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十 織田家混乱
七
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清州は、鎌倉街道と伊勢街道が合流する交通の要だ。足利尊氏から始まる室町幕府の元で尾張国の守護になった斯波氏はここを拠点としている。
その家臣に、織田一族があり、筆頭に守護代として清州城の大和守家、岩倉城の伊勢守家がある。信長の弾正忠家は、格下の三奉行家にあたる。
では、どうやって弾正忠家の信長の父信秀が織田一族を統べたのか。それは、経済都市の役割もある熱田・津島の両神社と港の利権を独占したことにある。
圧倒的経済力が弾正忠家の源泉だ。
「熱田の加藤家から使いが来たと」
清州へ、月の到着を告げると、実質的に大和守家を取り仕切る家老の坂井大膳の部屋へ通された。
恒興は、身を偽って、月の警護役として部屋へ付き添った。
月は、坂井大膳に対面すると、手をついて千両箱を運び込ませた。
「父、加藤図書からの土産にございます」
「うむ」
坂井大膳は、同席する弟の甚助(じんすけ)に、千両箱の中身を改めるように促した。
「兄上、間違いございません。黄金虫にございます」
大膳は、おおいに首肯して、月に向き直った。
「熱田の望みはなんだ?」
「大和守様が勝利の暁には、我ら、熱田に尾張一国の商売を取り仕切ることをお許し願いとうございます」
「津島もあるからのう。これだけでは……」
「それは、手付けにございます。勝利の暁にはその十倍を用意しております」
ポンッ!
大膳は、扇子を閉じた。
「それでよい」
閉じた扇子で月を差して、
「それで、戦の間、人質になるのは其方でよいのか?」
「はい、加藤図書の娘の私が務めます」
「聞いてないぞ、月!」恒興は、思わず口走りそうになった。加藤家の使いの役目が他の誰かではなく、娘の月である理由はそこにあった。
恒興は、己の思慮の浅さを恥じた。こんなことなら佐内川の渡しで見つけた時、なにがなんでも止めればよかった。
もう遅い。月は清州の家老坂井大膳と面会している。話も済んだ。恒興は、歯噛みするよりなかった。
熱田加藤家が申し出たのは、弾正忠家からの鞍替えだ。人質であっても、勝利の暁には、莫大な金を支払う条件だ。月を無下には扱わないだろう。
恒興は、月を幽閉する部屋まで見届けると、「戦が終われば、真っ先に迎えに来る!」
と、確約して別れた。
恒興が馬屋へ来ると、顔を真っ黒に汚したボロ着の男が、バリバリとトカゲの干物を噛み切りながら待ち構えていた。
「あんたが池田さんか?」
「清州で俺の名を知っているとは、お前、何者だ?」
「はじめまして、簗田弥右衛門と申します」
「知らぬ名だ」
「厳めしい顔をしないでください。俺は、若殿の忍でございます。池田様の前に顔を晒したのは、若殿に渡して欲しい文があるのです」
そう言って、弥右衛門は恒興に文を差し出した。
「これは?」
「おっと、池田さん。中身は改めないで下さいよ。その為に米粒で封をしたのです」
「中身も知らず。文を若殿に届けるなぞ、ただの使い走りではないか」
恒興は、文をその場で破り捨てようとした。
「おっと、いけねぇ。早まらないで下せえ」
弥右衛門は、恒興の文にかけた手を、鋭い手刀で打ち落とした。美技である。
「お主、出来るな」
「池田さんの従兄、滝川一益様に鍛えられましたから」
恒興は呆れた。まったく、いつから従兄貴は忍の頭目になったのだ。昔からフラフラしてなにをやっているかわからない男であったが、まさか、若殿の忍を率いる頭になっているとは思いもしなかった。
「それならば」
と、恒興は、納得して文を懐にしまうと馬に飛び乗った。
「月様のこと、後はお任せください。命に替えましても」
「弥右衛門、頼む。任せたぞ! セイヤッ!」
恒興は馬を走らせた。
恒興は馬を走らせながら、納得いかないものが心を反芻した。最近の若殿のなさりようだ。鳴海の山口親子、この度の熱田、月の事。裏切る気のない人間を二股膏薬に使う。それで人が死ぬのを何とも思わないのか。
恒興は、すぐさま、那古野へ戻ると、信長を探して広間へ走った。
(これは!)
