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Ⅱ 幽閉
2. 死の淵からの奪還(2)
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<霧の宮>は千年の昔、当時の王の道楽で、王宮に増設されたと伝わっている。
その<霧の宮>の最奥に位置し、元は遊び心で設けられた<最果ての間>は、いつの頃からか、貴人を保護もしくは幽閉する目的で使われるようになった。
魔王とサライヤの母である、亡き前王の妃も、末の王子を懐妊している間、自ら望んで<最果ての間>に籠っていた。
その頃まだ少女だったサライヤは、よく兄に手を引かれて隠し通路を通り、こっそりと母に会いに行ったものだ。
<最果ての間>は、不便なく長期間生活できるように、厨房や浴室も備えられ、三つの寝室の他、居間や書庫なども設けられている。
周囲には特殊な建材が使われており、更に幾重にも張られた結界で覆われているため、物理的な守りはもちろん、悪意ある魔導術からも守られた空間を形成している。
唯一の出入り口である扉は三重となっており、それぞれが特殊な構造で、合言葉と魔導術によって複雑な施錠がなされている。
その一番外側の、<第一封印扉>の前に、今、サライヤは立っていた。
魔力の消費に疲労困憊し、ズキズキと痛む頭をおさえていたが、気合だけは、まだ十分にみなぎっていた。
(良かった。誰も見張りはいないわ。さて……合言葉が変わっていないといいけど……)
亡き母が使用したのを最後に、以来誰もこの部屋を使った者はいない。現在の王宮の主である魔王が積極的に変えない限り、以前の解呪と合言葉で、通用するはずである。
サライヤは大きく息を吸い、気を落ち着かせてから、扉を開放する呪文を唱え始めた。
合言葉が無事に通用し、三つの扉を抜けたサライヤは、やっとの思いで<最果ての間>に辿り着いた。
しかし三歩も進まぬうちに、異様な雰囲気を感じ取り、足をすくませる。
(何……?)
廊下の角を曲がった先、更に奥の方。おそらく主寝室から聞こえてくるその音が何なのか、サライヤには初め、分からなかった。
屠られる獣の断末魔のような、悲痛な叫び――それが人の声なのだと気付いた瞬間、サライヤは青ざめてその場にへたり込んだ。
(あっ……! 遅かった……遅かったのだわ! 何てこと……レイ様!)
ガクガクと震えながら嗚咽を漏らし、サライヤは自分の腕に爪を立てた。衝撃と悲しみに萎えてゆく心を、腕の痛みが打ち据える。
――泣いている暇はない。今からでも、兄の暴挙を止めなくては。
サライヤは歯を食いしばり、必死の思いで床に手を付くと、何とか膝を立てようと力を込めた。
しかし凄まじい恐怖を感じ、立ち上がることすら、できなかった。
膨れ上がった兄の<気>が、ここまで伝わってくる。
激情に任せるまま増幅し、闇の底から湧き出たような狂気を内包したそれは、目には見えない圧力で、辺りを侵食してゆく。
もしここに気の弱い者がいたなら、もうとっくに失神しているだろう。
気丈なサライヤでさえ、この場に踏みとどまっているのが精一杯だった。
――魔族の王たる者は、その気になれば、自らの発する気配だけで人を殺せるという。
それが虚言ではなく真実だと、サライヤは今はじめて、身を持って知った。
それでも。
どれほどの恐怖に晒さらされようと、レイを助けられる可能性を持つ者は、この場にいる、自分一人なのだ。
(サライヤ、前に進みなさい! 臆するなどみっともない! 泣いて逃げ帰るなんて、許しませんからね! さあ、早くなさい!)
そう自分を叱咤し、必死で自分を奮い立たせる。やっとの思いで壁にすがりながら立ち上がったが、噛み合わせた歯は鳴り、足は彫像のように動かない。
そのとき、サライヤは異変に気が付いた。
さっきまで断続的に聞こえていたレイの悲鳴が、今はぴたりとやんでしまっている。
(レイ様!)
