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1巻
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せっかくの週末、美緒は悠斗にゆっくりしてもらいたいと考え、彼の大好きなイチゴと、自分も好きな果実酒を購入した。そしてステーキを食べ、イチゴを摘み、お酒を飲む悠斗を想像する。
きっと悠斗は、以前と同じように『美味しい』と言ってくれるだろう。そして『いつもありがとう』とも。悠斗は優しいのだ。周囲が思っているほど堅物でもなければ、人に興味がないわけでもない。
――みんなが知らないだけなのだ。会社で振る舞う悠斗の顔と、妻である美緒と一緒にいる時の顔が違うことを。彼はクールなだけではない。それは美緒だけの特権で、美緒しか知ることのない顔なのだから。
(……いけない! ユウ君のこと考えると、思わず顔がにやけちゃう……)
マスク越しに緩んだ口元を引き締めて、美緒は買い物を再開した。
慣れた手つきで購入品をエコバッグに詰めると、急いで家路へとつく。悠斗がまだ帰ってこないとはいえ、やれること、やらなければならないことは早めに済ませてしまいたい。それが美緒の考えだ。
休みの明日にまとめてやってしまえば良いかもしれないが、担当は悠斗に変わる。自分の仕事を残すつもりはない。それに、早く家事を済ませてしまえば自分の時間もできる。最近、刺繍にハマっていた美緒は、毎日家事を早めに済ませては、空いた時間で少しずつ刺繍を嗜んでいた。
「ただいまー!」
誰もいない家に美緒の声が響き渡る。人がいないことはもちろんわかっている。が、それでも挨拶を欠かさないのが美緒だ。
買ってきた食材を手早く冷蔵庫にしまった後、部屋着に着替えて大きく伸びをする。仕事で疲れた身体は硬かったが、もうひと踏ん張りと大きな欠伸をしてからダイニングテーブルの木製ボウルに手を伸ばし、中にあった小さなチョコレートを摘む。
「さぁて。早速始めますか……」
そしてそれを頬張ると、宣言通り外に干していた洗濯物を取り込み始めた。
「虫はついていませんように……」
これでもか! というくらいパタパタと洗濯物を叩きながら、どんどん部屋の中へと放り込んでいく。一度、冬に『もうこんな時期に虫はいないだろう』とタカを括ってそのまま取り込んでいたら、蜂が部屋の中に入り込んだことがあった。気が付いたのは畳んでいる時で、刺されなくて本当に良かった、むしろよく刺されなかったなと今でも思っている。悠斗がいたからことなきを得たものの、その場にいたのが自分一人だけだったら……と考えると、今でも怖くなるほどの出来事だった。
それから、季節関係なく洗濯物を取り込む時は、よくよく叩いてからにするようになった。虫嫌いな美緒は、もう経験したくないと思っていたからだ。本当は、明るい時間に取り込んで、しっかりと確認したほうが良いのかもしれない。そう思ってはいたものの、仕事がある日はそういうわけにもいかないのだ。
「やっぱり日に当てると、乾いた時の匂いが違うよねぇ……」
部屋干しもする気はなかった。外で干して充分に日に当てられた洗濯物の、あの独特の匂いが好きだからだ。雨の日は別として、それ以外は特に外に干さない理由もないし、確かに虫は怖いができるだけ洗濯物は外に干したい。
そんなこだわりを持った美緒は、一緒に干していた布団を最後に取り込むと、寝室に運ぶついでにその柔らかな感触と匂いを求めて顔を埋めた。
「ううう……癒される……良い匂い……」
あまり人には見せられない姿だが、今は自分の家、ここには自分一人しかいない。存分に堪能すると綺麗に布団を整えてリビングへと戻る。
「さてさて。ちょっとだけ掃除機を……」
ハンディクリーナーを手に取ると、埃や髪の毛が気になる部分を掃除し始めた。気付かないようで部屋の角にはよく溜まるものだ。夜のため静音のハンディクリーナーでも稼働させるのは少しにとどめ、換気をしてクリーナーから吐き出された空気が入れ替わるのを待つ。
「よーし、完了! ご飯の準備しなきゃ!」
ヴーヴヴ――ヴーヴヴ――
「……あっ、ユウ君!」
スマホのバイブが音を立てる。悠斗からの連絡だ。
『今日は十九時には出られそう。週末だからみんな早く帰るって。俺も便乗する! 仕事頼まれても断るし、出る時にまた連絡するから、もう少し待っててね。遅くなってゴメン』
「やった! 遅い……っていっても、今日は早いほうじゃん? 嬉しいなぁ……『はーい。待ってるね』……と……」
忙しい悠斗の帰りはいつもは二十一時を過ぎることもザラだった。十九時に帰れるなんて随分早いじゃないか。思わず美緒の口元が緩んだ。
早く会いたい。一緒に住んでいるのだから毎日会えるが、それでも早く会いたい。できるだけ一緒にいたい。……何たって、悠斗は自分の『最推し』なのだから。
