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Agitato 〔激しく、苛立って〕
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奏始がピアノを弾きにバーに行くのは金曜日と土曜日の週末。土曜日は仕事が休みのことが多いので、いつも開店直後からピアノの前に居座っている。普段なら楽しみにしている日なのだが、今日は少し足が重い。ピアノを弾きたくないのなんて人生で初めてのことではないだろうか。昨日の宮瀬の言葉が脳内を何度も巡って、その度に髪をかき乱したくなる。
しかし、バーでの演奏も一応仕事だ。急に休むという選択肢はなく、仕方なくバーに恐る恐る顔を出して奏始はぎょっとした。
ピアノから1番遠く、でも音が1番よく通る席に背の高い男が座っている。優雅に足を組みグラスを傾けているそいつは紛うことなき宮瀬だった。
出した顔を咄嗟に引っ込めてちょうどバックヤードにいたオーナーに問う。
「オーナー! あのお客さん!」
「あぁ、昨日の方。君の演奏が気に入ったから来る日を教えてくれって言われてね。そうしたら今日も来てくれてるんだよ。もう揉め事起こさないでね」
「……はい」
面倒くさそうな顔で言って去っていくオーナーに何も言うことはできない。店内の物事をαかΩかではなく、お客様かそれ以外で考えるこの社畜の気があるオーナーは奏始にとって貴重な存在だ。Ωである奏始を雇ってくれる人なんて他にいないだろう。ここをクビになったらもうピアノを弾ける場所が思い当たらない。逆らうわけにはいかなかった。
仕方なく楽譜を揃えてフロアに出る。なるべく宮瀬のことを視界にいれないようにしてピアノの前まで歩くが、視線の圧が重い。いや気の所為だ、気の所為。そう自分に言い聞かせてそそくさと演奏の準備をした。グランドピアノの蓋を少しだけ開けて、椅子の場所と高さを調整する。すとんと椅子に腰を下ろすと不思議と気分が落ち着いた。
さて、何を弾こうか。
まずは指慣らしから始めたいところだ。楽譜をめくりモーツァルトのソナタから一曲を選ぶ。なけなしの給料で買った楽譜はページが酷くよれている。それでも大事な楽譜だ。ページをそっと撫でて、そうして鍵盤の上に手を載せた。
すぅと新しい空気を吸い込むと頭の中がクリーンになった気がする。モーツァルトのソナタは楽譜に忠実に、軽やかに。雑念を振り払うような型のしっかりとしたこの曲は今の自分にぴったりだ。
最後の一音が鳴り終わって、一瞬。すぐあとに拍手が響いた。ふ、と息を吐く。辺りの景色が戻ってくるのと同時に、人が近づいてくる気配を感じた。すぐに手元に影が差して、そおっと見上げると予想通りそこには宮瀬が立っていた。
「……何ですか」
恐る恐る聞いても返答はない。なんだよこいつ。目を細めると、宮瀬はにやりと笑って背に背負っていた物を下ろした。ヴァイオリンケースだ。
「今日は持ってきたんだ」
笑みを崩さずにそう言いながら、宮瀬は手際よくケースから楽器を取り出す。その丁寧な触れ方に思わず見惚れてしまって奏始は舌打ちをした。
宮瀬真尋。口の中で名前を転がしてみる。
昨夜、その名前をネットで検索するとヒットしたのは「新気鋭のイケメンヴァイオリニスト」だとか「日本音楽界の次代を担う後継者」などという大層なキャッチコピーだった。その名前に聞き覚えがあると思ったのは間違いではなかったらしい。昨年、世界最高峰のコンクールで2位入賞を果たした確かな実力者だった。
そんな引く手数多の話題の音楽家がなぜこんなところにいて、なぜ自分に声をかけてくるのか。調べた結果、疑問は深まるばかりだったが。
「はぁ……もう何なんだよ」
「お前、即興は出来るか?」
「……お前、人の話を聞けってよく言われない?」
表情が引きつるのがわかる。なんだこのマイペースっぷりは。余りの話の通じなさにため息をつく奏始を横目に、見た目でもわかるような良いヴァイオリンを取り出した宮瀬は、手早く調弦を済ませて奏始を煽るように弦を構えてみせた。くそ、と内心で呟く。即興で合わせてみろということか。
