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第四章 花嫁修行
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「それは光栄だ。既成事実ができた、というところで、身も心も私のものということだな」
「身も心もって、どこをどう取ったらそうなるのですか?」
真っ赤な顔で乙女が反論すると、綾鷹の長い腕が乙女に伸び、その手がポンポンと乙女頭を叩く。
「可愛いね。実にいい反応だ。しかし、他の男の前でその顔はしないこと。精々、私で慣れておくれ」
彼の手の下で、どういう意味だ、と乙女は睨み付けるが、綾鷹の方はどこ吹く風で脇のボタンを押す。すると運転手側と後部席を仕切るすりガラスがするすると開く。
「國光さん、確かこの辺りにオムレツライスの旨い食堂があったよね?」
「神田一番食堂でしょうか?」
そこはハイカラ食堂と呼ばれている、巷で噂の前衛的な食堂だった。
「あそこはビフテキも美味しゅうございますよ」
「流石は國光さん、いろいろ良く知っているな」
オムレツライスにビフテキ……乙女の喉がゴクリと鳴る。
「そこに行ってくれるかな」
「かしこまりました」
「あの……話の続きはどうなったのですか?」
「腹ペコでは話にならないだろう? すぐに怒り出すからな」
クッと笑いを噛み殺すと、綾鷹が乙女の顔を覗き込む。
「乙女は何が食べたい? あの店は他にも、ライスカレーやポークカツレツも評判だよ」
ライスカレーにポークカツレツ……美味なる物が次から次へと乙女の頭中に浮かんでは消える。
頬が緩みそうになるのを堪え、乙女は怒りのポーズで「呼び捨てですか?」と頬を膨らませる。だが、綾鷹の方が一枚も二枚も上だ。
「おや、知らないのかい? 異国の地ではそんな風に呼び合うのが普通なんだよ」
乙女は異国という言葉にすこぶる弱い。そう言われてしまうと何も言い返せない。
「で、好物は? 何が食べたい?」
「――オムレツライス。あの赤いトマトケチャップが好きなんです」
「なら、タップリかけてもらおう」
憮然と答える乙女に綾鷹は嬉しそうに微笑みを浮かべる。
その様子に乙女は、このお方はもしかしたら二重ではなく三重、四重人格かもしれないと思う。
そうこうするうちに車は大通りを進み、チンチン電車の脇を抜け、間口の広い高級店ばかりが並ぶ通りに入った。
「玉蘭館だわ!」
その中でも一際目立つ、著名な社交場を指差して乙女が歓喜の声を上げる。
「意外だな。乙女も舞踏会に興味があるのかい?」
月華の君のお伴で毎週のように訪れている綾鷹は、うんざりといった顔で尋ねる。
「そりゃあ。玉瀾館には外国の方が大勢お見えということですので、一度でいいですから参加して、いろいろお話をお聞きしたいなぁと思っております」
乙女の説明に綾鷹はクスッと笑って、「なるほど」と頷いた。
「これから行くのはその斜め前の店だけど、行きたいのなら今度連れて行ってあげようか?」
「本当ですか?」
綾鷹の申し出に乙女のテンションが一気に上がる――が、うまい話には裏がある。乙女はこの後、徐々にそのことを知っていくのだった。
「ここ、すっごく天井が高いですね!」
神田一番食堂は、外観もさることながら、店内も異国文化を存分に取り入れた造りとなっていた。
「シャンデリアが煌めいています。三方を彩るあのステンドグラスは、南の国で良く見られる模様ですよね?」
乙女は嬉々として瞳を輝かせ辺りを見回す。
「あっ、この曲、聴いたことがあります」
蓄音機から流れるバックミュージックは異国情緒豊かな陽気な音楽だった。それに合わせて、「いらっしゃいましぃ」と白いロングエプロンを着けた女給が出迎える。
「ここ、異様に顔面偏差値が高いお店ですね」
「それは美人が多いということかい?」
「ええ、そう思われませんか?」