高校の時から、美緒はずっと『悠斗推し』である。ファンというわけではないが、どこか距離があって、最初は一方的な片思いで。現実なのに現実から離れているような、夢を見ているような感覚がまだ拭えない。そんな状況も含めて、美緒は自分たちの関係をそう呼んでいた。
推しと結婚できた自分は、最上級に幸せなのだ、とも思っていた。
悠斗の宣言した、十九時を迎えるほぼピッタリの時刻にまた美緒のスマホが鳴った。今度は電話だ。
『もしもし──』
「――もしもし?」
『あ、美緒? 今良かった?』
「うん、ユウ君お疲れ様」
『あぁ、お疲れ』
「もうそろそろ帰れそう?」
『うん、もうすぐ会社を出られそう。何か買っていくものある?』
「ううん、大丈夫だよ」
『そっか、じゃあまっすぐ帰ろうかな』
「うん、気を付けて帰ってきてね」
『はいはい。……あー、お腹空いた』
「今日はね、和風ソースのステーキだよ! 奮発した! ……わけじゃないけど。お肉が安くなってたから買っちゃった」
『おお! 楽しみ! すぐ帰る!』
「あははっ、気を付けてね?」
『大丈夫! じゃあ、駅着いたらまた連絡するから』
「はーい」
『それじゃ』
「うん、後でね」
普段は電話での連絡ではないが、今日は早く帰れるから電話なのだろうか。美緒には嬉しいことだった。なぜならば悠斗の声が聞けたからである。毎日律儀に帰宅連絡をくれる悠斗の行動は、料理を作る美緒にとって有難いものであり、かつコミュニケーションを怠らないことに対して愛情も感じていた。
……普段の愛情表現が薄いと感じつつも、その中で確かな愛情を探しているのである。
「……よしっ、これでオーケー! お肉も柔らかくなるやり方見てやったし、ソースも前回のちゃんと再現できたし! 食感も併せて、絶対前回よりも美味しくなってるはず……! ユウ君、もう帰ってくるかな……」
料理を作っている間に、悠斗からの連絡がきた。そのタイミングからして、そろそろ家に到着するはずだ。
――ガチャリ。
その時、ドアの鍵が開けられる音がした。
「――ただいまー!」
「あっ! お帰りなさい!」
パタパタと急ぎ足で玄関へと向かう。まるで父親の帰りを待っていた子どものように、美緒の顔は笑みで輝いていた。
「おかえりユウ君!」
「ただいま美緒。……おっと」
はしゃぐように抱きつく美緒を抱きとめ、悠斗は優しい笑顔でゆっくりと美緒の頭を撫でた。
「……ただいま」
「んんー……おかえりぃ……」
グリグリと悠斗の胸元に顔を押し付け、甘えたような声で返事をする。――今、悠斗に接している美緒は、会社で仕事をする美緒とは違う。それは、悠斗も同じだった。
「ほら、リビング行くよ? 俺、まだ手も洗ってないし」
「……はぁい」
上目遣いでチラリ、と悠斗を見る。やれやれ、といったような顔をすると、悠斗はゆっくりと美緒に口づけた。
「……んっ……」
「……続きは後で、ね?」
そう言ってもう一度キスをすると、美緒をリビングへと促した。
「わっ! 電話の通りじゃん! 俺これ好きだから嬉しい!」
「えへへ、良かったぁ。良いお肉も買えたから、ソースも失敗しないように頑張ったんだよ?」
「早く食べよう!」
悠斗が手を洗い、着替えをしてリビングへと戻る間、食事の準備を整えてダイニングテーブルへと並べる。温かい食事を悠斗に食べさせたい。そう思っている美緒は、できるだけ悠斗の帰りに合わせて食事の準備を行っていた。毎回今日のようにピッタリ合うわけではないが、冷めていたら再び火を入れたり、最後の仕上げは悠斗が家に着いてから行うようにしている。
「それじゃあ、食べよっか?」
「うん、いただきます!」
「いただきます」
向かい合わせに座ると、丁寧に手を合わせた。
「あれ、このドレッシング新しいやつ?」
「そうそう。この間、福袋みたいなの買ったら入ってたんだけど。にんじんのドレッシングなんだって」
「へぇ、すりおろしっぽいね。初めて食べるや」
「良い匂いすると思わない?」
「何か美味しそう。先に使って良い?」
「どうぞどうぞ」
綺麗なオレンジ色のドレッシングをサラダにかけ、野菜を口に頬張る悠斗の顔が綻ぶ。
「……んんっ……。これ美味しいね!」
「ホント? 私も食べよ」
どうやら、先日購入したこのドレッシングは、大当たりだったらしい。悠斗も美緒も『美味しい』と言いながらあっという間に野菜を平らげた。
「……ステーキ、めちゃめちゃ柔らかくない?」
「でしょ!? あのね、この間テレビでやってた、低温調理っていうのに挑戦してみたの!」
「肉汁たっぷりだし、すごい柔らかい。お店で食べるのよりも、下手したら美味しいんじゃない?」
「良かった! 作った甲斐があるよ!」
スッとナイフの入る牛肉は、切ると中から肉汁が溢れた。引っ掛かりなく歯で噛み切れ、噛む度に肉の旨味が染み出してくる。
「ソースも美味しいよ。やっぱり、ステーキにこのソース合うなぁ。……美緒は料理上手だね」
ニコニコと自分の作ったソースを褒める悠斗に、思わず顔が赤くなる。褒められるということは何度あっても嬉しいが、何度あっても慣れないものだ。
