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1巻
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1 会社の顔と家の顔
「櫻井さん、これどうにか通せないかな……?」
「うーん、ごめんなさい。いくら課長の頼みでも、こればっかりは……」
「そこを何とか! 今日受理されないと、今月の経費に含まれないでしょ? 来月は結構な出費があってさ……」
「お金が関わってくるので、課長の印がないと受理できないんですよ」
「総務に置いてないの?」
「……珍しいですからね、課長の名字。残念ながら、置いてないです」
「あああ! そんなぁ……」
「はぁ……はいはい、櫻井さんが困っているでしょう? お話なら私が聞きますよ?」
「うぅ……大丈夫です……明日出します……」
「それなら最初からそうしてくださいね? 余計な仕事を増やさない!」
「は、はいっ……!」
はぁ、と大きな溜息を吐きながら、一人の女性が眉をひそめている。
「そんなの『無理です』の一言で良いのよ? 真面目なんだから……」
「すみません、つい……」
「アナタは悪くないんだから、謝らなくて良いの。課長は櫻井さんと話したいだけだから、何なら無視しても良いのよ?」
「む、無視はちょっと……」
「多分アレ、来月も同じように来るわね。はぁ、めんどくさい……」
「印鑑、買いますか?」
「課長に買わせて持ってきてもらうわ。わざわざ経費を使う必要もないし。私が伝えておくから。櫻井さんは残りの精算書お願いね?」
「はい!」
さっきのしかめっ面とは打って変わって、今度はにこやかに女性は手を振って席を離れていった。「櫻井」と呼ばれた女性は、櫻井美緒といい、この会社の総務部の女性である。同じ会社に勤めており社長の御曹司である悠斗と、ごくごく最近籍を入れたばかりの新婚だ。
人当たりも良く、何事にも一生懸命で仕事の評価も高く、上司、先輩、後輩、同期……と誰に評判を尋ねても、全方位から高評価な女性である。
悠斗の評判も相まって、結婚前は二人揃って『高嶺の花カップル』と呼ばれていた。お互い高スペック、そのうえ人当たりも良く悪い噂の一つもない二人は、他の人間たちから見ればまさに『高嶺の花』だった。
ここでいう『高嶺の花』は、あくまでも揶揄だ。なぜならば、悠斗が『社長の御曹司である』ということを、ほとんどの人が知らないからである。
悠斗は社長の息子であるという事実を、自社に入社してからも隠していた。それは、悠斗も社長も実直な人間であり、そのことが評価に繋がることを嫌ったからだ。社長の御曹司となれば、邪な気持ちを持って接してくる人間もいれば、勝手に妬む人間もいる。特に悠斗の父、現社長はそのことをよくよくわかっていた。だからこそ、悠斗には安易に口外しないよう口をつぐませ、自分も悠斗のことを特別扱いしなかった。もちろん、悠斗自身もその立場を振りかざすこともしなければ、結婚した美緒相手にもプロポーズのギリギリまでそのことを黙っていた。
「コホン。あー、櫻井さん? 家庭で悩みとかない?」
美緒の隣に座っている男性が、コソコソと周りの様子を伺いながら声を掛ける。
「えっ? いえ? 特にないですけど……?」
「そう? ホラ、何か困ったことがあるとか、何でも良いんだけど」
「今は特に……」
「えっ……そうなのか……。じゃあ、えぇっと……そうそう! 旦那で何か悩みとかないの? 夫婦の悩み! 全然、俺話聞くからさ? 食事でもどう?」
「……ご心配なく。いたって良好ですよ?」
「弓形さん? 櫻井を食事に誘うなら、私が行きましょうか?」
「えっ、あっ、いや、笹野さんは……良いかな……」
「はい? どういう意味です?」
「やっ、何でも! ……さぁ、仕事仕事!」
弓形と呼ばれた男性は、アタフタしながらデスクへと向き直る。笹野――先ほど課長を追い払った女性が、同じように弓形を美緒から遠ざけた。
美緒が今回のように男性に誘われることは、独身時代においては日常茶飯事で、一人断ってもまた一人やってくるというように、絶えることはなかった。それは、恋人の有無も関係なく、だ。
結婚が決まってから、また結婚してからは多少の誘いは減ったものの、相変わらず二人で食事にどうにか行けないかと、何人もの男性がアタックしては撃沈を繰り返している。
「はぁ……仕事、しづらくない?」
「はは……まぁ、多少は……」
「ハッキリと断っても良いのよ?」
「今みたいに、『食事に行こう!』とか、『二人きりで云々』みたいに言われたら、まだ断りやすいんですけどね。それを出さずに匂わされると、自意識過剰なのかなって思ってしまって……」
「真面目ねぇ……。良いのよ、自意識過剰で。結局、大体当たってるんだから」
「あんまり、職場の方との関係性を悪くしたくないのもあって……。でも、すみません。その分、笹野さんに迷惑をかけてしまって……」
「良いのよそんなの! アレだったら、ウチの夫から注意させようか? 見た目、結構コワモテだし。それに一応、部長だし?」
「そんな……! 申し訳なさすぎます! 自分で何とかしますから……」
「できるなら良いんだけれど……。ダメなら、私でも、旦那君でもちゃんと頼ってね?」
「はい、わかってます」
笹野も職場結婚であり、総務部の部長をしている夫がいた。特に人事を主としており、笹野自身も総務部で係長をしているため、周りから見たらいろんな意味で強い夫婦と言えるだろう。
「あ、そういえば。旦那君、仕事新しく取れたみたいね。お客様から、別プロジェクトもウチにお願いしたいって。営業部が騒いでたわ。すごいじゃない!」
