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Agitato 〔激しく、苛立って〕
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将来の夢が奏始の中で形を持ったのは、小学生の時だった。
「奏始くんは音楽が好き?」
「うん。音楽はいつも楽しいから」
鮮明に覚えている。小学3年生のときの担任の先生の言葉だった。
家に帰るのが嫌で毎日出来るだけ学校に居残ろうとする奏始に、先生は優しかった。奏始のために開放された音楽室で、暇を持て余した俺はいつも手慰みにピアノを弾いていた。
「そう。それならピアニストになればいいわ」
「ピアニスト?」
「うん。奏始くんはピアノを弾くのが好きなんでしょう?」
「うん! ピアノの音って綺麗。大好き!」
今思えば、あの先生はかなり先進的な考えを持った人だったのだろう。Ω家庭に育った俺を差別することなく接してくれていた。しかしそれは反対に残酷なことでもあった。
「奏始くんは音楽をするために産まれてきたのかもしれないね。“奏で始める”で奏始。ふふ、先生あなたがピアニストになるのを楽しみにしてるわね」
先生は優しく微笑んでそう言った。Ωがピアニストになんかなれるわけがないのに。奏始という名前は母が名前によく使われる漢字の一覧からランダムに選んで付けられただけのものだ。
その次の年、先生は学校を転任していった。俺に無責任な夢を与えて。
金曜日と土曜日の週2回。奏志はバーのラウンジでピアノを弾いている。
奏始にとってピアノに触れることは簡単なことではない。このバーでの演奏の機会もやっとのことで見つけたのだ。工場のラインで毎日働いて細々と生きている自分にはピアノは手の出ない代物。でもピアノは、音楽は、奏始が息をするために必要なもので。
だからこのバーでピアノに触れるたった2時間が奏始にとって何よりの至福の時間だった。
今日もそんないつも通りの日の筈だった。
工場で働いてくたくたになった体は不思議なことにピアノの前に座ると元気を取り戻す。今日は何を弾こうか。ポップスよりもがっつりクラシックが弾きたい気分だ。ショパン、リスト、バッハでもいいし、ガーシュインもいい。
思いつくままにノンストップで弾き続け、気がつけば閉店間近の時間だった。顔を上げて店内を見回すと、既にもう客は2、3人しかいない。常連の老紳士、くたびれたOL、そして初めて見る黒髪の若い男。バチっと視線があってしまって奏志はそっと目をそらした。座っていてもわかる長身に整った顔立ち。ぱっと見てわかるほどの仕立てのよい服。仕事帰りそのままの草臥れたTシャツとジーンズ姿の自分が急に恥ずかしく思えた。せっかく気分がよかったのに台無しだ。まあ勝手に比較した自分のせいだが。最後に何か弾いて気分を上げて帰ろう。最後の曲を弾こうと鍵盤に指を乗せたところに、初めて聞く声が奏志の耳を叩いた。
「あの、リクエストをお願いできたりしますか?」
「え?」
先ほど目の合った若い男だ。低く柔らかな声は静かな店内によく響いた。
「弾いてほしい曲があるんですけど」
「あ、えっと、俺が知ってる曲なら」
声をかけられたのも、リクエストを要求されたのも初めてのことで奏志は大いに戸惑った。でも少し嬉しい。自分の周りに音楽の話をできる人はいない。だから音楽に興味がある人が同じ空間にいることがむず痒い。もし知っている曲であれば弾いてやりたいと奏志は首肯した。それを見て男が軽く微笑む。嫌味な程に整った顔だ。
「ありがとう。弾いてほしいのはショパンの木枯らしなんだけど」
弾けるかな?と小首を傾げる男に顔がひきつる。優しげな口調で要求がエグすぎる。木枯らしはピアノ曲の中でも難曲なのだ。こんな寂れたところでピアノを弾いているようなやつに対して要求が厳しすぎる。でも断るのもなんだか癪で、奏始は渋々頷いた。木枯らし自体は好きな曲だ。高校の時に音楽室に籠って何時間も練習したこともあり、暗譜もできている。静かなバーに相応しい曲だとは思えなかったが、客のリクエストならいいだろう。指が音を覚えているかを少し心配しながら鍵盤に指を乗せる。
すっと周りの景色が消えた。向かい合うのはモノクロのピアノだけだ。
