虹の月 貝殻の雲

たいよう一花

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Ⅲ 誓約

1. サライヤの来訪(1)

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サライヤの行動は、早かった。
魔王が朝早く帰ったその日の夕方には、彼女は<最果ての間>に姿を見せた。
居間で魔導術の詠唱訓練をしていたレイは、突然現れたサライヤに驚きながらも、ぎこちない笑顔を見せた。

「サライヤ! ………よく、来てくれた。ええと、あ、こっちに、座るといい……。シルファ、サライヤにお茶を……」

しかしサライヤは、戸口で立ち尽くしたまま、唇を引き結び、カタカタと震えている。

「ど……どうしたんだ、サライヤ? 具合でも悪いのか?」

「レ……レイ様……レイ様……」

ぶわっと涙を流し、サライヤはいきなり床に膝を付いてうなだれた。手に持っていた籐製の籠が、傍に投げ出される。

「申し訳……ございません! レイ様! 兄がっ……兄があなたに……ひどいことを……! レイ様、申し訳ございません!」

しゃくりあげて大声を上げながら、優雅な姫君は大胆に感情を爆発させていた。
レイはそこら中につまずきながら、慌ててサライヤの傍に走り寄ると、彼女の肩を抱えておこし、柔らかい長椅子に座らせた。

「頼むから、泣かないでくれ、サライヤ。君のせいじゃない。君は何にも悪くない」

「いいえ、いいえ! わたくしのせいですわ! 兄を止めることができなかった、わたくしの落ち度です!」

「サライヤ、もうそれは過去のことだ。君にも、俺にも、魔王を止められなかったし、もし止められたとしても、過ぎ去ったことは今更どうしようもない」

レイはしゃくりあげて泣いているサライヤの背中をさすりながら、静かな口調で話し続けた。

「……それより、これからのことを考えよう。俺はまだ生きているし、割と元気だ。な? 大丈夫、何とかなる」

――まだ、生きている。

その言葉に、サライヤはピクリと反応した。
その命を、一度失くしかけたのだ。
焦りと恐怖で発狂しそうなあの凄惨な夜を思い出し、サライヤはまた、火が点いたように泣き出した。

レイはもう、何も言わなかった。
サライヤの頭を抱き寄せ、その背中をさすりながら、涙が涸れるまで、泣くにまかせた。今のサライヤには、泣くことが何より必要なのだと思いながら。
 
しばらくして、やっと落ち着きを取り戻したサライヤは、涙を拭くと恥ずかしそうに俯いた。

「思いのほか、取り乱してしまい、失礼致しました……」

「失礼なんてこと、まったくないさ。美女にすがり付かれるなんて、役得だ」

「まっ……レイ様、相変わらずお上手ですこと」

ぎこちなく微笑んだサライヤに、レイが笑顔を返す。
レイのその面差しに、サライヤは胸を痛めた。人懐っこい笑顔に変わりはないが、以前より頬はこけ、肌は青白く、明らかにやつれている。いつも瑞々しい生気に溢れていた面影が、今は精彩に欠け、頼りなげにくすんで見えた。

「……あまり、お食事を召し上がっていないとお伺いしました。わたくし、今日は良いものをお持ちしたのです……あら、どこへ置いたかしら……」

その言葉に、傍で控えていたシルファが、籐製の籠をうやうやしく差し出した。

「あら、……私ったら、放り出してしまったのね。蓋付きの籠にして良かったわ。拾ってくれて、ありがとう、お人形さん。……久しぶりね。わたくしのこと、覚えていて? あのときはまだ、子供だった……」

シルファはにっこりと微笑んだ。

「はい、サライヤ様。覚えております。お懐かしゅうございます」

レイが驚いて二人を見つめる。

「二人は知り合いなのか?」

「ええ、実は……」

サライヤは昔、母が弟のガラハを出産するために、この<最果ての間>に籠もっていたことを簡単に説明した。シルファにはそのとき、世話になったと。
この<最果ての間>を亡き前王妃が使っていたと聞いて、レイは驚きをあらわにした。

「でもここって……ていのいい牢屋だろう? 君のお母さんは……閉じ込められて、出産したのか? なんでそんな、酷いことを……」

「いいえ、レイ様。違うのです。母は自ら望んで、ここに籠ったのです。<最果ての間>は、外部から遮断されて守られていますから。弟を身ごもったとき、母はとても不安定で……他にも複雑な事情があり、外部から切り離す必要がありました。この<最果ての間>は、大抵は、誰かを守るために使われてきたのです」

「そうなのか……俺はてっきり、ここは牢屋の豪華版だと……」

「そうお思いになるのも、無理のないことです。兄はあなたを……」

続きは言葉にならず、サライヤは俯いた。そして思い直したように笑顔になると、籐の籠の蓋を開け、中身を取り出した。

「あっ……!」

レイは思わず声を上げた。
甘い香りが漂い、レイの鼻腔が膨らむ。

「レイ様、お好きでしょ? わたくしが焼いた林檎のパイ」

「ああ……うわっ……うまそう……!」

レイは感嘆して喉を鳴らし、飢えた目でパイを見つめた。
一口大に切られた林檎が所狭しと並び、その上に網目状に乗せられた細長いパイ生地が、程よい焼き加減を見せて輝いている。
サライヤ特性のこの林檎のパイの味を、レイは知っていた。以前薦められて口にしたとき、あまりの美味しさに絶賛したことがあるのだ。
サライヤは菓子作りに長けていて、忙しい公務の合間に時間を見つけては、その腕前を皆に披露していた。レイも何度か相伴しょうばんに預かり、その美味しさに舌鼓を打ったことがある。

『わたくしは、姫に生まれなければ菓子職人を目指したと思いますわ』というのが、手作りの菓子を振舞うときの、彼女の口癖だった。
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