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4.忠臣の提言
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王宮は、煌びやかなで豪奢な建物には相応しくないほどに静まり返っていた。そこかしこから聞こえる啜り泣きを嫌でも拾ってしまって、これ以上なく陰鬱な気分になる。
─────今日は、我らが王が身罷られる日だ。
その知らせを、長年主の帰還を心待ちにしていた長命な仲間達に伝えるのが、どれほどの苦痛だったかは筆舌に尽くしがたい。目を見開き、唇を震わせて泣き崩れる仲間達に、とても掛ける声が見付からなかった。
竜人である王が、番を求めて探し始めてから、一体どれほどの時間が経ったのだろう。かつて人間が住めないほどに荒れ果てた地を、その求心力によって獣人達と開拓し繁栄させた偉大なる初代の獣人の王は、竜人だったという。初代と同じ種族である今代の獣人の王は、とても美しく理性的で、幼い頃からこれまでのどの王にも引けを取らないカリスマを兼ね備えていた。竜人と同じほどに長寿な亀の獣人である己は、きっと将来素晴らしい竜王をこの目で見届けることができると確信し、そんな主に仕えられる己を誇りに思って、この王が大陸の隅々まで名を馳せる日を心から楽しみにしていたのだ。
─────けれど、そんな夢を抱いていられたのも、思い出すことが難しいほどには昔の話で。
幼竜の頃は、己の番はどのような姿なのだろう、何の種族なのだろう、早く会いたいと楽しげに口にするだけだったはずの王が、いつまで経っても現れることのない番に絶望し。そうしてゆっくり、ゆっくりと狂っていくのを見るのは、この身が引き裂かれることよりも余程辛かった。
まだ、アダンが自ら牢に繋がれる前。気が狂いそうになりながら、死に物狂いで番を探していた時のことだ。この国に女児が産まれたら必ず竜王の番であるか確かめなければならない、破ったものは竜王直々に厳罰に処すという盟約を、竜の血と最上の儀式を用いて時間をかけて土地と結びつけたものだから、竜王が必死に番を探しているのは国中の知るところだった。それに何を思ったのか────確か何代か前に国外から入ってきた竜人に明るくない富豪が、番が見付からないのなら見付かるまで我が娘をお側に、と愚かにも勧めたことがあった。どうせ見付かりはしないだろう、と言う思惑が透けて見えた、あまりにも愚かな提案だった。
竜王は、ぺらぺらと己の娘を持ち上げるその富豪に、その場ではただ何を言うでもなく、底の知れない瞳でひとつ、笑って。
──────翌日から、その富豪に連なるものの姿を見たものはいなかった。その人間が、本当に生きていたという証拠の一片すらも。
この辺りからだろうか。偉大で民に畏れ慕われたアダンが、民から恐れられ、番狂いの哀れな竜王、などと呼ばれるようになったのは。不敬な、という怒りを当時は覚えたものだけれど、今思えば確かに、アダンはこの頃から急速に狂い始めていた。何かを探すようにふと視線を彷徨わせては、幾度か口を開閉して────けれど呼ぶ名前さえ知らないと気が付いて、その瞳を淀ませ。軍議の最中、何食わぬ顔で策を話しながら、己でも気付かぬ間に涙を零し。夜部屋で一人になれば、声にならない呻き声を上げては頭を掻き毟って。
─────それでも。己を閉じ込める鍵を託した時の王は、確かに理性を保った、誇り高き王だった。
己が番を直接探しに行けないことに、深い焦燥と怨嗟をその瞳にたたえながら、それでも王は、己の国を守ることを選んだ。番を見つけ出すという何よりも重い使命を、信頼する臣下に託して。そうして竜王の血をもってして作られた、この世の何よりも堅牢な枷を自らその手に嵌めた。とっくに狂いきり、何もかも破壊してもおかしくはなかった竜王のその理性が尊く、そしてどうしようもなく痛かった。そして僅かでもその時の王を後押ししたはずの、臣下に対する信頼に、何をもってしても応えるのだと、そう己に誓ったのだ。
───────それなのに。
己ができうる限りの手は尽くした、と言える。この国で産まれた女児を全て確認しなければならない盟約は今も変わらず続いていた。この国の者が獣人の王の定めた命令に逆らうなんてことはそもそも本能的に不可能であるはずだが、それでも可能性を捨てずに常に目を光らせている。しかし、国内はともかく国外ともなると捜索は本当に骨で、仲間の殆どはそちらに人員が割かれていた。獣人と人間が争っていたのは己の記憶からしてもかなり前のこととはいえ、種族が違うものだからやはり理解ができない部分もある。獣人の番というのはその筆頭で、世界中の女性から竜王の番を見付け出すという作業は、本当に労力の必要なものだった。
それでも、仲間達と共に数百年、寝食も疎かに走り回った。日々己の主の精神が摩耗していくのを感じるのはこの身が引き裂かれることの何倍も辛く、かつての王の栄光を思い出してはそれが取り戻されることを祈って祈って駆けずり回って。
──────そうして、辿り着いたのが。
