虹の月 貝殻の雲

たいよう一花

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Ⅰ 強奪

4. 思いがけない申し出(2)

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歌うたいの男は、宿の客たちに招かれて、今度は明るくテンポの良い歌を披露している。共に歌い、踊り出した客たちの踏むステップが、軽い振動となって階上に伝わってくる。
しかし思考停止状態の今のレイには、音楽も振動も、まるで伝わってはいなかった。
その様子に業を煮やした魔王は、さっと体を起こすと乱暴にレイの両肩を掴み、その顔を正面から覗き込んだ。

「レイ、頼む。私の妃となって、共に国を支えてくれ」

レイの蜂蜜色の瞳に、ひたと据えられた魔王の赤い双眸そうぼうは、熱を帯びて燃え上がっているかのように見えた。
停止していた世界は、ゆっくりと動きを取り戻し、やがてレイを混乱の渦に突き落とす。

「待てよ……ちょっと待て。俺は男だぞ? 妃に……なれるわけないだろ?」

みっともなく声が上擦り、レイは乾いた口内を湿らせようと、何度も唾を飲み込んだ。
予想通りのレイの反応に、魔王は内心の苛立ちを抑えながら、説得を試みる。

「レイ、前にも説明した通り、魔界では生涯を誓い合う夫婦の三分の一は、同性同士だ。人間界と違い、同性で結ばれることへの禁忌は一切ない。人間界で育ったおまえには抵抗があるだろうが、魔界で暮らせば自然に慣れるだろう」

確かにレイは、以前魔王からその話を聞いて、知ってはいた。しかしそれは知識として「知っている」だけであって、自分の身に起こり得る事態になろうとは、露ほども思っていなかったのである。

「何……言ってるんだ。慣れるって……俺が? おかしいじゃないか。妃が男って、変だろ。子供も産めないんだぞ! 跡継ぎはどうすんだよ!」

「心配するな。魔王は世襲制ではない。私が王位に就いたのは、偶然にも前王の息子に最も適性があったというだけだ。王妃も同様に、適性があれば性別などは重要視されない。事実、歴代の王妃の三人に一人は、王と同性だ」

「ま……マジで?」

くらくらしてきた。 常識の違いに衝撃を受けたレイは、またもや思考停止寸前となる。

「うむ。マジ……史実だ。おまえは王妃として求められる条件に、ほぼ合格している」

「何だよ、その王妃の条件って……」

「第一に魔力が高く、高位の魔道術を習得していること。第二に、心身共に健康であること。第三に、品格と教養に優れ、寛大で人民を愛する心を持っていること。第四に――」

「ちょっと待て。品格と教養で失格じゃないのか、俺」

「まあそれは、後から何とでもなる。第四に――」

「待て待て待てって! 何とでもなるって、どう何とでもするんだよ? もし何ともならないときは、どう何とでもするんだよ!?」

もう自分でも、何を言っているのか分からなかった。
見えない手にぐるぐると脳みそを掻き回されているかのような錯覚に陥り、辟易したレイは、最もお手軽な顛末てんまつひねり出した。

「あっ、そうか! 魔王、ふざけてんだな? そういやあんた、以前も俺に冗談で求婚してたよな。危なかった、俺また騙され」

――騙されるところだった、と続く筈の言葉は、噛み付くように乱暴にぶつかってきた唇に塞がれ、発することなく消えた。

魔王の突然の蛮行に、レイは勢いで寝台に押し倒された。
投げ出された両手に、魔王の手が合わさり、ゆるく押さえつけられる。その姿勢のまま、レイは激しく唇を吸われ続けた。

――なぜすぐに抵抗しなかったのか、分からない。
合わさった唇を起点にして、体中に心地よい痺れが走り、レイは酔ったように魔王に身を任せ、目を閉じた。

しかしそれも束の間のことで、突然我に返ったレイは、のしかかってくる男から逃れようと、猛烈に暴れ始めた。途端、離すまいとする魔王の両手に力がこもり、更に強く拘束される。

