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Presto 〔急速に〕
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満員のホールにチェロの音色が響き渡る。
とうとうコンサート当日を迎えてしまった。
いや、それどころか出番は次に迫っている。
そっと隣に立つ宮瀬を見上げてみる。ぼんやりと舞台を見つめる宮瀬と視線が絡むことはなかった。
一昨日、リッキーとの顔合わせを終えた後から宮瀬の様子が変だ。心ここにあらずという雰囲気で、会話のテンポが遅い。何を考えているのだろうか。目を伏せて、彫像のように動かない時間が多い。しかし、そうかと思えばやけに真面目くさった顔で奏始をまじまじと見ている時もある。いったいなんなんだ。昨日のリハーサルだって、いつもの演奏とは程遠い出来だった。言い表すなら、情緒不安定という言葉がしっくりくる。リッキーも困ったように首を傾げていたから、これは奏始の思い過ごしではないだろう。
演奏会の前、不安定になるのはいつも奏始だった。どうしても不安なのだ。本当に人に聞かせるような演奏が出来ているのか。自分なんかが舞台に立っていいのか。オメガのくせにこんなこと。ぐるぐるとそんな思考から抜け出せなくなる。でも、宮瀬はいつだってどっしりと構えていた。揺らぐ奏始を皮肉げな口調で鼓舞し、芯を入れてくれる。
そんな宮瀬が今、揺らいでいる。でも不思議と不安はなかった。まあ、こいつだってそういう時はあるよな。今日は俺がやってやるか。そんな心持ちだった。なんならいつもより落ち着いている自覚がある。きっと奏始の覚悟が決まったからだ。自分なりに安定していた仕事を辞めた。いつどうなるかわからない、演奏家という道をとった。オメガである自分には厳しい道になるかもしれない。それでも宮瀬の期待に応えたいという想いがあった。だからこそ、宮瀬が揺らいでいる今、自分が落ち着いている。だってパートナーだろう。支え合うために俺はいる。
薄暗い舞台袖。宮瀬の表情は影になっていてよく見えない。
「宮瀬」
そっと声をかけてみた。やっと視線が絡む。
「ん?」
「そろそろだな」
「あぁ。……不安か?」
不安なのはお前だろう、とは口に出さなかった。何と言おうか迷って、曖昧に唇を開く。「大丈夫だよ」「頑張ろうな」どれも違う気がした。その逡巡に宮瀬の低い声が割って入った。
「大丈夫だ。お前は世界一のピアニストだからな」
は、と短い息が漏れた。影の中、宮瀬の目だけがはっきり見えた。熱の籠もったギラギラと輝く目。
「なんだよそれ……」
「事実だ。俺は……今日はお前のために弾くからな。よく聞いておけよ」
「は? どういう意味?」
「そのままの意味だ」
はは、と笑いが溢れた。なんだか知らないけど勝手にナーバスになってて。しかも自覚ないし。そんで励まそうと思ったらそれかよ。クソ、敵わない。こうなったら舞台の上で見せつけてやる。
会場を震わすほどの拍手が聞こえてくる。ついに奏始たちの出番だ。
「行くぞ」
宮瀬に続いて舞台に出ると、観客の視線が俺たちを包みこんだ。拍手の音が遠く感じる。でもその圧だけはしっかりと肌に感じて、少し圧倒される。でも思っていた程ではなかった。きっと宮瀬のせいだ。俺のことを世界一のピアニストだと言う男と共に舞台に立っているのだ。怖気づいてなんていられない。
最初の曲は宮瀬のヴァイオリンからだ。奏始は数小節遅れて弾き始める。リハーサル時にはあれだけ情緒不安定な音を出していたくせに、いざ本番となると宮瀬はしれっと落ち着いた音楽を奏で始めた。こういうところが宮瀬が宮瀬たる所以なんだろう。
でもさ、お前が求めてるのってそんなことじゃないんだろ。あの日。あの夜。あの場所で。宮瀬が俺に声をかけた理由を詳しく聞いたことはない。でもなんとなくわかる気がする。
なあ、もっと自由にやろうぜ。そんな綺麗な音楽をやりたいのなら俺に声をかける必要なんてなかっただろ。底辺を這いずって生きてきた俺を、こんなところまで引っ張り出してまで得たかったものは何だ。さあ、ついてこいよ。俺に黙ってついてこい。額縁を飛び出して、自由に世界を広げたらいい。全力で歌え。
俺の音に宮瀬がノッてくるのがわかる。
な? 楽しいだろ? もっともっとやろう。だって俺は世界一のピアニストなんだろう?