『これ以上の、生き地獄は、耐えられない。……もう、どうか、楽に』
狂気の先の、諦念と絶望の底で壊れてしまった、主の懇願の声であるなんて、あんまりな悲劇だった。
引き留めたかった。偉大な王を、唯一の主を、こんな絶望の底で喪うなど、考えたくもなかった。────けれど、それは己ではなし得ないのだと、痛いほどに理解していた。竜王の狂おしいほどの番への執着を、一番近くで見ていたのは己なのだ。長い付き合いだからこそ、とうとう理性を灯してしまったその瞳に、何を言っても無駄なのだと分かってしまう。もう、どうしようもないのだと。
精々できることは、惨めに床に額を擦り付けて懇願し、せめてこの国の王として、少しでも相応しい最期を用意することくらいで。己の力不足のせいで死を選んだ主の、毒の杯を用意することがどれほどに苦しく惨めな時間だったか、きっと誰にもわからないだろう。
信頼できる古い知人に用意させた、本人の抵抗さえなければ竜にすらも効く、苦しまず眠るように死ぬことのできる毒薬。二人分頼んだとき、知人はもの言いたげに口を動かして、けれど何も言うことはなかった。きっと誰も己の意思を変えることはできないから、それがとてもありがたくて。
例え狂い壊れ果てようとも、己が主は、この国を統べる竜王────アダン様ただ一人。次代の獣人の王がどこかで生まることがあろうとも、己の王は彼の方以外にはありえない。己にとっての王が黄泉路を往くというのなら、伴が一人もいないなどありえない。きっと己が生きていようといまいと、王が気にすることはないだろう。それでもどうか、歴代の王が登ったであろう天界の梯子まで、見届けさせてほしかった。もうそれくらいしか、我が主にして差し上げられることがないのだから。
虚ろな瞳の王の身支度を丁寧に整え、迷いのないその背中を、やるせない気持ちでそっと見送ったあと。諸々の手回しを確認し、静かに己の部屋に戻るとほんの僅かな時間、己の長い生を懐古した。己は主の最も望むものを見つけ出せなかった、恥知らずな臣下であるけれど。それでも主に仕えていた時間は誇らしく、幸せであった。本当に情けない話だ。
苦く笑い、それから臣下があまり王に遅れてはならないと、一息に手元の毒杯を呷ろうとして──────……
『────動くな』
頭に響いた声と、これまで感じたことのない覇気に、ぶわ、と鳥肌が立った。空気がびりびりと震えそうな威圧にどくどくと心臓が暴れ出し、それなのに自然と血の気が引いていく。一本も動かせなくなった指先が自然と震え、取り落とした毒杯が派手な音を立てて床に転がった。一体、何が。─────いや、今の、声は。本能的な恐怖と困惑の合間に、じわりと湧き上がったのは、高揚と期待だった。
全ての獣人の頂点に君臨する、この国の王。どのような恐ろしく力のある獣人ですら尻尾を丸めて膝を折る、その声一つ、視線一つで全てを従わせる─────かつて全ての者を玉座の前に跪かせ、その名を轟かせた我が主。長い時の末に記憶の波に攫われたその威厳が、何もかもを見通す竜の眼差しが、埃を払うようにまざまざと脳裏に浮かんだ。
幾ばくか経ち、未だ思うようにはいかずとも、漸くほんの僅かに動くようになった老体に鞭を打って、転がるように部屋から出た。頭の中は真っ白だったが、追い立てられるように向かうのは────王宮の最高位である、我が主の寝室。
主が漸く得られる安寧を邪魔しないよう、誰も近付かぬようにと己が言いつけたはずの場所に、足音を取り繕う暇もなく駆けていく。鈍足な亀の獣人には酷な仕打ちであったけれど、どくどくと逸る心臓が、己を急かして仕方がなかった。
磨き抜かれた廊下を風情の欠片もなく走り、幾度も角を曲がった先。漸く見えた寝室に、とうとう足を止めた。ほんの僅かに開かれたままの扉から、未だ褪せることない王の気配を感じて。─────我らが王が、まだこの世に生きている。疑いようもなくそう確信して、情けないことにその場で腰が抜けそうなほどの安堵を覚えた。
王が黄泉路を往くのなら、伴をしない選択肢は存在しない。けれど、それでも、こんな終わりはあんまりだという気持ちがないはずもない。絶望のふち、全てを喪った王の、疲れ果てた諦念の果ての終焉など、望んでいるはずもないのだ。未だ夢現のままの思考で、つい先程まで忙しなく動かしていたはずの足を、ごく慎重にゆっくりと、一歩踏み出した。
ぎ、と重い音を立てて、目の間の重厚な扉が僅かに揺れる。窓が開け放たれたままなのだろうか、風の流れを感じる以外は不気味なほどに静かだった。それでも確かに、我らが主はここにいる。意を決して、喉を鳴らすとそっと扉の前から声をかけた。
「……アダン様……?」
返事はない。暫く逡巡し、申し訳程度に僅かに開け放たれたままの扉を小さくノックした。それにも返事がないのを確認し、覚悟を決めてそっと喉を鳴らす。今日全てに絶望し、この世を去るはずだった王に、一体何が起こったのか分からない。けれどそれでも、確信があった。
─────今日、この扉を開けたら。その瞬間、全てが変わる。
