恋するように、歌うように

せんりお

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Agitato 〔激しく、苛立って〕

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「今週の日曜日は空いてるか?」
仕事の休憩時間。ちょうど通知音を鳴らしたスマホを確認すると宮瀬のメッセージだった。友達というか、そもそも知り合いの少ない奏始の端末はいつも静かだ。そんな画面に宮瀬の名前が表示されていることがなんとなくむずがゆい。「空いてる」とだけ端的に返そうとしたところに、背後からかかった声に奏始は飛び上がった。

「彼氏?」

にやにやしながら目の前に回り込んできたのは数少ない友人、滝川愁だ。同じ工場で働いている同僚で、奏始と同じΩでもある。中性的な見た目の愁は、しかしそれに反して気が強くさばさばとしている。そんなところが気が合って一緒にいることが多い。

「なに? デートぉ?」

「そんなんじゃないし」

「なんだ。やっと奏始にも春が来たかと思ったのに」

照れもしない奏始に不満そうにしながら隣に愁が腰を下ろす。

「春ってなぁ……。ピアノを一緒に弾いてくれって頼まれただけだよ」

「へぇ。良かったじゃん」

「まあな」

「相手はΩ? β?」

「……αだけど」

「は?」

勢いよく顔を覗かれる。目をキラキラさせたそのあからさまに面白がる表情は、正直予想していた反応だった。

「やっぱ彼氏じゃん」 

「だから違うって」

「αがΩになんにもなしに家来いっていうことある?」

「だから音楽を一緒にやろうって話だってば。俺の腕を買ってくれたんだ」

「αだよ? いくら奏始が上手くたってΩにそんなこと言うことある?」

「まあ俺も正直思ったけど」

面白がっていた表情が不審げなものに変わって、そんな愁に苦笑する。これが世間の普通の反応だろう。αがΩの能力を認めることなどあり得ない。俺だって未だに夢かと疑うこともある。

「それほんとに大丈夫なの?」

「うん。……ま、やばくなれば連絡するよ」

「俺に言われてもαに対抗出来ないけどね」

愁は心配してくれているのだ。これまでもΩ同士、自衛しあってきたこともある。
だけど、今回だけは大丈夫だと思うのだ。今は宮瀬の音楽を信じたい。 
休憩時間終了の音楽が流れる。既読の印だけをつけて未返信だったままの画面に新たなメッセージが表示された。
「何か予定があるなら無理しなくてもいいぞ」
思わず唇が緩む。
「いや、大丈夫。空いてるよ。時間とかも合わせられるから」
そう返信してスマホの電源を落とした。まだ隣で顔を顰めたままの愁の肩を叩いて立ち上がる。
日曜日が楽しみだという思いは誤魔化せなかった。




そうしてやってきた日曜日。
というか、金曜日も土曜日もバーにやってきた宮瀬とは何故か3日連続で会っている計算になる。セッションは楽しかったが、やつは暇なのか。

宮瀬には駅前で合流を指定され、俺は初めて降りる駅に行くことになった。高級ブランド店が並び、高層マンションや最早邸宅と呼ぶのが相応しいような家が並ぶエリアにある駅は、いつも奏始が利用しているものとはまるで違う。自分が最寄りとするのは、家賃の安さだけが売りの治安の悪い地域にある。
整然とした構内を通り改札を出れば、すぐに見知った長身を見つけることができた。黒いパンツに控えめな柄が入った暗めの色のシャツというシンプルな格好だが、それを着ているのが宮瀬だと妙に目を惹く。通り過ぎていく人たちの視線を集める姿に声をかけるのがなんとなく躊躇われて、近くまでゆっくりと近づくと宮瀬が顔を上げた。奏始に気がつくと表情がふっと緩む。その変化に密かに息を飲み込んだ。

「俺がここにいるの、すぐわかった?」

「あ、うん。お前目立つから」

「なんだそれ」

戸惑いを隠して答えると宮瀬が喉の奥で笑った。ここ数日、宮瀬と会う中で会話を交わしているがいまいちその距離感が掴めないでいる。外面がよく、インタビューなどでは爽やかな好青年を演じている。だけど本当はちょっと口が悪くてクールというか無愛想。そしてどうやら音楽に関しては自分にも他人にも厳しい。これが今のところの宮瀬への所感だ。奏始に対しては既にあのファーストコンタクトで被っていた猫を逃してしまったせいか口調はフランク。それがまた奏始を戸惑わせる。

「俺の家こっからすぐだから」

「駅チカ? 羨ましい」

「道覚えとけよ。次からは迎えにこないぞ」

「ん」

そうしてたどり着いた駅から徒歩10分以内の宮瀬の家は羨ましいどころの話じゃなかった。
コンシェルジュ、ジム、プール、スーパーなんでもござれの超高層マンション。その中の一部屋が宮瀬の家だった。