「えへへ、ありがとうございます! 毎日頑張ってるんで、できるだけ家では、寛いでもらいたいですよね」
「……アナタ、本当に良い子だわ……」
そう言って、笹野は美緒のデスクにチョコレートを置いた。
「アナタも、ちゃんと息抜きしなきゃダメよ?」
「はい! ……あっ、笹野さんこれ、新作のクッキーなんですけど。食べません?」
「これCMでやってたやつじゃない! 気になってたのよね、いただくわ」
総務部は笹野夫婦を筆頭に、主任に美緒を置いていた。笹野もそうだが、美緒も主任という立場にあり、この会社ではまだまだ少ない役職持ちの女性の一人である。悠斗はまだ入社五年目であったが、異例の大出世を果たし、二十代という若さでシステム部の課長を務めていた。もちろん、その有能さ、この役職も含めての『高嶺の花カップル』の称号である。
社長の息子であるがゆえの異例の大出世……というわけでは決してなく、その人柄、仕事ぶり、能力を踏まえての課長という役職である。何も知らない周りから見たら、悠斗が普通の人間であれば何かおかしいと、そう感じるかもしれないくらいの。
そう、悠斗は普通ではないのである。社長の息子という点がなかったとしても、悠斗は非常に有能な社員だった。その能力を埋もれさせないために、課長という役職が与えられた側面もある。そして、その役職に就いてもおかしくない人間だと、悠斗は周りから評価されていた。異例の大出世という言葉は、他の社員たちからの最大限の誉め言葉でもあった。
(はぁ……ちょっと疲れちゃったな。お手洗い行って休憩しよ……)
美緒は席を立つと、女子トイレへと向かった。手早く済ませた後、コーヒーを淹れるために給湯室へと向かう。
「……じゃ……?」
「よね! ……る……!」
(あ……先客かな?)
こういった時に、あまり人に話しかけることが得意ではない美緒は、給湯室の死角となる場所から女性たちがいなくなるのを黙って待つことにした。
(うぅ……できれば早くいなくなってほしい……。無言になっちゃうのも何だか気まずいし…)
「……ねぇねぇ、聞いた? システム部の櫻井さん、またお客さんからお仕事回してもらったんだって! 営業じゃないのにすごくない!?」
「えっ、そうなの!? 今初めて聞いたけど、マジですごいじゃん!」
(……あれ? ユウ君の話……)
さほど離れていない位置にいた美緒の耳に、悠斗の名前が届いた。
「見た目もイケメン、声もカッコイイし、仕事もできるって最高じゃない?」
「普段はちょっと怖いけどね。何か、無表情? だし。忙しそうなのが顔とオーラに出てる」
「わかるー! でも、そこが『できる男』って感じしない?」
「するする! あと二人きりの時にすごい優しいとか甘えてくるとか、ギャップありそうー!」
「それ私も思った! 『全然人に興味ありません』って顔しながら、実は『好きな人にはベタ甘です』みたいな!」
(わお……ユウ君、めちゃめちゃ人気あるな……?)
美緒は苦笑いする。悠斗がこう言われていることは何となく知っていたが、実際に他人から言われている場面に遭遇すると、何とも言えない気持ちになった。
「髪型は清潔感ある感じだし、身長も……どれくらいだろ? 百七十は絶対超えてるじゃん?」
「あると思う! 笑った顔見たことある?」
「え、ない! ……笑うの?」
「何それ失礼じゃない? でも、見たことないんだ。私見たんだけど、ちょっとクシャってなって、可愛い感じだった!」
「マジで羨ましいんですけど」
「眼福よ。スーツ着てるからわかんないけど、腕まくりしてる時、結構筋肉ついてるように見えない?」
「わかる! あれは細身だけど絶対筋肉ついてる」
「だよね? スーツも似合うしカッコイイ」
「たまについてる寝癖、可愛いよね」
「わかる!」
(すごい……よく見てるな……)
話を聞けば聞くほど、それは悠斗だった。身長は百七十六センチあるし、暗めのトーンの髪色で、長すぎず短すぎずといった髪型だ。細身ではあるものの筋肉は適度についており、普段は難しそうな顔をしているが、たまに見せる笑顔は子どもみたいに可愛い。寝坊した時の髪型の優先度は低いため、ピョコンと毛先が跳ねている時も確かにある。
「えー、私彼女になりたい」
「えっ、ずるい! 私も!」
「どんな人がタイプなんだろう?」
「聞いてみる? 話すきっかけにもなるし良くない?」
「良いかも!」
(うわー……ごめんなさい、嫁がここにいます…)
思わず心の中で謝ると、美緒はコーヒーを諦め、バレないように部屋に戻ろうとした。
「あれ、二人とも知らねぇの? 櫻井さん結婚してんよ?」
(もう一人いた!?)
今度は男性の声がする。どうやら、女性二人、男性一人で給湯室を利用していたらしい。
「えっウソ!」
「いやいや、ホント。総務部の櫻井さん」
「……そういえば……同じ苗字だな……とは思ってたけど……」
「櫻井さんって、毎月給与明細持ってきてくれる人だよね?」
「そうだよ。同じ大学で、最近結婚した」
「やだ、狙おうと思ってたのに!」
「私も……」
「盛り上がるくらいだから、知ってると思ったのになぁ。意外」
「だって……たまに見かけて良いなって思ってたレベルだし……」
「入社してまだ私たち三ヵ月だし?」
「いや、俺も三ヵ月だけど」
「それは、アンタがシステム部だから知ってるんでしょ? 私たち、どっちとも違う部署だし」
「そうそう」
「まぁ、それもそっか。とにかく、諦めたほうが良いんじゃね? どっちもファンクラブあるって噂だけど」
(そうなの!?)
