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Ⅲ 誓約
2. サライヤの来訪(2)
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ほどなくシルファが、茶の仕度を整え、レイは林檎のパイを堪能した。甘く柔らかな林檎の果肉と、サクサクとしたパイ生地が、絶妙の調和を奏で、口の中でとろけてゆく。サライヤの作るカスタードクリームには独特の風味があり、それがまた林檎に程よく絡まってうまかった。
口の中に広がる至福に、レイは夢中になって切り分けられたパイを頬張った。2個、3個と続き、4個目を皿に乗せようかと躊躇していると、
「どうぞ、たくさん召し上がって。レイ様のために焼いてきたんですもの」
とサライヤがにっこり微笑んだ。
その言葉に4個目を皿に乗せたレイは、思わず呟いた。
「もし兄さんがこれを見たら、叱られるな。甘いものの食べ過ぎは体に良くないって、いつも俺……」
兄のことを思い出した途端、忘れていた焦燥感が胸に甦り、レイは息を詰まらせた。
その気持ちを感じ取り、サライヤもまた、表情を曇らせる。
「レイ様のお兄様は、わたくしたちとの交流のことを、ご存知なのですか……?」
「いや……兄さんは、何も知らない。俺は誰にも何も……話していないんだ。人間界の何でも屋の俺が、魔界の王族と知り合いだなんてさ……誰も信じないだろ。俺だって意外に思ってるくらいだし……。……もし、このことを知ったら……兄さんは……」
レイはぶるっと身を震わせた。
魔界の王宮の一角で、レイが閉じ込められていると知れば、弟を溺愛している兄――フリューイは、死にもの狂いで助けに来るに違いない。しかしそれこそが、レイの最も危惧する事態であった。
仙界人と魔族は、水と油のように、相容れない。古いおとぎ話で語られるように、魔族の中には未だに仙界人に対して、魔界を出奔した賤民と、蔑視する風潮も見られる。
魔族と仙界人の外見には共通点があるが、仙界人特有の雰囲気は、魔族とは一線を画している。フリューイがもし魔界に入れば、魔族は彼を奇異な目で見て、阻害しようとするだろう。いくらフリューイが魔導術に秀で、屈強であっても、何の伝手もないまま魔界に入って無事にすむとは思えなかった。
「サライヤ、手を貸してくれないか。俺はあと1ヶ月程で、家に帰りつく予定になっている。俺はそれまでに、ここから出て家に帰りたい。頼む……俺を助けてくれ」
必死の懇願に、サライヤもまた、真剣な眼差しでレイを見つめた。
「レイ様、わたくしもあなたをお救いしたいと思っております。兄のしたことは許されない非道な行い。……妹として、恥ずかしく思います。……ですが……わたくしは兄と、約束をしたのです」
「約束?」
「はい……。わたくしは兄の申し出を受け、いくつかの条件と引き換えに、30日間の猶予を差し上げました」
「30日……? つまりサライヤは、魔王が俺をここに30日間留め置くことを、承諾したということか?」
「はい……そうです」
サライヤが申し訳なさそうに、目を伏せる。
レイは戸惑ってサライヤを見つめた。
「どうして……30日も?」
「それは……」
サライヤは言い淀んだ。
30日必要なのは、<神聖な誓い>を成就させるためだが、それをレイに告げることはできない。サライヤはレイに<神聖な誓い>に関して告げることを、魔王から口止めされていた。
レイは魔族のしきたりに関して疎く、<神聖な誓い>についても何も知らない。魔王はそのレイの無知を利用して、<神聖な誓い>を成就させようとしていた。それというのも、<神聖な誓い>には、血の交換が必要不可欠になるからだ。レイの同意を得られていない今、そのことを告げれば、レイは吸血行為への不快感から<神聖な誓い>を、ひいては魔王そのものを、ますます拒絶するだろう。
サライヤは言葉を探して束の間目線をさまよわせ、歯切れの悪い口調で返答した。
「それは……それだけあれば、充分だと思ったからでしょう。……30日間というのは、兄の申し出なのです」
レイはサライヤが何かを隠しているのを感じ取ったが、追及はしなかった。彼女から、苦渋に満ちた感情が波のように押し寄せてきたため、サライヤを追い詰めるのを憚られたために。
(多分、魔王に何か、口止めされているんだ……)
サライヤの心中を推し量り、レイは次の疑問を口にした。
「さっき君の言ってた、いくつかの条件って、何なんだ?」
サライヤは話題が変わったことにホッとして、詰めていた息を吐き出した。この質問に答えるのは、たやすい。
「条件は、封印扉の解呪方法を変更しないこと、いつでもレイ様と面会する権利を、わたくしに授けることです。もし……猶予期間に何かレイ様の身に危険が及べば、わたくしは兄との約束を、即刻反故にする覚悟でございます。
……ですが、レイ様。レイ様は、兄の運命のお方と伺っております。それが兄の虚言だとは、わたくしにはとても思えませんでした。もしお二人が運命の絆で結ばれているのなら、今引き離すのは、とんでもない悪行だと……わたくしはそう思い、兄の申し出を、受けたのです」
――またか、とレイは思った。
『運命の相手』――魔王もその言葉を口にしていた。
『レイ、おまえは私の運命の相手だ。紛れもなく。おまえの額瞳は、真実をおまえに告げた。後は魂に従うだけだ』
魔王にそう告げられたときの動揺が甦り、レイは顔が火照り、心臓が踊り出すのを感じた。
――そういえば、初めて抱かれたときも、魔王はしきりに運命がどうとか言っていた。
「いったい……何なんだ、その運命の絆って……どうしてそんなに、それにこだわるんだ?」
紫水晶のようなサライヤの双眸が、驚きに見開かれた。