ショパンは好きだ。メロディーに感情が溢れている。そんなショパンの「木枯らし」も速いパッセージが怒涛の勢いで続き、音がまるで洪水のような曲だ。タイトルだけなら寂しい言葉なのに、曲は寂しさなんて感じさせないような激しさを持つ。奏志はいつもこのタイトルが不思議だった。奏始にはこのメロディーが制御できないような嬉しさに溢れて、でもそれを必死に抑えているように聞こえる。どうしてこんなにも苦しいんだろうか。
気がつけば最後の一音が空に消えていった。
さて、自分の演奏を男はどう受け取ったのか。恐る恐る振り向けば、男は目をかっぴらいてこちらを見ていた。思わずひっと息を呑んで、身を引く。下手くそすぎて怒らせたのだろうか。確かにところどころミスタッチはしたけれど。したけどさぁ……! 俺にそこまで求めんなよ! 心の中で叫びながら、これはもう逃げたもん勝ちだと「ありがとうございました」と呟くように言い、そそくさと楽譜をかき集めて奏志はピアノの前から退いた。さっさとバックヤードへ引っ込んでしまおうと踵を返したところに、鋭い声が飛んできた。
「……なんでこんなとこで弾いてんの?」
低い声だ。奏始にはピアノを弾く価値もないということだろうか。いくら下手くそだったらってそれは言いすぎだろう。余りの言われようにカチンときて俯き加減にしていた顔をあげる。視線が合った。強い目だ。ギラギラと輝いている。
「なんでってどういう意味ですか」
「ピアノへの冒涜だ。なんでこんなところにいる?」
「……失礼ですが、あなたにそんなこと言われる筋合いないと思うんですが」
「コンクールの出場歴は? 誰に師事してた? 今はどこかに所属してるのか?」
「は?」
質問攻めに思わずぽかんと口を開ける。自分は今何を詰問されているんだろう。
「……コンクールに出たことはないですし、俺はただここでピアノを弾かせてもらってるだけです。先生もいません」
「嘘だろ? そんな馬鹿な」
「はぁ?」
今度こそはっきりと声が出た。なんだこいつ。どうやらイケメンのくせしてネジが飛んでいるらしい。というか、最初の爽やかで柔和そうな優男は猫かぶりだったのか。目の前にいる男は眉間にしわを寄せ、低い声の口調は荒い。まるで別人だ。これは本当に関わり合いにならないのが身のためかもしれない。後ずさると腕が伸びてきて、避ける間もなく痛いくらいに手首を掴まれた。素肌に触れた手のひらは火傷するくらいに熱く感じた。ビリっと電流が走るような感覚を覚えて奏志はふらついた。
「ちょっ、何すんだよ」
「お前、俺と組め」
「はっ!?」
「俺はヴァイオリニストだ。伴奏で組んでくれるピアノ奏者を探していたんだ。お前が野良ならちょうどいい」
「野良ってなんだよ! ってか離せって!」
「お前名前は?」
「人の話を聞けよ! あとお前が名乗れ!」
「俺は宮瀬真尋だ」
「え、なんか聞いたことある……?」
「で、お前の名前は?」
「誰が言うかよ!」
こんな危ないやつに名前なんか教えたらこっちの身が危うい。拒否する奏始に男、もとい、宮瀬が舌打ちをした。ヴァイオリニストだと名乗った宮瀬はこうして前に立たれると身長は180後半はあるだろうか。一見細身だが服の上からでも綺麗に筋肉がついているのがわかった。掴まれた手首から感じる指先の感覚が硬い。弦楽器を惹き込んだ人特有の指だ。
「まあいい。名前なんか調べればいくらでもわかる」
「おい、怖いこと言うな!」
「それで? お前はなんでこんなところにいる?」
「質問の意味がわかんねぇよ。なんでってなんだよ!」
「お前ほどの才能がなぜこんなところでピアノを弾いていると聞いてるんだ。さっきの木枯らし。コンクールに出れば上位賞は間違いなし、コンサートに出しても恥ずかしくない出来だろ」
虚を突かれた。こいつは奏始の演奏が上手かったと、よかったと言っているのだろうか。ゆっくりと咀嚼して言葉を飲み込むと、頬に色が指すのがわかった。咄嗟に俯く。そんなことを言われたのは初めてだ。口元が緩む。なんとなく悔しくてそれを悟らせないように真一文字に唇を引き結んだ。顔を上げると、目線より上にある宮瀬の顔は相変わらず怒ったように眉が寄せられていた。
「……なあ、俺と組めよ。世界中のコンクールで一位を総舐めしてやろう。俺とお前なら出来る」