驚いた美緒は思わず出そうになった声を抑え、固唾を飲んで給湯室の会話へ耳をすませた。
「女性社員の先輩に聞いてみたら? あー、奥さんのほうは男性社員に聞くほうが良いかな?」
「……確かに、奥さんのほうは可愛い人だなと思った」
「入社式で司会してたよね。可愛いし、凛としてるって言葉がピッタリだと思ったもん」
(ひぃあぁ……ありがとうございます……!)
思わぬ言葉に、美緒は耳が赤くなる。同じ女性に褒められることが、嬉しくも恥ずかしくもあったからだ。
「奥さん、同じ女性から見てもそんな感じ?」
「まぁねぇ。可愛らしい人だと思うよ。多分、メイクでちょっと大人っぽく見せてるけど、スッピンは幼いと思う」
「羨ましいよね、髪の毛サラサラだし、今の髪色も似合ってるし」
「目は大きいのに、他のパーツはちょっと小さくて、でも全然嫌味じゃないっていうか」
「あんな風に生まれたかった!」
「それね。隣にいると良い匂いするし」
「すれ違った時とかもわかるよね! 華奢だし守ってあげたくなる感じ。私も身長百六十センチあるけど、気持ち目線下な気がする」
「あー、普段そうだよね、女の子らしいというか。入社式の時はスーツだったから、お姉さんっぽかったけど、シャツと柄物スカートだとイメージまた変わる」
美緒は思わず今着ている服を見た。大きな花柄の膝丈フレアスカートに、フリルとリボンタイのついたブラウス。髪色は最近染め直して暗めの落ち着いた色味にし、背中まである長さを生かして毛先もゆるゆるとカールさせた。少し下半身にお肉がついてきた気もするが、できるだけ学生時代の体重をキープできるようにも頑張っている。これだけ容姿を褒められると、面と向かって言われたわけでなくとも、恥ずかしさが強くなった。
「俺だってあわよくば奥さんのほうと食事とか行ってみたい」
「仲間かよ」
「ウケる」
「仕事できて、可愛くて役職持ちで……それで人当たりまで良いとか、そりゃ彼女にしたいじゃん? 年上お姉様とか最高」
「いやでも結婚してんでしょ?」
「じゃあ彼女は無理じゃん」
「結構ねぇ……結婚してても良いっていう人多いんだよねぇ……」
「ヤバいやつ!」
「ほんとそれ」
「ウチらによく『諦めたほうが良いんじゃね?』なんて言えたよね」
「そっちのがよっぽどだよ」
「何だよ、思うくらい良いだろ?」
予想外の方向に話が進んでいき、慌てて美緒は止めていた足を動かすと、早足で部屋へと戻っていった。
(えっそうなの? 結婚してる人に対して、みんなそんなこと考えたりするの?)
異性の社員に誘われることが多いとは、自分でも思っていた。だが、その中に『結婚していても良い』と思っている人がいるとは、考えていなかったのだ。あの男性社員の言う『結婚していても良い』は、おそらく『不倫になっても良い』『結婚していても付き合いたい』『あわよくば身体の関係だけでも』という意味合いが含まれているのだろう。
(……女の子たちも一緒なの……? え、ウソ……。ユウ君、この話知ってるのかな……)
そう考えると、キュッと胸が締め付けられる。今まで考えていなかったことが、急に自分に対して牙を剥いたような気がして。
部屋に入る前に表情を作ると、美緒は残りの仕事を終わらせるべく、気を引き締めながらデスクへと向かった。
「……櫻井さん? 怖い顔してるわよ?」
「え。そ、そうですか?」
「うん、とっても。何だか難しい顔してる」
「そう……ですかね」
「そうよ。だって、眉間に皺寄っているし」
「えっ」
笹野のその言葉に、美緒は思わず指で眉間を擦った。
「あはは、あのね、旦那君もそういう顔してる時あるわよ」
「ゆう……夫がですか?」
「たまにシステム部行く時に、パソコンに向かってる旦那君が目に入るのよ、入口のすぐ近くの席だしね。何かこう、パソコンとにらめっこしてるみたい」
「あっ……でも、確かに大学時代も授業中、ノート取りながら眉間に皺寄せてたかも……」
「そこが怖そうとか、オーラがどうのとか言われるのよね。人当たり良いのにね」
「……そっか、怖く見えるんだ……」
「特に、後輩から見るとそうらしいわよ」
「それは……ちょっと聞いた気がします……」
(そう、まさについさっき聞いたばかりだよ……)
心の中でそう呟くと、美緒は笹野にもらったチョコレートを一つ頬張った。
「それでも、人気よねぇ」
「夫ですか?」
「そうそう。まぁ、アナタもだから夫婦揃ってね」
「や、やめてください……」
「結婚するって知った人がどれくらい落胆したか知ってる?」
「し、知らないですよぉ……」
「ふふふ。まぁ、そういうことは、知らないほうが良いかもしれないわね。大丈夫よ、ほとんどの人が『ハイスペック同士すぎる!』って諦めたから」
「何ですかその理由……」
「相手もあの櫻井君だからね。勝てないって思ったんでしょ」
「そんな次元の違うお話みたいな言い方……」
「……櫻井さん、アナタ、自分で思ってるよりもずっとファンが多いのよ?」
「ファン……」
「そう、ファン」
「何だかそんな、アイドルみたいに……」
「ほぼアイドルよ? 男性社員なんか、みーんな陰で『美緒ちゃん』って呼んでるんだから。そんなに呼びたいなら、直接呼べば良いのにね? 勇気がないんだからまったく」
ニコニコと笑いながら話すのが逆に怖い。美緒はそう思ったが、口には出さずにまだ残っていたチョコレートを一口で食べ切ると、その言葉と一緒に飲み込んだ。
