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第一章 夢見る乙女
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四角い窓の向こうに霞のかかった紺碧の空が見える。それを見上げながら桜小路乙女は物憂げに質問する。
「ミミは異世界の存在を信じる? 和之国ではないどこか違う世界に行ってみたいと思わない?」
「お嬢様ったら、またそんな非現実的な空想話を!」
四月の空は柔らかく暖かい。なのにこの少女の声は冷たく尖った氷柱みたいだ。
彼女の名は三奈階ミミ。現在、乙女付きのメイドをしている。
「あらっ、絵空事ではなくてよ。かの有名な作家、チェリー・ブロッサムもここに書いているわ」
三センチほど幅のある本をかかげた乙女がドヤ顔でふんと鼻を鳴らす。
「お嬢様」
ふるふると頭を振ると、ミミは呆れたような眼差しで、「その作者は」と言いながら乙女を指差した。
「しっ!」
慌てて唇に人差し指を当て、「誰かいたらどうするのよ!」と乙女は部屋の中を見渡す。
乙女と覆面作家チェリー・ブロッサムが同一人物だと知っているのは、ミミと出版社〝蒼い炎〟の編集長黄桜吹雪だけだからだ。
「ん……?」
その視線が窓の辺りで止まると、乙女は首を傾げた。
「建て付けが悪いのかしら?」
窓は閉まっているのに薄手のカーテンがゆらゆらしているのだ。
乙女は眉間に皺を寄せると、「冬までに修繕が必要みたい」と渋い顔になる。
「また預貯金の心配ですか?」
「残高が減るのは我慢ならないわ」
「本当にお嬢様って……」
ミミは〝守銭奴〟という言葉を呑み込むと、「しっかりしてらっしゃいますね」と褒めるが、鋭い乙女がそれを見逃すはずがない。「言い淀んだわね?」と訝しげな眼差しを向ける。
だがミミはポーカーフェイスを保ったまま乙女を見つめ返すと、諭すように言葉を発した。
「だからといって、乙女様がお小遣い稼ぎをしなくても……」
桜小路は由緒正しい伯爵家だが、学者肌だった先々代が家庭を顧みなかったため、どんどん落ちぶれ、乙女の父親である大樹と代替わりした頃には、屋敷だけは立派だが、貧乏を絵に描いたような生活を送っていた。
それなのに……大樹もまた先代の血を色濃く継いだとみえ、海洋生物学の学者として研究にのめり込み、この五年、南洋の海に行ったまま梨の礫だった。
「そんなんじゃないもん」
唇を突き出す乙女は幼子のようだ。
「ひと頃に比べたら我が家の台所事情もずいぶん明るくなったし……」
姉の女々が実業家に嫁いだ後、兄の萬月が芸術大学校の講師になったのだ。
「お兄様とお姉様の援助で、私も無事に十五年教育を終了したし……」
この国の義務教育は三歳から十七歳まで。
「そんな恩義を受けておきながら、女々様や萬月様を裏切るような行為を」
着物の袖口で涙を拭うミミに、「泣き真似はよして」と乙女が溜息を吐く。
和之国で恋愛小説は禁忌とされ、その活動を行うものは反逆罪に問われる。それ故、ミミは心から乙女を心配しているのだ。
「では、このことが万が一、奥様に知れたら?」
「ちょっちょっと、お母様のことは言わないで!」
乙女の母親一葉は一見楚々とした貴婦人だが、極楽とんぼの夫を海よりも広く深い心で愛し支えてきた豪胆な女性だった。要するに、怒ると鬼より怖いということだ。
「ほらご覧なさい。お嬢様だって奥様に叱られるのは恐ろしいのでしょう?」
時々、乙女は思う。間もなく十八歳になる自分よりも、年下のミミの方がずっと年上に見えると。
ミミが桜小路家に行儀見習いに入ったのは、彼女が十六歳の誕生日を迎えた次の日だった。
ちなみに、行儀見習いとは、男爵以下の爵位を持つ家の女子が、十五年教育中に伯爵以上の家で、二年間奉公をしながら淑女の嗜みを習得することだ。
行き先は各々が話し合いで決めるのだが、当初、ミミの両親は愛娘が選んだ先だとしても、桜小路家ということに難色を示していた。理由は明白。貧乏だからだ。
だが、そこは腐っても伯爵家。いくら貿易商として財を成した男爵家であろうとも、三奈階家より断然格は上だった。それ故、ミミの両親も渋々だが承知せざる得なかったようだ。