広間に入った恒興は目を疑った。仲間の河尻秀隆、毛利良勝、織田信時、丹羽長秀、蜂屋般若介も戦支度を整えている。
秀隆が、のんびりした口調で、
「恒興、もう少し遅ければ、置いていくところだったぞ」
「そうだ恒興、若殿の出陣の下知が下って四半時。信時が、お前を待つように願い出ねば、また、お前の兵は般若介が率いるところであった」
良勝も心配の顔を浮かべている。
「まずは、恒興が間に合ってよかったではないか」
人の良い信時が、血気に逸る皆を宥(なだ)めた。
「池田さん、よいか?」
長秀が、この度、清州織田大和守との戦の目的を話す。
清州の坂井大膳は、熱田の人質を取ればスグに動き出す。おそらく手薄な織田信氏の松葉城、織田達順の深田城を急襲するはずだ。
信長軍は、それを見捨てて、先に、稲庭池の川岸へ出張り、松葉口から弟信行の家老柴田勝家が。三本木口へは内藤勝介。清州口へは信長本隊が攻め上がる手はずだ。
「ちょっと、待ってくれ! 清州には、若殿の意を汲んだ加藤家の月が人質になっている。今、攻めればどうなるかわからない」
「池田さん、あんたの気持ちはわからんではないが、若殿がすでに出陣の号令を出し、皆、支度を済ませ集まっている。もはや、あんた一人のために戦を取りやめることは叶わんよ」
「ちょっと待て! 俺は清洲で織田弾正忠家の忍びだと申す梁田某から若殿宛てに文を持ち帰った。そこに、戦を思いとどまる何かが書いてある矢もしれぬ。若殿はどこだ。俺が直接話して思いとどまるように話してくる」
恒興が、信長を探しに広間を出ようとすると、出陣を告げる法螺が鳴り響いた。
「皆の者、出陣じゃ!」
鬼髭の柴田勝家が檄を飛ばした。森末の信行のこの家老は、生来の戦好き。日常の政務よりも戦場の方が、数倍実力を発揮できる。
信長への協力を、筆頭家老の林美作守通具が渋るのを、
「あの大うつけが滅んでは、信行様の明日もござらぬ。俺は行かせてもらう」
と、強引に参戦した。
家中随一の武勇を誇る勝家の参戦だ。若い秀隆も、良勝、信時、秀長、般若介も槍を掴んで立ち上がった。
恒興は悟った。清州で簗田弥右衛門が「任せろ!」と、言ったのはこのことだったのだ。
その家臣に、織田一族があり、筆頭に守護代として清州城の大和守家、岩倉城の伊勢守家がある。信長の弾正忠家は、格下の三奉行家にあたる。
では、どうやって弾正忠家の信長の父信秀が織田一族を統べたのか。それは、経済都市の役割もある熱田・津島の両神社と港の利権を独占したことにある。
圧倒的経済力が弾正忠家の源泉だ。
「熱田の加藤家から使いが来たと」
清州へ、月の到着を告げると、実質的に大和守家を取り仕切る家老の坂井大膳の部屋へ通された。
恒興は、身を偽って、月の警護役として部屋へ付き添った。
月は、坂井大膳に対面すると、手をついて千両箱を運び込ませた。
「父、加藤図書からの土産にございます」
「うむ」
坂井大膳は、同席する弟の甚助(じんすけ)に、千両箱の中身を改めるように促した。
「兄上、間違いございません。黄金虫にございます」
大膳は、おおいに首肯して、月に向き直った。
「熱田の望みはなんだ?」
「大和守様が勝利の暁には、我ら、熱田に尾張一国の商売を取り仕切ることをお許し願いとうございます」
「津島もあるからのう。これだけでは……」
「それは、手付けにございます。勝利の暁にはその十倍を用意しております」
ポンッ!
