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Ⅲ 誓約
17. 狂気の再来(1)
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魔王の申し出を受け入れることを決意した、その夜。
レイは落ち着かない気持ちで、魔王を待っていた。
(遅いな……)
もうとっくに、夜半を過ぎている。
(何か、あったんだろうか……)
怒り狂って騒動を起こし、事態の収拾に苦労しているのでは、と、ふと思ったが、
(まさかな。王宮に迷い込んだ熊でもあるまいし……)
と、魔王と熊を重ねた自分の想像に笑ってしまった。
「ふあああ……」
大きなあくびを一つして、レイは寝台に寝転がった。
緊張が緩むと、睡魔が襲ってくる。
ウトウトし始めたとき、魔王の気配を感じ、レイはがばっと身を起こした。
「魔王……」
寝室の扉が開き、魔王が姿を見せた。
レイはホッとした。
魔王の表情は硬いものの、今朝のあの、空気を切り裂くような怒りは感じられなかった。
「魔王……あのな……俺……」
「レイ、みやげだ」
レイの言葉を遮り、魔王は手に持っていた包みをレイに手渡した。それはほんのりと温かく、香ばしい匂いを漂わせている。食欲をそそるその匂いを、レイはよく知っていた。
「!! これっ……」
レイは慌てて包みを開け、中身を確認した。
「ロワンの……揚げパン……! なんでっ……」
人間界のラルカの街で、宿屋を営むロワンの自慢のパンが、なぜこの魔界で手に入るのか――温かい、揚げたての状態で。
驚愕に目を見張るレイに向かって、魔王は笑みを浮かべた。
その微笑みに何か酷薄なものを感じ、レイは身震いした。
「おい……魔王……どういうことだよ……」
「おまえの好物だ……そうだろう? ……あの料理人は気立てが良いな。夜中に無理を言ったが、頼めば快く揚げてくれた。――王宮の、厨房で」
「!! 何でっ……何でロワンが、ここにいるんだよ!」
そう叫んだ直後に、ひゅっとレイが息を呑む。
揚げパンの入った包みを投げ出し、レイは魔王の胸倉を両手で掴んだ。
「何をした! ロワンに、何をしたんだ! 脅して、攫ってきたのか! 彼に暴力をふるったのか!」
魔王はレイの両手首を強く掴み、身をかがめて顔を近づけた。
「落ち着け。……彼らは皆無事だ。心身ともに健康で、何一つ傷は負っていない。王宮内の客室で、一介の料理人とは思えぬ待遇を受けている」
「彼ら!? 彼らって……まさか、おかみさんも……子供も、攫ってきたのか!?」
ロワンには育ち盛りの子供が二人いる。レイはそれを思い出して、体を強張らせた。
しかし魔王はレイの質問には答えず、妙に優しい声で囁いた。
「おまえは何か……誤解しているようだな。彼らは私に招待され、自らの意思で来た。……レイ、魔界の料理は口に合わぬのだろう? 彼の料理なら、おまえの気に入ると思ってな」
レイは魔王の拘束から逃れようと、激しく身をよじり、膝で魔王の急所を蹴り上げようとした。しかし狙いは見事に逸れ、レイの足は突然力を失った。倒れかけたレイの体を、即座に魔王が抱きとめる。
「精霊たち! レイに手を出すな!」
魔王の怒声が飛び、レイの足に力が戻ってくる。
一瞬の隙を捉え魔王の腕を振り解いたレイは、素早く呪文を唱えると内庭へと瞬間的に移動した。
やがて魔王が内庭へと辿り着いた頃には、レイはその身の周辺に強力な結界を張り、魔王を待ち構えていた。
完成された高度な結界は、他者がその外殻への距離を縮めることすら拒絶し、仙界生まれと思われる複雑な構造が、解呪の可能性をことごとく否定していた。
「見事な結界だな、レイ……ほれぼれする」
この緊迫した現状を前にのんきな感想をよこす魔王を、レイは怒りに燃えた目で睨み付けた。
「サライヤと話がしたい。彼女には悪いが、今すぐここへ連れて来てくれ」
レイは真実が知りたかった。――ロワンたちが、本当に無事なのか。