深く深く息を吐いてから、入りますよ、と声をかけ、そっとドアノブに手を掛けると慎重に開いていく。ぎぎ、と重い音を立てて開かれる扉を、面積を増す部屋から廊下に差す月の光を、どこか祈るような気持ちで見詰めていた。じりじりと開かれていく扉に、しかし己を咎める声が上げられることはなくて。
ふわ、とレースのカーテンが風に膨らむのが見えた。まるで窓に切り取られたような夜空の真ん中に浮かぶ満月が、部屋をぼんやりと照らしていて。そうしてその光を背に受けながら、我が主は寝台に腰掛けていた。きらきらと金糸が月の光を反射して、酷く幻想的な風景だった。臣下が部屋に押し入ってきたことなどとうに気が付いているはずなのに、その視線はただ一点のみに向けられている。装束に身を包んだ主の膝の上、白い服でなければ夜の闇に紛れてしまいそうな────寝ているのかぴくりとも動かない、真っ黒な影。
我が物顔で王の膝で眠っているのは、酷く小さな黒猫だった。
訳も分からず、聞きたいことが山とあるはずなのに、予想もしていなかった光景に咄嗟に声が出なかった。一体どうして、死を選んだはずの主がまだ生きているのか。不吉の象徴である黒猫をその膝に乗せているのか─────不躾に部屋に入ってきた己に気が付いているはずなのに、一寸たりともその黒猫から目を離そうとしないのか。
すぐに声を掛けようにも、異様な雰囲気にそれは躊躇われた。しかしその逡巡の間にふと脳裏に浮かんだのは、普段であればあまりにも不敬で首をはねられてもおかしくはない思考。つまりは──────己が死を選んだことすら忘れてしまうほどに、王が狂ってしまったのかもしれない、ということだった。しかしそんなことを考えてしまうほどに、瞬きすらしない王の様子は異様だったのだ。もし、────もし本当にそうであるならば、王をこの生き地獄から、代わりに解放してやらなければならない。己が、この手で。
そんな悲壮な覚悟を密かに決めながら、もう一度、今度は声量を上げて声を掛けた。それでもどこか遠慮がちな声になってしまうのは、見たことがない王の雰囲気に飲まれているからだろうか。
「アダン様。……一体何が……その黒猫は、」
「番だ」
「……は?」
「俺の、番。番、ノエル……やっと、……やっと、見付けた……本当に、漸く……!!……でも、逃げようとした。番なのに、やっと出会えたのに俺から逃げようとしたんだ。きっと、目を離したら、一瞬でも離したら、腕の中から消えて………ッ許さない、そんなことは死んでも許すものか。檻を、檻に入れないと。竜の血で作った檻なら、ノエルは逃げられない。永遠に、俺の傍に─────あぁ、ねぇ、ジスラン。彼女が、この世の何より美しい黒猫が、見えている?これは現実?幻覚か、今際の夢か……いっそそれでもいい。永遠に覚めないでくれるなら、それで……もう、それだけでいいんだ……!!」
「──────……」
訥々と、滲んだ声で王が零した言葉はどこまでも異様だった。不吉の象徴である黒猫が───それを差し引いたとしても、獣人ですらないただの猫が、竜である王の番?獣人の番がただの獣であるなど、長い生の中で一度も聞いたことがない。そもそも子ができないのでは、一番相性がいい相手が選ばれるはずの番の意味がない。長い生の中で直面したことのない事態に、にわかに頭が混乱して、幾度も同じ部分をぐるぐると思考が回って─────……
けれど。
─────王が己の名前を呼んだのは、一体何百年ぶりだろう。少なくとも王が檻に入った後、一度も呼ばれたことなどなかった。今の王の瞳を見れば、付き合いの長い自分は理解できてしまう。今の王は、どこまでも正気だ。そもそも例えどれほど狂い果てようとも、竜人が番を間違えることなどあり得ない。であれば、どれだけ前例のないことであろうと、あり得ないと思おうと、この眠っている小さな黒猫が、王の番なのだろう。確かに、その姿を見たときは驚いたけれど、不吉の象徴である存在が王の膝に乗っていることに不快感を覚えたけれど。
それなら────それなら、王は、もう今すぐに死を選ぶことはない。
その思考に至った瞬間、不吉の象徴である黒猫だとか獣人ですらないだとか、そんな些事は頭から飛んでしまった。じわ、と視界が滲んでいく。端から見れば、獣人ですらない黒猫を番と呼び執着するのは狂気の沙汰だろう。しかし細かいことなどどうでもよくて、王が明日も生きていける───それだけが、己にとって最も重要なことだった。若い頃であったなら、いくらか混乱し反発していたかもしれない。けれど今はただ、王が命を掛けるほどに求め続けたものが漸く、本当に漸く手に入ったことが、嬉しくて仕方がなかった。自然と膝を折り、忠誠を誓ったかつてと同じように頭を下げる。声が自然と情けなく震えてしまった。
「……確かに、私にも陛下の番様が見えております。これは現実であると、この陛下の忠実な臣下であるジスランが保障いたします。積年の苦節の末に、漸く……本当に、本当に、おめでとうございます、陛下……!!」
