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10.明かされる過去

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「もう、大きな声を上げるから驚いたじゃない。これは魔力を吸い取る魔道具なの、本当に刺す訳じゃないから別に痛くなかったでしょう。よしんば傷を負ったとしても、治癒の魔術に関しては魔女は相当なものだから心配ないわよ。たとえ竜王ほどの魔術耐性の上からでも、多分輸血くらいならできる程にはね」

それを先に言って欲しかったと抗議するだけの体力は、とうにノエルには無くなっていた。何やら先ほどの注射器に術を施している魔女の方を見ることもできないままに、ぐったりとベッドに臥せる。昨日のことと言い、どうもこの魔女は必要な説明やら確認やらを飛ばしがちな気がする。それとも相手がノエルだから扱いが雑なだけだろうか。

「そもそも、竜王の番を傷つけるなんてできるわけないじゃない。私の命だけじゃ済まないのよ」

呆れたように小さく独りごちながら、魔女は準備ができたからこちらに来なさい、とノエルに声を掛けた。さっきの今だから返事が胡乱な鳴き声になってしまったのは仕方がないと思うけれど、魔女は気にした風もなく傍に寄ってきたノエルの首根っこを掴んで机に登らせた。けれど魔法陣か何かがあるのだろうかと予想していたノエルの考えに反して、目の前に置かれているのはただの水が満たされたガラスの杯だった。首を傾げつつ思わず鼻を近づけてふんふんと嗅いでしまうけれど、特におかしな匂いもしない。すっかり猫が板についてしまったノエルの動作に、先ほどの注射器を片手に持った魔女は呆れた声を上げた。

「ちょっと、万が一にも飲まないでよ。それは普通の水じゃないんだから」

魔女の声に、ノエルは慌てて顔を上げた。仮にもノエルの中身は理性ある獣人なのだから、こんな得体の知れない水を飲んだりしない。とはいえ、魔女の言う「普通じゃない」は怯むには十分だ。まかり間違って口をつけたらどうなるか分からないと思うと、もう不用意に顔を近づけようとは思わなかった。十分距離を取って杯の前にぺたんと座りつつ、魔女の動きを目で追いながら考える。先ほど魔女が早口に呟いていたことの大半をノエルはよく理解できていなかったけれど、ノエルの両親と魔女の過去の関わりに関して知りたいと言っていたことは分かる。ノエルだって、知らない両親の過去が明かされるというのなら知りたい気持ちはあった。これはそれを調べるための準備なのだろうけれど、このただのガラスの杯で本当にそんなことが分かるのだろうか。

けれど、そんなノエルの疑問はすぐに解消された。魔女が先ほどノエルから取り出したという魔力─────注射器の中で淡い桃色に輝く、もやのような不定形のものをガラスの杯の水へ注入すると、杯からふわりと、水が意思を持ったかのように宙へ浮き上がったのだ。ゆらりと淡い桃色の光を反射して球体の水面を揺らすそれはまるで宝石のように美しくて、ノエルは目をまん丸にしながらにー、と感嘆の声を上げた。ノエルの声に応えるようにその水の塊は自分の形を確かめるように幾度か震えると、ゆっくりと形を変えて広がり始める。だんだん薄く広がっていった桃色の水の塊は、最終的に整った楕円を描き、ガラスほどの薄さになってその身をノエル達の前へゆらゆらと浮き上がらせた。けれど半透明のそれは反対側の壁を透かせるだけでうんともすんとも言わない。綺麗だけれどこれをどうするのだろうと戸惑って魔女を見上げると、それを見透かしたように魔女は手をかざした。

「『我は尊き魔女。一切を手にする者。─────今ここに、過去の縁と情景を』」

言い終わるや否や、淡い桃色に輝いていた水面が波うち、透き通るような本来の色を取り戻していく。やがて波紋が収まったかと思えば、そこに滲み出すように浮き上がった姿にノエルは思わず呆然とした声を上げた。その白くて艶やかな猫の耳と尾は、その隣に並ぶ琥珀の瞳を持った獅子色の髪の人影は。