魔王の話は信用できない。あのロワンが――何よりもあの宿「踊るイルカ亭」を愛し、ラルカの街を、あの暮らしを、常連客たちを愛しているロワンが、たとえ一時でも宿を閉め、魔界に喜んで来るとは思えなかった。
サライヤなら、レイに真実を教えてくれるだろう。彼女だけが、頼みの綱だった。
しかし魔王の次の言葉が、レイを凍りつかせる。
「サライヤか……。あれは病で臥せっている。当分寝床から起き上がれぬだろう」
「!!」
唯一の道がすでに塞がれていたことを知り、レイは愕然とした。
(……そうか……はじめから魔王は……俺がどう動くか計算済みというわけか……)
――希望が音を立てて崩れ、足元に堆積してゆく……その感覚を、レイはどこか他人事のように、白けた気持ちで遠くから見つめていた。
ロワンたちの安否、サライヤの容態、事の真偽、そして、王妃となる決意を固めたこと……それらがぐるぐると頭の中を駆け巡り、レイを出口のない迷路へと追い込んでゆく。
頭が割れるように痛み、早鐘を打つ鼓動が苦しい。
奇声を放って目の前の男から逃げ出したくなったが、退路さえ絶たれている。
レイはグッとこぶしを固めると、自分を鼓舞した。
(しっかりしろ! まずはロワンたちだ! 彼らの安全が最優先だ。混乱してる余裕はないぞ。冷静になれ……)
一人でも、この局面に立ち向かわねばならない。
レイは大きく息を吸い込むと、鋭い視線を魔王に向けた。
「魔王、ロワンたちを解放しろ。彼らは関係ない。すぐに、ラルカの街に帰してくれ。魔界の料理を食えというなら、いくらでも食ってやる。俺のために誰にも……手を出すな」
レイの口調は静かだったが、目の奥には、今にも燃え上がりそうな怒りを忍ばせていた。
その視線を悠然と受け止め、魔王は口元に微笑を浮かべた。
「いいとも……レイ。誰にも手は出さぬ。私が欲しいのは、おまえ一人……おまえだけが、欲しいのだ。……私の妃になると、誓ってくれるな?」
じり、とレイの方へ近づいた魔王は、結界の発する余波にはじかれて、後退を余儀なくされた。
「さあ、レイ……その結界を解いて、こちらへ来い」
「断る。ロワンたちの無事を確認するまで、あんたには触れさせない」
その刹那、魔王の表情が一変し、内庭の置物や植木鉢が次々と砕け、植物が枯れ落ちた。
レイは落ち着かない気持ちで、魔王を待っていた。
(遅いな……)
もうとっくに、夜半を過ぎている。
(何か、あったんだろうか……)
怒り狂って騒動を起こし、事態の収拾に苦労しているのでは、と、ふと思ったが、
(まさかな。王宮に迷い込んだ熊でもあるまいし……)
と、魔王と熊を重ねた自分の想像に笑ってしまった。
「ふあああ……」
大きなあくびを一つして、レイは寝台に寝転がった。
緊張が緩むと、睡魔が襲ってくる。
ウトウトし始めたとき、魔王の気配を感じ、レイはがばっと身を起こした。
「魔王……」
寝室の扉が開き、魔王が姿を見せた。
レイはホッとした。
魔王の表情は硬いものの、今朝のあの、空気を切り裂くような怒りは感じられなかった。
「魔王……あのな……俺……」
「レイ、みやげだ」
レイの言葉を遮り、魔王は手に持っていた包みをレイに手渡した。それはほんのりと温かく、香ばしい匂いを漂わせている。食欲をそそるその匂いを、レイはよく知っていた。
「!! これっ……」
レイは慌てて包みを開け、中身を確認した。
「ロワンの……揚げパン……! なんでっ……」
人間界のラルカの街で、宿屋を営むロワンの自慢のパンが、なぜこの魔界で手に入るのか――温かい、揚げたての状態で。
驚愕に目を見張るレイに向かって、魔王は笑みを浮かべた。
その微笑みに何か酷薄なものを感じ、レイは身震いした。
「おい……魔王……どういうことだよ……」
「おまえの好物だ……そうだろう? ……あの料理人は気立てが良いな。夜中に無理を言ったが、頼めば快く揚げてくれた。――王宮の、厨房で」
「!! 何でっ……何でロワンが、ここにいるんだよ!」
そう叫んだ直後に、ひゅっとレイが息を呑む。
揚げパンの入った包みを投げ出し、レイは魔王の胸倉を両手で掴んだ。
「何をした! ロワンに、何をしたんだ! 脅して、攫ってきたのか! 彼に暴力をふるったのか!」