「いやー、それほどでも」
照れ隠しに誤魔化すと、美緒もどんどんとお肉を口へ運んでいった。
「――ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした! あー、美味しかった!」
「おそまつさまでした」
「あ、洗い物俺やるから。美緒、先お風呂入ってきたら?」
「良いの? 疲れたでしょ?」
「良いよ良いよそれくらい。……あ。明日休みだし、一緒に入る?」
「えっ……た、たまには……入る……?」
「じゃあ、決定。洗い物終わったらすぐに行くから、先に入ってて」
「うん、わかった」
悠斗の申し出を受け入れると、着替えを持ってバスルームへと向かう。まさか、一緒に入るかと問われるとは思っていなかった。が、そういえば最近は一緒に入っていなかったことを思い出し、思わず顔が綻んだ。誰か知り合いに今の顔を見られたら、『ニヤニヤして気持ち悪い』なんて言われてしまうかもしれない。こういうのを『浮かれている』と言うのだろう。
(……先に入ってて、って言われたけど、いざ一緒に入るってなると妙に緊張しちゃうな……)
まだ築年数の浅いこのマンションは、綺麗でそれなりに広いお風呂を備えていた。大人が二人で湯船に浸かっても、そこまでの狭さを感じない。水回りは清潔で綺麗なまま保ちたい、その考えが二人の間で一致していることもあり、お風呂やキッチンを始めとした水回りは掃除の回数も多く、家の中でも特に清潔さを保っていた。
脱衣所で着ていた服を脱ぐと、バスタオルの準備を二人分して浴室へと入る。扉を開けた時に抜ける白い空気が、独特の水の匂いを運んで来た。入浴剤は今回特に入れていない。特に疲れた日、何か格別に良いことがあった日のために、楽しみはとってある。
シャワーで軽く身体を流すと、まだ来ない悠斗を待つために先に髪の毛と身体を洗う。その間に入ってきたらどうしようか、と一瞬考えたが、おそらくまだ来ないだろうと判断した結果だ。いつものように好きなシャンプーの香りに包まれながら、もったりとした柔らかくも弾力のあるボディソープの泡に身体をくぐらせる。一日のすべてをリセットできる気がして、美緒はこのバスタイムが大好きだった。普段はゆっくりと一人でその時間を堪能するが、今日は違う。
コンコン――
「……美緒? 入っても大丈夫か?」
浴室のドアの向こうから、悠斗の声が聞こえた。
「あっ、ちょっと待って!」
美緒は慌てて全身に残った泡を流すと、湯舟へと浸かる。
「大丈夫だよ!」
「じゃあ、入るな」
ゴソゴソと音が聞こえる。きっと、悠斗が服を脱ぐ音だろう。少し経って、浴室のドアがゆっくりと開いた。
「あ、先に洗った?」
「うん。タイミングがわかんなかったから、先に洗っちゃった」
「ごめん、ついでに排水部分のゴミ受けるやつ、洗ってたからさ。遅くなっちゃったかも」
「全然。大丈夫!」
「あー……俺も中に入って良い?」
「え? 良いよ?」
悠斗はさっと身体をシャワーで流すと、浴槽の端に移動した美緒の隣へと座った。
「お湯、増えたな」
「そりゃあ、大人が一人増えてるんだもん」
「わかってるけど、思ったより増えた。……俺、太ったかな?」
「そんなことないと思うけど?」
「ヤバいな、気を付けなきゃ。……誰かさんのご飯が美味しいから。つい食べ過ぎちゃう気がする」
「えぇ!? もしかして私が原因!?」
「……冗談だよ。でも、今日のご飯も相変わらず美味しかった。いつもありがと」
「いえいえ、それほどでも」
浴室に反響する二人の声。不意に身体を動かすと、浴槽に張られた水がチャポン、と音を立てた。
「……」
「……」
無言の時が続く。急に恥ずかしくなり、美緒は何も言えないでいた。
「あ……俺、洗おうかな?」
「え、あっ、うん!」
ゆっくり入ろうかと思っていたが、悠斗は長い時間湯船に浸かることもなく、そそくさと洗い始めた。いつも使っている悠斗のシャンプーの香りが浴室に広がる。
「新しいシャンプー買わないとなぁ。なくなりそう」
「それ、気に入ってるんだっけ?」
「うん、結構ね。軋まないし、匂いも良いし?」
「……ふふっ。ユウ君、女の子みたいなこと言ってる」
「そうかな? みんなそんなもんじゃない? やっぱりさ、人前に出る立場だし、匂いとか見た目とか気になるわけですよ」
「うーん、そっか……。それもそうだよね」
「あ、ドラッグストア行きたいから、付き合って?」
「もちろん良いよ。……そうだ、時間があったら、新しくできたカフェに寄りたいんだけど……」
「そのカフェどこ? 近くにドラッグストアあるなら、そこ目指していけば良いね」
他愛ない会話が広がる。身体を洗い終わった悠斗が再度湯船に浸かるも『暑い気がする……』と顔を真っ赤にして先に脱衣所へと出る。お風呂に入るのは好きなのに、なぜだかすぐに暑がって浴槽から出る悠斗を、美緒はくすりと笑って見送った。
(へへ……新しいヘアオイル、試しちゃおっかな?)