「宮瀬って何歳だっけ」

「23だけど」

「は? 1つしか変わんない……いや、何月産まれ?」

「4月」

「ってことは学年同じかよ。結局同い年じゃん。くそ腹立つわ。もう敬語使わなくていい?」

「別に気にしない。そもそも使ってなかっただろ。……というか、じゃあお前は今22か? 見えないな。高校生に見える」

「うるっせぇよ」

同い年なのにこの格差。今更こんな違いに絶望なんかはしないけれど、腹が立つものは立つ。

「身内の持ち物なんだよ、ここ。税金対策で一部屋くれたんだ」

「なんだそれムカつく」

遠慮なく口に出すと、言い返してくるかと思った宮瀬は予想に反して「ふは」と笑い声を上げた。なぜ笑うのかと宮瀬に視線をやれば、「馬鹿正直にそんなこと言うかよ、普通」と更に笑う。見て回ってもいいぞ、と言われたので遠慮なくあちこちを覗いてみる。高級マンションの名に相応しく部屋数は多い。しかしほとんど生活感がなかった。まるでモデルルーム。奏始の狭い部屋とは大違いだ。

「お前ほんとにここに住んでんの?」

「は?」

「生活感無さすぎ」

「あー、まあ一人ではもて余してるな。飯とか風呂とか必要な時以外は寝室か防音室にいるからな」

「防音室?」

「ん。その廊下右手の1つ目の部屋」

防音室。夢の響きだ。ピアノが置かれていて、どれだけ大音量で弾いても、いつ弾いても好きなだけ弾いても怒られない。

「ピアノあんの?」

「ああ」

わくわくしながら扉を開いた奏始は思わず感嘆のため息をついた。まず目に入ったのは大きなグランドピアノ。ピカピカに磨き上げられたそれはさぞいい音を出すのだろう。改装されているのか天井の高く取られた部屋はまさに音楽のために作られた部屋だった。

「すっげぇ……」

「ピアノ開けてくれ。蓋は大きく開けると音が大きすぎるから少しで」

「うん……」

どこかふわふわとした心地でピアノに歩み寄る。蓋を開けようとして、でも指紋がつくのが嫌で手を伸ばすのを躊躇う。出来るだけ触れる面積が小さくなるように、奏始は蓋の端に指を引っ掛けるようにしてそっと押し開いた。現れたのは目に痛いほどの白い鍵盤。ほぉ、とまた息を漏らして奏始は鍵盤に指を乗せた。端から端までゆっくりと指先で辿ってみる。ひんやりとした鍵盤はその感触を奏始に余すことなく伝える。

「ふ、そんなに気に入ったか?」

笑い混じりに言われて、はっと我に返る。頬に朱が差すのがわかった。鍵盤から指を離すと宮瀬が首を傾げた。たかがピアノに触れただけのことでこんなに過剰に反応している自分はさぞ奇妙に見えることだろう。そんな奏始を横目に、宮瀬はヴァイオリンを取り出してチューニングを始めた。それをぼんやりと眺める。

「そういやお前、どこで練習してるんだ? 家か?」

「……家にピアノなんか無いよ。最近はバーで弾いてるだけ」

「は?」

宮瀬の驚愕の表情から顔を逸らす。
高校まではよかった。学校のピアノを弾かせてもらえることが出来たから。でも卒業すると音楽をする場所がなくなって、今、奏志がピアノを弾けるのは週に2回、あのバーだけだった。

「お前……練習せずにあのレベルかよ」

「え?」

「今までは? ずっとバーで弾いてた訳じゃないだろう」

「高校までは学校の音楽室を使わせてもらってた。吹部が使ってるときは体育館とか、とにかくそこら辺にあるピアノで弾いてた」

「誰かに教えてもらったりとかは?」

「小学校の時の先生にちょっとだけ。後は動画とか見て真似して」

居心地が悪い。きっと幼少期から高名な先生に師事してきたであろう宮瀬には奏始の経歴は信じられないものだろう。宮瀬は奏始のことを「野良」だと言ったが、これは言い得て妙だと思う。餌をくれるところを必死に探して歩き回り、命を繋ぐ。これが奏始の音楽だ。ピカピカの鍵盤に落としていた視線を上げると、宮瀬はなぜだか嬉しそうに笑っていた。

「……なんだよ」

「いや、すげぇなと思って」

「何が」

「お前のピアノの才能というかセンスがとんでもないんだろうな。その環境でこのレベルだろ? 練習したらどこまで行くんだよお前」

「え、いや」

「あと音楽への執念がすげぇ」

才能、センス、執念。奏始の音楽にそんなものがあるのか。ただピアノを弾きたい、ただ音楽をやりたい。それを執念と呼ぶのだろうか。音楽が無いと息ができない。ただそれだけだと奏始は思う。そう伝えれば宮瀬はますます嬉しそうに笑った。

「やっとだ」

噛みしめるように言う宮瀬がやけに印象に残った。



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