──────────……お母さん、お父さん。

記憶にある姿よりも幾分か若い二人を、それでも見間違えるはずがない。あまりに唐突なそれに心も理解も追いついていないないのに、勝手にじわりと視界が滲んでいく。この時ばかりは、ノエルは自分を縛るもの全てを忘れていた。ただ懐かしさと恋しさと寂しさが、とめどなく胸に湧き上がる。ふらり、と無意識に震えるちいさな前足が浮き上がった。

──────────両親の存在を感じられるようなものは、当然ながらノエルの手元には何も残っていない。あの村に全てを置いてきてしまった。どれほど二人の温かい掌の温度を忘れたくないと願っても、その愛を、貰った言葉ひとつ何も取りこぼしたくないと願っても、どうやったって記憶は薄れていく。けれどこの水面は、両親のその優しい面立ちも、眼差しも、全てをつぶさに映し出していた。その手に、もう一度触れたくて仕方がない。また、ノエルの名前を優しく呼んでほしい。

けれど、無意識に伸ばした前足の先が水面に触れた瞬間、大きく波紋が広がり滲んで、ノエルは夢から覚めたようにはっとその手を引いた。不思議と水気も冷たさも感じることはなく、けれど未だに波紋は収まることなく懐かしい両親の姿を滲ませている。呆然とするノエルに、魔女は呆れた表情を浮かべた。

「ちょっと、じゃれつかないでちょうだい。ちゃんと見えないじゃない」

煩わしげな魔女の声に多少平静を取り戻したノエルは、戸惑って魔女を見上げた。これはなんですか、という小さな鳴き声に、水面から目を離さないままに魔女は淡々と答える。

「貴女の魔力の系譜を辿って過去を映し出しているの。本来は特定の時間だけを切り取るなんてほぼ不可能なんだけど……私はとっても優秀な魔女だから、これくらいなんてことないわ。ま、隷属契約のおかげで調整がしやすいっていうのもあるけれど。──────ほら、そんなことよりお目当てのものが見えてきたわよ」

その嫋やかな指先が水面を指したので、ノエルは慌ててそちらに目を向けた。先ほどは両親の姿に気を取られて気が付かなかったけれど、よく見れば両親の前に向かい合うようにして、黒いローブを纏った誰かが映し出されている。後ろ姿しか見えないせいで容姿は分からないけれど、今隣にいる魔女が着ていたものと似たローブを羽織っているあたりこれが両親が過去に会ったという魔女なのだろうか。人に焦点が当たっているかのように背景はぼんやりとしているけれど、よくよく見ればこれは、ノエルと両親が過ごしたあの村の家だった。魔女の言うように、これが実際にあった過去を映し出しているというのなら──────両親は、魔女に会ったことがあるどころか、家に招いたことがあるということになる。人々から畏れられているはずの魔女と両親は、一体どんな関係だったのだろう。

明らかになっていく過去に目を奪われていると、ふと、水の膜の向こうから微かにくぐもった声が聞こえてきた。思わずそばだてるようにぴん、と黒い耳が持ち上がってしまう。聞き取りにくいけれど、ノエルが懐かしいこの声を聞き間違えるはずもない。それを証明するように、水面の中でノエルの母が、切羽詰まった顔で口を動かしていた。その白い耳は、項垂れたように伏せられている。

『──────あの時は、お礼なんていらないと断ったのに……今更こんな……ごめんなさい』

まさか声まで聞けるなんて。過去のものと分かっていても、懐かしい、透き通った母の声に胸が恋しさで締め付けられる。この声で何度、優しく名前を呼んで貰っただろう。愛を伝えて貰っただろう。その結末を想うとあまりに辛くて、思い返すことも減っていたはずの暖かな過去がまざまざと脳裏に浮かんだ。けれど、申し訳なさそうなその声が語る内容が理解できず、ノエルは首を傾げた。お礼なんていらない、とは何の話だろう。その疑問に応えるように、聞き覚えのないしわがれた声が響いた。