以前ドラッグストアに行った時、悠斗が好きだと言った蜂蜜レモンの香りのヘアオイルを、美緒はこっそり購入していた。何でも悠斗の気に入ったものを取り入れる美緒にとって、これも例外ではなかった。
(どうせなら、ユウ君に気に入ってもらいたいし? ……良い匂いって言われたいよね)
美緒も気に入った蜂蜜レモンの香りに囲まれながら、悠斗がきっとこの匂いに気付いてくれるようオイルを丁寧に髪に染みこませると、一足先に爽やかで甘い美味しそうな香りを堪能していた。
「ユウ君、暑いの落ち着いた?」
「おかえり……って、あれ?」
「ん? どうかした?」
「いや……何かこう、良い匂いがするなと思って。嗅いだことがある気もするんだけど……。……おかしいな、シャンプー変えた?」
「わっ……ユウ君すごいね。ヘアオイル新しいやつ買ってみたの。……前にユウ君が、『この匂い好き!』って言っていたやつなんだけど……」
「だからか! どこで嗅いだのか思い出せなかったけど、うん、俺の好きなやつ。……覚えてたの? 美緒」
「……うん」
「……もしかして、俺のため?」
「……う……うん……」
ハッキリと自分の心の中を口に出され、美緒は恥ずかしそうに俯いた。悠斗のためにこのヘアオイルを買ったものの、本人に直接言われると気恥ずかしい。
「……はい、こっち座って?」
ニコリと笑い悠斗は美緒の手を取る。そのままソファへと誘い、自分が先に座ると膝の間へ美緒を座らせた。
「ゆ、ユウ君? 寝なくて良いの?」
「まだ良いの。……良い匂いしてる美緒が目の前にいるのに、勿体ないじゃん?」
「えっ……ええっ……」
「……この匂い、やっぱり好きだわ。……美緒がつけてると余計に良い匂いがする」
「ちょっ……へ、変な言い方しないでよ……」
「どうして? めちゃめちゃ良い匂いしてるよ?」
悠斗は美緒の髪の毛を少し指に絡めると、クンクンと匂いを嗅ぐ。
「やっ、ちょっ、匂い嗅がないでよぉ……」
「俺のためになんでしょ? 俺が匂い嗅がなきゃ」
「そう、なんだけと……うぅ……恥ずかしいんですけど……」
「美緒は気にしなくていいの」
「何だか変なニオイしてるみたいじゃん……」
「全然? ヘアオイルと、美緒の良い匂いがする」
「私の匂いって……」
「良い匂いだよ? 何かこう、甘い感じがする」
髪の毛だけでなく、悠斗は首筋へと顔を移す。そしてまた、クンクンと匂いを嗅ぐ仕草をした。
「ちょっ……まっ……」
「……え?」
「……っ……んんっ……」
思わず身体を引いた美緒の首筋に、悠斗は自分の唇を押し付けると、ペロリと舌で撫でた。
「待って待って……」
「美味しそうだったから、つい」
「ううう……」
「デザートなら良い?」
「デ、デザートならイチゴあるから! ある! イチゴ!」
「イチゴも良いけど、それよりも美緒のほうが良いかなぁ? そっちのほうが美味しそうじゃない?」
「えぇっ!? すぐに! 切るから! デザート! 食べよ!」
「……ふふっ。そんなに照れるの? 可愛い」
「もう! 遊ばないでよ……」
「ゴメンゴメン。じゃあ、イチゴ食べよっか」
「……切ってくるから、待っててね?」
少し不貞腐れたように口を真一文字に結ぶと、キッチンへと向かった。本当に怒っているわけではないと理解しているのか、悠斗はそんな美緒を嬉しそうに優しい表情で見つめていた。
「……あ! ゴメン、美緒」
「どうしたの?」
「後輩に一通メール返さなきゃいけないから、ちょっとやってきても良い?」
「うん、良いよ?」
「食べたら寝ててくれて構わないから」
「でも……」
「気にしなくて良いよ、遅くなっちゃうかもしれないしね?」
「はぁい……」
洗ってヘタを落としたイチゴを二つの器に盛りつけると、一つを悠斗の元へと運んだ。そして自分はリビングで手早く食べると、ソファへと座る。
「……うぅ……」
美緒は一人になったソファの上に寝転がると、何か言いたげにクッションに顔を埋めた。
「あぁもう……。可愛いのはユウ君のほうなんだもん……」
うつ伏せでジタバタと足を動かし、今起こったことを頭の中で反芻する。ためらいもなく、こんなことをするのが悠斗なのだ。この姿を、発言を、挙動を、誰が想像できようか。
「照れる、照れるけど嬉しい……! 複雑……!」
悠斗のこのじゃれあいは、今に始まったことではない。付き合った当初から、美緒の前ではこのままだった。
髪型を変えれば必ず『可愛い』『似合う』と言い、新しい服にも気が付く。リップの色を変えれば『キスがしたくなる』と恥ずかしげもなく言い放ち、『心配だから』と都合が合えば出先に迎えにも来てくれる。料理を作れば褒めてくれるし、その他細かいことを挙げればキリがないくらい、悠斗は美緒のことを思っていた。
だから美緒も『自分の好きな人により好きになってもらいたい』『誰かに自慢できるような人間でいたい』と努力を怠らなかった。
「……すごいなぁ、やっぱり気付くんだ……。ユウ君の好きな匂いのやつにして良かった……」
胸が疼く。くすぐったくて、顔が熱い。ニヤニヤと口元が緩むのを止めることもできない。