乙女の質問に綾鷹は首を傾げる。
「何を以て美人と言っているのかが分からない。女給たちは一様に同じ格好で同じ化粧をしている。それがここの規定なのでは? 私は彼女たちよりも乙女の方が断然かわいいと思うよ」
綾鷹の答えに乙女の方が首を捻る。
「もしかしたら……視力が弱い?」
乙女の呟きが聞こえなかったようだ。綾鷹が「なるほど」と手を打つ。
「だから彼奴らがこぞってここに来るのだな」
彼奴らとは仕事仲間だそうだ。
「それに、著名な作家もお忍びでよく来ているそうだよ」
女給の案内で窓際のテーブル席まで来ると、綾鷹が乙女の椅子を引きながらそう耳打ちした。その手慣れたエスコートに乙女は何だかイラッとする。
「私みたいなヤクザな作家じゃなく著名な! ですか」
だから、嫌味のような言葉が口を突いて出てしまった。
「そんなに自分を卑下しなくても……こう見えて私は読書家でね」
女給に気付かれないように綾鷹が耳元で話す。彼の息が耳にかかり、乙女の耳たぶが赤く染まる。それに気付いた綾鷹はニヤリと笑い、ワザと耳元で話し続ける。
「君の作品を何冊か読んだが、なかなか筋はいいと思うよ」
さらに赤くなった乙女に気を良くしながら、綾鷹も向かいの席に着席すると、女給がメニューを渡しながら、「オーダーは後ほど伺いに参ります」と名残惜しそうにその場を辞した。
「どういうところがいいと?」
女給がいなくなったのを見計らって乙女が尋ねる。
「流れるような文体は良かった。でも……」
言葉を切った綾鷹に、乙女は「でも……何ですか?」と先を促す。
「君の作品には色気が足りない」
「色気って、厭らしい!」
乙女が眉間に皺を寄せると、綾鷹がプッと吹き出す。
「何を勘違いしているのか知らないが、破廉恥なシーンを増やせと言っているわけではない。君の方こそ、何を赤くなっているんだい? ああ、さっきのキス……」
「うわっ! それ以上言うのは止めて下さい!」
「まさにそういうところ。まだまだネンネだということだよ」
くっくっと笑いを噛み締めながら綾鷹が説明する。
「身も心もって、どこをどう取ったらそうなるのですか?」
真っ赤な顔で乙女が反論すると、綾鷹の長い腕が乙女に伸び、その手がポンポンと乙女頭を叩く。
「可愛いね。実にいい反応だ。しかし、他の男の前でその顔はしないこと。精々、私で慣れておくれ」
彼の手の下で、どういう意味だ、と乙女は睨み付けるが、綾鷹の方はどこ吹く風で脇のボタンを押す。すると運転手側と後部席を仕切るすりガラスがするすると開く。
「國光さん、確かこの辺りにオムレツライスの旨い食堂があったよね?」
「神田一番食堂でしょうか?」
そこはハイカラ食堂と呼ばれている、巷で噂の前衛的な食堂だった。
「あそこはビフテキも美味しゅうございますよ」
「流石は國光さん、いろいろ良く知っているな」
オムレツライスにビフテキ……乙女の喉がゴクリと鳴る。
「そこに行ってくれるかな」
「かしこまりました」
「あの……話の続きはどうなったのですか?」
「腹ペコでは話にならないだろう? すぐに怒り出すからな」
クッと笑いを噛み殺すと、綾鷹が乙女の顔を覗き込む。
「乙女は何が食べたい? あの店は他にも、ライスカレーやポークカツレツも評判だよ」
ライスカレーにポークカツレツ……美味なる物が次から次へと乙女の頭中に浮かんでは消える。
頬が緩みそうになるのを堪え、乙女は怒りのポーズで「呼び捨てですか?」と頬を膨らませる。だが、綾鷹の方が一枚も二枚も上だ。
「おや、知らないのかい? 異国の地ではそんな風に呼び合うのが普通なんだよ」
乙女は異国という言葉にすこぶる弱い。そう言われてしまうと何も言い返せない。
「で、好物は? 何が食べたい?」
「――オムレツライス。あの赤いトマトケチャップが好きなんです」
「なら、タップリかけてもらおう」
憮然と答える乙女に綾鷹は嬉しそうに微笑みを浮かべる。