体に震えが走る。ごくりと唾を飲み下す音がやけに響いて聞こえた。脳裏に映像がちらつく。光の当たった舞台に立ち、喝采の拍手を浴びる。こそこそとピアノを弾く必要はない。堂々と好きな曲を演奏できる。それはなんて、なんて最高だろうか。無意識に浅くなった呼吸に気が付いて深く息を吸い込む。それは余りにも輝かしい世界。でも、俺には無理だ。お礼を言って、そして断ろうと口を開く。しかし音になったのは宮瀬の言葉が先だった。
「今のお前は才能をドブに捨てているようなもんだ。勿体ない。音楽への冒涜だ」
その言葉が脳に届いた瞬間、反射的に思いっきり腕を振り払っていた。
「うるせぇ! お前に何がわかんだよ!」
こんな俺を認めてくれてありがとうとお礼を言おうと思って吸い込んだ空気は、震えた怒鳴り声に変わった。
「才能をドブに捨ててる? こちとら最初からドブにいんだよ! 元からドブ塗れの才能だアホ!」
宮瀬が驚いたように目を見開いた。奏始が振り払った腕が所在無げに空に彷徨っている。
「音楽への冒涜だ? ふざけんなお前に何の権利があるんだクソ野郎」
「お、おい」
「俺と組め? お断りだね! お前みたいなクソα様と誰が組むかよ!」
「待て、おい」
「なんでコンクールに出てないんだって言ったな? あぁ、生まれながらになんでも持ってる傲慢なα様にはわからんだろうよ。いいか? Ωにはコンクールに出る権利はないんだ」
「お前まさか」
「あぁそのまさかだ。俺はΩだよ。なんか文句あるか、あ゛ぁ?」
宮瀬の声が僅かに掠れる。どうせこいつはαだろう。輝かしい人生が約束されたα。そして奏始はドブを這いずって生きていくことが約束されたΩだ。
「はは、フられたのは初めてか? よかったな、二度と出来ないんじゃないか、こんな経験。バーカ。二度と来んじゃねぇ」
呆気にとられたように口を開閉する宮瀬に少し溜飲が下がる。が、こちとらやられたら倍返しが心情だ。例え相手にそんな気はなかったとしても知ったこっちゃない。最後の仕上げに舌を出して中指を立ててやると、宮瀬の顔が歪んだ。それを見届けて奏始は最速で踵を返してバックヤードに飛び込んだ。あぁ、今日は最悪の夜だった。体に纏わりついたαの匂いが、自分の動きと共に鼻腔に香る。圧倒的な力を示すような重いその匂いが、自分の好みであるというのがまた最悪だった。
「奏始くんは音楽が好き?」
「うん。音楽はいつも楽しいから」
鮮明に覚えている。小学3年生のときの担任の先生の言葉だった。
家に帰るのが嫌で毎日出来るだけ学校に居残ろうとする奏始に、先生は優しかった。奏始のために開放された音楽室で、暇を持て余した俺はいつも手慰みにピアノを弾いていた。
「そう。それならピアニストになればいいわ」
「ピアニスト?」
「うん。奏始くんはピアノを弾くのが好きなんでしょう?」
「うん! ピアノの音って綺麗。大好き!」
今思えば、あの先生はかなり先進的な考えを持った人だったのだろう。Ω家庭に育った俺を差別することなく接してくれていた。しかしそれは反対に残酷なことでもあった。
「奏始くんは音楽をするために産まれてきたのかもしれないね。“奏で始める”で奏始。ふふ、先生あなたがピアニストになるのを楽しみにしてるわね」
先生は優しく微笑んでそう言った。Ωがピアニストになんかなれるわけがないのに。奏始という名前は母が名前によく使われる漢字の一覧からランダムに選んで付けられただけのものだ。
その次の年、先生は学校を転任していった。俺に無責任な夢を与えて。
金曜日と土曜日の週2回。奏志はバーのラウンジでピアノを弾いている。
奏始にとってピアノに触れることは簡単なことではない。このバーでの演奏の機会もやっとのことで見つけたのだ。工場のラインで毎日働いて細々と生きている自分にはピアノは手の出ない代物。でもピアノは、音楽は、奏始が息をするために必要なもので。
だからこのバーでピアノに触れるたった2時間が奏始にとって何よりの至福の時間だった。
今日もそんないつも通りの日の筈だった。
工場で働いてくたくたになった体は不思議なことにピアノの前に座ると元気を取り戻す。今日は何を弾こうか。ポップスよりもがっつりクラシックが弾きたい気分だ。ショパン、リスト、バッハでもいいし、ガーシュインもいい。