しかし、乙女はミミがどうして我が家を選んだのか不思議だった。
ただ、もしかしたら、と思うことはあった。どんな経緯で知り合ったかは分からないが、ミミが兄に恋心を抱いているのでは、と思ったのだ。
「ミミは異世界の存在を信じる? 和之国ではないどこか違う世界に行ってみたいと思わない?」
「お嬢様ったら、またそんな非現実的な空想話を!」
四月の空は柔らかく暖かい。なのにこの少女の声は冷たく尖った氷柱みたいだ。
彼女の名は三奈階ミミ。現在、乙女付きのメイドをしている。
「あらっ、絵空事ではなくてよ。かの有名な作家、チェリー・ブロッサムもここに書いているわ」
三センチほど幅のある本をかかげた乙女がドヤ顔でふんと鼻を鳴らす。
「お嬢様」
ふるふると頭を振ると、ミミは呆れたような眼差しで、「その作者は」と言いながら乙女を指差した。
「しっ!」
慌てて唇に人差し指を当て、「誰かいたらどうするのよ!」と乙女は部屋の中を見渡す。
乙女と覆面作家チェリー・ブロッサムが同一人物だと知っているのは、ミミと出版社〝蒼い炎〟の編集長黄桜吹雪だけだからだ。
「ん……?」
その視線が窓の辺りで止まると、乙女は首を傾げた。
「建て付けが悪いのかしら?」
窓は閉まっているのに薄手のカーテンがゆらゆらしているのだ。
乙女は眉間に皺を寄せると、「冬までに修繕が必要みたい」と渋い顔になる。
「また預貯金の心配ですか?」
「残高が減るのは我慢ならないわ」
「本当にお嬢様って……」
ミミは〝守銭奴〟という言葉を呑み込むと、「しっかりしてらっしゃいますね」と褒めるが、鋭い乙女がそれを見逃すはずがない。「言い淀んだわね?」と訝しげな眼差しを向ける。
だがミミはポーカーフェイスを保ったまま乙女を見つめ返すと、諭すように言葉を発した。
「だからといって、乙女様がお小遣い稼ぎをしなくても……」
桜小路は由緒正しい伯爵家だが、学者肌だった先々代が家庭を顧みなかったため、どんどん落ちぶれ、乙女の父親である大樹と代替わりした頃には、屋敷だけは立派だが、貧乏を絵に描いたような生活を送っていた。
それなのに……大樹もまた先代の血を色濃く継いだとみえ、海洋生物学の学者として研究にのめり込み、この五年、南洋の海に行ったまま梨の礫だった。
「そんなんじゃないもん」
唇を突き出す乙女は幼子のようだ。
「ひと頃に比べたら我が家の台所事情もずいぶん明るくなったし……」
姉の女々が実業家に嫁いだ後、兄の萬月が芸術大学校の講師になったのだ。
「お兄様とお姉様の援助で、私も無事に十五年教育を終了したし……」
この国の義務教育は三歳から十七歳まで。
「そんな恩義を受けておきながら、女々様や萬月様を裏切るような行為を」
着物の袖口で涙を拭うミミに、「泣き真似はよして」と乙女が溜息を吐く。
和之国で恋愛小説は禁忌とされ、その活動を行うものは反逆罪に問われる。それ故、ミミは心から乙女を心配しているのだ。
「では、このことが万が一、奥様に知れたら?」
「ちょっちょっと、お母様のことは言わないで!」
乙女の母親一葉は一見楚々とした貴婦人だが、極楽とんぼの夫を海よりも広く深い心で愛し支えてきた豪胆な女性だった。要するに、怒ると鬼より怖いということだ。
「ほらご覧なさい。お嬢様だって奥様に叱られるのは恐ろしいのでしょう?」
時々、乙女は思う。間もなく十八歳になる自分よりも、年下のミミの方がずっと年上に見えると。
ミミが桜小路家に行儀見習いに入ったのは、彼女が十六歳の誕生日を迎えた次の日だった。
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だが、そこは腐っても伯爵家。いくら貿易商として財を成した男爵家であろうとも、三奈階家より断然格は上だった。それ故、ミミの両親も渋々だが承知せざる得なかったようだ。
しかし、乙女はミミがどうして我が家を選んだのか不思議だった。
ただ、もしかしたら、と思うことはあった。どんな経緯で知り合ったかは分からないが、ミミが兄に恋心を抱いているのでは、と思ったのだ。
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