「ユウ君……会社では、後輩に恐れられてるのになぁ……。誰もこんな姿、思い浮かばない……よね?」
少しの優越感。『自分しか知らない』という事実が、美緒の心をくすぐり続けていた。
「はぁ……私のこんな姿、ユウ君にも会社の人にも見せらんないよ……」
スルスルと肌触りの良いソファカバーに足を滑らせ、疲れた身体をクッションとソファに委ねる。そして、頭を起こすためにテレビをつけた。週の仕事の最終日、いつものことではあるがすごく疲れるのだ。正確には、『忘れていた疲れが押し寄せてくる』だったが。この日だけは『もう明日は休みなのだから』と、心も身体も油断するのか、気怠さから眠たくなることが早かった。まだ今日という時間は残されているのに、身体と脳みそは早々に切り上げようとしている。
「うぅ……」
きっと悠斗は、以前と同じように『美味しい』と言ってくれるだろう。そして『いつもありがとう』とも。悠斗は優しいのだ。周囲が思っているほど堅物でもなければ、人に興味がないわけでもない。
――みんなが知らないだけなのだ。会社で振る舞う悠斗の顔と、妻である美緒と一緒にいる時の顔が違うことを。彼はクールなだけではない。それは美緒だけの特権で、美緒しか知ることのない顔なのだから。
(……いけない! ユウ君のこと考えると、思わず顔がにやけちゃう……)
マスク越しに緩んだ口元を引き締めて、美緒は買い物を再開した。
慣れた手つきで購入品をエコバッグに詰めると、急いで家路へとつく。悠斗がまだ帰ってこないとはいえ、やれること、やらなければならないことは早めに済ませてしまいたい。それが美緒の考えだ。
休みの明日にまとめてやってしまえば良いかもしれないが、担当は悠斗に変わる。自分の仕事を残すつもりはない。それに、早く家事を済ませてしまえば自分の時間もできる。最近、刺繍にハマっていた美緒は、毎日家事を早めに済ませては、空いた時間で少しずつ刺繍を嗜んでいた。
「ただいまー!」
誰もいない家に美緒の声が響き渡る。人がいないことはもちろんわかっている。が、それでも挨拶を欠かさないのが美緒だ。
買ってきた食材を手早く冷蔵庫にしまった後、部屋着に着替えて大きく伸びをする。仕事で疲れた身体は硬かったが、もうひと踏ん張りと大きな欠伸をしてからダイニングテーブルの木製ボウルに手を伸ばし、中にあった小さなチョコレートを摘む。
「さぁて。早速始めますか……」
そしてそれを頬張ると、宣言通り外に干していた洗濯物を取り込み始めた。
「虫はついていませんように……」
これでもか! というくらいパタパタと洗濯物を叩きながら、どんどん部屋の中へと放り込んでいく。一度、冬に『もうこんな時期に虫はいないだろう』とタカを括ってそのまま取り込んでいたら、蜂が部屋の中に入り込んだことがあった。気が付いたのは畳んでいる時で、刺されなくて本当に良かった、むしろよく刺されなかったなと今でも思っている。悠斗がいたからことなきを得たものの、その場にいたのが自分一人だけだったら……と考えると、今でも怖くなるほどの出来事だった。
それから、季節関係なく洗濯物を取り込む時は、よくよく叩いてからにするようになった。虫嫌いな美緒は、もう経験したくないと思っていたからだ。本当は、明るい時間に取り込んで、しっかりと確認したほうが良いのかもしれない。そう思ってはいたものの、仕事がある日はそういうわけにもいかないのだ。
「やっぱり日に当てると、乾いた時の匂いが違うよねぇ……」
部屋干しもする気はなかった。外で干して充分に日に当てられた洗濯物の、あの独特の匂いが好きだからだ。雨の日は別として、それ以外は特に外に干さない理由もないし、確かに虫は怖いができるだけ洗濯物は外に干したい。
そんなこだわりを持った美緒は、一緒に干していた布団を最後に取り込むと、寝室に運ぶついでにその柔らかな感触と匂いを求めて顔を埋めた。
「ううう……癒される……良い匂い……」
あまり人には見せられない姿だが、今は自分の家、ここには自分一人しかいない。存分に堪能すると綺麗に布団を整えてリビングへと戻る。
「さてさて。ちょっとだけ掃除機を……」
ハンディクリーナーを手に取ると、埃や髪の毛が気になる部分を掃除し始めた。気付かないようで部屋の角にはよく溜まるものだ。夜のため静音のハンディクリーナーでも稼働させるのは少しにとどめ、換気をしてクリーナーから吐き出された空気が入れ替わるのを待つ。
「よーし、完了! ご飯の準備しなきゃ!」
ヴーヴヴ――ヴーヴヴ――
「……あっ、ユウ君!」
スマホのバイブが音を立てる。悠斗からの連絡だ。
『今日は十九時には出られそう。週末だからみんな早く帰るって。俺も便乗する! 仕事頼まれても断るし、出る時にまた連絡するから、もう少し待っててね。遅くなってゴメン』
「やった! 遅い……っていっても、今日は早いほうじゃん? 嬉しいなぁ……『はーい。待ってるね』……と……」
忙しい悠斗の帰りはいつもは二十一時を過ぎることもザラだった。十九時に帰れるなんて随分早いじゃないか。思わず美緒の口元が緩んだ。
