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Rullante 〔転がるように〕

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衣装を買いに行くと言って連れ出されたのはオーダーメイドのスーツ店だった。展示されている既成のスーツの値段を見た奏始は目眩がする心地になった。しかし「こんなとこで買わなくても!」という奏始の抗議を「下手な服装じゃろくに演奏出来ないだろ。特に腕と肩周り。普通のスーツじゃ動きにくい」とあっさりと跳ね除けた宮瀬によって、新しいスーツが仕立てられた。
色んな意味ですっかり疲れ果てた奏始を尻目に宮瀬はさっさと次の目的地へと向かう。

「スーツは買った。次は靴だ。後は……ヘアワックスはまあどこでも買えるか。メイク道具もほしいな」

「靴……メイク道具……」

「楽譜のファイルは家に使ってないのがあるな。鞄もあるか」

「楽譜……」

「あ、ボストンバッグとかスーツケースはあるか?」

「ボストンバッグ……スーツケース……」

「遠くの演奏会に行くなら必要だし、そもそも近場でない限り衣装を着て移動することもないからな。楽譜に靴、衣装。皺にならないように持ち運べるかばんが欲しい」

そんなものはない。生まれてこの方、旅行どころか遠出をしたことがないのだ。学校の修学旅行もΩは参加出来なかった。
覚えたての言葉のように繰り返すだけの奏始から察したのだろう。宮瀬は「取り敢えず今日はスーツと靴だ。他は今度また揃えに来るぞ」と言って奏始の頭をポンポンと叩いた。


そうして持ち帰った衣装は、奏始の家のハンガーにかかっている。明らかに場違いなそのスーツは部屋の中で存在を主張する。ピカピカの革靴も、上質なスーツも何もかもこの部屋の中では異質だ。
宮瀬曰く「取り敢えず」揃えられた物たちは全て彼に買ってもらったものだ。今回の演奏会には必要ないボストンバッグなどの大きなものは今度買いに行く、だそうだ。なぜここまでしてくれるのだろうと思う。自分の組んでいる相手がみすぼらしい格好をしていたら、確かにそれはまずいだろう。だから奏始にスーツを買い与えるというのはまだ納得できた。でもここまで世話を焼いてくれる理由が奏始には見つからない。オーダーメイドのスーツなんて買おうとも思わないし、そもそも買えやしない。そんなものをぽんと気軽に払って、あまつさえお金も返さなくてよいと言う。
自分にはそこまでの価値があるのか不安になる。
奏始はΩだ。例え人よりピアノが弾けようと、宮瀬が奏始の音楽を認めようとも、それは変わることのない事実だ。

暗く深いところに沈みかけた思考を引き戻すかのようにチャイムが鳴る。もう遅い時間だ。こんな時間に訪ねられる心当たりはなく、そろそろとドアスコープを覗くと、その向こうにいたのは愁だった。

「寒い~、奏始早く! 早くあーけーてー」

ため息をつきながらドアを開けると、愁が寒さに首を竦めながら部屋に上がり込んできた。
愁と飯に行ったり、飲みに行ったりすることはよくある。こうして突然訪ねてくるのもよくあることだ。

「またいきなり来やがって。いなかったらどうすんだよ」

「えー、どうしようかな。ってか何これ!」

部屋に入ってすぐ、かけてあったスーツを見つけた愁が叫ぶ。

「うるさっ! 壁薄いんだから静かにしてくれ」

「いやいやいや、何これ。めっちゃいいスーツじゃない?」

腕にかけていたビニール袋を放り投げるように置いて、愁がスーツを手に取る。ガランゴロンと音を立てた袋にはビールやチューハイの缶がいくつか入っていた。それを拾い上げながら、ため息混じりに返答する。

「演奏会用のやつだよ」

「演奏会!? 奏始が出るの!?」

「そうなったっぽい」

「ぽいってなにそれ。え、っていうかこれ買ったの?」

「……いや買ってもらった」

「買ってもらったぁ!?」

素っ頓狂な声を上げて驚いた愁を取り敢えず座らせて落ち着かせる。愁の買ってきたビールを遠慮なく開けながら経緯を話すと、愁も同じように缶を開けながら「へぇ」と更に目を丸くした。

「すごいじゃん」

「すごい、かなぁ」

「うん。演奏会かぁ。普通にしてたら絶対出られないじゃん俺たち」

「まあ」

「Ωだってことは?」

「言ってないと思う。というか向こうもわざわざ聞かないだろ。Ωが宮瀬みたいなαと組んでるなんて誰も思わないだろうし」

「あー……それはバレると面倒くさそう」

「だよな~」

二人して天を仰ぐ。コンクールだと開催規定にΩの出場禁止はしっかりと明記されている。しかしコンサートになるとそれはない。コンクールにΩが出られないのは、審査員をフェロモンで籠絡してどうのこうの、なんて言われるからだが、コンサートに至ってはそもそもΩに依頼が来るはずもない。だから規定すら設けられていないのだ。今回の演奏会は宮瀬に来た依頼であり、俺がΩだということを宮瀬以外は知らないだろう。

