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Sciolto 〔自由に〕
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初めての海外渡航なのだろう、香坂は出立の空港から興奮しっぱなしだった。あっちへこっちへとふらふらと興味の対象を移す香坂はまるで犬のようだった。人に対してリードが欲しいと思ったのは人生で初めてのことだ。
「おい、ふらふらすんな」
「ねえ、あれ何?」
「は? ただのベンチだろ」
「うっそだー! ベンチがあんな変な形してるわけない」
「なんで今俺が嘘をつく必要があるんだ。ああいう形のベンチもあるんだよ。受け入れろ」
「あっ、あれは?」
お前は子どもか!と言いたくなるのをぐっとこらえる。この時間は一体なんなんだ。慣れているはずの旅程なのに既に疲労を感じる。でも「ちょっと黙ってろ」なんて言うのは、香坂にとって初めての体験に水を差すような気がしたし、何より多少うるさくはあれど、明らかに目がキラキラと輝いている香坂は、なんというか、可愛かった。また新しい表情を見た。無邪気かと思えば、時折ひどく老成した雰囲気を漂わせる。初対面のアルファに噛みついてくる気概があるかと思えば、ふと底なしの諦観を見せることもある。掴み切れない。でもそれが楽しい。
だが、こういうことを前触れ無しに溢すのはやめてほしい。
「ねえ、オメガでもこんなにスムーズに出国できるんだね。俺、もっと検査とかされるのかと思ってた」
フランスで税関を抜けた香坂の言葉だ。真尋は己が渋い表情になるのを必死に堪えた。
コンサートホール近くのホテルにチェックインしてすぐ、真尋と香坂はスタジオに向かった。指を慣らし、最後の調整をするためだ。リッキーがお墨付きをくれたスタジオの音響施設は確かに良いものだった。チューニングを始める真尋のそばで、静かにスケールを弾いてピアノを確かめていた香坂が「あのさ」と凪いだ声で真尋を呼んだ。
「ん?」
「俺、ここに来る前に仕事辞めてきたんだよね」
「……は!?」
思わずデカい声を出した真尋に、香坂はわずかに笑みをこぼした。いや、ちょっと待て。急になんなんだ。動揺する真尋に対して、香坂は真面目くさった顔でピアノ椅子の上に胡坐をかいている。
「いや、ね。このままたくさんコンサートとか出ていくなら仕事続けるのは無理だなって」
「まあ……それはそうだが」
「今の工場はオメガでも発情期に合わせて雇ってくれるような、そこそこ働きやすいところで……これを失うって結構悩んだんだけど。でもさ、二つは同時にできないよなって。どっちかに気持ちの比重が偏ってるなら尚更」
これまでの生活の基盤と、これからの挑戦。その二つを天秤にかけて選んだのだと香坂は言った。
「だからさ、伝えておきたくて。俺、宮瀬ともっと音楽やりたい。本気だからね。……本気になっていいんだよね?」
まっすぐにこちらを見据えていて香坂が、ふっと視線を逸らす。その先には真尋のヴァイオリンがあった。こみあげてきた感情を飲み下すのに、自分の喉がぐっと鳴ったのを感じた。
応えたいと強く思った。誰が聞くでもないバーの片隅でピアノを弾いていたこいつを、舞台に引きずり出したのは俺だ。オメガだからと拒んでいた香坂をここまで引っ張り出して、本気にさせた。自分ばかりが香坂から音を引き出されて、そして足りないものを補ってもらっていると思っていた。香坂が今伝えてきたのは、その否定だ。互いに本気だからと、お前に人生を乗せるからと、その言葉の重さに唇が緩むのが止められなかった。俺が見つけて、俺が本気にさせた。もっと一緒に弾きたい。香坂の期待に、香坂が賭けたものの大きさに応えたい。全ての不安を払い、あらゆることから守りたい。
こみ上げる数多の感情を飲み下して、真尋は香坂をまっすぐに見返した。
「当たり前だろ。そもそも俺は最初から本気だ」