この体勢で、自分より遙かに体格も腕力も優れている男に、力で抗うのは無理だ。レイはそう悟ると、魔道術を使う為に〈気〉を集め始めた。
口を塞がれている為、呪文に頼ることはできない。その分、自身の魔力をより多く削り、集めた〈気〉の塊を魔王の腹めがけて投げ飛ばした。

レイの唇を夢中で貪っていた魔王は、その攻撃にあっけなく後ろへ突き飛ばされ、扉横の壁にしたたかに打ち付けられた。
魔王の拘束から自由になったレイは、すぐさま部屋の隅まで退き、呼吸を整える間もなく、強力な守護の呪文を唱え始める。

――しかし魔王には、まったく動く気配がない。力なく座り込んだまま、口付けの余韻に浸るように、虚ろな視線でレイを見つめていた。

やがて薄暗い部屋の中に、レイの紡ぎ出す守護の紋様が光を放って浮かび上がり、辺りを明るく照らし出した。
魔王はその光を、ぼんやりと目に映しながら、静かに口を開いた。

「……分かっただろう。冗談などではない。私は、本気だ」

レイは言葉を返すことなく、困惑と怒りに身を震わせ、荒い息で何重にも守護の紋様を編み出している。
自分を拒絶する想い人のその姿に、魔王は自らの失態を呪った。
伸ばせば手が届く距離にいながら、レイは夜空に輝く月のように、触れることさえ叶わない。

もはや今夜は、どんな言葉もレイの耳には届かないだろう。
魔王は眉間に深い溝を作り、悩ましげに目を伏せると、呪文を呟き闇に溶けた。

「また……来る」

とだけ言い残して。

魔王が去った後も、レイはしばらく動けず、壁に背を預けたまま、呆然と立ち尽くしていた。

階下ではまだ、客たちが手を叩き、足を踏み鳴らして、歌と踊りに興じている。
ありふれた夜の一幕が、じんわりと壁伝いに侵食するかのように、先程とは全く違った空気が、薄暗い部屋を満たし始めた。
そうしてやっと、レイは硬直していた体を壁から解放し、寝台に倒れこんだ。

手足は冷たく痺れているのに、唇だけが、やけに熱い。
貪るように求めてきた魔王の唇の感触を思い出した途端、肌が粟立あわだち、体の中心にドクンと疼きが走った。

「嘘だろ、何で……」

自身の昂ぶりに動揺し、レイは震える指先で腕に爪を立てた。

――魔族は好色と聞く。

その血が自分にも宿っているという事実に、今更ながらレイは不安を覚えた。

例え相手が同性であっても、触れられれば反応するのが魔族の常なのか、それともあの一瞬に、何かおかしな術でもかけられたのか、わけが分からずレイは頭を抱えた。

レイは魔族のことをよく知らない。彼が育った町は魔界への〈界門〉は遠く、そのため周囲に魔族は皆無だった。
仙界へは兄に連れられ、子供の頃から何度も足を運んだが、魔界へは3年前、仕事で訪れたのが始めてだった。

自分の中に流れる三つの種族の血――そのうちの一つを、今までレイは、まったく意識すらしていなかった。

――あの男に、会うまでは。

『私の妃になってくれぬか、レイ』

たった今囁かれたように、魔王の深みのある低い美声が、レイの耳に甦る。
途端に、顔が火照り、心臓の鼓動が早鐘を打つ。

「妃……だと? 男の俺が? 何で……何で……」

友人として、魔王を心から信頼していた。
得がたい友と出会えたことに、神に感謝すらしていた。
それなのに。

「何でだよ……何で……魔王……!」 

シーツに拳を打ち付け、レイはくぐもった嗚咽おえつを漏らした。

瓦解した友情の欠片かけらが、レイの足元に虚しく散らばり、声なき慟哭どうこくが、空ろな胸中にいつまでも鳴り響いていた。
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