断っても断られる未来しか見えない。それに、ここで引くのは奏始の負けず嫌いが許さない。くそ、舐めんなよ。鍵盤に指を戻し、奏始は無言でチャルダッシュのメロディを奏で始めた。テンポは基本よりずっと速く取ってやる。これぐらい弾けるだろ。そう煽ったつもりだった。
ピアノの斜め前に立つ宮瀬をちらりと見上げる。
べ、と舌を出してやると宮瀬は、ふ、と笑みのこもった息を漏らした。
そこからは喰らい合いだった。
奏始がメロディーラインを弾けば、宮瀬が食い込んできて主導権を握る。そうすれば今度は奏始がまた主線を取り返す。
負けたくない。そんな気持ちだったはずが、途中からもっと、もっとと求める気持ちになり、最後にはまだやりたいに変わった。
悔しい。でも楽しい。もっと。
ずっと一人で弾いてきた。誰かと音楽を弾くなんて初めての経験だった。それが宮瀬だったのはある意味不幸だったのかもしれない。
宮瀬は確かな実力者だった。互いの音を調和させ、間を埋める。傲慢さの見え隠れする言動とは正反対の優しく、そして合理的な音楽だった。
何よりも。
「すご……」
宮瀬のソロを聞いて思わずそう溢す。ヴァイオリンを構えて立っているだけで聞き手を惹きつける。場に求められた音を的確に出し、聞かないことを許さない。完成された1つの形がそこにあった。悔しい。この男に認められたことが、そして応えられないことが悔しい。この音楽に応えたい。どうしたらいい。なぜか泣きそうにな気持ちになって、そっと宮瀬を支えるように音を鳴らすと、はっとしたように彼は奏始を振り返った。目が合う。ゆるりとその目が細められた。
夢中で演奏を重ね、気がつけば閉店の時間になっていた。
閉店作業の邪魔だからと二人して店を追い出され、宮瀬と閉じた扉の前で向かい合うことになる。気まずい。何が気まずいって、互いに夢中で弾いていたことが気まずい。確か俺は昨日こいつに「ばーか」とか言わなかったか。言ったわ。どうしよう、なんとか誤魔化せないか。
「なあ、やっぱり俺と組んでくれないか」
その場を回避しようとぐるぐる考えていた奏始は、耳に入ってきた言葉にぽかんと口を開いた。今こいつは、組んで“くれないか”と言ったか?
「お前と弾くのは楽しかった。お前もそうだろ?」
「……まあ」
「お前とならもっとやれる。高みまで登れる。そう思うんだ。だから俺と組んでほしい」
心臓がバクバク音を立てているのが宮瀬に伝わってやしないだろうか。頬が赤いのは暗闇に紛れているだろうか。じとりと汗をかいた手のひらを握りしめる。
「……でも、俺はΩだからコンクールには出られない」
「昨日はコンクールでお前と組んで優勝するつもりだった。でも今日一緒に弾いてみて目指すのはもうそんな次元じゃないと思った。コンクールは所詮コンクールだ。そうじゃない。俺とお前で1番高いところまで上り詰めようぜ」
は、と息が漏れた。なんだそれ。
「なんだよそれ」
声が震える。店から溢れる明かりに真剣な宮瀬の顔が浮かび上がって見える。
「お前マジで言ってんのか」
「マジ以外のものに聞こえんのかよこれが」
コンクールじゃないてっぺん。それが何なのか俺にははっきりとはわからない。でも宮瀬には明確に見えているようで、そしてそれは奏始の心臓を高鳴らせる。
「もう一度言うぞ。俺は、Ωだ」
「敢えて言うが、だから何だと俺は言いたい。確かにお前はコンクールには出られない。でもそれが……お前がΩだと言うことが、お前の音楽を損なうとは俺は思わない」
「……くそ」
目尻が熱い。こんなほとんど初対面みたいなやつに、こんな傲慢なエゴイストに、喉から手が出るほど欲しかった言葉をもらうとは思ってもみなかった。込み上げてくるものを溢したくなくて空を見上げる。都会の明かりの下、星は見えない。それでも晴れた空には月がぽっかり浮かんでいた。