魔王はレイの両手首を強く掴み、身をかがめて顔を近づけた。
「落ち着け。……彼らは皆無事だ。心身ともに健康で、何一つ傷は負っていない。王宮内の客室で、一介の料理人とは思えぬ待遇を受けている」
「彼ら!? 彼らって……まさか、おかみさんも……子供も、攫ってきたのか!?」
ロワンには育ち盛りの子供が二人いる。レイはそれを思い出して、体を強張らせた。
しかし魔王はレイの質問には答えず、妙に優しい声で囁いた。
「おまえは何か……誤解しているようだな。彼らは私に招待され、自らの意思で来た。……レイ、魔界の料理は口に合わぬのだろう? 彼の料理なら、おまえの気に入ると思ってな」
レイは魔王の拘束から逃れようと、激しく身をよじり、膝で魔王の急所を蹴り上げようとした。しかし狙いは見事に逸れ、レイの足は突然力を失った。倒れかけたレイの体を、即座に魔王が抱きとめる。
「精霊たち! レイに手を出すな!」
魔王の怒声が飛び、レイの足に力が戻ってくる。
一瞬の隙を捉え魔王の腕を振り解いたレイは、素早く呪文を唱えると内庭へと瞬間的に移動した。
やがて魔王が内庭へと辿り着いた頃には、レイはその身の周辺に強力な結界を張り、魔王を待ち構えていた。
完成された高度な結界は、他者がその外殻への距離を縮めることすら拒絶し、仙界生まれと思われる複雑な構造が、解呪の可能性をことごとく否定していた。
「見事な結界だな、レイ……ほれぼれする」
この緊迫した現状を前にのんきな感想をよこす魔王を、レイは怒りに燃えた目で睨み付けた。
「サライヤと話がしたい。彼女には悪いが、今すぐここへ連れて来てくれ」
レイは真実が知りたかった。――ロワンたちが、本当に無事なのか。
魔王の話は信用できない。あのロワンが――何よりもあの宿「踊るイルカ亭」を愛し、ラルカの街を、あの暮らしを、常連客たちを愛しているロワンが、たとえ一時でも宿を閉め、魔界に喜んで来るとは思えなかった。
サライヤなら、レイに真実を教えてくれるだろう。彼女だけが、頼みの綱だった。
しかし魔王の次の言葉が、レイを凍りつかせる。
「サライヤか……。あれは病で臥せっている。当分寝床から起き上がれぬだろう」
「!!」
唯一の道がすでに塞がれていたことを知り、レイは愕然とした。
(……そうか……はじめから魔王は……俺がどう動くか計算済みというわけか……)
――希望が音を立てて崩れ、足元に堆積してゆく……その感覚を、レイはどこか他人事のように、白けた気持ちで遠くから見つめていた。
ロワンたちの安否、サライヤの容態、事の真偽、そして、王妃となる決意を固めたこと……それらがぐるぐると頭の中を駆け巡り、レイを出口のない迷路へと追い込んでゆく。
頭が割れるように痛み、早鐘を打つ鼓動が苦しい。
奇声を放って目の前の男から逃げ出したくなったが、退路さえ絶たれている。
レイはグッとこぶしを固めると、自分を鼓舞した。
(しっかりしろ! まずはロワンたちだ! 彼らの安全が最優先だ。混乱してる余裕はないぞ。冷静になれ……)
一人でも、この局面に立ち向かわねばならない。
レイは大きく息を吸い込むと、鋭い視線を魔王に向けた。
「魔王、ロワンたちを解放しろ。彼らは関係ない。すぐに、ラルカの街に帰してくれ。魔界の料理を食えというなら、いくらでも食ってやる。俺のために誰にも……手を出すな」
レイの口調は静かだったが、目の奥には、今にも燃え上がりそうな怒りを忍ばせていた。
その視線を悠然と受け止め、魔王は口元に微笑を浮かべた。
「いいとも……レイ。誰にも手は出さぬ。私が欲しいのは、おまえ一人……おまえだけが、欲しいのだ。……私の妃になると、誓ってくれるな?」
じり、とレイの方へ近づいた魔王は、結界の発する余波にはじかれて、後退を余儀なくされた。
「さあ、レイ……その結界を解いて、こちらへ来い」
「断る。ロワンたちの無事を確認するまで、あんたには触れさせない」
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