その様子に乙女は、このお方はもしかしたら二重ではなく三重、四重人格かもしれないと思う。
そうこうするうちに車は大通りを進み、チンチン電車の脇を抜け、間口の広い高級店ばかりが並ぶ通りに入った。
「玉蘭館だわ!」
その中でも一際目立つ、著名な社交場を指差して乙女が歓喜の声を上げる。
「意外だな。乙女も舞踏会に興味があるのかい?」
月華の君のお伴で毎週のように訪れている綾鷹は、うんざりといった顔で尋ねる。
「そりゃあ。玉瀾館には外国の方が大勢お見えということですので、一度でいいですから参加して、いろいろお話をお聞きしたいなぁと思っております」
乙女の説明に綾鷹はクスッと笑って、「なるほど」と頷いた。
「これから行くのはその斜め前の店だけど、行きたいのなら今度連れて行ってあげようか?」
「本当ですか?」
綾鷹の申し出に乙女のテンションが一気に上がる――が、うまい話には裏がある。乙女はこの後、徐々にそのことを知っていくのだった。
「ここ、すっごく天井が高いですね!」
神田一番食堂は、外観もさることながら、店内も異国文化を存分に取り入れた造りとなっていた。
「シャンデリアが煌めいています。三方を彩るあのステンドグラスは、南の国で良く見られる模様ですよね?」
乙女は嬉々として瞳を輝かせ辺りを見回す。
「あっ、この曲、聴いたことがあります」
蓄音機から流れるバックミュージックは異国情緒豊かな陽気な音楽だった。それに合わせて、「いらっしゃいましぃ」と白いロングエプロンを着けた女給が出迎える。
「ここ、異様に顔面偏差値が高いお店ですね」
「それは美人が多いということかい?」
「ええ、そう思われませんか?」
乙女の質問に綾鷹は首を傾げる。
「何を以て美人と言っているのかが分からない。女給たちは一様に同じ格好で同じ化粧をしている。それがここの規定なのでは? 私は彼女たちよりも乙女の方が断然かわいいと思うよ」
綾鷹の答えに乙女の方が首を捻る。
「もしかしたら……視力が弱い?」
乙女の呟きが聞こえなかったようだ。綾鷹が「なるほど」と手を打つ。
「だから彼奴らがこぞってここに来るのだな」
彼奴らとは仕事仲間だそうだ。
「それに、著名な作家もお忍びでよく来ているそうだよ」
女給の案内で窓際のテーブル席まで来ると、綾鷹が乙女の椅子を引きながらそう耳打ちした。その手慣れたエスコートに乙女は何だかイラッとする。
「私みたいなヤクザな作家じゃなく著名な! ですか」
だから、嫌味のような言葉が口を突いて出てしまった。
「そんなに自分を卑下しなくても……こう見えて私は読書家でね」
女給に気付かれないように綾鷹が耳元で話す。彼の息が耳にかかり、乙女の耳たぶが赤く染まる。それに気付いた綾鷹はニヤリと笑い、ワザと耳元で話し続ける。
「君の作品を何冊か読んだが、なかなか筋はいいと思うよ」
さらに赤くなった乙女に気を良くしながら、綾鷹も向かいの席に着席すると、女給がメニューを渡しながら、「オーダーは後ほど伺いに参ります」と名残惜しそうにその場を辞した。
「どういうところがいいと?」
女給がいなくなったのを見計らって乙女が尋ねる。
「流れるような文体は良かった。でも……」
言葉を切った綾鷹に、乙女は「でも……何ですか?」と先を促す。
「君の作品には色気が足りない」
「色気って、厭らしい!」
乙女が眉間に皺を寄せると、綾鷹がプッと吹き出す。
「何を勘違いしているのか知らないが、破廉恥なシーンを増やせと言っているわけではない。君の方こそ、何を赤くなっているんだい? ああ、さっきのキス……」
「うわっ! それ以上言うのは止めて下さい!」
「まさにそういうところ。まだまだネンネだということだよ」
くっくっと笑いを噛み締めながら綾鷹が説明する。
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