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第四章 Love And Hate

第82話 フライデーナイト(後半)

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 押し潰されそうなくらいに、出口へと向かっているであろう人波は混雑していた。
 その中を、為す術もなく只々圧迫感を感じて流されるままいるよりない。

 友紀ちゃんは大丈夫だろうか。十一夜君と桐島さんは……きっと大丈夫だ。
 十一夜君が付いていれば大抵のことは大丈夫だろうという確信めいた思いがある。
 窮地に陥っても、今まで十一夜君は必ず救い出してくれたから。

 だけど今日ばかりは違う。
 十一夜君はわたしがいることにすらきっと気付いてはいない。それに今一番に守らなければならない人は、きっと桐島さん。

 ……苦しいよ。押し潰されそう。煙も大分回ってきたんじゃないだろうか。火災の所為なのだろうか、何か異臭もする。

 そう思ったとき、うっかり煙を吸い込んでしまったのか、急激に体が重く、意識が遠のく感覚になった。

 これはまずい。一酸化炭素を吸ってしまったとしたら命が危険だ。
 遠のき行く意識の中、ぼんやりとそんなことを考えながらやがて意識を失った。

 再び意識を取り戻したときには、見覚えのある部屋にいた。

「あ、目が覚めました? 気付薬を嗅がせたところでした」

「気付薬?」

「はい。もしかして暫く軽い頭痛があるかもしれませんが危険はありません。一族に古くから伝わる薬です」

 あぁ、気付薬って気絶した人が意識を戻すための薬か。そう言えばちょっと頭が重い。

「どうしてわたし、ここに……?」

 ここは以前にも来たことがある、十一夜君の家の地下室だ。わたしと話しているのは十一夜君の妹の聖連《せれん》ちゃん。

 ということはつまり、また十一夜君に助けられてここに運ばれたのだろう。
 ひょっとして、十一夜君はわたしがあの場にいたことに気付いていたのだろうか。

「圭ちゃんが連れて帰ってきました。今呼びますので詳しいことは圭ちゃんから聞いてください」

 そう言って聖連ちゃんは温かいお茶を淹れてくれた。

 スマホを見ると、あの事件からまだ小一時間程しか経っていないようだ。そしてそう時間を置かずに十一夜君が部屋に入ってきた。

「気分はどう? まあ、そういい気分ではないだろうけど。気持ち悪かったりしない?」

「うん。大丈夫。……あ、わたし友紀ちゃんと一緒だったんだけど……」

 そうだ。友紀ちゃんは無事だろうか。それに桐島さんも……。
 まあ十一夜君と一緒だった桐島さんはまず無事だったと考えて間違いないだろう。そうでなければ今頃十一夜君はわたしに構っているどころではなかったはずだ。
 そう思ったら胸の奥に少し苦いものが渦巻いた気がした。

「彼女も無事だよ。念のために病院に搬送されたようだけど、元気だった」

「そう。よかった……」

 ソファに横たわっていたのだが、十一夜君が腰を下ろしたのに合わせてわたしも座り直した。

「横になってていいよ」

「ううん。もう大丈夫」

「短時間だったから危険はないと思うけど、一時的に心拍数を極端に下げる薬を使ったからね。暫くゆっくりしていて」

「え? わたしが気を失っていたのは、もしかしてそのせい?」

 てっきり煙を吸ったか一酸化炭素中毒にでもなったのかと思ったのだが、どちらにしろ怖いことに違いはない。

「実は華名咲さんたちには僕の仲間が警護に就いていたんだ。火災で一番危険なのは、パニックに陥ってしまうことと煙を吸い込んでしまうことだけど、それを防ぐために意識を一時的に失うガスを嗅がせたそうだよ。数分間だけだけど、ごめんね」

「そうだったんだ……」

 わたしのことなど放ったらかしだとばかり思っていたのだけど、十一夜家の人がちゃんと警護に就いていてくれたんだ。そうならそうと言ってくれればいいものを、十一夜君も人が悪い。

「それで、あの火災はわたしたちのことと何か関係があるの?」

「いや。一応調査はしているけど、恐らく関係ないと思うよ。あの建物に関しては事前に調査はしてあったんだ。だから前もって何か仕掛けられていたというようなことはなかったはずだ。イベント中に何か仕掛けられたのならあり得なくはないけど、それは今調査中」

 十一夜君は顎に手を当てながらそう言っているが、わたしは不安を禁じ得ない。自分が偶々居合わせている場所で事件が起こるなんてことがそう度々あるものだろうか。

 それにしてもこうして十一夜君とゆっくり話すのって何だか久し振りのように感じる。何しろこの何日間かというもの、十一夜君は桐島さんにべったりでわたしのことなんて眼中にない感じだったのだ。

「そう言えば華名咲さんとこんな風に話すの、なんか久し振りだね」

「……うん、そうだね……」

 まさか十一夜君の方からそれを言うとはな。だってそれは全面的に君のせいだろうが、君の。

「華名咲さん、最近ちょっとよそよそしくないか?」

「はぁ?」

 って、思わず声がひっくり返ってしまったじゃないか。
 わたしのせいって言った? ねえ、これってわたしのせいなの?

