虹の月 貝殻の雲

たいよう一花

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Ⅰ 強奪

7. 兄のまなざし(1)

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人間界のアマラス国のはずれ、自治区ソルクスに、クインジュという名の高名な魔道師が居を構えている。
人間と仙界人の血を引くクインジュは、いにしえからの魔道に精通し、その人生の大半を、魔導術の研究と伝授に捧げてきた。
高齢とは思えぬほど活力に満ちたこの老人は、レイとその兄フリューイの師であると同時に、養父でもあった。

レイにとって我が家と呼べるものは、この老師クインジュの家の他にはない。今は仕事で留守にすることも多かったが、兄や師、それに我が子のように慈しんで育ててくれた師の妻、フアナのためにも、出来る限り家に帰り、元気な顔を見せるように努めていた。

レイの故郷であるこの自治区ソルクスは、特殊な立ち位置にあり、昔はアマラス国の領土であったが、紆余曲折あり、現在は事実上独立している。
ソルクスは魔導術を中心とした自衛を徹底して行い、古来より独自の文化を育んできた。
また、近くに仙界に至る〈界門かいもん〉を有しているため、ソルクスには仙界人も数多く暮らしている。

仙界人は遠い昔、魔界を捨てて新天地を求めた民とされ、魔族と同じ祖先を持つといわれている。実際、仙界人は魔族と同じ特徴である尖った大きな耳と額瞳がくどうを持ち、魔力も高い。
しかしその内面や生き方は、享楽的な魔族とは全く異なっている。

豊かな自然に恵まれ、森に覆われた仙界の大地で、彼らは自然と共に暮らし、肉体より精神を重んじ、より高みを目指し、求道に励む。彼らは皆、穏やかな性格で争い事を嫌い、嘘をつかない。

――魔界と仙界、そして人間界。三者三様のこの世界は、古い創世神話の中ではこう語られている。

『魔界と仙界――異なる理想をかかげ、分裂した二つの世界――その溝は深かった。 遥かなる昔、仙界人を憎みし魔族は、彼らを根絶やしにせんともくろみ、世界は混沌の渦に巻き込まれた。甚大な魔力の放出と衝突に、世界そのものが崩れ落ちようとしたとき、それを阻止せんがために現れた神が、魔界と仙界の間に人間界を置き、魔力のぶつかり合いを中和したという』

これはおとぎ話として周知されている話だが、この話を裏付けるように、魔界には仙界に繋がる〈界門〉はひとつもなく、また仙界にも同様に、魔界への〈界門〉は一度も開いたことがない。魔界と仙界の直接的な交流も、ほとんどないのが現状である。
その一方で、人間界に於いては、魔界と仙界のどちらとも交易があり、友好な関係を築いている。

ラルカの町から東へ国境を越え、故郷ソルクスの町へと、途中寄り道をしながら、レイは十四日もかけて、やっと家に辿り着いた。
しかし家に戻ってきたという安堵感も束の間、始終魔王との一件が胸の内でくすぶり続け、レイは何をする気も起こらず、ただ無為に時を費やした。

一方、ぼんやりと物思いに耽り、ため息ばかりついているレイを、兄のフリューイは注意深く見守っていた。
二ヶ月ぶりに家に戻ってきた弟は、明らかに何か悩み事を抱え込んでいる様子だが、一向に口を割ろうとしない。それとなく聞き出そうと、あの手この手で試みたが、すべて徒労に終わってしまった。

今もレイは、夕食の材料であるじゃがいもを剥きながら、時々ぼんやりと手を止めては、溜息をついている。
しばらくして、レイは自分をじっと見つめているフリューイの視線に気付き、顔を上げた。

「やあ、兄さん。今晩の献立は兄さんの好きな、白身魚と野菜のクリーム煮だよ」

「それは嬉しいが……そんなにじゃがいもを入れるのか?」

レイは はっとして、大きな器にうず高く積まれた皮むき済みのじゃがいもを、奇怪な異物を見るかのように凝視し、叫んだ。

「誰がこんなに剥いたんだ!?」

「おまえだ」

「………………」

「………………」

兄弟の間に、しらけた沈黙が横たわる。

「兄さん、じゃがいものサラダ、好きだろ。うん、俺も好きだ。夕食のおかずに追加しよう!」

フリューイは厨房の戸口にもたれかかり、腕を組んで弟を見つめている。その視線を痛いほど感じ、レイは落ち着かない気分で身じろぎした。

レイとは腹違いの兄であるフリューイは、生粋の仙界人である。
同じ父を持ちながら、二人の外見は大きく異なっている。
フリューイの背はレイより頭一つ分以上高く、仙界人らしい広い肩幅と長い手足を持っている。耳は大きく尖っており、額には宝石のような額瞳がくどうを具えている。
そして仙界人の多くがそうであるように、髪は二つの色で彩られ、若葉のように瑞々しい緑に、時折すっと、柔らかい金髪が含まれていた。胸辺りまで伸ばされたその髪は、今もそうであるように、二つに編まれているのが常だ。
あまりにも自分とかけ離れた兄の外見に、幼い頃、レイはよく泣きじゃくって兄を困らせたものだ。

『どうしてボクの耳は尖ってないの? どうしておでこに何にもないの? みんながボクを、本当は町の外から拾ってきた捨て子だろって言うよ! 違うよね? ボク、兄さんの弟だよね? だったらボクも兄さんと同じがいい! 今すぐ同じにして!』

そんな風に無茶なことを言う弟を優しく抱き寄せると、フリューイは繰り返し、同じことを言い聞かせた。

『おまえは間違いなく私の弟だよ。ごらん瞳の色を。私と同じ、美しい蜂蜜色、黄金の太陽のごとき色。亡くなった父さんからもらった色だ。泣くのはおやめ。おまえは間違いなく、血の繋がった私の弟なのだから……』

自分を慈しんで育ててくれた兄の、優しい声が耳元に甦り、レイはふっと、顔を和ませた。

(魔王との一件を兄さんに相談することができれば……)

そうすれば少しは胸のつかえも取れるだろうかと考えたが、そもそもレイは、魔王との交流のことを、誰にも打ち明けてはいなかった。

人間と魔族の混血だったレイの母は、魔界で非道な扱いを受け、人間界へ逃げて来たと聞く。その際、偶然出会ったのがレイとフリューイの父ウェルツェで、彼の助けで母は仙界まで逃げのびたそうだ。その後、二人は恋に落ちて結ばれたのだという。

生まれてすぐ母を亡くしたレイは、母リアの記憶を一切持たないが、フリューイは違う。
フリューイがリアと初めて会ったのは、彼が十歳になったばかりの初夏だった。すでに実母を亡くしていたフリューイは、父の連れて来た美しく優しいリアを、すぐに好きになったという。

しかし幸せだった家族の日々も束の間で、やがて魔界からの追っ手に父は殺され、母もまた、フリューイとレイを逃がすために命を落とした。
そのときの凄惨な記憶は、永遠に癒えない傷となって、フリューイの心に今も暗い影を落としている。

仙界人は恨みの感情を持たないと言われているが、過去の確執からフリューイが、魔族そのものを快く思っていないのは明らかだ。
そんな兄に、魔王のことを話すのは、ひどく難しい。

(それに……)

レイはため息をつくと、目を伏せた。

(男に求婚されたなんて、恥ずかしくて言えるかよ!)

突然顔を赤らめ、またもやがむしゃらに、じゃがいもの皮を剥き始めた弟を、フリューイはじっと見つめていた。

(今夜の献立にじゃがいものスープも追加だな……)

そう思いながらため息をついて、あきらめてその場を離れた。
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