「……そう、現実……そう、か……─────あぁ、では、やはり檻を、すぐに……ノエルが逃げてしまう。俺の傍から、いなくなって……、許せない、そんなこと、何を犠牲にしようと許すものか……ッ!!今更、出会っておいて……そんなことになれば今度こそ、……そうだ、俺が入っていた檻に……鍵、ジスラン、鍵を」
うわごとのようにそう言うアダンの手は、黒猫に触れたまま僅かに震えていて、思わず胸が締め付けられた。恐らく先程王宮中に響いた王の命令は、この小さな黒猫一匹を引き留めるためのものだったのだろう。何百年と求め続けたものを目の前に差し出され、そうと思えば取り上げられそうになれば、それは死に物狂いにもなるはずだ。番に関してアダンは、一番最初から死に物狂いだったのだから尚更。けれど恐慌状態である王の行動を放置するわけにはいかない。それで番に何かあれば、彼は本当に今度こそ、取り返しがつかないほどに狂うだろう。忠言ができてこその忠臣だ。そっと頭を上げると、真っ直ぐにアダンを見上げた。
「陛下、心中お察しいたします。しかしどうか少しでも、御心をお鎮めください。────失礼ながら、陛下の番様は獣人ではなく、種族としては普通の猫であるとお見受けします」
「────だから、何」
ひやり、と首筋に刃物が当てられるような感覚がした。じわ、と背中に冷たい汗が浮かぶ。己の番を否定する気かと、言葉もないまま雄弁に問い掛けられていた。もしここで是と答えれば、己の首は主によって簡単に飛ぶだろう。けれど本能的に湧き上がる恐怖にそれでも奥歯を食い縛り、何とか言葉を続けた。
「酷なことを言うようですが……普通の猫であれば、相手が番であると認識することはできないでしょう。見慣れない人物が傍に来れば、猫が驚いて逃げてしまうのは決しておかしなことではありません。───けれどそれは、陛下が番様に拒絶されたことにはならないのですよ。初めは驚いてしまっても、これからいくらでも、関係を築いていくことができるのですから」
「…………」
人間や獣人であれば、一度信頼や好意を失えば取り戻すのは容易いことではない。けれど気まぐれで、欲を満たすことが第一の猫であれば、そう難しいことではないはずだ。少なくとも嫌がることをせず、好きなものを与えて慎重に接し続け月日が立てば、余程の人嫌いでないなら懐く可能性は高い。
「それから────番様を檻に入れると陛下がお決めになられたのであれば、止めることは致しません。けれど、竜の血は魔力耐性のない生き物には毒となります。それで作った檻では番様は血にあてられて酷く弱ってしまうでしょう。……最悪、番様を喪うことになってしまいます」
さ、と顔色を変えた主に、もう一度深々と頭を下げた。ここで首を飛ばされようと構わなかった。王が番を失う恐怖に囚われるあまり、番を喪って狂いきるなどという悲惨な未来を、止めることができるのなら後悔はない。
「陛下……アダン様。これから、番様と過ごせる時間は沢山あるのです。ですから、どうか今は─────賢明なご判断を」
ぎり、と歯を食い縛る音がした。きっと今主の中で、竜の本能と理性が戦っているのだろう。それでも、己はよくよく知っていた。我らが王は、誰よりも理性的な方だ。容易く狂うことすらできないほどに。未だ震える手で膝の上の黒猫を撫でながら、王は押し殺したような声で口を開いた。
「────竜の血の檻は……諦める。代わりに、部屋を、すぐに……ノエルが、目覚める前に。絶対に逃げ出せない部屋を。……それでも、快適に過ごせるようにしてくれ」
「御意。……用意が終わりましたら、アダン様もどうか、番様と同じ部屋でお休みください。もうどれほど、まともに休息を取られていないか……」
「……眠ったら、覚めてしまうかもしれない。ノエルが、……目の前から、消えて……」
「大丈夫です。これは現実で、部屋の周りは私ども総出で見張っておりますから。その疲れ切ったお顔では、目覚めた番様も驚かれてしまいますよ」
「………………」
ほんの僅かに王が逡巡し、それから小さく頷いたのを見て、心の中で大きく息を吐いた。堂々と話しているようでいて、背中にはずっと冷たい汗が流れ続けていた。番のことに関して竜人に口出しするなど、その場で首をはねられてもおかしくない暴挙だ。僅かでも耳を傾けて貰えたのは、一番王に長く仕えている故の信頼だろうか。正直まだ混乱も残っているし、聞きたいことは山ほどある。なぜ王の番がただの猫なのか、一体どこからこの小さな黒猫はやってきたのか、ノエルという名前はどうやって知ったのか────けれど、それは全てが落ち着いてからだ。
大丈夫。長年王が狂うほどに求め続けていた番は見付かった。であれば、どんな問題も些末なこと。少なくとも今日もたらされる予定だった王の死以上の最悪はあり得ないのだから、良い方向へと向かうのは間違いない。自然、廊下を歩く足取りも軽くなる。
監禁といえば聞こえは物騒だが、そこに入るのはただの猫なのだから、動物を入れておくための檻の正しい使い道には違いない。番様のみならず我らが王もそこで休まれるのだから、久し振りに王宮仕えのものたちの腕が試されることになるだろう。竜王の番が黒猫だったのだと報告するのは骨が折れそうだし正気も疑われそうな話ではあるが、それは忠臣の腕の見せ所というもので。