呪縛から覚めたように、サライヤは走り出した。先程まで微かに感じられたレイの気配が、今は微塵も感じられない。
主寝室の扉を蹴破るように開け、中にまろび入ると、濃厚な血の匂いと共に、つんとした刺激臭が襲いかかってくる。天蓋付きの豪華な寝台の上で、魔王はレイに覆いかぶさり、首筋にかぶりついて吸血していた。
サライヤは衝撃を受け、目をみはった。
魔王の体の下から覗くレイの肌は、所々内出血のため変色し、足の間からは幾筋も鮮血を滴らせている。
白いシーツには点々と血が飛び散り、それは濡れ場というよりまるで、凄惨な殺戮現場のように見えた。
その<霧の宮>の最奥に位置し、元は遊び心で設けられた<最果ての間>は、いつの頃からか、貴人を保護もしくは幽閉する目的で使われるようになった。
魔王とサライヤの母である、亡き前王の妃も、末の王子を懐妊している間、自ら望んで<最果ての間>に籠っていた。
その頃まだ少女だったサライヤは、よく兄に手を引かれて隠し通路を通り、こっそりと母に会いに行ったものだ。
<最果ての間>は、不便なく長期間生活できるように、厨房や浴室も備えられ、三つの寝室の他、居間や書庫なども設けられている。
周囲には特殊な建材が使われており、更に幾重にも張られた結界で覆われているため、物理的な守りはもちろん、悪意ある魔導術からも守られた空間を形成している。
唯一の出入り口である扉は三重となっており、それぞれが特殊な構造で、合言葉と魔導術によって複雑な施錠がなされている。
その一番外側の、<第一封印扉>の前に、今、サライヤは立っていた。
魔力の消費に疲労困憊し、ズキズキと痛む頭をおさえていたが、気合だけは、まだ十分にみなぎっていた。
(良かった。誰も見張りはいないわ。さて……合言葉が変わっていないといいけど……)
亡き母が使用したのを最後に、以来誰もこの部屋を使った者はいない。現在の王宮の主である魔王が積極的に変えない限り、以前の解呪と合言葉で、通用するはずである。
サライヤは大きく息を吸い、気を落ち着かせてから、扉を開放する呪文を唱え始めた。
合言葉が無事に通用し、三つの扉を抜けたサライヤは、やっとの思いで<最果ての間>に辿り着いた。
しかし三歩も進まぬうちに、異様な雰囲気を感じ取り、足をすくませる。
(何……?)
廊下の角を曲がった先、更に奥の方。おそらく主寝室から聞こえてくるその音が何なのか、サライヤには初め、分からなかった。
屠られる獣の断末魔のような、悲痛な叫び――それが人の声なのだと気付いた瞬間、サライヤは青ざめてその場にへたり込んだ。
(あっ……! 遅かった……遅かったのだわ! 何てこと……レイ様!)
ガクガクと震えながら嗚咽を漏らし、サライヤは自分の腕に爪を立てた。衝撃と悲しみに萎えてゆく心を、腕の痛みが打ち据える。
――泣いている暇はない。今からでも、兄の暴挙を止めなくては。
サライヤは歯を食いしばり、必死の思いで床に手を付くと、何とか膝を立てようと力を込めた。
しかし凄まじい恐怖を感じ、立ち上がることすら、できなかった。
膨れ上がった兄の<気>が、ここまで伝わってくる。
激情に任せるまま増幅し、闇の底から湧き出たような狂気を内包したそれは、目には見えない圧力で、辺りを侵食してゆく。
もしここに気の弱い者がいたなら、もうとっくに失神しているだろう。
気丈なサライヤでさえ、この場に踏みとどまっているのが精一杯だった。
――魔族の王たる者は、その気になれば、自らの発する気配だけで人を殺せるという。
それが虚言ではなく真実だと、サライヤは今はじめて、身を持って知った。
それでも。
どれほどの恐怖に晒さらされようと、レイを助けられる可能性を持つ者は、この場にいる、自分一人なのだ。
(サライヤ、前に進みなさい! 臆するなどみっともない! 泣いて逃げ帰るなんて、許しませんからね! さあ、早くなさい!)
そう自分を叱咤し、必死で自分を奮い立たせる。やっとの思いで壁にすがりながら立ち上がったが、噛み合わせた歯は鳴り、足は彫像のように動かない。
そのとき、サライヤは異変に気が付いた。
さっきまで断続的に聞こえていたレイの悲鳴が、今はぴたりとやんでしまっている。
(レイ様!)
呪縛から覚めたように、サライヤは走り出した。先程まで微かに感じられたレイの気配が、今は微塵も感じられない。
主寝室の扉を蹴破るように開け、中にまろび入ると、濃厚な血の匂いと共に、つんとした刺激臭が襲いかかってくる。天蓋付きの豪華な寝台の上で、魔王はレイに覆いかぶさり、首筋にかぶりついて吸血していた。
サライヤは衝撃を受け、目をみはった。
魔王の体の下から覗くレイの肌は、所々内出血のため変色し、足の間からは幾筋も鮮血を滴らせている。
白いシーツには点々と血が飛び散り、それは濡れ場というよりまるで、凄惨な殺戮現場のように見えた。
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