思いつくままにノンストップで弾き続け、気がつけば閉店間近の時間だった。顔を上げて店内を見回すと、既にもう客は2、3人しかいない。常連の老紳士、くたびれたOL、そして初めて見る黒髪の若い男。バチっと視線があってしまって奏志はそっと目をそらした。座っていてもわかる長身に整った顔立ち。ぱっと見てわかるほどの仕立てのよい服。仕事帰りそのままの草臥れたTシャツとジーンズ姿の自分が急に恥ずかしく思えた。せっかく気分がよかったのに台無しだ。まあ勝手に比較した自分のせいだが。最後に何か弾いて気分を上げて帰ろう。最後の曲を弾こうと鍵盤に指を乗せたところに、初めて聞く声が奏志の耳を叩いた。
「あの、リクエストをお願いできたりしますか?」
「え?」
先ほど目の合った若い男だ。低く柔らかな声は静かな店内によく響いた。
「弾いてほしい曲があるんですけど」
「あ、えっと、俺が知ってる曲なら」
声をかけられたのも、リクエストを要求されたのも初めてのことで奏志は大いに戸惑った。でも少し嬉しい。自分の周りに音楽の話をできる人はいない。だから音楽に興味がある人が同じ空間にいることがむず痒い。もし知っている曲であれば弾いてやりたいと奏志は首肯した。それを見て男が軽く微笑む。嫌味な程に整った顔だ。
「ありがとう。弾いてほしいのはショパンの木枯らしなんだけど」
弾けるかな?と小首を傾げる男に顔がひきつる。優しげな口調で要求がエグすぎる。木枯らしはピアノ曲の中でも難曲なのだ。こんな寂れたところでピアノを弾いているようなやつに対して要求が厳しすぎる。でも断るのもなんだか癪で、奏始は渋々頷いた。木枯らし自体は好きな曲だ。高校の時に音楽室に籠って何時間も練習したこともあり、暗譜もできている。静かなバーに相応しい曲だとは思えなかったが、客のリクエストならいいだろう。指が音を覚えているかを少し心配しながら鍵盤に指を乗せる。
すっと周りの景色が消えた。向かい合うのはモノクロのピアノだけだ。
ショパンは好きだ。メロディーに感情が溢れている。そんなショパンの「木枯らし」も速いパッセージが怒涛の勢いで続き、音がまるで洪水のような曲だ。タイトルだけなら寂しい言葉なのに、曲は寂しさなんて感じさせないような激しさを持つ。奏志はいつもこのタイトルが不思議だった。奏始にはこのメロディーが制御できないような嬉しさに溢れて、でもそれを必死に抑えているように聞こえる。どうしてこんなにも苦しいんだろうか。
気がつけば最後の一音が空に消えていった。
さて、自分の演奏を男はどう受け取ったのか。恐る恐る振り向けば、男は目をかっぴらいてこちらを見ていた。思わずひっと息を呑んで、身を引く。下手くそすぎて怒らせたのだろうか。確かにところどころミスタッチはしたけれど。したけどさぁ……! 俺にそこまで求めんなよ! 心の中で叫びながら、これはもう逃げたもん勝ちだと「ありがとうございました」と呟くように言い、そそくさと楽譜をかき集めて奏志はピアノの前から退いた。さっさとバックヤードへ引っ込んでしまおうと踵を返したところに、鋭い声が飛んできた。
「……なんでこんなとこで弾いてんの?」
低い声だ。奏始にはピアノを弾く価値もないということだろうか。いくら下手くそだったらってそれは言いすぎだろう。余りの言われようにカチンときて俯き加減にしていた顔をあげる。視線が合った。強い目だ。ギラギラと輝いている。
「なんでってどういう意味ですか」
「ピアノへの冒涜だ。なんでこんなところにいる?」
「……失礼ですが、あなたにそんなこと言われる筋合いないと思うんですが」
「コンクールの出場歴は? 誰に師事してた? 今はどこかに所属してるのか?」
「は?」
質問攻めに思わずぽかんと口を開ける。自分は今何を詰問されているんだろう。
「……コンクールに出たことはないですし、俺はただここでピアノを弾かせてもらってるだけです。先生もいません」
「嘘だろ? そんな馬鹿な」
「はぁ?」
今度こそはっきりと声が出た。なんだこいつ。どうやらイケメンのくせしてネジが飛んでいるらしい。というか、最初の爽やかで柔和そうな優男は猫かぶりだったのか。目の前にいる男は眉間にしわを寄せ、低い声の口調は荒い。まるで別人だ。これは本当に関わり合いにならないのが身のためかもしれない。後ずさると腕が伸びてきて、避ける間もなく痛いくらいに手首を掴まれた。素肌に触れた手のひらは火傷するくらいに熱く感じた。ビリっと電流が走るような感覚を覚えて奏志はふらついた。