王の要望には完璧に答えなければ。気合いを入れて息を深く吸い、来たときとは打って変わって明るく思える廊下を忠臣は駆けた。
─────今日は、我らが王が身罷られる日だ。
その知らせを、長年主の帰還を心待ちにしていた長命な仲間達に伝えるのが、どれほどの苦痛だったかは筆舌に尽くしがたい。目を見開き、唇を震わせて泣き崩れる仲間達に、とても掛ける声が見付からなかった。
竜人である王が、番を求めて探し始めてから、一体どれほどの時間が経ったのだろう。かつて人間が住めないほどに荒れ果てた地を、その求心力によって獣人達と開拓し繁栄させた偉大なる初代の獣人の王は、竜人だったという。初代と同じ種族である今代の獣人の王は、とても美しく理性的で、幼い頃からこれまでのどの王にも引けを取らないカリスマを兼ね備えていた。竜人と同じほどに長寿な亀の獣人である己は、きっと将来素晴らしい竜王をこの目で見届けることができると確信し、そんな主に仕えられる己を誇りに思って、この王が大陸の隅々まで名を馳せる日を心から楽しみにしていたのだ。
─────けれど、そんな夢を抱いていられたのも、思い出すことが難しいほどには昔の話で。
幼竜の頃は、己の番はどのような姿なのだろう、何の種族なのだろう、早く会いたいと楽しげに口にするだけだったはずの王が、いつまで経っても現れることのない番に絶望し。そうしてゆっくり、ゆっくりと狂っていくのを見るのは、この身が引き裂かれることよりも余程辛かった。
まだ、アダンが自ら牢に繋がれる前。気が狂いそうになりながら、死に物狂いで番を探していた時のことだ。この国に女児が産まれたら必ず竜王の番であるか確かめなければならない、破ったものは竜王直々に厳罰に処すという盟約を、竜の血と最上の儀式を用いて時間をかけて土地と結びつけたものだから、竜王が必死に番を探しているのは国中の知るところだった。それに何を思ったのか────確か何代か前に国外から入ってきた竜人に明るくない富豪が、番が見付からないのなら見付かるまで我が娘をお側に、と愚かにも勧めたことがあった。どうせ見付かりはしないだろう、と言う思惑が透けて見えた、あまりにも愚かな提案だった。
竜王は、ぺらぺらと己の娘を持ち上げるその富豪に、その場ではただ何を言うでもなく、底の知れない瞳でひとつ、笑って。
──────翌日から、その富豪に連なるものの姿を見たものはいなかった。その人間が、本当に生きていたという証拠の一片すらも。
この辺りからだろうか。偉大で民に畏れ慕われたアダンが、民から恐れられ、番狂いの哀れな竜王、などと呼ばれるようになったのは。不敬な、という怒りを当時は覚えたものだけれど、今思えば確かに、アダンはこの頃から急速に狂い始めていた。何かを探すようにふと視線を彷徨わせては、幾度か口を開閉して────けれど呼ぶ名前さえ知らないと気が付いて、その瞳を淀ませ。軍議の最中、何食わぬ顔で策を話しながら、己でも気付かぬ間に涙を零し。夜部屋で一人になれば、声にならない呻き声を上げては頭を掻き毟って。
─────それでも。己を閉じ込める鍵を託した時の王は、確かに理性を保った、誇り高き王だった。
己が番を直接探しに行けないことに、深い焦燥と怨嗟をその瞳にたたえながら、それでも王は、己の国を守ることを選んだ。番を見つけ出すという何よりも重い使命を、信頼する臣下に託して。そうして竜王の血をもってして作られた、この世の何よりも堅牢な枷を自らその手に嵌めた。とっくに狂いきり、何もかも破壊してもおかしくはなかった竜王のその理性が尊く、そしてどうしようもなく痛かった。そして僅かでもその時の王を後押ししたはずの、臣下に対する信頼に、何をもってしても応えるのだと、そう己に誓ったのだ。
───────それなのに。
己ができうる限りの手は尽くした、と言える。この国で産まれた女児を全て確認しなければならない盟約は今も変わらず続いていた。この国の者が獣人の王の定めた命令に逆らうなんてことはそもそも本能的に不可能であるはずだが、それでも可能性を捨てずに常に目を光らせている。しかし、国内はともかく国外ともなると捜索は本当に骨で、仲間の殆どはそちらに人員が割かれていた。獣人と人間が争っていたのは己の記憶からしてもかなり前のこととはいえ、種族が違うものだからやはり理解ができない部分もある。獣人の番というのはその筆頭で、世界中の女性から竜王の番を見付け出すという作業は、本当に労力の必要なものだった。
それでも、仲間達と共に数百年、寝食も疎かに走り回った。日々己の主の精神が摩耗していくのを感じるのはこの身が引き裂かれることの何倍も辛く、かつての王の栄光を思い出してはそれが取り戻されることを祈って祈って駆けずり回って。
──────そうして、辿り着いたのが。
『これ以上の、生き地獄は、耐えられない。……もう、どうか、楽に』
狂気の先の、諦念と絶望の底で壊れてしまった、主の懇願の声であるなんて、あんまりな悲劇だった。