香坂はくしゃりと顔をゆがませて笑った。背を叩きたいのか、それとも思い切り抱きしめたいのか、自分でもよくわからない衝動を真尋はまたしてもやり過ごすことになった。
「おい、ふらふらすんな」
「ねえ、あれ何?」
「は? ただのベンチだろ」
「うっそだー! ベンチがあんな変な形してるわけない」
「なんで今俺が嘘をつく必要があるんだ。ああいう形のベンチもあるんだよ。受け入れろ」
「あっ、あれは?」
お前は子どもか!と言いたくなるのをぐっとこらえる。この時間は一体なんなんだ。慣れているはずの旅程なのに既に疲労を感じる。でも「ちょっと黙ってろ」なんて言うのは、香坂にとって初めての体験に水を差すような気がしたし、何より多少うるさくはあれど、明らかに目がキラキラと輝いている香坂は、なんというか、可愛かった。また新しい表情を見た。無邪気かと思えば、時折ひどく老成した雰囲気を漂わせる。初対面のアルファに噛みついてくる気概があるかと思えば、ふと底なしの諦観を見せることもある。掴み切れない。でもそれが楽しい。
だが、こういうことを前触れ無しに溢すのはやめてほしい。
「ねえ、オメガでもこんなにスムーズに出国できるんだね。俺、もっと検査とかされるのかと思ってた」
フランスで税関を抜けた香坂の言葉だ。真尋は己が渋い表情になるのを必死に堪えた。
コンサートホール近くのホテルにチェックインしてすぐ、真尋と香坂はスタジオに向かった。指を慣らし、最後の調整をするためだ。リッキーがお墨付きをくれたスタジオの音響施設は確かに良いものだった。チューニングを始める真尋のそばで、静かにスケールを弾いてピアノを確かめていた香坂が「あのさ」と凪いだ声で真尋を呼んだ。
「ん?」
「俺、ここに来る前に仕事辞めてきたんだよね」
「……は!?」
思わずデカい声を出した真尋に、香坂はわずかに笑みをこぼした。いや、ちょっと待て。急になんなんだ。動揺する真尋に対して、香坂は真面目くさった顔でピアノ椅子の上に胡坐をかいている。
「いや、ね。このままたくさんコンサートとか出ていくなら仕事続けるのは無理だなって」
「まあ……それはそうだが」
「今の工場はオメガでも発情期に合わせて雇ってくれるような、そこそこ働きやすいところで……これを失うって結構悩んだんだけど。でもさ、二つは同時にできないよなって。どっちかに気持ちの比重が偏ってるなら尚更」
これまでの生活の基盤と、これからの挑戦。その二つを天秤にかけて選んだのだと香坂は言った。
「だからさ、伝えておきたくて。俺、宮瀬ともっと音楽やりたい。本気だからね。……本気になっていいんだよね?」
まっすぐにこちらを見据えていて香坂が、ふっと視線を逸らす。その先には真尋のヴァイオリンがあった。こみあげてきた感情を飲み下すのに、自分の喉がぐっと鳴ったのを感じた。
応えたいと強く思った。誰が聞くでもないバーの片隅でピアノを弾いていたこいつを、舞台に引きずり出したのは俺だ。オメガだからと拒んでいた香坂をここまで引っ張り出して、本気にさせた。自分ばかりが香坂から音を引き出されて、そして足りないものを補ってもらっていると思っていた。香坂が今伝えてきたのは、その否定だ。互いに本気だからと、お前に人生を乗せるからと、その言葉の重さに唇が緩むのが止められなかった。俺が見つけて、俺が本気にさせた。もっと一緒に弾きたい。香坂の期待に、香坂が賭けたものの大きさに応えたい。全ての不安を払い、あらゆることから守りたい。
こみ上げる数多の感情を飲み下して、真尋は香坂をまっすぐに見返した。
「当たり前だろ。そもそも俺は最初から本気だ」
香坂はくしゃりと顔をゆがませて笑った。背を叩きたいのか、それとも思い切り抱きしめたいのか、自分でもよくわからない衝動を真尋はまたしてもやり過ごすことになった。
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