応えたい、と強く思った。泣きたい程の衝動だった。宮瀬の信頼に全力を賭して応えたい。お前ばかりじゃない、俺も一緒に歩いていくからと、伝えたい。
奏でられる音の途中。呼吸を合わせるために、視線が合う。思わず息を呑んだ。宮瀬が笑っている。眉を下げてくしゃりと崩された表情に心臓が跳ねた。動揺する奏始に追い打ちをかけるように宮瀬がまた楽しげに笑う。柔らかく弧を描いた唇が、何か動きを作った。「お前ほんと最高」そう読み取って、奏始は思わず鍵盤を外しかけた。
なんっなんだ本当に。冷静に演奏し始めたかと思えば、やっぱり情緒不安定だった。内心大荒れの奏始を他所に、宮瀬の音はどんどん色を付けていく。なんて優しい音を出すんだよ。そんなの今まで聞いたことない。そんな、まるで愛を語るみたいな音。
その音を感じた瞬間、奏始は胸がきゅっと締め付けられる感覚を覚えた。あぁ、心臓が痛い。そんなのずるいだろ。俺のために弾くからって言っといて、お前はそんな音出すのかよ。
そんなのありかよ。
自然と自分の奏でる音が変わるのがわかった。
宮瀬が驚いたように、またこちらに視線を寄越す。
なあ、俺って今最高に恥ずかしいかも。こんな音が出せるなんて自分でも知らなかった。
こんな誰かへの愛しさを乗せた音なんて。
とうとうコンサート当日を迎えてしまった。
いや、それどころか出番は次に迫っている。
そっと隣に立つ宮瀬を見上げてみる。ぼんやりと舞台を見つめる宮瀬と視線が絡むことはなかった。
一昨日、リッキーとの顔合わせを終えた後から宮瀬の様子が変だ。心ここにあらずという雰囲気で、会話のテンポが遅い。何を考えているのだろうか。目を伏せて、彫像のように動かない時間が多い。しかし、そうかと思えばやけに真面目くさった顔で奏始をまじまじと見ている時もある。いったいなんなんだ。昨日のリハーサルだって、いつもの演奏とは程遠い出来だった。言い表すなら、情緒不安定という言葉がしっくりくる。リッキーも困ったように首を傾げていたから、これは奏始の思い過ごしではないだろう。
演奏会の前、不安定になるのはいつも奏始だった。どうしても不安なのだ。本当に人に聞かせるような演奏が出来ているのか。自分なんかが舞台に立っていいのか。オメガのくせにこんなこと。ぐるぐるとそんな思考から抜け出せなくなる。でも、宮瀬はいつだってどっしりと構えていた。揺らぐ奏始を皮肉げな口調で鼓舞し、芯を入れてくれる。
そんな宮瀬が今、揺らいでいる。でも不思議と不安はなかった。まあ、こいつだってそういう時はあるよな。今日は俺がやってやるか。そんな心持ちだった。なんならいつもより落ち着いている自覚がある。きっと奏始の覚悟が決まったからだ。自分なりに安定していた仕事を辞めた。いつどうなるかわからない、演奏家という道をとった。オメガである自分には厳しい道になるかもしれない。それでも宮瀬の期待に応えたいという想いがあった。だからこそ、宮瀬が揺らいでいる今、自分が落ち着いている。だってパートナーだろう。支え合うために俺はいる。
薄暗い舞台袖。宮瀬の表情は影になっていてよく見えない。
「宮瀬」
そっと声をかけてみた。やっと視線が絡む。
「ん?」
「そろそろだな」
「あぁ。……不安か?」
不安なのはお前だろう、とは口に出さなかった。何と言おうか迷って、曖昧に唇を開く。「大丈夫だよ」「頑張ろうな」どれも違う気がした。その逡巡に宮瀬の低い声が割って入った。