早く会いたい。一緒に住んでいるのだから毎日会えるが、それでも早く会いたい。できるだけ一緒にいたい。……何たって、悠斗は自分の『最推し』なのだから。
高校の時から、美緒はずっと『悠斗推し』である。ファンというわけではないが、どこか距離があって、最初は一方的な片思いで。現実なのに現実から離れているような、夢を見ているような感覚がまだ拭えない。そんな状況も含めて、美緒は自分たちの関係をそう呼んでいた。
推しと結婚できた自分は、最上級に幸せなのだ、とも思っていた。
悠斗の宣言した、十九時を迎えるほぼピッタリの時刻にまた美緒のスマホが鳴った。今度は電話だ。
『もしもし──』
「――もしもし?」
『あ、美緒? 今良かった?』
「うん、ユウ君お疲れ様」
『あぁ、お疲れ』
「もうそろそろ帰れそう?」
『うん、もうすぐ会社を出られそう。何か買っていくものある?』
「ううん、大丈夫だよ」
『そっか、じゃあまっすぐ帰ろうかな』
「うん、気を付けて帰ってきてね」
『はいはい。……あー、お腹空いた』
「今日はね、和風ソースのステーキだよ! 奮発した! ……わけじゃないけど。お肉が安くなってたから買っちゃった」
『おお! 楽しみ! すぐ帰る!』
「あははっ、気を付けてね?」
『大丈夫! じゃあ、駅着いたらまた連絡するから』
「はーい」
『それじゃ』
「うん、後でね」
普段は電話での連絡ではないが、今日は早く帰れるから電話なのだろうか。美緒には嬉しいことだった。なぜならば悠斗の声が聞けたからである。毎日律儀に帰宅連絡をくれる悠斗の行動は、料理を作る美緒にとって有難いものであり、かつコミュニケーションを怠らないことに対して愛情も感じていた。
……普段の愛情表現が薄いと感じつつも、その中で確かな愛情を探しているのである。
「……よしっ、これでオーケー! お肉も柔らかくなるやり方見てやったし、ソースも前回のちゃんと再現できたし! 食感も併せて、絶対前回よりも美味しくなってるはず……! ユウ君、もう帰ってくるかな……」
料理を作っている間に、悠斗からの連絡がきた。そのタイミングからして、そろそろ家に到着するはずだ。
――ガチャリ。
その時、ドアの鍵が開けられる音がした。
「――ただいまー!」
「あっ! お帰りなさい!」
パタパタと急ぎ足で玄関へと向かう。まるで父親の帰りを待っていた子どものように、美緒の顔は笑みで輝いていた。
「おかえりユウ君!」
「ただいま美緒。……おっと」
はしゃぐように抱きつく美緒を抱きとめ、悠斗は優しい笑顔でゆっくりと美緒の頭を撫でた。
「……ただいま」
「んんー……おかえりぃ……」
グリグリと悠斗の胸元に顔を押し付け、甘えたような声で返事をする。――今、悠斗に接している美緒は、会社で仕事をする美緒とは違う。それは、悠斗も同じだった。
「ほら、リビング行くよ? 俺、まだ手も洗ってないし」
「……はぁい」
上目遣いでチラリ、と悠斗を見る。やれやれ、といったような顔をすると、悠斗はゆっくりと美緒に口づけた。
「……んっ……」
「……続きは後で、ね?」
そう言ってもう一度キスをすると、美緒をリビングへと促した。
「わっ! 電話の通りじゃん! 俺これ好きだから嬉しい!」
「えへへ、良かったぁ。良いお肉も買えたから、ソースも失敗しないように頑張ったんだよ?」
「早く食べよう!」
悠斗が手を洗い、着替えをしてリビングへと戻る間、食事の準備を整えてダイニングテーブルへと並べる。温かい食事を悠斗に食べさせたい。そう思っている美緒は、できるだけ悠斗の帰りに合わせて食事の準備を行っていた。毎回今日のようにピッタリ合うわけではないが、冷めていたら再び火を入れたり、最後の仕上げは悠斗が家に着いてから行うようにしている。
「それじゃあ、食べよっか?」
「うん、いただきます!」
「いただきます」
向かい合わせに座ると、丁寧に手を合わせた。
「あれ、このドレッシング新しいやつ?」
「そうそう。この間、福袋みたいなの買ったら入ってたんだけど。にんじんのドレッシングなんだって」
「へぇ、すりおろしっぽいね。初めて食べるや」
「良い匂いすると思わない?」
「何か美味しそう。先に使って良い?」
「どうぞどうぞ」
綺麗なオレンジ色のドレッシングをサラダにかけ、野菜を口に頬張る悠斗の顔が綻ぶ。
「……んんっ……。これ美味しいね!」
「ホント? 私も食べよ」
どうやら、先日購入したこのドレッシングは、大当たりだったらしい。悠斗も美緒も『美味しい』と言いながらあっという間に野菜を平らげた。
「……ステーキ、めちゃめちゃ柔らかくない?」
「でしょ!? あのね、この間テレビでやってた、低温調理っていうのに挑戦してみたの!」
「肉汁たっぷりだし、すごい柔らかい。お店で食べるのよりも、下手したら美味しいんじゃない?」
「良かった! 作った甲斐があるよ!」
スッとナイフの入る牛肉は、切ると中から肉汁が溢れた。引っ掛かりなく歯で噛み切れ、噛む度に肉の旨味が染み出してくる。
「ソースも美味しいよ。やっぱり、ステーキにこのソース合うなぁ。……美緒は料理上手だね」