『……今後困ったことがあったらいつでも言いなさい、と言ったのはあたしだよ。魔女は嘘をつかない、約束を違えることもしない。まあ、世間様の言う気まぐれさも、嘘じゃないけどねぇ。ただ命を救われた恩を忘れるほど、薄情じゃないってだけさ。どうにも老いたこの身体には慣れずにヘマしちまったんだ、あの時は助かったよ。魔女の特性を継承したばかりで、魔術が上手く扱えない時期だったんだ』

その声が聞こえた瞬間、隣の魔女が目を見開いて微かに肩を揺らしたけれど、苦笑を浮かべた父に気を取られていたノエルは気が付かなかった。母と並んでソファに腰掛けている父は、尾を揺らしてそっと目を伏せた。

『……昔行き倒れた貴女を幾日か介抱しただけで、俺達は命の恩人なんて言われるようなものではありません。ですが……厚かましいと思われてもいい。どうか、偉大なる魔女のお力をお貸しください。どんな対価でも覚悟しています』

その言葉に、ノエルは目を見開いた。魔女にどんな対価でも、と言うのなら、それは文字通りの意味を持つ。話を聞くにこの魔女は両親に恩を感じているようだけれど、それでも何を要求されたっておかしくはない。過去のことだと知っていてもつい慌ててしまうノエルを他所に、水面の中の魔女はくつくつと愉快そうに喉を鳴らした。

『ははあ……それはまた、随分な覚悟だ。逆を言えば、余程のことを要求する気でいるんだろう?いいねぇ、聞かせてみなさい。この老いぼれに、一体何をご所望だい?……まあ大方─────その可愛らしい黒猫のお嬢さんのことだろうがね』

え、という掠れた鳴き声が喉から漏れた。ノエルの声が届いたのか隣で共に眺めている魔女の意志によるものなのか、その場にいる三人の顔を切り取っていた鏡がゆっくりと引かれていき、懐かしい部屋全体を映し出していく。そして母の膝で呑気な顔をして寝ている小さな存在に気がつき、ノエルは目を見開いた。どう見たって生まれてまだ間もない赤子なのに、どうしようもなく目を引くその黒い耳と尾──────まさか。

『……ノエルと言うんです。私たちの、一番の宝物』

魔女の声に応えるように、両親はふと瞳を優しく緩めてその赤子──────ノエルの頭をあやすように撫でた。その手つきを、その優しさと愛情を、ノエルは苦しいくらいに覚えている。その指を小さなノエルの手に握らせながら、ノエルの父は苦悶するように眉を寄せた。

『──────竜王によって、この国の土地と結ばれた盟約はご存知でしょう。それに則るのであれば、ノエルを国が管理する機関に一度連れて行く必要がある。……ですが、この村以外の人間に、この子の存在を知られてしまえば……』

『……ははあ、なるほど。あんたら、その子を隠しておきたいんだね。──────それで、竜王の命に逆らうなんて大逆を働くつもりかい?あんたら獣人は、それに耐えられないと思ったけどね』

魔女が揶揄するようにそう言うと、両親は目を伏せるとまるで何かに耐えるように歯を食いしばり、青い顔で冷や汗を流し始めた。固く握り締められたその手が酷く震えているのを見て、もうとうに過去のことと知りながらノエルは手を伸ばしてしまいそうになった。もうその手は、彼らの愛した子供の形をしていないのに。

『……おっしゃる通り、そう長いこと耐えることはできない。意志とは関係なく、獣人にとって王の命令というのはそういうものなんです。嘘偽りや小細工さえも、本能が許さない。……だからどうか、貴女の力をお借りしたい。竜王の命に縛られない人間でありながら、比類なき力をもった魔女である貴女を』

一つ息を吐いてから続けられた父の言葉に、一拍置いてから水面の中の魔女は手を叩き、弾かれたように笑い始めた。あまりに豪快に笑うものだから、ついノエルも驚いて飛び上がってしまったくらいだ。とはいえ水面の中の獣人の姿をしたノエルのほうは、余程母の膝の寝心地がいいのか全く目を覚ます様子はない。

