悲愴のソフィー

上坂 涼

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悲愴のソフィー

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 先日、新たに気味の悪い絵画を買った。
 酔狂な蒐集しゅうしゅう家として名を馳せてから数十年となる男の家には、特別な由縁のある品物が溢れていた。五つある全ての客室と、家の中心とも言える大広間を展示室として使用しているため、彼が勝手に出来る部屋は自分の寝室しかない。家族は誰一人としておらず、自由気ままな天涯孤独の身。有り余る私財の片鱗で家政婦を二人雇い、家事と身の回りの世話をしてもらっている。家政婦は蒐集家を名乗った時からの付き合いである。ただし、二人のうち一人は休暇中のため、今はそのうちの一人に家事を任せていた。
「御主人様。大変申し上げにくいのですが、今しがた届きました絵画を飾る場所がいよいよございません。前々から申し上げていた通り、品々の整理をなさるか、部屋を増築なさるかでもしなければ不可能な状態です」
「そうか。もちろん前者は却下だ。増築の件は早急に検討しよう」
「それではこの絵画はいかがなさいますか?」
「ここへ運んでくれ。壁に飾ろう」
「かしこまりました」
 家政婦は件の絵画を男の寝室まで持ってきた。白い手袋をはめた両手で額縁を持ち、ベッドに腰掛ける男の目の前までやってくる。
「どちらに飾りましょう」
「そうだな。ベッドの上で身体を横に向けたら見える位置が良いな。あそこにしてくれ」
 男は部屋の西側を指差した。
「かしこまりました」
 別段気にする素振りもなく、家政婦は指示された壁に釘を打ち込み、あっという間に絵画を飾る。
「こちらでいかがでしょうか」
「問題ない」
「ありがとうございます。それでは失礼いたします。また何かございましたらお申し付けください。また昼食のご用意も出来ておりますので、ご入用でしたら大広間までお越しください」
「ああ」
 家政婦が部屋から出ていき、扉の閉まる音が鳴る。男は壁に飾られた絵画を真正面から見つめた。心の奥底に秘めた情動がうごめく。このような狂気的な絵画を手に入れることが出来た喜び、興奮。それらをぐっと噛みしめながら絵画を観察する。至福の時間だった。
 絵画は女の肖像画だった。長い黒髪を後ろで一つに束ねた女性が、木製の背もたれ椅子に座った状態でこちらを見ている。かなり近いところから描いていて、二の腕から下は描かれていなかった。腕が内側に向かっているところから、両手は膝上あたりに置いているのだろうと想像は出来た。
 特筆すべきは、瞑った片目から放物線を赤く塗りつぶしたような大量の血が滴っていることと、塗料に女のすり潰した皮膚や血液を混ぜている点だ。
 ワケアリのものばかりを集めた闇市的展示会で、この絵を描いた作家が言っていた。「これは私の妻だった女性です」と。常軌を逸したこだわりによる歪さがこの絵からは滲み出ていた。額縁の中の片目から血を流す女性からは赤い感情が感じられない。あらゆるものを受けいれ、ただ静かに佇むことだけを望んでいるように見える。男はこの絵をたちまち気に入り、購入するに至った。その額、一千万。
 男はしばらく至福の時間を味わった後、昼食のために大広間へと向かった。
 
 翌日の朝のことである。
「ん?」
 男はベッドから立ち上がり、それに近づいた。口角が自然と持ち上がる。
「これは面白い」
 額縁の中の女の顔がトマトのように真っ赤に染まり、残っている方の片目を大きく見開いていた。首筋が青く変色している。まさに首を締められている一瞬が描かれていた。女の秘めた怨念がこうさせたのだろうか。作家は”妻だった”と言った。ともすればこの絵の女は既に亡くなっているのだろう。作家に対する恨みなのか、それとも作家のもとから連れ去った私への憎しみか。なんにせよ良からぬ意味合いであることは間違いないだろう。――今、私は苦しめられているのだ。と。
 男はそこまで思考を巡らせた後、朝食の時間になるまでうっとりと女の絵を眺めていた。
 