「ちょっ、何すんだよ」
「お前、俺と組め」
「はっ!?」
「俺はヴァイオリニストだ。伴奏で組んでくれるピアノ奏者を探していたんだ。お前が野良ならちょうどいい」
「野良ってなんだよ! ってか離せって!」
「お前名前は?」
「人の話を聞けよ! あとお前が名乗れ!」
「俺は宮瀬真尋だ」
「え、なんか聞いたことある……?」
「で、お前の名前は?」
「誰が言うかよ!」
こんな危ないやつに名前なんか教えたらこっちの身が危うい。拒否する奏始に男、もとい、宮瀬が舌打ちをした。ヴァイオリニストだと名乗った宮瀬はこうして前に立たれると身長は180後半はあるだろうか。一見細身だが服の上からでも綺麗に筋肉がついているのがわかった。掴まれた手首から感じる指先の感覚が硬い。弦楽器を惹き込んだ人特有の指だ。
「まあいい。名前なんか調べればいくらでもわかる」
「おい、怖いこと言うな!」
「それで? お前はなんでこんなところにいる?」
「質問の意味がわかんねぇよ。なんでってなんだよ!」
「お前ほどの才能がなぜこんなところでピアノを弾いていると聞いてるんだ。さっきの木枯らし。コンクールに出れば上位賞は間違いなし、コンサートに出しても恥ずかしくない出来だろ」
虚を突かれた。こいつは奏始の演奏が上手かったと、よかったと言っているのだろうか。ゆっくりと咀嚼して言葉を飲み込むと、頬に色が指すのがわかった。咄嗟に俯く。そんなことを言われたのは初めてだ。口元が緩む。なんとなく悔しくてそれを悟らせないように真一文字に唇を引き結んだ。顔を上げると、目線より上にある宮瀬の顔は相変わらず怒ったように眉が寄せられていた。
「……なあ、俺と組めよ。世界中のコンクールで一位を総舐めしてやろう。俺とお前なら出来る」
体に震えが走る。ごくりと唾を飲み下す音がやけに響いて聞こえた。脳裏に映像がちらつく。光の当たった舞台に立ち、喝采の拍手を浴びる。こそこそとピアノを弾く必要はない。堂々と好きな曲を演奏できる。それはなんて、なんて最高だろうか。無意識に浅くなった呼吸に気が付いて深く息を吸い込む。それは余りにも輝かしい世界。でも、俺には無理だ。お礼を言って、そして断ろうと口を開く。しかし音になったのは宮瀬の言葉が先だった。
「今のお前は才能をドブに捨てているようなもんだ。勿体ない。音楽への冒涜だ」
その言葉が脳に届いた瞬間、反射的に思いっきり腕を振り払っていた。
「うるせぇ! お前に何がわかんだよ!」
こんな俺を認めてくれてありがとうとお礼を言おうと思って吸い込んだ空気は、震えた怒鳴り声に変わった。
「才能をドブに捨ててる? こちとら最初からドブにいんだよ! 元からドブ塗れの才能だアホ!」
宮瀬が驚いたように目を見開いた。奏始が振り払った腕が所在無げに空に彷徨っている。
「音楽への冒涜だ? ふざけんなお前に何の権利があるんだクソ野郎」
「お、おい」
「俺と組め? お断りだね! お前みたいなクソα様と誰が組むかよ!」
「待て、おい」
「なんでコンクールに出てないんだって言ったな? あぁ、生まれながらになんでも持ってる傲慢なα様にはわからんだろうよ。いいか? Ωにはコンクールに出る権利はないんだ」
「お前まさか」
「あぁそのまさかだ。俺はΩだよ。なんか文句あるか、あ゛ぁ?」
宮瀬の声が僅かに掠れる。どうせこいつはαだろう。輝かしい人生が約束されたα。そして奏始はドブを這いずって生きていくことが約束されたΩだ。
「はは、フられたのは初めてか? よかったな、二度と出来ないんじゃないか、こんな経験。バーカ。二度と来んじゃねぇ」
呆気にとられたように口を開閉する宮瀬に少し溜飲が下がる。が、こちとらやられたら倍返しが心情だ。例え相手にそんな気はなかったとしても知ったこっちゃない。最後の仕上げに舌を出して中指を立ててやると、宮瀬の顔が歪んだ。それを見届けて奏始は最速で踵を返してバックヤードに飛び込んだ。あぁ、今日は最悪の夜だった。体に纏わりついたαの匂いが、自分の動きと共に鼻腔に香る。圧倒的な力を示すような重いその匂いが、自分の好みであるというのがまた最悪だった。
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