定時になり、時間を知らせるチャイムが会社中に鳴り響く。
「お疲れ様でした!」
「お疲れ様、また来週ね」
「はい!」
「良い週末を」
「笹野さんも」
「私は仕事が終わったら、旦那とデートなの」
「えっ、良いですね!」
「アナタたちもお互い忙しいかもしれないけど、たまにはお勧めよ」
そういえば、普段は単色でシンプルなネイルをしている笹野が、今日はラメやストーンのついたネイルをしてきていることに気が付いて、美緒は少し羨ましく感じていた。
確かに言われてみればわかる。今日はいつものストレートヘアじゃない。……きっと、デートのために朝巻いてきたのだろう。それに、今まで気にならなかったが、いつもと違う香りがしている。
普段は爽やかな柑橘系の香りなのだが、今日は甘酸っぱいベリー系の香りがしていた。鼻をくすぐるこの香りに、今更ながら胸がキュンとする。好き嫌いはあるだろうが、きっと万人受けする香りだろう。同じ女性でこれなのだ、おそらく男性であったら、もっと胸にくるものがあるだろう。
ニッコリと笑ってヒラヒラと手を振る笹野に小さく頭を下げると、美緒は会社を後にした。
(今日は週末だからなぁ。何か美味しいものが食べたいよね。『一週間お疲れさまでした!』みたいな、さ……)
さほど人通りも多くない道を、美緒は考え事をしながら歩く。平日、悠斗の帰りは遅い。だから、家事は美緒が一手に担っていた。代わりに悠斗は休日の家事を担当しており、現状これで上手く回っていて特に不満もなかった。
(とはいえ、たまにはやっぱり外食とかお惣菜も良いよねぇ)
美緒は家に帰る前にスーパーへ寄ると、今日の晩御飯のメニューを考えながら買い物のカートを押した。この時間のスーパーは人が多く、レジも混雑している。美緒のように仕事帰りに食材や総菜を買っていく人間が多いからだろう。
「あぁーっと、お醤油切らしてた気がする……ソースのメインだもんね、買わなきゃ。……あっ! やった! 今日ステーキ肉安いじゃん!」
美緒はステーキ肉を二枚手に取ると、カートの中に入れた。以前、一度和風ソースのステーキを作っており、悠斗も気に入った味だ。今回、それをまた作るつもりでいる。
(ユウ君、喜んでくれるかな? へへ……)
――美緒の考えの中心は、悠斗でできている。
周囲は皆、悠斗と美緒が大学の同窓生であったことは知っていた。が、実は高校から同級生だったのだ。当時から、美緒は悠斗のことが好きだった。美緒がどちらかといえば目立たないキャラで、比較的おとなしい女の子が集まったグループに所属していたのに対し、悠斗は反対に放課後男女そろって遊びに行き、制服も着崩しているようなグループに属していた。
その中で明らかな派手さはなかったが、整った顔立ちで成績も良く、誰にでも分け隔てなく接する悠斗は、美緒の中でひときわ輝いて見えていた。……その時のことを、今でも美緒は覚えていた。だからこそ、同じ大学に進むとわかったとき、美緒は悠斗に振り向いてもらえるように、気が付いてもらえるようにと、いわゆる『大学デビュー』を果たしていた。
元々可愛らしい顔立ちで、地味なほうとはいえ人当たりも良かった美緒は、多くの友人に囲まれながら、楽しくも忙しい日々を過ごしていた。そんな中、ずっと想っていた悠斗と偶然同じ授業を取ったことから、二人の運命の歯車が音を立てて動き始めた。
友人としての時間を育み、時に衝突もし、悩みを抱えながら、美緒からの告白で付き合い始めた二人は、無事数年の恋人期間を経て、この度結婚という大きな節目へとゴールインしたのだ。
美緒は、周囲が思うよりも、悠斗が考えるよりも、ずっとずっと悠斗のことが好きだと自負していた。どちらかと言えばクールで感情の起伏が少ない悠斗は、あまり愛情表現を表には出さない。結婚を決めたのだからお互い好き合っているとはわかっているものの、時々不安になることもあった。
普段、外でデートする時に手を繋ぐのは美緒からで、家にいる時に近くへ寄っていくのも美緒、恥ずかしいと思いつつも、抱き締めに行くのも、キスをねだるのも美緒からなのだ。
たまには必要としてほしい。愛されている実感が欲しい――そう思いはするものの、口に出すことは憚られていた。もし、普段の温度差が本心から来ていたりしたら……? そんな不安が心の中にあるからである。自分から付き合ってほしいと言った手前、惚れた弱みがあると美緒は思っていた。……例えその後、悠斗のほうからプロポーズを受けていたとしても。
そう思いつつ、悠斗から美緒を求めることもあった。よく気が付く悠斗は美緒の変化に気付くのも早く、美緒の反応を楽しむように、揶揄いながら褒めることも多々あったのだ。当然、スキンシップをしたりすることも。ただ、それが美緒の求めている表現ではないというだけで。
――大好きな人と結婚することができただけで幸せ。
多くを望まないよう、心のどこかでブレーキを掛ける美緒は、それでも悠斗のためにと今日も悠斗のことを一番に考えながら過ごしていた。
(ユウ君イチゴ好きだし、今日のデザートはイチゴにしようかな? ……わぁ……久しぶりにお酒コーナー来たけど、このみかんのお酒、濃厚で美味しそう……)
「櫻井さん、これどうにか通せないかな……?」
「うーん、ごめんなさい。いくら課長の頼みでも、こればっかりは……」