「大丈夫だ。お前は世界一のピアニストだからな」
は、と短い息が漏れた。影の中、宮瀬の目だけがはっきり見えた。熱の籠もったギラギラと輝く目。
「なんだよそれ……」
「事実だ。俺は……今日はお前のために弾くからな。よく聞いておけよ」
「は? どういう意味?」
「そのままの意味だ」
はは、と笑いが溢れた。なんだか知らないけど勝手にナーバスになってて。しかも自覚ないし。そんで励まそうと思ったらそれかよ。クソ、敵わない。こうなったら舞台の上で見せつけてやる。
会場を震わすほどの拍手が聞こえてくる。ついに奏始たちの出番だ。
「行くぞ」
宮瀬に続いて舞台に出ると、観客の視線が俺たちを包みこんだ。拍手の音が遠く感じる。でもその圧だけはしっかりと肌に感じて、少し圧倒される。でも思っていた程ではなかった。きっと宮瀬のせいだ。俺のことを世界一のピアニストだと言う男と共に舞台に立っているのだ。怖気づいてなんていられない。
最初の曲は宮瀬のヴァイオリンからだ。奏始は数小節遅れて弾き始める。リハーサル時にはあれだけ情緒不安定な音を出していたくせに、いざ本番となると宮瀬はしれっと落ち着いた音楽を奏で始めた。こういうところが宮瀬が宮瀬たる所以なんだろう。
でもさ、お前が求めてるのってそんなことじゃないんだろ。あの日。あの夜。あの場所で。宮瀬が俺に声をかけた理由を詳しく聞いたことはない。でもなんとなくわかる気がする。
なあ、もっと自由にやろうぜ。そんな綺麗な音楽をやりたいのなら俺に声をかける必要なんてなかっただろ。底辺を這いずって生きてきた俺を、こんなところまで引っ張り出してまで得たかったものは何だ。さあ、ついてこいよ。俺に黙ってついてこい。額縁を飛び出して、自由に世界を広げたらいい。全力で歌え。
俺の音に宮瀬がノッてくるのがわかる。
な? 楽しいだろ? もっともっとやろう。だって俺は世界一のピアニストなんだろう?
応えたい、と強く思った。泣きたい程の衝動だった。宮瀬の信頼に全力を賭して応えたい。お前ばかりじゃない、俺も一緒に歩いていくからと、伝えたい。
奏でられる音の途中。呼吸を合わせるために、視線が合う。思わず息を呑んだ。宮瀬が笑っている。眉を下げてくしゃりと崩された表情に心臓が跳ねた。動揺する奏始に追い打ちをかけるように宮瀬がまた楽しげに笑う。柔らかく弧を描いた唇が、何か動きを作った。「お前ほんと最高」そう読み取って、奏始は思わず鍵盤を外しかけた。
なんっなんだ本当に。冷静に演奏し始めたかと思えば、やっぱり情緒不安定だった。内心大荒れの奏始を他所に、宮瀬の音はどんどん色を付けていく。なんて優しい音を出すんだよ。そんなの今まで聞いたことない。そんな、まるで愛を語るみたいな音。
その音を感じた瞬間、奏始は胸がきゅっと締め付けられる感覚を覚えた。あぁ、心臓が痛い。そんなのずるいだろ。俺のために弾くからって言っといて、お前はそんな音出すのかよ。
そんなのありかよ。
自然と自分の奏でる音が変わるのがわかった。
宮瀬が驚いたように、またこちらに視線を寄越す。
なあ、俺って今最高に恥ずかしいかも。こんな音が出せるなんて自分でも知らなかった。
こんな誰かへの愛しさを乗せた音なんて。
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