引き留めたかった。偉大な王を、唯一の主を、こんな絶望の底で喪うなど、考えたくもなかった。────けれど、それは己ではなし得ないのだと、痛いほどに理解していた。竜王の狂おしいほどの番への執着を、一番近くで見ていたのは己なのだ。長い付き合いだからこそ、とうとう理性を灯してしまったその瞳に、何を言っても無駄なのだと分かってしまう。もう、どうしようもないのだと。
精々できることは、惨めに床に額を擦り付けて懇願し、せめてこの国の王として、少しでも相応しい最期を用意することくらいで。己の力不足のせいで死を選んだ主の、毒の杯を用意することがどれほどに苦しく惨めな時間だったか、きっと誰にもわからないだろう。
信頼できる古い知人に用意させた、本人の抵抗さえなければ竜にすらも効く、苦しまず眠るように死ぬことのできる毒薬。二人分頼んだとき、知人はもの言いたげに口を動かして、けれど何も言うことはなかった。きっと誰も己の意思を変えることはできないから、それがとてもありがたくて。
例え狂い壊れ果てようとも、己が主は、この国を統べる竜王────アダン様ただ一人。次代の獣人の王がどこかで生まることがあろうとも、己の王は彼の方以外にはありえない。己にとっての王が黄泉路を往くというのなら、伴が一人もいないなどありえない。きっと己が生きていようといまいと、王が気にすることはないだろう。それでもどうか、歴代の王が登ったであろう天界の梯子まで、見届けさせてほしかった。もうそれくらいしか、我が主にして差し上げられることがないのだから。
虚ろな瞳の王の身支度を丁寧に整え、迷いのないその背中を、やるせない気持ちでそっと見送ったあと。諸々の手回しを確認し、静かに己の部屋に戻るとほんの僅かな時間、己の長い生を懐古した。己は主の最も望むものを見つけ出せなかった、恥知らずな臣下であるけれど。それでも主に仕えていた時間は誇らしく、幸せであった。本当に情けない話だ。
苦く笑い、それから臣下があまり王に遅れてはならないと、一息に手元の毒杯を呷ろうとして──────……
『────動くな』
頭に響いた声と、これまで感じたことのない覇気に、ぶわ、と鳥肌が立った。空気がびりびりと震えそうな威圧にどくどくと心臓が暴れ出し、それなのに自然と血の気が引いていく。一本も動かせなくなった指先が自然と震え、取り落とした毒杯が派手な音を立てて床に転がった。一体、何が。─────いや、今の、声は。本能的な恐怖と困惑の合間に、じわりと湧き上がったのは、高揚と期待だった。
全ての獣人の頂点に君臨する、この国の王。どのような恐ろしく力のある獣人ですら尻尾を丸めて膝を折る、その声一つ、視線一つで全てを従わせる─────かつて全ての者を玉座の前に跪かせ、その名を轟かせた我が主。長い時の末に記憶の波に攫われたその威厳が、何もかもを見通す竜の眼差しが、埃を払うようにまざまざと脳裏に浮かんだ。
幾ばくか経ち、未だ思うようにはいかずとも、漸くほんの僅かに動くようになった老体に鞭を打って、転がるように部屋から出た。頭の中は真っ白だったが、追い立てられるように向かうのは────王宮の最高位である、我が主の寝室。
主が漸く得られる安寧を邪魔しないよう、誰も近付かぬようにと己が言いつけたはずの場所に、足音を取り繕う暇もなく駆けていく。鈍足な亀の獣人には酷な仕打ちであったけれど、どくどくと逸る心臓が、己を急かして仕方がなかった。
磨き抜かれた廊下を風情の欠片もなく走り、幾度も角を曲がった先。漸く見えた寝室に、とうとう足を止めた。ほんの僅かに開かれたままの扉から、未だ褪せることない王の気配を感じて。─────我らが王が、まだこの世に生きている。疑いようもなくそう確信して、情けないことにその場で腰が抜けそうなほどの安堵を覚えた。
王が黄泉路を往くのなら、伴をしない選択肢は存在しない。けれど、それでも、こんな終わりはあんまりだという気持ちがないはずもない。絶望のふち、全てを喪った王の、疲れ果てた諦念の果ての終焉など、望んでいるはずもないのだ。未だ夢現のままの思考で、つい先程まで忙しなく動かしていたはずの足を、ごく慎重にゆっくりと、一歩踏み出した。
ぎ、と重い音を立てて、目の間の重厚な扉が僅かに揺れる。窓が開け放たれたままなのだろうか、風の流れを感じる以外は不気味なほどに静かだった。それでも確かに、我らが主はここにいる。意を決して、喉を鳴らすとそっと扉の前から声をかけた。
「……アダン様……?」
返事はない。暫く逡巡し、申し訳程度に僅かに開け放たれたままの扉を小さくノックした。それにも返事がないのを確認し、覚悟を決めてそっと喉を鳴らす。今日全てに絶望し、この世を去るはずだった王に、一体何が起こったのか分からない。けれどそれでも、確信があった。
─────今日、この扉を開けたら。その瞬間、全てが変わる。
深く深く息を吐いてから、入りますよ、と声をかけ、そっとドアノブに手を掛けると慎重に開いていく。ぎぎ、と重い音を立てて開かれる扉を、面積を増す部屋から廊下に差す月の光を、どこか祈るような気持ちで見詰めていた。じりじりと開かれていく扉に、しかし己を咎める声が上げられることはなくて。