深く息を吸い込んで、そしてため息をつく。そうしないと内に生まれた熱が暴走しそうだった。無性に叫び出したい。そんな気持ちをぐっと抑えて、宮瀬に向き直る。
「俺は香坂奏始……ピアニストだ」
「宮瀬真尋。ヴァイオリニストだ。これからよろしく」
差し出された手を取る。手の甲に硬くなった指先が当たって、それがやけにあたたかく感じた。
しかし、バーでの演奏も一応仕事だ。急に休むという選択肢はなく、仕方なくバーに恐る恐る顔を出して奏始はぎょっとした。
ピアノから1番遠く、でも音が1番よく通る席に背の高い男が座っている。優雅に足を組みグラスを傾けているそいつは紛うことなき宮瀬だった。
出した顔を咄嗟に引っ込めてちょうどバックヤードにいたオーナーに問う。
「オーナー! あのお客さん!」
「あぁ、昨日の方。君の演奏が気に入ったから来る日を教えてくれって言われてね。そうしたら今日も来てくれてるんだよ。もう揉め事起こさないでね」
「……はい」
面倒くさそうな顔で言って去っていくオーナーに何も言うことはできない。店内の物事をαかΩかではなく、お客様かそれ以外で考えるこの社畜の気があるオーナーは奏始にとって貴重な存在だ。Ωである奏始を雇ってくれる人なんて他にいないだろう。ここをクビになったらもうピアノを弾ける場所が思い当たらない。逆らうわけにはいかなかった。
仕方なく楽譜を揃えてフロアに出る。なるべく宮瀬のことを視界にいれないようにしてピアノの前まで歩くが、視線の圧が重い。いや気の所為だ、気の所為。そう自分に言い聞かせてそそくさと演奏の準備をした。グランドピアノの蓋を少しだけ開けて、椅子の場所と高さを調整する。すとんと椅子に腰を下ろすと不思議と気分が落ち着いた。
さて、何を弾こうか。
まずは指慣らしから始めたいところだ。楽譜をめくりモーツァルトのソナタから一曲を選ぶ。なけなしの給料で買った楽譜はページが酷くよれている。それでも大事な楽譜だ。ページをそっと撫でて、そうして鍵盤の上に手を載せた。
すぅと新しい空気を吸い込むと頭の中がクリーンになった気がする。モーツァルトのソナタは楽譜に忠実に、軽やかに。雑念を振り払うような型のしっかりとしたこの曲は今の自分にぴったりだ。
最後の一音が鳴り終わって、一瞬。すぐあとに拍手が響いた。ふ、と息を吐く。辺りの景色が戻ってくるのと同時に、人が近づいてくる気配を感じた。すぐに手元に影が差して、そおっと見上げると予想通りそこには宮瀬が立っていた。
「……何ですか」
恐る恐る聞いても返答はない。なんだよこいつ。目を細めると、宮瀬はにやりと笑って背に背負っていた物を下ろした。ヴァイオリンケースだ。
「今日は持ってきたんだ」
笑みを崩さずにそう言いながら、宮瀬は手際よくケースから楽器を取り出す。その丁寧な触れ方に思わず見惚れてしまって奏始は舌打ちをした。
宮瀬真尋。口の中で名前を転がしてみる。
昨夜、その名前をネットで検索するとヒットしたのは「新気鋭のイケメンヴァイオリニスト」だとか「日本音楽界の次代を担う後継者」などという大層なキャッチコピーだった。その名前に聞き覚えがあると思ったのは間違いではなかったらしい。昨年、世界最高峰のコンクールで2位入賞を果たした確かな実力者だった。
そんな引く手数多の話題の音楽家がなぜこんなところにいて、なぜ自分に声をかけてくるのか。調べた結果、疑問は深まるばかりだったが。
「はぁ……もう何なんだよ」
「お前、即興は出来るか?」
「……お前、人の話を聞けってよく言われない?」
表情が引きつるのがわかる。なんだこのマイペースっぷりは。余りの話の通じなさにため息をつく奏始を横目に、見た目でもわかるような良いヴァイオリンを取り出した宮瀬は、手早く調弦を済ませて奏始を煽るように弦を構えてみせた。くそ、と内心で呟く。即興で合わせてみろということか。
断っても断られる未来しか見えない。それに、ここで引くのは奏始の負けず嫌いが許さない。くそ、舐めんなよ。鍵盤に指を戻し、奏始は無言でチャルダッシュのメロディを奏で始めた。テンポは基本よりずっと速く取ってやる。これぐらい弾けるだろ。そう煽ったつもりだった。