「奏始はΩにしては身長高めだしバレなさそうだけどね」

「うーん……だといいけど……」

「そもそもΩなんて出てないって先入観あるし大丈夫じゃない?」

奏始の身長は170センチと少しある。平均して小柄なΩと比較すると高くはあるが、それで誤魔化されてくれるかどうか。
Ωが舞台に立つと言うことでどんな反応が出るかはわからない。しかしそれらが良いものでないだろうという予想は恐らく確実。Ωであるということは、人の反応を変えさせる。過去の感傷を思い出しかけて、奏始は酒をぐっと煽った。愁も同じようなことを思ったのだろう。少し顔を曇らせて、でもすぐにまた明るい表情を見せた。

「ま、出させてくれるって言うんだから遠慮なく出たらいいんじゃない? いざとなったら彼氏が庇ってくれるでしょ」

「彼氏じゃないっての」

「えー、でもめちゃめちゃ貢いでもらってんじゃん」

愁がいひひと笑う。愁とは毎日仕事で顔を合わせているせいで、互いの近況は筒抜けになっている。奏始が宮瀬の家に、正確に言えば宮瀬の家の防音室に入り浸っていることも、夕食を食べさせてもらっていることも愁は知っていてからかっているのだ。

「あのスーツめっちゃ高くない? よく見たら靴もあるし」

値段を耳打ちしてやると愁は大袈裟に驚く。

「やっぱ貢いもらってんじゃん何それ」

「投資だってさ」

「へぇ~! よっぽど奏始のピアノの腕買ってんだね」

愁のその言葉に、奏始は上手く言葉を返せなかった。腕を買われている、そうだと嬉しい。でも上手く自信が持てない。高名な先生に教わってきたわけでもない、独学でやってきただけの奏始のピアノだ。今だってピアノが本職ではない宮瀬に教えてもらって初めて知ることも多い。舞台に立つことを夢見てこなかったわけではないけれど、いざそれが叶うとなると尻込みしてしまう情けない自分がいた。
そんな心情を吐露すると、愁は奏始の頬を両手で挟んで引っ張った。

「もぉ~バカ! 気弱になってどうすんの! 俺こそ音楽の王様だ、くらいの気持ちで行きなよ!」

「ひょんなこといわれたって」

「うるさい! 俺だって奏始のピアノ好きなんだからね!」

奏始の頬を解放して、愁は空になった缶をゴミ箱へ放る。きれいな弧を描いて缶はすとんと箱の中に落ちた。
愁はたまに奏始の演奏を聞きに、バーに顔を出してくれる。そんな彼からの励ましは素直に嬉しい。

「ふは、ありがと」

「どういたしまして!」

ピアノで生きていけたら。ずっと想ってきた叶わない夢だ。それがほんの欠片でも叶おうとしているのだ。弱気になってはいけない。愁に背中を押されて、にやっと笑ってみる。成功しても失敗しても、どうなったって結局俺は俺のままだ。
愁へのお礼代わりに冷蔵庫に入れてあったアルコールを追加で机に出すと、愁がぺちぺちと気のぬける拍手をくれた。
二人して新たな缶を開けて、かちんとぶつけあった。一口飲み下して、愁がため息混じりに零す。

「でもいいなぁ。俺も貢いでくれるα欲しい」

「だから貢いでもらってる訳じゃないって」

「そんないいα、今後いないよ? ちゃんと捕まえときなよ」

「人の話聞いてるか? 宮瀬はそんなんじゃないって」

「本気で友達で置いとくつもり? 贅沢だなぁ」

αとΩが共にいるとなれば、連想されるのは番という関係。恋人だと推測されるのも自然なことだというのはわかる。わかるが宮瀬とはそういう関係ではないのだ。ヴァイオリニストとピアニスト、それだけだ。向こうだってそうだろう。

「あー、俺もいいα見つけたいなぁ」

「……この前のやつは? 発情期付き合ってもらってたろ」

「あれは最悪。ワースト入るよ」

「まじ? そんなだめだったのか?」

「こっちのことセックスのための奴隷としか思ってない部類だった」

「うわ、最悪」

「ねー」

俺たちΩには発情期というものが定期的にやってくる。セックスがしたいという強すぎる欲求は一人でやり過ごすには苦しい。そんな時は相手をしてくれるαを探すこともあるのだが、如何せん当たり外れが大きすぎて博打なのだ。

「いい加減当たり引きたいなぁ」

「愁は面食い過ぎなんだって」

「奏始はそういうとこ上手いよね」

「ちゃんと言動で選んでるからな」

「やー、でもそろそろちゃんとした相手見つけるべきだよねぇ……品評会に出なきゃいけなくなる前になんとかしたいなぁ」

愁が品評会と呼んだのはマッチングというαとΩを引き合わせるための会のことだ。政府が開催しているその会は、27歳になるまでに番を持っていないΩを対象とする。そしてそのΩを番をほしがるαにあてがうのだ。Ω側に出席しないという拒否権はない。更に条件の良いαはこんな会に出てくるはずもなく、マッチングに参加するαは大概が他にも番を持っている好色家か、余程の問題アリかだ。そのため多くのΩはこの会を嫌っている。

「あーほんと生き辛い世の中」

嘆く愁に苦笑する。同意の言葉を飲み込んでぐっと缶を傾けると、僅かなアルコールが喉を焼いた。
音楽のことだけ考えて生きていたい。叶うならいつまでだって。
ささやかとは言い難い、叶うはずもない奏始の大きな夢だ。

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