ニコニコと自分の作ったソースを褒める悠斗に、思わず顔が赤くなる。褒められるということは何度あっても嬉しいが、何度あっても慣れないものだ。
「いやー、それほどでも」
照れ隠しに誤魔化すと、美緒もどんどんとお肉を口へ運んでいった。
「――ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした! あー、美味しかった!」
「おそまつさまでした」
「あ、洗い物俺やるから。美緒、先お風呂入ってきたら?」
「良いの? 疲れたでしょ?」
「良いよ良いよそれくらい。……あ。明日休みだし、一緒に入る?」
「えっ……た、たまには……入る……?」
「じゃあ、決定。洗い物終わったらすぐに行くから、先に入ってて」
「うん、わかった」
悠斗の申し出を受け入れると、着替えを持ってバスルームへと向かう。まさか、一緒に入るかと問われるとは思っていなかった。が、そういえば最近は一緒に入っていなかったことを思い出し、思わず顔が綻んだ。誰か知り合いに今の顔を見られたら、『ニヤニヤして気持ち悪い』なんて言われてしまうかもしれない。こういうのを『浮かれている』と言うのだろう。
(……先に入ってて、って言われたけど、いざ一緒に入るってなると妙に緊張しちゃうな……)
まだ築年数の浅いこのマンションは、綺麗でそれなりに広いお風呂を備えていた。大人が二人で湯船に浸かっても、そこまでの狭さを感じない。水回りは清潔で綺麗なまま保ちたい、その考えが二人の間で一致していることもあり、お風呂やキッチンを始めとした水回りは掃除の回数も多く、家の中でも特に清潔さを保っていた。
脱衣所で着ていた服を脱ぐと、バスタオルの準備を二人分して浴室へと入る。扉を開けた時に抜ける白い空気が、独特の水の匂いを運んで来た。入浴剤は今回特に入れていない。特に疲れた日、何か格別に良いことがあった日のために、楽しみはとってある。
シャワーで軽く身体を流すと、まだ来ない悠斗を待つために先に髪の毛と身体を洗う。その間に入ってきたらどうしようか、と一瞬考えたが、おそらくまだ来ないだろうと判断した結果だ。いつものように好きなシャンプーの香りに包まれながら、もったりとした柔らかくも弾力のあるボディソープの泡に身体をくぐらせる。一日のすべてをリセットできる気がして、美緒はこのバスタイムが大好きだった。普段はゆっくりと一人でその時間を堪能するが、今日は違う。
コンコン――
「……美緒? 入っても大丈夫か?」
浴室のドアの向こうから、悠斗の声が聞こえた。
「あっ、ちょっと待って!」
美緒は慌てて全身に残った泡を流すと、湯舟へと浸かる。
「大丈夫だよ!」
「じゃあ、入るな」
ゴソゴソと音が聞こえる。きっと、悠斗が服を脱ぐ音だろう。少し経って、浴室のドアがゆっくりと開いた。
「あ、先に洗った?」
「うん。タイミングがわかんなかったから、先に洗っちゃった」
「ごめん、ついでに排水部分のゴミ受けるやつ、洗ってたからさ。遅くなっちゃったかも」
「全然。大丈夫!」
「あー……俺も中に入って良い?」
「え? 良いよ?」
悠斗はさっと身体をシャワーで流すと、浴槽の端に移動した美緒の隣へと座った。
「お湯、増えたな」
「そりゃあ、大人が一人増えてるんだもん」
「わかってるけど、思ったより増えた。……俺、太ったかな?」
「そんなことないと思うけど?」
「ヤバいな、気を付けなきゃ。……誰かさんのご飯が美味しいから。つい食べ過ぎちゃう気がする」
「えぇ!? もしかして私が原因!?」
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「いえいえ、それほどでも」
浴室に反響する二人の声。不意に身体を動かすと、浴槽に張られた水がチャポン、と音を立てた。
「……」
「……」
無言の時が続く。急に恥ずかしくなり、美緒は何も言えないでいた。
「あ……俺、洗おうかな?」
「え、あっ、うん!」
ゆっくり入ろうかと思っていたが、悠斗は長い時間湯船に浸かることもなく、そそくさと洗い始めた。いつも使っている悠斗のシャンプーの香りが浴室に広がる。
「新しいシャンプー買わないとなぁ。なくなりそう」
「それ、気に入ってるんだっけ?」
「うん、結構ね。軋まないし、匂いも良いし?」
「……ふふっ。ユウ君、女の子みたいなこと言ってる」
「そうかな? みんなそんなもんじゃない? やっぱりさ、人前に出る立場だし、匂いとか見た目とか気になるわけですよ」
「うーん、そっか……。それもそうだよね」
「あ、ドラッグストア行きたいから、付き合って?」
「もちろん良いよ。……そうだ、時間があったら、新しくできたカフェに寄りたいんだけど……」
「そのカフェどこ? 近くにドラッグストアあるなら、そこ目指していけば良いね」
他愛ない会話が広がる。身体を洗い終わった悠斗が再度湯船に浸かるも『暑い気がする……』と顔を真っ赤にして先に脱衣所へと出る。お風呂に入るのは好きなのに、なぜだかすぐに暑がって浴槽から出る悠斗を、美緒はくすりと笑って見送った。
(へへ……新しいヘアオイル、試しちゃおっかな?)