「ご存知ないのですか? 兄は……何も説明を?」
「詳しくは何も……。魔王はしきりに運命がどうのと言っていたけど……よく覚えていないんだ。……教えてくれ、サライヤ。運命の相手って……何なんだ?」
口の中に広がる至福に、レイは夢中になって切り分けられたパイを頬張った。2個、3個と続き、4個目を皿に乗せようかと躊躇していると、
「どうぞ、たくさん召し上がって。レイ様のために焼いてきたんですもの」
とサライヤがにっこり微笑んだ。
その言葉に4個目を皿に乗せたレイは、思わず呟いた。
「もし兄さんがこれを見たら、叱られるな。甘いものの食べ過ぎは体に良くないって、いつも俺……」
兄のことを思い出した途端、忘れていた焦燥感が胸に甦り、レイは息を詰まらせた。
その気持ちを感じ取り、サライヤもまた、表情を曇らせる。
「レイ様のお兄様は、わたくしたちとの交流のことを、ご存知なのですか……?」
「いや……兄さんは、何も知らない。俺は誰にも何も……話していないんだ。人間界の何でも屋の俺が、魔界の王族と知り合いだなんてさ……誰も信じないだろ。俺だって意外に思ってるくらいだし……。……もし、このことを知ったら……兄さんは……」
レイはぶるっと身を震わせた。
魔界の王宮の一角で、レイが閉じ込められていると知れば、弟を溺愛している兄――フリューイは、死にもの狂いで助けに来るに違いない。しかしそれこそが、レイの最も危惧する事態であった。
仙界人と魔族は、水と油のように、相容れない。古いおとぎ話で語られるように、魔族の中には未だに仙界人に対して、魔界を出奔した賤民と、蔑視する風潮も見られる。
魔族と仙界人の外見には共通点があるが、仙界人特有の雰囲気は、魔族とは一線を画している。フリューイがもし魔界に入れば、魔族は彼を奇異な目で見て、阻害しようとするだろう。いくらフリューイが魔導術に秀で、屈強であっても、何の伝手もないまま魔界に入って無事にすむとは思えなかった。
「サライヤ、手を貸してくれないか。俺はあと1ヶ月程で、家に帰りつく予定になっている。俺はそれまでに、ここから出て家に帰りたい。頼む……俺を助けてくれ」
必死の懇願に、サライヤもまた、真剣な眼差しでレイを見つめた。
「レイ様、わたくしもあなたをお救いしたいと思っております。兄のしたことは許されない非道な行い。……妹として、恥ずかしく思います。……ですが……わたくしは兄と、約束をしたのです」
「約束?」
「はい……。わたくしは兄の申し出を受け、いくつかの条件と引き換えに、30日間の猶予を差し上げました」
「30日……? つまりサライヤは、魔王が俺をここに30日間留め置くことを、承諾したということか?」
「はい……そうです」
サライヤが申し訳なさそうに、目を伏せる。
レイは戸惑ってサライヤを見つめた。
「どうして……30日も?」
「それは……」
サライヤは言い淀んだ。
30日必要なのは、<神聖な誓い>を成就させるためだが、それをレイに告げることはできない。サライヤはレイに<神聖な誓い>に関して告げることを、魔王から口止めされていた。
レイは魔族のしきたりに関して疎く、<神聖な誓い>についても何も知らない。魔王はそのレイの無知を利用して、<神聖な誓い>を成就させようとしていた。それというのも、<神聖な誓い>には、血の交換が必要不可欠になるからだ。レイの同意を得られていない今、そのことを告げれば、レイは吸血行為への不快感から<神聖な誓い>を、ひいては魔王そのものを、ますます拒絶するだろう。
サライヤは言葉を探して束の間目線をさまよわせ、歯切れの悪い口調で返答した。
「それは……それだけあれば、充分だと思ったからでしょう。……30日間というのは、兄の申し出なのです」
レイはサライヤが何かを隠しているのを感じ取ったが、追及はしなかった。彼女から、苦渋に満ちた感情が波のように押し寄せてきたため、サライヤを追い詰めるのを憚られたために。
(多分、魔王に何か、口止めされているんだ……)
サライヤの心中を推し量り、レイは次の疑問を口にした。
「さっき君の言ってた、いくつかの条件って、何なんだ?」
サライヤは話題が変わったことにホッとして、詰めていた息を吐き出した。この質問に答えるのは、たやすい。
「条件は、封印扉の解呪方法を変更しないこと、いつでもレイ様と面会する権利を、わたくしに授けることです。もし……猶予期間に何かレイ様の身に危険が及べば、わたくしは兄との約束を、即刻反故にする覚悟でございます。
……ですが、レイ様。レイ様は、兄の運命のお方と伺っております。それが兄の虚言だとは、わたくしにはとても思えませんでした。もしお二人が運命の絆で結ばれているのなら、今引き離すのは、とんでもない悪行だと……わたくしはそう思い、兄の申し出を、受けたのです」
――またか、とレイは思った。
『運命の相手』――魔王もその言葉を口にしていた。
『レイ、おまえは私の運命の相手だ。紛れもなく。おまえの額瞳は、真実をおまえに告げた。後は魂に従うだけだ』
魔王にそう告げられたときの動揺が甦り、レイは顔が火照り、心臓が踊り出すのを感じた。
――そういえば、初めて抱かれたときも、魔王はしきりに運命がどうとか言っていた。
「いったい……何なんだ、その運命の絆って……どうしてそんなに、それにこだわるんだ?」
紫水晶のようなサライヤの双眸が、驚きに見開かれた。
「ご存知ないのですか? 兄は……何も説明を?」
「詳しくは何も……。魔王はしきりに運命がどうのと言っていたけど……よく覚えていないんだ。……教えてくれ、サライヤ。運命の相手って……何なんだ?」
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