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Fervente 〔熱烈に〕
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あのバーに行ったのは本当に偶然だった。
夏から秋に移り変わる夜。
行き詰まってふらふらと出歩いていたところに出くわしたその音楽は、まるで脳天をぶん殴られたような衝撃だったのだ。
こいつがいれば俺の演奏は変わるかもしれない。
欠けているパーツが見つかるかもしれない。
そいつのことなんて何も知らないくせに、そう思った。
自分が並の演奏家ではないことは、さすがに自覚している。国際コンクールで2位。確かな実績だ。それでも俺はずっと自分の音楽を探し続けていた。何かが欠けている。そう思えてならないのだ。コンクールの後に審査員と話した時に言われた言葉がずっと頭の中に居座っている。「君の演奏はまるで額縁に入っているように綺麗だ」と。お前は「額縁から出られない、型に嵌まった音楽だ」と言われているように聞こえた。
そんな中、香坂奏始に出会った。体の芯から揺さぶられるような音楽に、これだと思った。額縁から飛び出すのにはこいつが必要だと。
香坂を初めて家に呼んだ日。自分の相棒になる予定の男があまりに嬉しそうにピアノに触れるものだから、真尋は合鍵を渡すことにした。カードキーを怖怖と受け取った香坂は神妙な顔つきでこう宣った。
「お前、素性もしれないΩにこんなもの渡していいの?」
「じゃあ返してもらうか?」
まるで恐ろしいものかのように、カードキーを指先で摘まんでいる姿に、少し意地悪くそう聞けば、香坂はうっと言葉に詰まってそろそろとカードキーを庇うように自分の方に引き寄せた。真尋には何やら分からない葛藤と、ピアノが自由に弾けるということを天秤にかけた結果、ピアノを取ったらしい。
学校の音楽室にバー。古びたピアノで育った香坂は、真尋の家のグランドピアノにいたく感動していた。
「音が綺麗……」
「一応調律は定期的に入れてる」
「最高に耳が気持ちいい」
先程渡したカードキーはもうそこらに放り出されている。うっとりとした表情で鍵盤に指を滑らせている香坂を笑っていいものか、慰めるべきか少し迷ってしまった。αである自分が言うのもなんだが、世間的にΩの扱いは良いものではない。断片的な話から、というか自己申告の「ドブ育ち」から察するに、香坂が育ってきた環境も楽なものではなかったのだろう。しかし、だからこそ香坂の持つ才能は生半可な物ではない。今だってそうだ。さらりと弾き始めた曲は「アイ・ガット・リズム」。情感たっぷりにいかにも楽しそうに弾く香坂に唇が緩む。香坂の演奏には色どころか、まるで匂いや感触までついているように思えた。初めて演奏を聞いた日の直感は間違っていないと確信する。
「ちょっと目瞑れ」
「は? なんで?」
「いいから。聞こえたら答えろよ」
演奏を終えて余韻に浸る香坂に少し試してみる。適当に一音鳴らして「なんの音に聞こえた?」と聞くと正確な答えが返ってきた。和音にしても正解。日常的にピアノに触れられない環境でこれだけ弾けているのだ。音感が良いのは予想できていが、どれだけ音を増やしても正解を叩き出したのはさすがに想像以上だった。試しにピアノではなく、そこらをコツコツと叩いてみても迷うことなく正解が返ってくる。絶対音感は間違いない。しかも超高レベルの。
「お前、相当耳がいいんだな。生活音も音階に聞こえてる質か?」
「んー、まあそうかも。あんま意識してなかったなぁ」
「絶対音感持ってると日常生活が煩いって言うやつも多いんだけどな」
「……あー、いや。音はちゃんと聞こえてるかな、思い返してみれば。ただほんとに意識してなかったというか……違うか、ずっと音楽のこと考えてるからうるさいとも思わなかった、のかな?」
呆れればいいのか、感嘆すればいいのか分からない。こいつの音楽への執着とも呼ぶべきものは一体なんなんだ。鼻歌混じりに鍵盤を一つ一つ押しながら、香坂が横に立つ俺を振り仰ぐ。
「お前は?」
「え? あぁ、俺もお前ほどのものじゃないけど一応音感はあるつもりだ」
「いや、そうじゃなくて」
見下ろした香坂の目は真尋の顔を映している。こうして見ると、恐ろしいくらいに整った顔立ちをしているのだとふと思った。口紅を引いたかのような薄い唇に、通った鼻筋。白い頬。長いまつげに、猫のような二重の大きな目。表情を失くせば人間味のない精巧さだ。
「お前もずっと音楽のこと考えてるだろ?」
さも当たり前かのように言う香坂に思わずごくりとつばを飲んだ。こいつと組んだのは悪魔との契約だったのかもしれない。香坂は機嫌良さげにピアノに向き直って、また自由に音を奏でる。先程の威圧感は跡形もなく霧散した。
まるで人形が音楽を得て人間になったみたいだ。
「……音を食って生きてるのか、お前は」
「はは、なんだそれ。でもそうかも。ピアノ弾けないなら多分生きてらんないよ俺」
平然と笑う香坂に今度こそ俺は顔を顰めた。
香坂は真尋を傲慢だと言った。初対面のときに強引に誘ったことを指しているのだろう。音楽のためならなんでもやると非難する。そっくりそのまま言い返してやりたい。こいつこそ、音楽に関わることならどこまでもやる傲慢な演奏家だ。
