白霧の湯

上坂 涼

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白霧の湯

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 むわりとした生暖かい風が私の頬を撫でた。
 八月初旬。
 浅草駅近くの取引先に赴き、商談を済ませた帰り道である。日は既に大きく傾き、朱色がかった夜の空が駅前を見下ろしている。
 ふと、駅前の交番横に立てられた掲示板に目が行く。
『~夢が見れる銭湯~ 一夢いかがですか? 場所は浅草駅からすぐ!』
 夢を見える銭湯? なんじゃそりゃ。
 一目でその掲示板に心を奪われた私は、そこに書かれていた地図を頼りに、その銭湯へと向かった。
 お目当ての場所は、雷門から二つ手前の路地を右に曲がったところにあった。
「こんなところあったかなぁ」
 私も今年で三十五になる。浅草の雷門といえば、これまでの人生で何度も訪れた名所である。
 それこそ、つい三年前の夏にも母と祖母を連れて一緒に観光しにやってきたばかりだ。
 夢が見られる銭湯。その名も『夢湯』の景観は、昔ならではの薄い暖簾に、八の字に中央が盛り上がった切妻屋根。暖簾の下からは、木製の上がり框と下駄箱がちらりと見える。かこんというタイルに風呂桶が置かれて響く音がやけに心をくすぐった。
 近代化の進んでいる浅草の街中にしてはやけに趣があり、周りから浮いて見える外観に戸惑っていたが、私はなぜだか引き寄せられるように、夢屋の暖簾を手で押していた。
「いらっしゃい」
 優しいお姉さんの声が耳を撫でた。番台さんだろうか。やけに古めかしい和服を着ていた。
 笑顔がとても素敵なお姉さんは、にこにこと私を見つめている。多少の不気味さを感じながらも、私は下駄箱に靴を入れ、彼女の前まで歩みを進めた。
「200円ね」
「200円? 安いですね」
 言いながら、お金を渡す。
「そう? はい。どうもありがとう」
 ……なんだろうか。先ほどから雑音が聞こえる。テレビの砂嵐のような。
 どこか違和感を覚えつつ、男湯と書かれた暖簾をくぐる。
「へえ。凝ってるなあ」
 着替え所には主流の鍵かけロッカーなどはなく、木カゴに服と貴重品を入れるような形になっていた。
「ああ、ちょいとお兄さん」
「わああ、なんですかちょっと」
 服を脱ごうとした瞬間、先ほどの番台さんが顔を出してきたのだ。
「なんだい。変な顔して。……それはそうとね、お客さん。風呂に浸かるまでは決して寄り道してはいけないよ。視界が悪いからね。色々と危ないんだ。だからひたすら無心で風呂まで進むんだ。いいね? わかったね?」
「え?」
「じゃあそういうことだからね。おねがいね」
「……」
 風のような人だな。……とりあえず、早く汗を流してしまおう。
 私は後ろを確認しつつ、いそいそと服を脱ぎ、男湯への扉をくぐった。
 ――するとどうだろう。
 視界が白い霧に覆われて何も見えない。
 こぽこぽという湯が煮立つような音が前方から聞こえてくるので、それを頼りにとりあえず前に足を進めることにした。
 すると今度は、水がちろちろと流れる音が聞こえてきた。それ以外の音は全く聞こえない。
 ちろちろ、ちろちろ。
 しかし、いっこうに風呂には辿り着かない。あとどれくらい歩けば良いのだろうか。
「おーい」
 と、野太い声が後ろから聞こえてきた。振り返ったが、白い霧で一切何も見えない。他のお客さんだろうか。
「おおーい」
 すると今度は右から。
「おおおーい」
 さらに左から。
「おおおおーい」
 気づけば、四方八方から野太い男達の声に囲まれていた。
 いったいどういうことなんだこれは!?
 やっぱり来るんじゃなかった、自分の違和感を信じて逃げるべきだったなどと、頭の中で様々な感情がぐるぐると回る。
 ――ひたすら無心で風呂まで進むんだ。
 番台の女性の言葉が脳裏をよぎった。
 さすがに無心は無理だが、進むことは出来る!
 私はひたすらに走った。どこまでも付いてくる野太い男達の声を振り払うように、全力で疾走した。
「おーい」
 いったいいつまで走ればいいんだと思い始めたころ。
「やあ。よくきたね」
 ぱっと視界が晴れた。
 大きな富士山と鷹が描かれたタイル壁が私を見下ろしている。壁の下には、なみなみと湯が張られた大きな風呂があった。耳もとでは、川の水が流れる音が聞こえている。
 ――そして。女性が一人、風呂に浸かっていた。
「どうしたんだい? 早くお入り」
 番台の女性だった。何故、男湯に女性がいるのか。どうやって先回りしたのか。
 女性はなにくわぬ顔で、私を風呂に入れようと手招きをしている。
 色々と言いたいことが喉まで出掛かっているのをひとまず飲み込み、湯に足を入れた。
 彼女の隣まで進み、前に向き直って、腰を下ろす。肩まで浸かったところで、ふうとため息が出た。
 この世のものとは思えないほど気持ちの良い湯だった。なんとはなしに目を開けてみると、目の前には花畑が広がっており、その真ん中辺りに大きな川が流れていた。
「あんた、夢はあるかい」
 ふと彼女が言った。
「なんですか、突然。だいたいあんたね」
「いいから」
 強気な語勢に、顔をしかめる。
「ありますよ。そりゃあね」
 花畑に舞っている蝶たちが、私達の周りを飛び交う。
「叶いそうかい?」
「ええ。そりゃあもう。あと少しで。叶ったら母と祖母を温泉旅行にでも連れていくつもりですよ」
「そうかい。そりゃあ良かった」
 彼女はにっこりと笑うと、私の手を取ってぎゅっと握った。
「良い嫁さん見つけるんだよ」
「え?」
「あんたは絶対、気の強い女がいい」
 さあっと視界が真っ白になっていく。彼女の姿も、砂粒が風で吹き飛んでいくように消えていく。
 気づけば、浅草駅前の大通りに立っていた。
 カバンもある。携帯もある。服も着ている。まるで狐に化かされていたかのような気分だった。
 と、携帯がぶるぶると震えた。母からだった。
「落ち着いて聞いてよ。今ね、病院からね、おばあちゃんが亡くなったって」
「……そっか」
「ちょっとなによその返事! あんた、おばあちゃんと喧嘩してたよね? だから早く仲直りしろってあれほど」
「したよ」
「え、したってなにがよ」
「したよ。仲直り」
 私はにっこりと笑った。風呂上りのせいか、目尻は少し濡れていたけれど。
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