妄想女医・藍原香織の診察室

Piggy

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障害編

59話【off duty】林 惣之助:懺悔(藍原編)①

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 目が覚めた。窓ひとつない部屋は相変わらず殺風景で、あれからどれくらい時間が経ったのかわからない。ゆっくりと体を起こすと、体にかけられていた毛布がずり落ちた。いつの間にか、いつもの下着を身に着けていた。あたりは、すごく静かだ。見回すと、大きな布のキャンバスの裏側に、人影が見えた。人影が、キャンバスの後ろから言葉を発した。

「……お気づきになりましたか」
「……凛太郎くんは……?」

 喉から掠れた声が出る。

「彼は、帰りましたよ」

 そうなのか。何となく、納得する。

「どうぞ、服を着てください」

 見ると、ベッドの横の椅子に、あたしが着ていた服がきれいに折り畳まれていた。のろのろとベッドから下りて、服を着る。体中が痛かった。手首に、少しだけ赤く跡が残っている。

「……今、何時ですか」
「朝の6時です」

 よかった、仕事には間に合いそう。そんなことを考える。

「……申し訳ありませんでしたね」

 着替え終わるころ、林さんがそう呟いた。顔をあげると、キャンバスの後ろから、林さんが姿を現した。目の下のクマはひどくなってる。あれから、眠らずに絵を描き続けていたのだろうか。それでも、初めてこの部屋で会ったときとは違って、その瞳を覆うどろどろとした暗闇は、なりを潜めていた。少しだけ人間らしい光と、苦悩を抱えたようなくすんだ影、そして、今までの林さんからは一度も見たことがない色――ほんの少しの、後悔の色が、見えた。

「……自分のしたことは、わかっているつもりです。分別がないわけではありません。わかっていて、あえて、このような選択をした」

 感情の読み取れない声で、静かに林さんがいった。

「……警察へ、行かれますか」

 林さんの口から、突然不釣り合いなほど現実的な言葉が出てきて、びっくりした。

「……いえ……そんなことは……」

 そう答えた自分にも、びっくりした。警察なんて、考えもしなかった。あんなことがあったのに、あたしは驚くほど落ち着いていた。林さんが、ふっと笑う。

「藍原先生……あなたなら、そうおっしゃると思っていた……。そんなあなたの優しさに付け込んで、私は本当に、ひどい人間だ……」

 自嘲気味に言葉を漏らす林さんを見て、胸が掴まれたように痛くなる。

「ひどいだなんて……」
「いえ。私はひどい人間です。極悪人だ」

 林さんの語気が強くなった。

「私は、凛太郎くんが思い詰めているのを知っていた。私のために、あなたを騙して連れてこようとしているのも、わかっていた。なのに、止めなかった。凛太郎くんの気持ちを、利用したんですよ……。可哀想に、彼はいまだに、今回のことはすべて彼自身の責任だと思っていることでしょう。彼が、彼の気持ちに従って、勝手に起こしたことだと」

 そうかもしれない。でも、それで林さんがすべてを凛太郎くんになすりつけようとしているようには見えない。林さんも、苦しんでいる。それはひどく身勝手で許されないことかもしれないけど、それでも彼なりに、苦しんでいるんだ。

「私は不能だ。そして年老いて、病に体を蝕まれている。前にもいいましたね……自身の性の衝動は、ときとして創作活動の妨げになる。しかし、それを解き放ち、自ら経験することが、官能の境地への新たな道標になるのかもしれない……。その相反する思いの間で、揺れ動いた日々もありました。しかし今では、もう揺れ動くことすらできない。私にはもう、自ら扉を開く力は残っていない」

 そうなのだろうか。あたしは昨夜、確かに感じた――林さんは、不能かもしれないけれど、不感症ではない。昨夜確かに、林さんの瞳には情欲の炎が宿り、その体は熱く反応していた。だからこそ凛太郎くんだって、あんなに興奮して……。

「私はね……凛太郎くんの想いをも、利用した。彼の本心を知っていて、それを踏みにじり、不能な私に代わって、藍原先生、あなたから官能を引き出させた。……外道だ。外道のすることです」

 林さんの表情を見て、あたしははっとした。

「林さん……。あなた、知っていたんですか……? 凛太郎くんが、あなたを……」

 林さんは小さくうなずいた。

「彼の目に宿るものが、ただの敬愛ではないことには、気づいていました。気づきながら、あえて、気づかないふりをしていた……。彼を、利用するために。彼は、文字どおり、私に尽くしてくれた。彼はね、私のためになら、何だってする人間なんです。彼がゲイで、私を想っていることには気づいていました。それでも私は……自分のエゴのために、彼に、あなたを抱かせたのです。それも、私の目の前で。……彼の心は、どれほどの傷を負ったのか……」

 あたしを抱いていたときの、凛太郎くんの表情を思い出した。繊細で美しい顔が、隠しきれない情欲と、苦痛に歪んで――それすら美しいと思ったあたしは、林さんと同罪かもしれない。好きな人の前で、別の人を抱く。その姿に発情する想い人を見る。……どれほどの苦痛なのだろうか。でもそれは、林さんだけの責任ではない。凛太郎くんが、自分の意志で選んだ道なのだから。傷つくことがわかっていても、凛太郎くんは林さんのために、それをやってのけたのだ。

「……林さん。凛太郎くんはそれでも、あなたの役に立ちたいと願ったんです。あなたがそこまで自分を責めることではありません」

 そういったけど、林さんはかぶりを振った。

「違うんです……!」

 眉をひそめ、怒りにも似た口調で、初めて林さんが、感情的な声を出した。
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