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Risoluto 〔決然と〕

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その日はよく眠れなかった。真尋もそうだったのだろう。隣の気配はずっと尖ったままだった。朝の生放送のために早く起きなければいけなかったのは確かだが、それよりも遥かに早く起き出して家を出ていった。
その背を見送って、奏始はぼんやりとピアノの前に座った。
ああ、バレたとそう思った時、涙を流すでもなく、崩れ落ちるでもなく、最初に思ったのは、次に働く場所を探さなきゃな、ということだった。世間のΩへの風当たりは厳しい。このピアノにももう触れることはなくなるんだろう。そっと鍵盤をなぞると、喉の奥から悲鳴のような叫びが漏れそうになって、奏始はぐっと唇を噛み締めた。昨日からずっと、頭の芯がじんと痺れたようになって、うまく自分をコントロールできない。
知らず、呼吸が浅くなっていたことに気が付いて、目を閉じた。すうと、息を深く吸い込む。
もう足掻いても仕方がない。ピアニストとして生きることのできた時間は短かった。でも奏始の人生の中で、最上の幸運だった。幼い日の夢を叶えた。もういいだろう。
そんな思いがしんと胸に落ちた。
いつか演奏会のために準備したスーツケースを引っ張り出す。最低限の服や、日用品。通帳にパスポート。楽譜は入れない。最後に電源を落としたスマホをポケットに突っ込んで、奏始は家を出た。

マンションのエントランスを出ると、あっという間に記者に囲まれた。もはや笑えてきて、隠すために俯く。俺なんかにカメラを向けてどうなるというのか。暇にもほどがある。
 
「ちょっとインタビューよろしいですか?」
「香坂さん! あなたがΩだというのは本当ですか!?」
「宮瀬さんとのご関係は?」
「今まで世間を騙してきたことについて何かありますか?」
 
矢継ぎ早の声が突き刺さる。まるで犯罪者になったようだ。いや、Ωの身で舞台に立つという暗黙の了解を破っていたという点ではあながち間違いではないのか。何かを言う気力もなく、頭を下げて通り過ぎようとした奏始を呼び止めるように声がかかった。
 
「これまでの舞台は全てあなたが体で?」
 
思わず足を止めて振り返った奏始に、してやったりという笑みを浮かべてマイクやレコーダーが突き付けられる。ああ、奏始がここで何も言わずに去るということは、こういう下品な問いを肯定したことになるのか。自分だけならそれでもいい。でも、真尋にそんな下卑た目を向けられるのだけは許せなかった。ゆっくりと記者たちに向き直ると、真正面からカメラのフラッシュが焚かれる。目を細めると、その光に紛れて他にもカメラが向けられているのが見えた。どれだけの人が俺に同情し、そして嘲っているのだろう。
 
「……今までΩだということを言わずに活動していたこと、深くお詫びします。申し訳ありませんでした」
 
頭を下げると、シャッターの音がまるで喝采の拍手のように響いた。目の端が熱くなって、深く息を吸い込む。あくまで毅然とした態度を繕って再び顔を上げた。
 
「これだけは、お伝えさせてください。これまで一緒にやってきた宮瀬を始め、その他関係者の皆様とは、何らかの利益を得る目的で関係を持ったことは一度もありません。常に抑制剤を服用し、フェロモンを抑えるようにしていました。これらに関して、私を非難するのはいいですが、他の方にご迷惑をおかけすることだけはご容赦ください」
 
記者が必死にメモを取っているのが見える。こんな俺の発言にどんな価値があるのか。そんなことを思うとおかしくなって、口の端を少し緩めると、奏始にカメラを向けていた記者の眉が寄るのが見えた。
 
「ご自身の行動に対してどう責任を取るおつもりですか?」
 
「……もう二度と人前でピアノを弾きません、と言えばいいですか?」
 
それでいいんだろう? 問いかけるように視線をやると、記者の目が一層批難の色を帯びた。彼女はαなんだろうか。βなんだろうか。綺麗にピンクに塗られた長い爪が視界に入る。彼らは一体何に憤っているのだろう。俺がΩだと言わなかったことか、Ωなんかが舞台に立ったことか。彼らはこれまでに奏始の音楽に興味を抱いたことはあったのだろうか。
 
「一つ、聞いてもいいですか? 俺の音楽はどうでしたか? 今後俺はあなたの目の前で舞台に立つことはないでしょう。だから最後に聞かせてください。あなたは生の演奏を、いや動画でもいい、俺のピアノを聞いてくれたことはありますか?」
 
問いかけると、これまで滑らかに奏始の発言を綴っていたピンクの爪がぴくりと惑った。
 
「いえ……いえ、ありません」
 
「そうですか。ではあなたは?」
 
「いや……」
 
「あなたは?」
 
奏始は目の前にいる記者たち一人一人を指して問うた。理由が知りたかった。彼らはなぜ、奏始に怒りを向けているのか。返ってくるのは否定か沈黙ばかり。ふつふつと腹の底から怒りが沸き上がってくるのがわかる。
 
「俺はなぜピアノを弾いてはいけないんでしょう」
 
「それは、あなたがΩだから」
 
「Ωだからダメなんですか?」
 
「フェロモンで聞く人を惑わすから」
 
「ずっと抑制剤を飲んでいました。それでも?」
 
「抑制剤は絶対ではありません! αを惑わすことは十分にあります!」
 
「あなたは? βかαですか? 今の俺からは何か感じますか?」
 
「ええ! フェロモンの香りがしますよ!」
 
こみあげてくるのが怒りなのか、笑いなのか、悲しみなのか、もう自分ではわからなかった。
音楽は奏始の全てで、ピアノがないと生きていけない。それらを取り上げられる理由は奏始がΩだから? 奏始が言わなかったのが悪かった? わざわざΩだと公表する必要があるのか? αやβにはそんなこと求めないのに?
馬鹿馬鹿しい。この世はなんて愚かなんだ。そして奏始も愚かだった。なぜピアノを弾いてはならないんだ? 奏始は弾きたいからピアノを弾く。それ以外には何もいらない。暗く塞がっていた視界がぱっと開けた気がした。真尋は今どうしているだろう。生放送でどんな演奏しているんだろうか。最低な出来だったら笑ってやろう。目の前の記者たち、その向こうにいる無数の目、奏始はそれらに背を向けた。踵を返した奏始を呼び止める声がかかる。ちらりと振り返って、べ、と舌を出してやった。

「1つ嘘つきなあなたたちに、本当のことを教えてあげますよ。今、あなたが俺のフェロモンを感じ取れるわけがないんです。絶対にね」

奏始を咎める声があがる。でも、そんなこと、もうどうでもよかった。


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