夏から秋に移り変わる夜。
行き詰まってふらふらと出歩いていたところに出くわしたその音楽は、まるで脳天をぶん殴られたような衝撃だったのだ。
こいつがいれば俺の演奏は変わるかもしれない。
欠けているパーツが見つかるかもしれない。
そいつのことなんて何も知らないくせに、そう思った。
自分が並の演奏家ではないことは、さすがに自覚している。国際コンクールで2位。確かな実績だ。それでも俺はずっと自分の音楽を探し続けていた。何かが欠けている。そう思えてならないのだ。コンクールの後に審査員と話した時に言われた言葉がずっと頭の中に居座っている。「君の演奏はまるで額縁に入っているように綺麗だ」と。お前は「額縁から出られない、型に嵌まった音楽だ」と言われているように聞こえた。
そんな中、香坂奏始に出会った。体の芯から揺さぶられるような音楽に、これだと思った。額縁から飛び出すのにはこいつが必要だと。
香坂を初めて家に呼んだ日。自分の相棒になる予定の男があまりに嬉しそうにピアノに触れるものだから、真尋は合鍵を渡すことにした。カードキーを怖怖と受け取った香坂は神妙な顔つきでこう宣った。
「お前、素性もしれないΩにこんなもの渡していいの?」
「じゃあ返してもらうか?」
まるで恐ろしいものかのように、カードキーを指先で摘まんでいる姿に、少し意地悪くそう聞けば、香坂はうっと言葉に詰まってそろそろとカードキーを庇うように自分の方に引き寄せた。真尋には何やら分からない葛藤と、ピアノが自由に弾けるということを天秤にかけた結果、ピアノを取ったらしい。
学校の音楽室にバー。古びたピアノで育った香坂は、真尋の家のグランドピアノにいたく感動していた。
「音が綺麗……」
「一応調律は定期的に入れてる」
「最高に耳が気持ちいい」
先程渡したカードキーはもうそこらに放り出されている。うっとりとした表情で鍵盤に指を滑らせている香坂を笑っていいものか、慰めるべきか少し迷ってしまった。αである自分が言うのもなんだが、世間的にΩの扱いは良いものではない。断片的な話から、というか自己申告の「ドブ育ち」から察するに、香坂が育ってきた環境も楽なものではなかったのだろう。しかし、だからこそ香坂の持つ才能は生半可な物ではない。今だってそうだ。さらりと弾き始めた曲は「アイ・ガット・リズム」。情感たっぷりにいかにも楽しそうに弾く香坂に唇が緩む。香坂の演奏には色どころか、まるで匂いや感触までついているように思えた。初めて演奏を聞いた日の直感は間違っていないと確信する。
「ちょっと目瞑れ」
「は? なんで?」
「いいから。聞こえたら答えろよ」
演奏を終えて余韻に浸る香坂に少し試してみる。適当に一音鳴らして「なんの音に聞こえた?」と聞くと正確な答えが返ってきた。和音にしても正解。日常的にピアノに触れられない環境でこれだけ弾けているのだ。音感が良いのは予想できていが、どれだけ音を増やしても正解を叩き出したのはさすがに想像以上だった。試しにピアノではなく、そこらをコツコツと叩いてみても迷うことなく正解が返ってくる。絶対音感は間違いない。しかも超高レベルの。
「お前、相当耳がいいんだな。生活音も音階に聞こえてる質か?」
「んー、まあそうかも。あんま意識してなかったなぁ」
「絶対音感持ってると日常生活が煩いって言うやつも多いんだけどな」
「……あー、いや。音はちゃんと聞こえてるかな、思い返してみれば。ただほんとに意識してなかったというか……違うか、ずっと音楽のこと考えてるからうるさいとも思わなかった、のかな?」
呆れればいいのか、感嘆すればいいのか分からない。こいつの音楽への執着とも呼ぶべきものは一体なんなんだ。鼻歌混じりに鍵盤を一つ一つ押しながら、香坂が横に立つ俺を振り仰ぐ。
「お前は?」
「え? あぁ、俺もお前ほどのものじゃないけど一応音感はあるつもりだ」
「いや、そうじゃなくて」
見下ろした香坂の目は真尋の顔を映している。こうして見ると、恐ろしいくらいに整った顔立ちをしているのだとふと思った。口紅を引いたかのような薄い唇に、通った鼻筋。白い頬。長いまつげに、猫のような二重の大きな目。表情を失くせば人間味のない精巧さだ。
「お前もずっと音楽のこと考えてるだろ?」
さも当たり前かのように言う香坂に思わずごくりとつばを飲んだ。こいつと組んだのは悪魔との契約だったのかもしれない。香坂は機嫌良さげにピアノに向き直って、また自由に音を奏でる。先程の威圧感は跡形もなく霧散した。
まるで人形が音楽を得て人間になったみたいだ。
「……音を食って生きてるのか、お前は」
「はは、なんだそれ。でもそうかも。ピアノ弾けないなら多分生きてらんないよ俺」
平然と笑う香坂に今度こそ俺は顔を顰めた。
香坂は真尋を傲慢だと言った。初対面のときに強引に誘ったことを指しているのだろう。音楽のためならなんでもやると非難する。そっくりそのまま言い返してやりたい。こいつこそ、音楽に関わることならどこまでもやる傲慢な演奏家だ。
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