「わたし、よそよそしかった?」

「違ってた? 何となくそんな気がしたんだけど、僕の勘違いだったかな。それだったら別にいいんだけどさ」

 十一夜君はしれっとそんなことを言っている。桐島さんのことをよっぽど追求してやろうと思っていたんだけど、本人はまったく自覚なしという状況にすっかり毒気を抜かれてしまった。
 確かにちょっと遠慮してしまった面もなくはなかったが、十一夜君が桐島さんに付きっきりで取り付く島もないって感じだったじゃないか。

 そんなわたしと十一夜君とのやり取りを見ていた聖連ちゃんは、よく事情が飲み込めないのだろう。小さな顔をかわいらしく傾げてぽかんとしていたが、二人にした方がいいと気でも回したのだろうか。やることがあると言って部屋を出て行ってしまった。

「あ……そう言えば先輩たちは大丈夫だったのかな?」

 すっかり忘れていたが、ピンデスのバンドメンバーは渡瀬先輩を始め、うちの学校の先輩たちだ。
 あの場では、どさくさで先輩たちが避難できたのかどうかを確認する余裕もなかったのだが、彼らは無事だったのだろうか。

 いや、そもそも今回の火災騒動で怪我人は出なかったのだろうか。
 逃げるときはパニックで周りを気遣う余裕などなかったが、こうして自分の状況がひとまず落ち着いてみると、改めて気にかかった。

「ああ、当日会場に出入りした客とスタッフ、出演者全員のリストを入手していたから、一応全員チェックしてるよ」

 そう言って十一夜君はタブレットでリストをチェックしているようだ。
 暫くすると、十一夜君はバンドメンバーをリストから見つけ、彼らがどうなったのかを確認した。

「大丈夫。全員取り敢えず怪我はなかったみたいだ」

 それを聞いてわたしも一安心して深く息を吐いたのだが、その後はどうにも会話が続かない。
 気まずくなって、何か話さねばと話題を探して目まぐるしく脳が回転する。

「そう言えば、桐島さんと上手く行ってるみたいね」

 頭をフル回転させて出てきた言葉が、態々わざわざ空気悪くなると分かるようなことだとは、我ながら情けない。
 十一夜君は突然のわたしの言葉に驚いたのか、一瞬目をパチクリさせたがボソリと一言呟くように返答した。
 
「なんだ。……知ってたんだ」

「まあね」

 て言うかさ。あんだけいっつもいっつもべったり一緒にいたら、そりゃ気づくって。なんならクラス中のみんなが知ってるわ。このすっとぼけが。
 そう思うとまた段々腹立たしくなってきて、結局元の沈黙へと戻ってしまうのだった。

「いろいろあったし、遅くなるから今日はうちに泊まって行けば? 」

 気を遣って言ってくれているのだろうが、桐島さんの手前泊めてもらうのも気が引けるというか、正直なところそんな気分にもなれない。
 たった今、十一夜君自身の口から桐島さんとの交際を認める言葉を聞いたところだ。
 そんな状況で赤の他人のわたしが泊めてくれなんて言えるわけもない。

「ありがとう。でも帰る。やっぱり彼女に悪い気がする」

「彼女?」

 ぽかんとした顔でそう言う十一夜君は、どうも本気で意味が分かっていなさそうだ。
 こういうところ、とても元々女子だったとは思えない鈍さだ。

「桐島さん」

「桐島さん?」

 力が入らなかったのか、あるいは逆に変に力が入っていたのか……。出てきた声は図らずもかすれ気味のウィスパーボイスだったが、彼の耳にはちゃんと届いたようだ。
 とは言ってもオウム返しで聞き返されたところからすると、耳には届いたが、十一夜君としては今ひとつピンときていない様子だ。

「桐島さん」

「桐島さん……?」

 念を押すわたしと、それでもなお意図を掴みかねているような素振りの十一夜君。
 よもや当の桐島さんもここでこんなに自分の名が連呼されているとは思うまい。

「ま、いいや。兎に角わたしは帰るね」

「……そうか、分かった。じゃあ送るよ」

「いい。一人で大丈夫」

「本当に? なんか君、様子がおかしくないか?」

「ホントに大丈夫だから。今日は助けてくれてありがとう。お陰で命拾いしたわ」

 様子がおかしいと指摘されて余計に腹立たしく感じたのだが、同時にいたたまれないような感情にも支配され、その場から逃げ出すようにしてそそくさと部屋を出た。

 呆気にとられたのか十一夜君は出ていくわたしをただ呆然と見ているだけだったように思う。
 階段をずんずんと上ってそのまま玄関へと向かってずいずい進む。
 上がり框に腰掛けて靴を履いたところで、少しだけ気になって一度振り返ってみたが誰もいなかった。

 ふんっ。何さ。ムカつくムカつくムカつく! なんだか自分でもよく分からないけど、兎に角ムカつくったらムカつく!
 勢いに任せて玄関を出て門を出て電柱を何本か通り過ぎたところで、はたと立ち止まった。

 辺りはすっかり陽も落ちて、月も星々も顔を出しているようだが、夜空に滲んでよく分からない。
 空を見上げて抵抗したのも虚しく、零れた涙が耳たぶを伝う。

 まるでそれが合図だったかのようにどんどん涙が溢れ出して、それから暫くは口をへの字に曲げて、顔を真赤にして、涙が止まるまでその場に立ち尽くしていた。

 あれから最寄りの駅へと向かい、電車に乗って帰ったはずだが、あの後のことをあまりよく覚えていない。
 泣き過ぎたせいか、翌朝起きたらひどく頭が痛かった。
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