ふわ、とレースのカーテンが風に膨らむのが見えた。まるで窓に切り取られたような夜空の真ん中に浮かぶ満月が、部屋をぼんやりと照らしていて。そうしてその光を背に受けながら、我が主は寝台に腰掛けていた。きらきらと金糸が月の光を反射して、酷く幻想的な風景だった。臣下が部屋に押し入ってきたことなどとうに気が付いているはずなのに、その視線はただ一点のみに向けられている。装束に身を包んだ主の膝の上、白い服でなければ夜の闇に紛れてしまいそうな────寝ているのかぴくりとも動かない、真っ黒な影。
我が物顔で王の膝で眠っているのは、酷く小さな黒猫だった。
訳も分からず、聞きたいことが山とあるはずなのに、予想もしていなかった光景に咄嗟に声が出なかった。一体どうして、死を選んだはずの主がまだ生きているのか。不吉の象徴である黒猫をその膝に乗せているのか─────不躾に部屋に入ってきた己に気が付いているはずなのに、一寸たりともその黒猫から目を離そうとしないのか。
すぐに声を掛けようにも、異様な雰囲気にそれは躊躇われた。しかしその逡巡の間にふと脳裏に浮かんだのは、普段であればあまりにも不敬で首をはねられてもおかしくはない思考。つまりは──────己が死を選んだことすら忘れてしまうほどに、王が狂ってしまったのかもしれない、ということだった。しかしそんなことを考えてしまうほどに、瞬きすらしない王の様子は異様だったのだ。もし、────もし本当にそうであるならば、王をこの生き地獄から、代わりに解放してやらなければならない。己が、この手で。
そんな悲壮な覚悟を密かに決めながら、もう一度、今度は声量を上げて声を掛けた。それでもどこか遠慮がちな声になってしまうのは、見たことがない王の雰囲気に飲まれているからだろうか。
「アダン様。……一体何が……その黒猫は、」
「番だ」
「……は?」
「俺の、番。番、ノエル……やっと、……やっと、見付けた……本当に、漸く……!!……でも、逃げようとした。番なのに、やっと出会えたのに俺から逃げようとしたんだ。きっと、目を離したら、一瞬でも離したら、腕の中から消えて………ッ許さない、そんなことは死んでも許すものか。檻を、檻に入れないと。竜の血で作った檻なら、ノエルは逃げられない。永遠に、俺の傍に─────あぁ、ねぇ、ジスラン。彼女が、この世の何より美しい黒猫が、見えている?これは現実?幻覚か、今際の夢か……いっそそれでもいい。永遠に覚めないでくれるなら、それで……もう、それだけでいいんだ……!!」
「──────……」
訥々と、滲んだ声で王が零した言葉はどこまでも異様だった。不吉の象徴である黒猫が───それを差し引いたとしても、獣人ですらないただの猫が、竜である王の番?獣人の番がただの獣であるなど、長い生の中で一度も聞いたことがない。そもそも子ができないのでは、一番相性がいい相手が選ばれるはずの番の意味がない。長い生の中で直面したことのない事態に、にわかに頭が混乱して、幾度も同じ部分をぐるぐると思考が回って─────……
けれど。
─────王が己の名前を呼んだのは、一体何百年ぶりだろう。少なくとも王が檻に入った後、一度も呼ばれたことなどなかった。今の王の瞳を見れば、付き合いの長い自分は理解できてしまう。今の王は、どこまでも正気だ。そもそも例えどれほど狂い果てようとも、竜人が番を間違えることなどあり得ない。であれば、どれだけ前例のないことであろうと、あり得ないと思おうと、この眠っている小さな黒猫が、王の番なのだろう。確かに、その姿を見たときは驚いたけれど、不吉の象徴である存在が王の膝に乗っていることに不快感を覚えたけれど。
それなら────それなら、王は、もう今すぐに死を選ぶことはない。
その思考に至った瞬間、不吉の象徴である黒猫だとか獣人ですらないだとか、そんな些事は頭から飛んでしまった。じわ、と視界が滲んでいく。端から見れば、獣人ですらない黒猫を番と呼び執着するのは狂気の沙汰だろう。しかし細かいことなどどうでもよくて、王が明日も生きていける───それだけが、己にとって最も重要なことだった。若い頃であったなら、いくらか混乱し反発していたかもしれない。けれど今はただ、王が命を掛けるほどに求め続けたものが漸く、本当に漸く手に入ったことが、嬉しくて仕方がなかった。自然と膝を折り、忠誠を誓ったかつてと同じように頭を下げる。声が自然と情けなく震えてしまった。
「……確かに、私にも陛下の番様が見えております。これは現実であると、この陛下の忠実な臣下であるジスランが保障いたします。積年の苦節の末に、漸く……本当に、本当に、おめでとうございます、陛下……!!」
「……そう、現実……そう、か……─────あぁ、では、やはり檻を、すぐに……ノエルが逃げてしまう。俺の傍から、いなくなって……、許せない、そんなこと、何を犠牲にしようと許すものか……ッ!!今更、出会っておいて……そんなことになれば今度こそ、……そうだ、俺が入っていた檻に……鍵、ジスラン、鍵を」