『ッく、はははははは!あんたら、私に王を謀る片棒を担げってのかい?バレたら下手すりゃあ、あんたらに拾われた命さえも落っことすってのに!』

『……勿論、無理にとは言いません。その時はまた、別の方法を考えるしかないでしょう。ただ、この子の存在を外部に漏らさないと約束していただくことになりますが』

しばらくひーひーと心配になるほどに笑っていた魔女は、やがてゆらりと顔を上げた。黒いローブの後ろ姿ばかりを映すこの水鏡では、その表情を窺うことはできない。けれどなんとなく、その顔にもう笑みは浮かんでいないような気がした。魔女は言い含めるように、重ねた歳月を思わせるだけの老獪さを滲ませて口を開いた。

『魔女は別に、人の非情さを何とも思いやしない。むしろ人の醜さと表に出せない知識こそが、魔女の大好物さ。だから正直に言いなさい──────……あんたら、その子を産んだこと、後悔したことはあるかい』

ひゅ、とノエルの喉が鳴った。──────それは、ノエルが生まれてから今まで、ただの一度も脳裏から離れることはなく、そしてただの一度も聞くことができなかった問いだった。まるでノエルの心をそのまま映し取ったように、魔女のしわがれた声が重ねられていく。

『産まれた子が普通の子だったら。黒猫じゃなかったら、こんなにも自分達が苦労することはなかった。忌み嫌われ畏れられる魔女に頼る必要だってなかった─────そうは思わないかい?』

とても両親の顔を見ることができなくて、ノエルは視線を下げた。その視界が惨めに歪んでいく。─────思ったことが、ないわけがない。ノエルのせいで両親は村の人たちとも距離があったし、友人の一人もおらず外に出ることも少ない娘と過ごすのはどれだけ大変だったろう。それでも嫌な顔ひとつ見せず、ずっとずっと大切に育ててくれていたのに─────……ノエルが、不吉な黒猫だったせいで。両親は……

『……なんだいあんたら、その顔は』

ノエルが涙を堪えていたところに、心なしか狼狽えたようなしわがれた声が耳に入ってノエルは思わず顔を上げた。反射的に両親に目が行って、慌ててすぐに目を逸らそうとしたのに、それは叶わなかった。─────両親は、きょとん、という言葉がふさわしいほどに、怪訝な顔をしていたから。この人は一体何を言っているんだ、という副音声さえ聞こえそうなほどの。別におかしいことは言っていないはずの魔女は、心なしか気圧された様子だった。

『いや……だって……』

『ねえ……?』

『……なんだい、親は無条件で子供を愛すからそんなのあり得ない、なんて言うつもりかい?親子だってそう綺麗なもんじゃないのは、魔女じゃなくたって知れた話だよ。……あたしだって昔、魔力の質が似通ったチビを拾って気まぐれに弟子にしてみたこともあったけどね、ガキなんてろくなもんじゃない。これがもう生意気で、散々後悔したもんさ。なんであん時拾っちまったんだろうってね!独り立ちしたら魔女の特性と知識だけ継承してさっさとおさらば、顔だって見るこたないよ』

ふん、と鼻を鳴らした魔女に、両親は困ったように目を見合わせて─────それから、顔を寄せ合って、耐えきれないというように喉を鳴らして笑い始めた。その声に釣られたのか、膝にいるノエルまでふくふくと不器用に笑って、混ぜてほしいというように両親に手を伸ばす。その手を優しく取りながら、かつての両親はむきになった様子の魔女に柔らかく笑いかけた。

『─────だって、見てください。こんなに、奇跡みたいに、可愛いんですよ』

『……は?』

『黒猫の獣人じゃないノエルを、私達は知りません。だから分かるのは、この特別ふわふわの黒い耳と尻尾が、無邪気に笑って私達の尾にじゃれつくのが、苦しいほどに愛おしくて、あんまり可愛くて……』

『こんな天使みたいに可愛い子が、俺達の元に来てくれてよかった、って。そう思う気持ちだけが確かなんです。子供を育てるのに、悩むことがないわけじゃないけど……後悔なんてとんでもない』

だってこんなに可愛いんですよ、ともう一度声を揃え相好を崩した両親に、魔女は呆れたような、疲れ果てたような、長い長いため息をついた。脱力したように、ソファの背面にどっかりと体重を預けて。