「そこを何とか! 今日受理されないと、今月の経費に含まれないでしょ? 来月は結構な出費があってさ……」
「お金が関わってくるので、課長の印がないと受理できないんですよ」
「総務に置いてないの?」
「……珍しいですからね、課長の名字。残念ながら、置いてないです」
「あああ! そんなぁ……」
「はぁ……はいはい、櫻井さんが困っているでしょう? お話なら私が聞きますよ?」
「うぅ……大丈夫です……明日出します……」
「それなら最初からそうしてくださいね? 余計な仕事を増やさない!」
「は、はいっ……!」
はぁ、と大きな溜息を吐きながら、一人の女性が眉をひそめている。
「そんなの『無理です』の一言で良いのよ? 真面目なんだから……」
「すみません、つい……」
「アナタは悪くないんだから、謝らなくて良いの。課長は櫻井さんと話したいだけだから、何なら無視しても良いのよ?」
「む、無視はちょっと……」
「多分アレ、来月も同じように来るわね。はぁ、めんどくさい……」
「印鑑、買いますか?」
「課長に買わせて持ってきてもらうわ。わざわざ経費を使う必要もないし。私が伝えておくから。櫻井さんは残りの精算書お願いね?」
「はい!」
さっきのしかめっ面とは打って変わって、今度はにこやかに女性は手を振って席を離れていった。「櫻井」と呼ばれた女性は、櫻井美緒といい、この会社の総務部の女性である。同じ会社に勤めており社長の御曹司である悠斗と、ごくごく最近籍を入れたばかりの新婚だ。
人当たりも良く、何事にも一生懸命で仕事の評価も高く、上司、先輩、後輩、同期……と誰に評判を尋ねても、全方位から高評価な女性である。
悠斗の評判も相まって、結婚前は二人揃って『高嶺の花カップル』と呼ばれていた。お互い高スペック、そのうえ人当たりも良く悪い噂の一つもない二人は、他の人間たちから見ればまさに『高嶺の花』だった。
ここでいう『高嶺の花』は、あくまでも揶揄だ。なぜならば、悠斗が『社長の御曹司である』ということを、ほとんどの人が知らないからである。
悠斗は社長の息子であるという事実を、自社に入社してからも隠していた。それは、悠斗も社長も実直な人間であり、そのことが評価に繋がることを嫌ったからだ。社長の御曹司となれば、邪な気持ちを持って接してくる人間もいれば、勝手に妬む人間もいる。特に悠斗の父、現社長はそのことをよくよくわかっていた。だからこそ、悠斗には安易に口外しないよう口をつぐませ、自分も悠斗のことを特別扱いしなかった。もちろん、悠斗自身もその立場を振りかざすこともしなければ、結婚した美緒相手にもプロポーズのギリギリまでそのことを黙っていた。
「コホン。あー、櫻井さん? 家庭で悩みとかない?」
美緒の隣に座っている男性が、コソコソと周りの様子を伺いながら声を掛ける。
「えっ? いえ? 特にないですけど……?」
「そう? ホラ、何か困ったことがあるとか、何でも良いんだけど」
「今は特に……」
「えっ……そうなのか……。じゃあ、えぇっと……そうそう! 旦那で何か悩みとかないの? 夫婦の悩み! 全然、俺話聞くからさ? 食事でもどう?」
「……ご心配なく。いたって良好ですよ?」
「弓形さん? 櫻井を食事に誘うなら、私が行きましょうか?」
「えっ、あっ、いや、笹野さんは……良いかな……」
「はい? どういう意味です?」
「やっ、何でも! ……さぁ、仕事仕事!」
弓形と呼ばれた男性は、アタフタしながらデスクへと向き直る。笹野――先ほど課長を追い払った女性が、同じように弓形を美緒から遠ざけた。
美緒が今回のように男性に誘われることは、独身時代においては日常茶飯事で、一人断ってもまた一人やってくるというように、絶えることはなかった。それは、恋人の有無も関係なく、だ。
結婚が決まってから、また結婚してからは多少の誘いは減ったものの、相変わらず二人で食事にどうにか行けないかと、何人もの男性がアタックしては撃沈を繰り返している。
「はぁ……仕事、しづらくない?」
「はは……まぁ、多少は……」
「ハッキリと断っても良いのよ?」
「今みたいに、『食事に行こう!』とか、『二人きりで云々』みたいに言われたら、まだ断りやすいんですけどね。それを出さずに匂わされると、自意識過剰なのかなって思ってしまって……」
「真面目ねぇ……。良いのよ、自意識過剰で。結局、大体当たってるんだから」
「あんまり、職場の方との関係性を悪くしたくないのもあって……。でも、すみません。その分、笹野さんに迷惑をかけてしまって……」
「良いのよそんなの! アレだったら、ウチの夫から注意させようか? 見た目、結構コワモテだし。それに一応、部長だし?」
「そんな……! 申し訳なさすぎます! 自分で何とかしますから……」
「できるなら良いんだけれど……。ダメなら、私でも、旦那君でもちゃんと頼ってね?」
「はい、わかってます」
笹野も職場結婚であり、総務部の部長をしている夫がいた。特に人事を主としており、笹野自身も総務部で係長をしているため、周りから見たらいろんな意味で強い夫婦と言えるだろう。
「あ、そういえば。旦那君、仕事新しく取れたみたいね。お客様から、別プロジェクトもウチにお願いしたいって。営業部が騒いでたわ。すごいじゃない!」
「えへへ、ありがとうございます! 毎日頑張ってるんで、できるだけ家では、寛いでもらいたいですよね」
「……アナタ、本当に良い子だわ……」