「絵が変化した?」
「ああ」
「左様でございますか」
 朝食の時間。男は後ろで控える家政婦に絵の話を持ちかけた。いつもの日常である。男は集めたコレクションの数々について家政婦と話す時間が好きだった。
「どう思う?」
「そうですね。超常的なことを起こすには相当なエネルギーを要すると、以前に御主人様から伺っております。それに照らし合わせるならば、その絵の女性は何らかの強烈な感情を抱いているのだとお察しいたします」
「私もそう思う。それで君は、彼女の強烈な感情というのはどんなものだと思う?」
「……私には分かりかねます。絵を拝見させていただいても、それは変わらないでしょう」
「なぜだ?」
「感情というものは、本人だけのものです。口で簡単に取り繕えますし、悲しかろうと笑顔を作る場合もこの世には沢山ございます。仮に感情と表情が一致していても、それが誰に向けた感情なのかまでは私どもには分からないのです。どのようにしても想像の域を超えることは出来ないでしょう」
 男は机にフォークとナイフをことりと置いて、腕を組んだ。
「君の言うことはもっともだ。だが、その想像を巡らす行為こそが絵を嗜むということなのではないかね?」
 家政婦は両手を腹の上で重ね、深く頭を下げた。
「……申し訳ありません」
「謝ることはない。君は作法を微塵も欠いていない。これこそが会話を嗜むということだからね」
「それではこちらも嗜みということで、申し上げたいことがあるのですがよろしいでしょうか?」
「もちろんだ」
「絵の中の女性本人にお会いになってみてはいかがでしょうか。先ほども申し上げたように、超常的な事象を起こすためには相当なエネルギーが必要です。なにか良からぬ胸騒ぎがするのです」
「私が呪い殺されるとでも?」
 男はおかしそうに笑い、家政婦の方へと振り返った。家政婦は男の言葉を否定するように首をかすかに左右へ振る。
「いいえ。私は絵の女性の身を案じております」
「それはおかしい。絵の女性は死んでいるはずだ」
「そうなのですか? それは御主人様にその絵をお売りになった作家様が、そう仰ったのでしょうか」
「ああ。これは私の妻だった女性だと言っていた」
 男は自分で言ったことを反芻はんすうし、まさかという顔をする。
「……もし亡くなったと言っていないのであれば、生きている可能性も否定は出来ません」
「すぐに絵の送付元を調べてくれ。伝票がダンボールに貼り付いているはずだ」
 