『……あんたら、普段子自慢できる相手がいないからって、あたしで発散しようとしてないかい』

『はは、まさかそんな、恐れ多い』

軽く笑って否定した父に未だ魔女は疑念を捨てきれないようだったけれど、やがて自棄になったように皺が刻まれたその手を空中でひらひらと振った。

『ああ、やだやだ。こりゃ断ったら、あの日の礼を返せと言って延々と子煩悩に付き合わせられそうだ。─────それならいっそ、国に喧嘩を売った方がマシだね』

『!それじゃあ─────』

身を乗り出した両親と額を突き合わせるようにして、魔女は膝をぱちんと一度打った。しわがれたその声は、それでもひどく朗々としていて楽しげな響きを帯びていた。

『─────……いいさ、乗ってやろうじゃないの。こんな老いぼれ、どうせ失うもんなんかないからね。最後に泥舟に乗るのも魔女らしくて面白そうだ』


喜ぶ両親と、水面の中の魔女の会話は続いていく。─────けれど、私はまともに水鏡を見続けることができなかった。視界が滲んで、ぼたぼたと雫が足下に落ちて行く。鼻先が、耳が、熱くて切ない。─────……そうだ、あの二人はいつだって。こんなふうに、不吉な黒猫であるノエルを可愛い可愛いなんて言って、溢れるくらいの愛情を注いでくれた。それこそ他の人との関わりなんてほとんどなかった私が、ただそれだけで生きていけるくらいに。懐かしくて、嬉しくて、恋しくて、切なくて。ぐちゃぐちゃな感情を帯びた涙が滴って、すん、と情けなく鼻が鳴る。また隣の魔女の不興を買ってしまうかと思ったけれど、不思議と何の反応もなかったから、ノエルはそれをいいことにぐずぐずと泣き続けていた。

─────そうしている間に、いつの間にか両親と魔女の間で話はまとまったらしい。気がつけば水面の中の赤子の私はソファに寝かされていて、魔女にしわがれたその手をかざされていた。酷く緊張した面持ちで、両親が身を寄せ合ってそれを眺めている。何度も私の手を取ろうとして、それを胸元に押しとどめているのは、魔女の術を邪魔しないためだろうか。そんな両親の痛いほどの視線を受けながら、やがて経ただけの歳月を感じさせるしわがれた声で、それでも朗々と、堂々と、魔女は声も高らかに詠唱を始めた。その背は凛と伸びていて、私から少しも視線を外していない。

『……我は気高き魔女。一切を手にした者。─────……この者を、貴き眼差しの天幕で覆い隠せ』

ふわ、と魔力が空気を纏ったように淡く膨らみ、ゆっくりと水面の中の私を包み込んでいく。水鏡の中の私は流石に知らない魔力に包まれては居心地が悪かったのか、ふえ、と今にも泣きそうに口元を緩めていたけれど、両親から宥める声を掛けられてどうにか堪えたようだった。魔力を注いでいる間、魔女ののしわがれた手は微かに震えていて、過去のことと知りながら無理をしているのではないかと心配になってしまう。それでも魔女は何も言うことなく、その儀式を完遂させた。

『……終わったよ。少なくともこの子から近づかなければ、お偉方に見つかることはないだろう。村の人間も、この子の存在が外に漏れることは望んじゃいないんだったね?そしたら当分は大丈夫だ。それから、変質させた魔力で擬似的に竜王の命令を満たした。多分あんたたちももう楽になったんじゃないかい』

水鏡の中の魔女の言葉通り、魔術を掛けられたはずのソファに眠る幼い私よりも、両親の方が目を見開いて身体のあちこちを確認する素振りを見せていた。─────まるで、身体を縛り付けていた糸から解放されたように。