そう言って、笹野は美緒のデスクにチョコレートを置いた。
「アナタも、ちゃんと息抜きしなきゃダメよ?」
「はい! ……あっ、笹野さんこれ、新作のクッキーなんですけど。食べません?」
「これCMでやってたやつじゃない! 気になってたのよね、いただくわ」
総務部は笹野夫婦を筆頭に、主任に美緒を置いていた。笹野もそうだが、美緒も主任という立場にあり、この会社ではまだまだ少ない役職持ちの女性の一人である。悠斗はまだ入社五年目であったが、異例の大出世を果たし、二十代という若さでシステム部の課長を務めていた。もちろん、その有能さ、この役職も含めての『高嶺の花カップル』の称号である。
社長の息子であるがゆえの異例の大出世……というわけでは決してなく、その人柄、仕事ぶり、能力を踏まえての課長という役職である。何も知らない周りから見たら、悠斗が普通の人間であれば何かおかしいと、そう感じるかもしれないくらいの。
そう、悠斗は普通ではないのである。社長の息子という点がなかったとしても、悠斗は非常に有能な社員だった。その能力を埋もれさせないために、課長という役職が与えられた側面もある。そして、その役職に就いてもおかしくない人間だと、悠斗は周りから評価されていた。異例の大出世という言葉は、他の社員たちからの最大限の誉め言葉でもあった。
(はぁ……ちょっと疲れちゃったな。お手洗い行って休憩しよ……)
美緒は席を立つと、女子トイレへと向かった。手早く済ませた後、コーヒーを淹れるために給湯室へと向かう。
「……じゃ……?」
「よね! ……る……!」
(あ……先客かな?)
こういった時に、あまり人に話しかけることが得意ではない美緒は、給湯室の死角となる場所から女性たちがいなくなるのを黙って待つことにした。
(うぅ……できれば早くいなくなってほしい……。無言になっちゃうのも何だか気まずいし…)
「……ねぇねぇ、聞いた? システム部の櫻井さん、またお客さんからお仕事回してもらったんだって! 営業じゃないのにすごくない!?」
「えっ、そうなの!? 今初めて聞いたけど、マジですごいじゃん!」
(……あれ? ユウ君の話……)
さほど離れていない位置にいた美緒の耳に、悠斗の名前が届いた。
「見た目もイケメン、声もカッコイイし、仕事もできるって最高じゃない?」
「普段はちょっと怖いけどね。何か、無表情? だし。忙しそうなのが顔とオーラに出てる」
「わかるー! でも、そこが『できる男』って感じしない?」
「するする! あと二人きりの時にすごい優しいとか甘えてくるとか、ギャップありそうー!」
「それ私も思った! 『全然人に興味ありません』って顔しながら、実は『好きな人にはベタ甘です』みたいな!」
(わお……ユウ君、めちゃめちゃ人気あるな……?)
美緒は苦笑いする。悠斗がこう言われていることは何となく知っていたが、実際に他人から言われている場面に遭遇すると、何とも言えない気持ちになった。
「髪型は清潔感ある感じだし、身長も……どれくらいだろ? 百七十は絶対超えてるじゃん?」
「あると思う! 笑った顔見たことある?」
「え、ない! ……笑うの?」
「何それ失礼じゃない? でも、見たことないんだ。私見たんだけど、ちょっとクシャってなって、可愛い感じだった!」
「マジで羨ましいんですけど」
「眼福よ。スーツ着てるからわかんないけど、腕まくりしてる時、結構筋肉ついてるように見えない?」
「わかる! あれは細身だけど絶対筋肉ついてる」
「だよね? スーツも似合うしカッコイイ」
「たまについてる寝癖、可愛いよね」
「わかる!」
(すごい……よく見てるな……)
話を聞けば聞くほど、それは悠斗だった。身長は百七十六センチあるし、暗めのトーンの髪色で、長すぎず短すぎずといった髪型だ。細身ではあるものの筋肉は適度についており、普段は難しそうな顔をしているが、たまに見せる笑顔は子どもみたいに可愛い。寝坊した時の髪型の優先度は低いため、ピョコンと毛先が跳ねている時も確かにある。
「えー、私彼女になりたい」
「えっ、ずるい! 私も!」
「どんな人がタイプなんだろう?」
「聞いてみる? 話すきっかけにもなるし良くない?」
「良いかも!」
(うわー……ごめんなさい、嫁がここにいます…)
思わず心の中で謝ると、美緒はコーヒーを諦め、バレないように部屋に戻ろうとした。
「あれ、二人とも知らねぇの? 櫻井さん結婚してんよ?」
(もう一人いた!?)
今度は男性の声がする。どうやら、女性二人、男性一人で給湯室を利用していたらしい。
「えっウソ!」
「いやいや、ホント。総務部の櫻井さん」
「……そういえば……同じ苗字だな……とは思ってたけど……」
「櫻井さんって、毎月給与明細持ってきてくれる人だよね?」
「そうだよ。同じ大学で、最近結婚した」
「やだ、狙おうと思ってたのに!」
「私も……」
「盛り上がるくらいだから、知ってると思ったのになぁ。意外」
「だって……たまに見かけて良いなって思ってたレベルだし……」
「入社してまだ私たち三ヵ月だし?」
「いや、俺も三ヵ月だけど」
「それは、アンタがシステム部だから知ってるんでしょ? 私たち、どっちとも違う部署だし」
「そうそう」
「まぁ、それもそっか。とにかく、諦めたほうが良いんじゃね? どっちもファンクラブあるって噂だけど」
(そうなの!?)