 男は趣味が悪く、感情のタガも多少外れているところがあるが、紳士だった。
 住所が分かるやいなや玄関を飛び出し、すぐに愛車のカウンタックへと飛び乗り、高速道路を利用して神奈川へと猛スピードで向かった。高速道路を疾走中、家政婦から着信があった。スピーカーフォンにして応答する。
「どうした!?」
 襲いくる風に声が吹き飛ばされていかないよう、男は叫んだ。
「御主人様。恐れながら、寝室へと足を運ばせていただきました。それで……その」
「構わん! また絵に何かが起こったのだろう!?」
「はい。女性の顔が赤黒くなっていて……その、両目が、くり抜かれて……」
「もういい! とにかく君は大広間へ避難するんだ! 何が起こるか分からない! 警戒を怠るな!」
 それからおよそ三十分ほどで神奈川にある目的の住所へ辿り着く。男はすぐさま愛車を路肩へと止め、作家の家のインターホンを押した。
「はい」
 不遜な声色がマイクから飛んでくる。
「展示会ではお世話になりました。蒐集家の安達でございます」
「……ああ! 安達様でございましたか。一昨日は私の渾身の一作をお買い上げくださり、誠にありがとうございました。……それで、何かあの絵に不都合なことでもありましたでしょうか? も、もしや絵に傷などが付いておりましたか!?」
 作家は相手が展示会で出会った男だと分かった途端、腰の低い声色へと変えて長々と話し出した。モニターの前で両手をこすって、へいこら頭を上げ下げしている様子が目に浮かぶようだった。
「いえ、そのようなことは全くございません。むしろその反対です。本日はあのような素晴らしい絵を私にお売りいただいたお礼をお持ちしたのです」
「……左様でございますか。その、お気持ちはとても嬉しいのですが、今お客様をお招きして、大事な商談中なのでまた後日お越しいただけませんでしょうか」
 男は家政婦からもらった連絡を頭に思い浮かべていた。ほぼ間違いなく絵の彼女に現れた変化は、現実の彼女に起こっていることだろう。となると、この作家は今とんでもないことをしている真っ最中なのかもしれない。もしそうであれば、なんとかして阻止しなければならない。まずは悟られずに侵入する術を探さなければ。仮に全てがこちらの妄想で、あちらが潔白だったとしても、法的処罰含めて被るリスクは男にとってささいなものだった。
 さて、どうするか。
「かしこまりました。それではまた後日――」
 男が、家のあちこちへ視線を手繰らせながら作家に返事をしようとしていた時だった。一階のリビングらしき広い窓のカーテンの隙間から、感情の無い目がこちらを覗いていることに気付いた。ツバの広い黒ハットを被った男だった。こちらと視線が交わったことに向こうも気付いたようで、ぬぅっと動いてカーテンの隙間から姿を消した。一目見ただけで一般人ではないことが分かった。
「安達様、どうかなさいましたか?」
「いや、何でもございません。それでは今日のところはこれで失礼いたします」
 男はインターホンの前で軽く頭を下げて、その場を後にした。脇に止めていたカウンタックへ乗り込み、エンジンを掛けて作家の住処から遠ざかる。丁度死角になるところで改めて愛車のエンジンを止め、カーシートに背中を預けた。
「まいったな」
 危険な品々さえも自身の琴線に触れてしまったものは手に入れてきた。だから分かる。あの感情の無い目をした男は命を転がす仕事をしている。危険な品々の周りには大金が、因縁が、陰謀が渦巻いている。それらを上手に払うために品物の所有者と購入者は彼らのような人間を雇っていることが多いのだ。奴らはプロだ。仕事の遂行に邪魔となるものはことごとく排除する。あの目は男が邪魔になるかどうか品定めをしている目だった。だから男は愛車に乗って、あの家を離れるほかなかった。さもなくば、あっという間に殺されていただろう。どうする? 今からでも家政婦をここに呼び出すか? 家財を彼女に守ってもらう方に考えを振ったのは甘かった。彼女がいればこの現状を打破することは容易だったはずだ。
 よし。今からでも彼女を呼ぼう。
 そう考えをまとめた瞬間――強烈な爆発音が近くから飛び込んできた。頬を焦がさんとする熱風と、耳を震わす轟音が遅れてやってくる。
「なんだ!?」
 まさか……まさか! 男は愛車から飛び降り、音のした方へ”戻っていく”。考えは的中した。作家の邸宅が巨大な炎に包まれていたのだ。既に周囲に人は集まりつつあり、警察と救命にも連絡済みのようだ。関係者として変な詮索をされても面倒だという気持ちの方が勝った男は唇を噛み締めつつも、愛車の元へと駆け戻り、速やかに家路を急いだ。
 
 翌日の朝刊の一面に、例の事件は掲載されていた。家政婦の用意した朝食を平らげ、ベルガモットティーで一服する麗らかな朝のひとときだった。
「それでは、作家様の邸宅から見つかったのは、心臓をナイフで一突きされて亡くなっていた女性一人だったというのですか?」
「そうだ」
「……その女性は作家様の元妻だったのでしょうか?」
「分からない。顔面を粉々にされていて、歯も全て抜かれていたそうだ。血液などによるDNA鑑定で身元が明らかになるまで、何もかも上手くいけば早くて二週間。上手くいかなければ半年以上ということになるだろう」
 そこで男は一度カップを持ち上げ、口を濡らした。
「だが十中八九――」
 そして家財を整理してスペースの出来た大広間の一角を見やる。
「元妻ではないだろうな」
 そこには黒で人を象った絵画が飾られていた。
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