『……ありがとうございます。本当に、なんと御礼を申し上げればいいか……!』

涙ぐんだような母の声に、魔女は気にするなとでも言いたげに宙で手を振った。どうにも感謝されたり湿っぽいのが肌に合わないのか、いっそ煩わしそうな仕草だった。

『馬鹿だねぇ、礼に礼で返してたんじゃ終わりがないだろう。とにかく、これで恩は返した。今からあたし達は対等な共犯者だよ。沈むときは道連れさ』

私を抱きしめながら何度も頭を下げる両親にそう言い切って、未だ顔の見えない水面の中の魔女は煩わしげにローブのフードを払った。そこから覗くのは眩いばかりの白銀の髪だ。隣の魔女といい、魔女は美しい髪を持っていないとなれないという決まり事でもあるのかと馬鹿なことが一瞬頭に浮かんだノエルは、ふとこぼれ落ちたような水鏡の中の魔女の声に引き戻された。

『……にしてもねぇ、こんなに厄介な子供を産んでも後悔しないと言い切るなんて、やっぱり魔女と─────いや、人間と獣人は違うのかね。羨ましいことだ』

それは、まるで疲れたような、寂寥が滲んだような声だった。正直、ノエルは魔女と両親がノエルに対して行った儀式の全容が理解できていない。ただ、アダン様と関わりのある命令がノエルにとって都合の良くないもので、両親は私のために恐れ多くもそれに逆らうことに決めたのだろう、ということくらい。だから落ち着いたら隣の魔女に詳しいことを聞きたいと考えていたのに、なんだかその声が心細そうに聞こえてしまって、ノエルは引き込まれるように黒い耳をそばだてた。両親も同じように感じたのか、私に落としていた目線を上げて怪訝そうに首を傾げた。

『自分の子供が大切なのは、人間も獣人も変わらないでしょう。貴女もそうじゃないですか』

『はぁ?あたしに腹を痛めた子なんかいやしないよ。何言ってんだい』

呆れたような魔女の声に、両親は一度目を見合わせてからもう一度首を傾げて水面の中の魔女を見遣った。

『……さっき、ノエルを産んで後悔していないかという話をしたときに、引き取ったというお弟子さんの話を出していたじゃないですか。─────親と子の話をしている時に口をつくくらいです。貴女にとって、その子は自分の子同然の大切な存在ということだと思ったのですが』

『……』

息を呑む音が、不思議と隣からも聞こえた気がした。長い沈黙で返した水面の中の魔女には、先ほどまでの魔女然とした堂々さはなく、その肩はわずかばかり小さく見えた。やがて絞り出された声は、どうにも罰が悪そうに小さく掠れていて。

『……馬鹿だね、後悔ばっかりだったって言っただろう』

『ふふ、いいじゃないですか。女手一つとなればそれは大変だったでしょう。別に、後悔することは悪いことじゃないですよ。それに、そう言いながら独り立ちできるまで立派に育てあげたんでしょう?もっと自信を持って誇っていいことです……そのお弟子さんと顔を合わせないのにも、きっと理由があるんでしょう』

白く美しい尾を揺らしながらもころころと笑う母に、魔女は小さく舌打ちするとローブを被り直してしまった。それでも否定や皮肉を返さないのは、きっとそれができないからだ。─────……魔女は、嘘をつくことができないから。

『お節介は身を滅ぼすってのを、あんたらは覚えといたほうがいいね……とにかく、これでもうあたしは用済みだろう。もうお暇させてもらうよ。この魔術は独立したものだ、この後あたしがどうなろうが急に解けちまうことはないから安心しな』

『そんな、ここまでお世話になってそんなに急に……』

さっさと椅子から立ち上がった水面の中の魔女に、両親は慌てたように声を掛けたけれど、魔女がその足を止めることはなかった。一刻も早く出て行きたいというような魔女の仕草に、引き留めるのは諦めたのだろう。それでも玄関まで見送りに出た両親に、水面の魔女は一度だけ振り返った。

『─────ま、なかなか面白い思いをさせてもらったさ。精々足掻きなさい』

『……こんな言葉で言い表せるものではありませんが……本当にありがとうございます』

どこか名残惜しそうに見える両親に、魔女は一つ息を吐くと、腰に手を当てて胸を張った。けして大柄でないその身体は、それでも魔女だからなのかそうしていると威厳を感じられるから不思議だ。