ピアノの斜め前に立つ宮瀬をちらりと見上げる。
べ、と舌を出してやると宮瀬は、ふ、と笑みのこもった息を漏らした。
そこからは喰らい合いだった。
奏始がメロディーラインを弾けば、宮瀬が食い込んできて主導権を握る。そうすれば今度は奏始がまた主線を取り返す。
負けたくない。そんな気持ちだったはずが、途中からもっと、もっとと求める気持ちになり、最後にはまだやりたいに変わった。
悔しい。でも楽しい。もっと。
ずっと一人で弾いてきた。誰かと音楽を弾くなんて初めての経験だった。それが宮瀬だったのはある意味不幸だったのかもしれない。
宮瀬は確かな実力者だった。互いの音を調和させ、間を埋める。傲慢さの見え隠れする言動とは正反対の優しく、そして合理的な音楽だった。
何よりも。
「すご……」
宮瀬のソロを聞いて思わずそう溢す。ヴァイオリンを構えて立っているだけで聞き手を惹きつける。場に求められた音を的確に出し、聞かないことを許さない。完成された1つの形がそこにあった。悔しい。この男に認められたことが、そして応えられないことが悔しい。この音楽に応えたい。どうしたらいい。なぜか泣きそうにな気持ちになって、そっと宮瀬を支えるように音を鳴らすと、はっとしたように彼は奏始を振り返った。目が合う。ゆるりとその目が細められた。
夢中で演奏を重ね、気がつけば閉店の時間になっていた。
閉店作業の邪魔だからと二人して店を追い出され、宮瀬と閉じた扉の前で向かい合うことになる。気まずい。何が気まずいって、互いに夢中で弾いていたことが気まずい。確か俺は昨日こいつに「ばーか」とか言わなかったか。言ったわ。どうしよう、なんとか誤魔化せないか。
「なあ、やっぱり俺と組んでくれないか」
その場を回避しようとぐるぐる考えていた奏始は、耳に入ってきた言葉にぽかんと口を開いた。今こいつは、組んで“くれないか”と言ったか?
「お前と弾くのは楽しかった。お前もそうだろ?」
「……まあ」
「お前とならもっとやれる。高みまで登れる。そう思うんだ。だから俺と組んでほしい」
心臓がバクバク音を立てているのが宮瀬に伝わってやしないだろうか。頬が赤いのは暗闇に紛れているだろうか。じとりと汗をかいた手のひらを握りしめる。
「……でも、俺はΩだからコンクールには出られない」
「昨日はコンクールでお前と組んで優勝するつもりだった。でも今日一緒に弾いてみて目指すのはもうそんな次元じゃないと思った。コンクールは所詮コンクールだ。そうじゃない。俺とお前で1番高いところまで上り詰めようぜ」
は、と息が漏れた。なんだそれ。
「なんだよそれ」
声が震える。店から溢れる明かりに真剣な宮瀬の顔が浮かび上がって見える。
「お前マジで言ってんのか」
「マジ以外のものに聞こえんのかよこれが」
コンクールじゃないてっぺん。それが何なのか俺にははっきりとはわからない。でも宮瀬には明確に見えているようで、そしてそれは奏始の心臓を高鳴らせる。
「もう一度言うぞ。俺は、Ωだ」
「敢えて言うが、だから何だと俺は言いたい。確かにお前はコンクールには出られない。でもそれが……お前がΩだと言うことが、お前の音楽を損なうとは俺は思わない」
「……くそ」
目尻が熱い。こんなほとんど初対面みたいなやつに、こんな傲慢なエゴイストに、喉から手が出るほど欲しかった言葉をもらうとは思ってもみなかった。込み上げてくるものを溢したくなくて空を見上げる。都会の明かりの下、星は見えない。それでも晴れた空には月がぽっかり浮かんでいた。
深く息を吸い込んで、そしてため息をつく。そうしないと内に生まれた熱が暴走しそうだった。無性に叫び出したい。そんな気持ちをぐっと抑えて、宮瀬に向き直る。
「俺は香坂奏始……ピアニストだ」
「宮瀬真尋。ヴァイオリニストだ。これからよろしく」
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