驚いた美緒は思わず出そうになった声を抑え、固唾を飲んで給湯室の会話へ耳をすませた。
「女性社員の先輩に聞いてみたら? あー、奥さんのほうは男性社員に聞くほうが良いかな?」
「……確かに、奥さんのほうは可愛い人だなと思った」
「入社式で司会してたよね。可愛いし、凛としてるって言葉がピッタリだと思ったもん」
(ひぃあぁ……ありがとうございます……!)
思わぬ言葉に、美緒は耳が赤くなる。同じ女性に褒められることが、嬉しくも恥ずかしくもあったからだ。
「奥さん、同じ女性から見てもそんな感じ?」
「まぁねぇ。可愛らしい人だと思うよ。多分、メイクでちょっと大人っぽく見せてるけど、スッピンは幼いと思う」
「羨ましいよね、髪の毛サラサラだし、今の髪色も似合ってるし」
「目は大きいのに、他のパーツはちょっと小さくて、でも全然嫌味じゃないっていうか」
「あんな風に生まれたかった!」
「それね。隣にいると良い匂いするし」
「すれ違った時とかもわかるよね! 華奢だし守ってあげたくなる感じ。私も身長百六十センチあるけど、気持ち目線下な気がする」
「あー、普段そうだよね、女の子らしいというか。入社式の時はスーツだったから、お姉さんっぽかったけど、シャツと柄物スカートだとイメージまた変わる」
美緒は思わず今着ている服を見た。大きな花柄の膝丈フレアスカートに、フリルとリボンタイのついたブラウス。髪色は最近染め直して暗めの落ち着いた色味にし、背中まである長さを生かして毛先もゆるゆるとカールさせた。少し下半身にお肉がついてきた気もするが、できるだけ学生時代の体重をキープできるようにも頑張っている。これだけ容姿を褒められると、面と向かって言われたわけでなくとも、恥ずかしさが強くなった。
「俺だってあわよくば奥さんのほうと食事とか行ってみたい」
「仲間かよ」
「ウケる」
「仕事できて、可愛くて役職持ちで……それで人当たりまで良いとか、そりゃ彼女にしたいじゃん? 年上お姉様とか最高」
「いやでも結婚してんでしょ?」
「じゃあ彼女は無理じゃん」
「結構ねぇ……結婚してても良いっていう人多いんだよねぇ……」
「ヤバいやつ!」
「ほんとそれ」
「ウチらによく『諦めたほうが良いんじゃね?』なんて言えたよね」
「そっちのがよっぽどだよ」
「何だよ、思うくらい良いだろ?」
予想外の方向に話が進んでいき、慌てて美緒は止めていた足を動かすと、早足で部屋へと戻っていった。
(えっそうなの? 結婚してる人に対して、みんなそんなこと考えたりするの?)
異性の社員に誘われることが多いとは、自分でも思っていた。だが、その中に『結婚していても良い』と思っている人がいるとは、考えていなかったのだ。あの男性社員の言う『結婚していても良い』は、おそらく『不倫になっても良い』『結婚していても付き合いたい』『あわよくば身体の関係だけでも』という意味合いが含まれているのだろう。
(……女の子たちも一緒なの……? え、ウソ……。ユウ君、この話知ってるのかな……)
そう考えると、キュッと胸が締め付けられる。今まで考えていなかったことが、急に自分に対して牙を剥いたような気がして。
部屋に入る前に表情を作ると、美緒は残りの仕事を終わらせるべく、気を引き締めながらデスクへと向かった。
「……櫻井さん? 怖い顔してるわよ?」
「え。そ、そうですか?」
「うん、とっても。何だか難しい顔してる」
「そう……ですかね」
「そうよ。だって、眉間に皺寄っているし」
「えっ」
笹野のその言葉に、美緒は思わず指で眉間を擦った。
「あはは、あのね、旦那君もそういう顔してる時あるわよ」
「ゆう……夫がですか?」
「たまにシステム部行く時に、パソコンに向かってる旦那君が目に入るのよ、入口のすぐ近くの席だしね。何かこう、パソコンとにらめっこしてるみたい」
「あっ……でも、確かに大学時代も授業中、ノート取りながら眉間に皺寄せてたかも……」
「そこが怖そうとか、オーラがどうのとか言われるのよね。人当たり良いのにね」
「……そっか、怖く見えるんだ……」
「特に、後輩から見るとそうらしいわよ」
「それは……ちょっと聞いた気がします……」
(そう、まさについさっき聞いたばかりだよ……)
心の中でそう呟くと、美緒は笹野にもらったチョコレートを一つ頬張った。
「それでも、人気よねぇ」
「夫ですか?」
「そうそう。まぁ、アナタもだから夫婦揃ってね」
「や、やめてください……」
「結婚するって知った人がどれくらい落胆したか知ってる?」
「し、知らないですよぉ……」
「ふふふ。まぁ、そういうことは、知らないほうが良いかもしれないわね。大丈夫よ、ほとんどの人が『ハイスペック同士すぎる!』って諦めたから」
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「そんな次元の違うお話みたいな言い方……」
「……櫻井さん、アナタ、自分で思ってるよりもずっとファンが多いのよ?」
「ファン……」
「そう、ファン」
「何だかそんな、アイドルみたいに……」
「ほぼアイドルよ? 男性社員なんか、みーんな陰で『美緒ちゃん』って呼んでるんだから。そんなに呼びたいなら、直接呼べば良いのにね? 勇気がないんだからまったく」
ニコニコと笑いながら話すのが逆に怖い。美緒はそう思ったが、口には出さずにまだ残っていたチョコレートを一口で食べ切ると、その言葉と一緒に飲み込んだ。
