織ちゃんは明日、死にます】
「嘘だろ?」
【伊織ちゃんは明日、死にます】
「嘘だ、やめろ!」
何度も何度も、声が俺の脳裏に響く。
だが待ってくれ、俺は選択したはずだ。選んだんだ、たしかに。
「なんでだよおおお!?」
俺は選んだ、死ぬ人間を選んだ。
矢井田保を選択したんだ──!!
地面に膝をつき、絶叫する。そこに伊織の血が流れてきて、俺のズボンを汚しても、俺は宙を仰いで絶叫し続けた。
「あああああ!!!!」
涙を流し続けた。
伊織伊織、伊織──!!
「良善?」
不意に声がして、天を仰ぐ俺をそいつが覗き込んだ。
「い、おり……?」
「うん、私だよ」
涙でグシャグシャな顔で俺はその人物を見る。
今しがた、車にはねられ血まみれで地面に横たわっていたその人。
大好きな伊織が、不思議そうな顔で俺の顔を見つめていた。
「な、んで……」
何が起きた? 一体どうして伊織が立っている?
俺は見たんだ、確かに伊織が車にはねられるのをこの目で──
正面を見据える。そこに横たわっているはずの伊織の体を確認しようとして。
だがその目は直後見開かれる。
「なんで……」
同じ事をつぶやくが、疑問内容は先ほどと異なる。
「保! おい保、大丈夫か!?」
そこにあったはずの伊織の体はどこにもなく、代わりに血まみれで横たわっているのは別の人物。見覚えのある男子学生達が横たわる人物に声をかける様子で全てが分かる。
「しっかりしろよ、保──!!」
車にはねられ、地面に横たわる人物。
それは紛れもなく、矢井田保であった。
【回答を受け付けました】
声が聞こえた気がした。
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