『……魔女はね、縁ってものを強く信じてる。魔術を扱う上でも、それは重要なものだからね。あたしらがまた会うことはないとしても、あたしらを巡る因果は消えない。どこかで、またそれが交わる日が来るさ』

『……はい。その日を心待ちにしています。……でも、今ここにある私達と貴女に結ばれた縁も、大切にしたい。貴女の安寧を心から祈っています。どうかお元気で』

肩を竦めた魔女は、両親の別れの声を背に受けながらも懐かしい家を出て行った。その背をしばらく見送ってから、懐かしくて愛おしいかつての住処の扉が閉じられていく。段々と見えなくなる両親の姿が名残惜しくて、胸が苦しくて、ノエルはついか細い鳴き声を漏らした。けれど、これは過去を切り取っただけのもので、勿論それが届くことはない。─────ただ、扉が閉められる直前、両親の柔らかい視線は、確かに腕の中の小さな命に向けられていたから。だからノエルは両親に呼びかけてしまいそうな自分を、ゆっくりと飲み下した。

ノエルの両親と、魔女の過去の契約。それが明らかになったのだからこの映像はここで終わってしまうのだろうか。そう思ったけれど─────……不思議と水面は、未だ過去の情景を映し出し続けている。しかも不思議なことに、水の鏡が映し出しているのは段々と遠くなっていくノエルのかつての家ではなく、そこを離れた白銀の髪の魔女の様子だ。これはノエルの魔力の系譜を辿っていると言っていたはずなのに、どうしてこの魔女についていくのだろう。実際そこで流れた時間に倣っているわけではないのか、陽がどんどん落ちて周囲はすっかり薄暗い。魔術で移動したのだろうか、いつの間にか魔女は湖畔を取り囲む木々の中にいるようだった。辺りをランプで照らしながら、切り株に腰掛けて一休みしているように見える。ランプの灯りに照らされて暖かい色を反射する魔女の白銀の髪は、とても美しかった。

ふう、と一つ水面の中の魔女が息を吐いて、ゆっくりと立ち上がると湖畔の方へと歩いていく。足元にランプを置いて、喉が乾いたのだろうか、水を掬うために身を屈めて─────……そこで、ぶわりと水鏡が唐突に波紋を広げた。ぐにゃりと、水鏡の中の魔女の後ろ姿も歪んでしまう。

「みっ!?」

すっかり水面の中の様子に気を取られていたので、突然のことに変な声をあげてしまった。これはこの水の鏡の不調なのか、それともこれで過去の映像は終わりということなのか─────……答えを求めるように隣の魔女を見上げたけれど、その視線がノエルと交わることはなかった。その見開かれた薄紫の瞳は、一心に波紋を広げ続ける水鏡の方へ向けられている。つられてノエルがもう一度水面に目を向けると、いつの間にかあれほどに波打っていたはずの水面は凪いでいて。しかしそれに安心する暇もなく、ノエルはもう一度変な鳴き声を上げた。

ずっと、白銀の髪の魔女の後ろ姿を映し出していたはずの鏡。それが、ゆらりと揺れる湖面越し、正面からその顔を映し出していた。かつてその美貌を誇ったであろう、経ただけの歳月を感じさせる皺の刻まれた顔に、見開かれた瞳の色は─────……どこかでも見た、アメジストのような美しい薄紫。言葉もないほど驚いたはずなのに、頭のどこかで初めて会った時の魔女の言葉が過った。


『……見事な黒猫ね。それだけならまだしも、その赤い瞳……瞳の色は、魔力の質の証よ』

『……あたしだって昔、魔力の質が似通ったチビを拾って気まぐれに弟子にしてみたこともあったけどね、ガキなんてろくなもんじゃない』


瞳の色は、魔力の質の証。ということは、珍しい薄紫の瞳が似通うこの二人は─────……


「─────……師匠……」

吐息のような、震える魔女の声が聞こえているのかいないのか。確かに水面の鏡越し、長い歳月の隔たりさえも超えて─────……二人は同じ色の瞳を見合わせていた。
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