定時になり、時間を知らせるチャイムが会社中に鳴り響く。
「お疲れ様でした!」
「お疲れ様、また来週ね」
「はい!」
「良い週末を」
「笹野さんも」
「私は仕事が終わったら、旦那とデートなの」
「えっ、良いですね!」
「アナタたちもお互い忙しいかもしれないけど、たまにはお勧めよ」
そういえば、普段は単色でシンプルなネイルをしている笹野が、今日はラメやストーンのついたネイルをしてきていることに気が付いて、美緒は少し羨ましく感じていた。
確かに言われてみればわかる。今日はいつものストレートヘアじゃない。……きっと、デートのために朝巻いてきたのだろう。それに、今まで気にならなかったが、いつもと違う香りがしている。
普段は爽やかな柑橘系の香りなのだが、今日は甘酸っぱいベリー系の香りがしていた。鼻をくすぐるこの香りに、今更ながら胸がキュンとする。好き嫌いはあるだろうが、きっと万人受けする香りだろう。同じ女性でこれなのだ、おそらく男性であったら、もっと胸にくるものがあるだろう。
ニッコリと笑ってヒラヒラと手を振る笹野に小さく頭を下げると、美緒は会社を後にした。
(今日は週末だからなぁ。何か美味しいものが食べたいよね。『一週間お疲れさまでした!』みたいな、さ……)
さほど人通りも多くない道を、美緒は考え事をしながら歩く。平日、悠斗の帰りは遅い。だから、家事は美緒が一手に担っていた。代わりに悠斗は休日の家事を担当しており、現状これで上手く回っていて特に不満もなかった。
(とはいえ、たまにはやっぱり外食とかお惣菜も良いよねぇ)
美緒は家に帰る前にスーパーへ寄ると、今日の晩御飯のメニューを考えながら買い物のカートを押した。この時間のスーパーは人が多く、レジも混雑している。美緒のように仕事帰りに食材や総菜を買っていく人間が多いからだろう。
「あぁーっと、お醤油切らしてた気がする……ソースのメインだもんね、買わなきゃ。……あっ! やった! 今日ステーキ肉安いじゃん!」
美緒はステーキ肉を二枚手に取ると、カートの中に入れた。以前、一度和風ソースのステーキを作っており、悠斗も気に入った味だ。今回、それをまた作るつもりでいる。
(ユウ君、喜んでくれるかな? へへ……)
――美緒の考えの中心は、悠斗でできている。
周囲は皆、悠斗と美緒が大学の同窓生であったことは知っていた。が、実は高校から同級生だったのだ。当時から、美緒は悠斗のことが好きだった。美緒がどちらかといえば目立たないキャラで、比較的おとなしい女の子が集まったグループに所属していたのに対し、悠斗は反対に放課後男女そろって遊びに行き、制服も着崩しているようなグループに属していた。
その中で明らかな派手さはなかったが、整った顔立ちで成績も良く、誰にでも分け隔てなく接する悠斗は、美緒の中でひときわ輝いて見えていた。……その時のことを、今でも美緒は覚えていた。だからこそ、同じ大学に進むとわかったとき、美緒は悠斗に振り向いてもらえるように、気が付いてもらえるようにと、いわゆる『大学デビュー』を果たしていた。
元々可愛らしい顔立ちで、地味なほうとはいえ人当たりも良かった美緒は、多くの友人に囲まれながら、楽しくも忙しい日々を過ごしていた。そんな中、ずっと想っていた悠斗と偶然同じ授業を取ったことから、二人の運命の歯車が音を立てて動き始めた。
友人としての時間を育み、時に衝突もし、悩みを抱えながら、美緒からの告白で付き合い始めた二人は、無事数年の恋人期間を経て、この度結婚という大きな節目へとゴールインしたのだ。
美緒は、周囲が思うよりも、悠斗が考えるよりも、ずっとずっと悠斗のことが好きだと自負していた。どちらかと言えばクールで感情の起伏が少ない悠斗は、あまり愛情表現を表には出さない。結婚を決めたのだからお互い好き合っているとはわかっているものの、時々不安になることもあった。
普段、外でデートする時に手を繋ぐのは美緒からで、家にいる時に近くへ寄っていくのも美緒、恥ずかしいと思いつつも、抱き締めに行くのも、キスをねだるのも美緒からなのだ。
たまには必要としてほしい。愛されている実感が欲しい――そう思いはするものの、口に出すことは憚られていた。もし、普段の温度差が本心から来ていたりしたら……? そんな不安が心の中にあるからである。自分から付き合ってほしいと言った手前、惚れた弱みがあると美緒は思っていた。……例えその後、悠斗のほうからプロポーズを受けていたとしても。
そう思いつつ、悠斗から美緒を求めることもあった。よく気が付く悠斗は美緒の変化に気付くのも早く、美緒の反応を楽しむように、揶揄いながら褒めることも多々あったのだ。当然、スキンシップをしたりすることも。ただ、それが美緒の求めている表現ではないというだけで。
――大好きな人と結婚することができただけで幸せ。
多くを望まないよう、心のどこかでブレーキを掛ける美緒は、それでも悠斗のためにと今日も悠斗のことを一番に考えながら過ごしていた。
(ユウ君イチゴ好きだし、今日のデザートはイチゴにしようかな? ……わぁ……久しぶりにお酒コーナー来たけど、このみかんのお酒、濃厚で美味しそう……)
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