以前ドラッグストアに行った時、悠斗が好きだと言った蜂蜜レモンの香りのヘアオイルを、美緒はこっそり購入していた。何でも悠斗の気に入ったものを取り入れる美緒にとって、これも例外ではなかった。
(どうせなら、ユウ君に気に入ってもらいたいし? ……良い匂いって言われたいよね)
美緒も気に入った蜂蜜レモンの香りに囲まれながら、悠斗がきっとこの匂いに気付いてくれるようオイルを丁寧に髪に染みこませると、一足先に爽やかで甘い美味しそうな香りを堪能していた。
「ユウ君、暑いの落ち着いた?」
「おかえり……って、あれ?」
「ん? どうかした?」
「いや……何かこう、良い匂いがするなと思って。嗅いだことがある気もするんだけど……。……おかしいな、シャンプー変えた?」
「わっ……ユウ君すごいね。ヘアオイル新しいやつ買ってみたの。……前にユウ君が、『この匂い好き!』って言っていたやつなんだけど……」
「だからか! どこで嗅いだのか思い出せなかったけど、うん、俺の好きなやつ。……覚えてたの? 美緒」
「……うん」
「……もしかして、俺のため?」
「……う……うん……」
ハッキリと自分の心の中を口に出され、美緒は恥ずかしそうに俯いた。悠斗のためにこのヘアオイルを買ったものの、本人に直接言われると気恥ずかしい。
「……はい、こっち座って?」
ニコリと笑い悠斗は美緒の手を取る。そのままソファへと誘い、自分が先に座ると膝の間へ美緒を座らせた。
「ゆ、ユウ君? 寝なくて良いの?」
「まだ良いの。……良い匂いしてる美緒が目の前にいるのに、勿体ないじゃん?」
「えっ……ええっ……」
「……この匂い、やっぱり好きだわ。……美緒がつけてると余計に良い匂いがする」
「ちょっ……へ、変な言い方しないでよ……」
「どうして? めちゃめちゃ良い匂いしてるよ?」
悠斗は美緒の髪の毛を少し指に絡めると、クンクンと匂いを嗅ぐ。
「やっ、ちょっ、匂い嗅がないでよぉ……」
「俺のためになんでしょ? 俺が匂い嗅がなきゃ」
「そう、なんだけと……うぅ……恥ずかしいんですけど……」
「美緒は気にしなくていいの」
「何だか変なニオイしてるみたいじゃん……」
「全然? ヘアオイルと、美緒の良い匂いがする」
「私の匂いって……」
「良い匂いだよ? 何かこう、甘い感じがする」
髪の毛だけでなく、悠斗は首筋へと顔を移す。そしてまた、クンクンと匂いを嗅ぐ仕草をした。
「ちょっ……まっ……」
「……え?」
「……っ……んんっ……」
思わず身体を引いた美緒の首筋に、悠斗は自分の唇を押し付けると、ペロリと舌で撫でた。
「待って待って……」
「美味しそうだったから、つい」
「ううう……」
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「デ、デザートならイチゴあるから! ある! イチゴ!」
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「もう! 遊ばないでよ……」
「ゴメンゴメン。じゃあ、イチゴ食べよっか」
「……切ってくるから、待っててね?」
少し不貞腐れたように口を真一文字に結ぶと、キッチンへと向かった。本当に怒っているわけではないと理解しているのか、悠斗はそんな美緒を嬉しそうに優しい表情で見つめていた。
「……あ! ゴメン、美緒」
「どうしたの?」
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「うん、良いよ?」
「食べたら寝ててくれて構わないから」
「でも……」
「気にしなくて良いよ、遅くなっちゃうかもしれないしね?」
「はぁい……」
洗ってヘタを落としたイチゴを二つの器に盛りつけると、一つを悠斗の元へと運んだ。そして自分はリビングで手早く食べると、ソファへと座る。
「……うぅ……」
美緒は一人になったソファの上に寝転がると、何か言いたげにクッションに顔を埋めた。
「あぁもう……。可愛いのはユウ君のほうなんだもん……」
うつ伏せでジタバタと足を動かし、今起こったことを頭の中で反芻する。ためらいもなく、こんなことをするのが悠斗なのだ。この姿を、発言を、挙動を、誰が想像できようか。
「照れる、照れるけど嬉しい……! 複雑……!」
悠斗のこのじゃれあいは、今に始まったことではない。付き合った当初から、美緒の前ではこのままだった。
髪型を変えれば必ず『可愛い』『似合う』と言い、新しい服にも気が付く。リップの色を変えれば『キスがしたくなる』と恥ずかしげもなく言い放ち、『心配だから』と都合が合えば出先に迎えにも来てくれる。料理を作れば褒めてくれるし、その他細かいことを挙げればキリがないくらい、悠斗は美緒のことを思っていた。
だから美緒も『自分の好きな人により好きになってもらいたい』『誰かに自慢できるような人間でいたい』と努力を怠らなかった。
「……すごいなぁ、やっぱり気付くんだ……。ユウ君の好きな匂いのやつにして良かった……」
胸が疼く。くすぐったくて、顔が熱い。ニヤニヤと口元が緩むのを止めることもできない。
「ユウ君……会社では、後輩に恐れられてるのになぁ……。誰もこんな姿、思い浮かばない……よね?」
少しの優越感。『自分しか知らない』という事実が、美緒の心をくすぐり続けていた。
「はぁ……私のこんな姿、ユウ君にも会社の人にも見せらんないよ……」
スルスルと肌触りの良いソファカバーに足を滑らせ、疲れた身体をクッションとソファに委ねる。そして、頭を起こすためにテレビをつけた。週の仕事の最終日、いつものことではあるがすごく疲れるのだ。正確には、『忘れていた疲れが押し寄せてくる』だったが。この日だけは『もう明日は休みなのだから』と、心も身体も油断するのか、気怠さから眠たくなることが早かった。まだ今日という時間は残されているのに、身体と脳みそは早々に切り上げようとしている。
「うぅ……」
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