うわごとのようにそう言うアダンの手は、黒猫に触れたまま僅かに震えていて、思わず胸が締め付けられた。恐らく先程王宮中に響いた王の命令は、この小さな黒猫一匹を引き留めるためのものだったのだろう。何百年と求め続けたものを目の前に差し出され、そうと思えば取り上げられそうになれば、それは死に物狂いにもなるはずだ。番に関してアダンは、一番最初から死に物狂いだったのだから尚更。けれど恐慌状態である王の行動を放置するわけにはいかない。それで番に何かあれば、彼は本当に今度こそ、取り返しがつかないほどに狂うだろう。忠言ができてこその忠臣だ。そっと頭を上げると、真っ直ぐにアダンを見上げた。
「陛下、心中お察しいたします。しかしどうか少しでも、御心をお鎮めください。────失礼ながら、陛下の番様は獣人ではなく、種族としては普通の猫であるとお見受けします」
「────だから、何」
ひやり、と首筋に刃物が当てられるような感覚がした。じわ、と背中に冷たい汗が浮かぶ。己の番を否定する気かと、言葉もないまま雄弁に問い掛けられていた。もしここで是と答えれば、己の首は主によって簡単に飛ぶだろう。けれど本能的に湧き上がる恐怖にそれでも奥歯を食い縛り、何とか言葉を続けた。
「酷なことを言うようですが……普通の猫であれば、相手が番であると認識することはできないでしょう。見慣れない人物が傍に来れば、猫が驚いて逃げてしまうのは決しておかしなことではありません。───けれどそれは、陛下が番様に拒絶されたことにはならないのですよ。初めは驚いてしまっても、これからいくらでも、関係を築いていくことができるのですから」
「…………」
人間や獣人であれば、一度信頼や好意を失えば取り戻すのは容易いことではない。けれど気まぐれで、欲を満たすことが第一の猫であれば、そう難しいことではないはずだ。少なくとも嫌がることをせず、好きなものを与えて慎重に接し続け月日が立てば、余程の人嫌いでないなら懐く可能性は高い。
「それから────番様を檻に入れると陛下がお決めになられたのであれば、止めることは致しません。けれど、竜の血は魔力耐性のない生き物には毒となります。それで作った檻では番様は血にあてられて酷く弱ってしまうでしょう。……最悪、番様を喪うことになってしまいます」
さ、と顔色を変えた主に、もう一度深々と頭を下げた。ここで首を飛ばされようと構わなかった。王が番を失う恐怖に囚われるあまり、番を喪って狂いきるなどという悲惨な未来を、止めることができるのなら後悔はない。
「陛下……アダン様。これから、番様と過ごせる時間は沢山あるのです。ですから、どうか今は─────賢明なご判断を」
ぎり、と歯を食い縛る音がした。きっと今主の中で、竜の本能と理性が戦っているのだろう。それでも、己はよくよく知っていた。我らが王は、誰よりも理性的な方だ。容易く狂うことすらできないほどに。未だ震える手で膝の上の黒猫を撫でながら、王は押し殺したような声で口を開いた。
「────竜の血の檻は……諦める。代わりに、部屋を、すぐに……ノエルが、目覚める前に。絶対に逃げ出せない部屋を。……それでも、快適に過ごせるようにしてくれ」
「御意。……用意が終わりましたら、アダン様もどうか、番様と同じ部屋でお休みください。もうどれほど、まともに休息を取られていないか……」
「……眠ったら、覚めてしまうかもしれない。ノエルが、……目の前から、消えて……」
「大丈夫です。これは現実で、部屋の周りは私ども総出で見張っておりますから。その疲れ切ったお顔では、目覚めた番様も驚かれてしまいますよ」
「………………」
ほんの僅かに王が逡巡し、それから小さく頷いたのを見て、心の中で大きく息を吐いた。堂々と話しているようでいて、背中にはずっと冷たい汗が流れ続けていた。番のことに関して竜人に口出しするなど、その場で首をはねられてもおかしくない暴挙だ。僅かでも耳を傾けて貰えたのは、一番王に長く仕えている故の信頼だろうか。正直まだ混乱も残っているし、聞きたいことは山ほどある。なぜ王の番がただの猫なのか、一体どこからこの小さな黒猫はやってきたのか、ノエルという名前はどうやって知ったのか────けれど、それは全てが落ち着いてからだ。
大丈夫。長年王が狂うほどに求め続けていた番は見付かった。であれば、どんな問題も些末なこと。少なくとも今日もたらされる予定だった王の死以上の最悪はあり得ないのだから、良い方向へと向かうのは間違いない。自然、廊下を歩く足取りも軽くなる。
監禁といえば聞こえは物騒だが、そこに入るのはただの猫なのだから、動物を入れておくための檻の正しい使い道には違いない。番様のみならず我らが王もそこで休まれるのだから、久し振りに王宮仕えのものたちの腕が試されることになるだろう。竜王の番が黒猫だったのだと報告するのは骨が折れそうだし正気も疑われそうな話ではあるが、それは忠臣の腕の見せ所というもので。
王の要望には完璧に答えなければ。気合いを入れて息を深く吸い、来たときとは打って変わって明るく思える廊下を忠臣は駆けた。
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