大膳は、扇子を閉じた。
「それでよい」
閉じた扇子で月を差して、
「それで、戦の間、人質になるのは其方でよいのか?」
「はい、加藤図書の娘の私が務めます」
「聞いてないぞ、月!」恒興は、思わず口走りそうになった。加藤家の使いの役目が他の誰かではなく、娘の月である理由はそこにあった。
恒興は、己の思慮の浅さを恥じた。こんなことなら佐内川の渡しで見つけた時、なにがなんでも止めればよかった。
もう遅い。月は清州の家老坂井大膳と面会している。話も済んだ。恒興は、歯噛みするよりなかった。
熱田加藤家が申し出たのは、弾正忠家からの鞍替えだ。人質であっても、勝利の暁には、莫大な金を支払う条件だ。月を無下には扱わないだろう。
恒興は、月を幽閉する部屋まで見届けると、「戦が終われば、真っ先に迎えに来る!」
と、確約して別れた。
恒興が馬屋へ来ると、顔を真っ黒に汚したボロ着の男が、バリバリとトカゲの干物を噛み切りながら待ち構えていた。
「あんたが池田さんか?」
「清州で俺の名を知っているとは、お前、何者だ?」
「はじめまして、簗田弥右衛門と申します」
「知らぬ名だ」
「厳めしい顔をしないでください。俺は、若殿の忍でございます。池田様の前に顔を晒したのは、若殿に渡して欲しい文があるのです」
そう言って、弥右衛門は恒興に文を差し出した。
「これは?」
「おっと、池田さん。中身は改めないで下さいよ。その為に米粒で封をしたのです」
「中身も知らず。文を若殿に届けるなぞ、ただの使い走りではないか」
恒興は、文をその場で破り捨てようとした。
「おっと、いけねぇ。早まらないで下せえ」
弥右衛門は、恒興の文にかけた手を、鋭い手刀で打ち落とした。美技である。
「お主、出来るな」
「池田さんの従兄、滝川一益様に鍛えられましたから」
恒興は呆れた。まったく、いつから従兄貴は忍の頭目になったのだ。昔からフラフラしてなにをやっているかわからない男であったが、まさか、若殿の忍を率いる頭になっているとは思いもしなかった。
「それならば」
と、恒興は、納得して文を懐にしまうと馬に飛び乗った。
「月様のこと、後はお任せください。命に替えましても」
「弥右衛門、頼む。任せたぞ! セイヤッ!」
恒興は馬を走らせた。
恒興は馬を走らせながら、納得いかないものが心を反芻した。最近の若殿のなさりようだ。鳴海の山口親子、この度の熱田、月の事。裏切る気のない人間を二股膏薬に使う。それで人が死ぬのを何とも思わないのか。
恒興は、すぐさま、那古野へ戻ると、信長を探して広間へ走った。
(これは!)
広間に入った恒興は目を疑った。仲間の河尻秀隆、毛利良勝、織田信時、丹羽長秀、蜂屋般若介も戦支度を整えている。
秀隆が、のんびりした口調で、
「恒興、もう少し遅ければ、置いていくところだったぞ」
「そうだ恒興、若殿の出陣の下知が下って四半時。信時が、お前を待つように願い出ねば、また、お前の兵は般若介が率いるところであった」
良勝も心配の顔を浮かべている。
「まずは、恒興が間に合ってよかったではないか」
人の良い信時が、血気に逸る皆を宥(なだ)めた。
「池田さん、よいか?」
長秀が、この度、清州織田大和守との戦の目的を話す。
清州の坂井大膳は、熱田の人質を取ればスグに動き出す。おそらく手薄な織田信氏の松葉城、織田達順の深田城を急襲するはずだ。
信長軍は、それを見捨てて、先に、稲庭池の川岸へ出張り、松葉口から弟信行の家老柴田勝家が。三本木口へは内藤勝介。清州口へは信長本隊が攻め上がる手はずだ。
「ちょっと、待ってくれ! 清州には、若殿の意を汲んだ加藤家の月が人質になっている。今、攻めればどうなるかわからない」
「池田さん、あんたの気持ちはわからんではないが、若殿がすでに出陣の号令を出し、皆、支度を済ませ集まっている。もはや、あんた一人のために戦を取りやめることは叶わんよ」
「ちょっと待て! 俺は清洲で織田弾正忠家の忍びだと申す梁田某から若殿宛てに文を持ち帰った。そこに、戦を思いとどまる何かが書いてある矢もしれぬ。若殿はどこだ。俺が直接話して思いとどまるように話してくる」
恒興が、信長を探しに広間を出ようとすると、出陣を告げる法螺が鳴り響いた。
「皆の者、出陣じゃ!」
鬼髭の柴田勝家が檄を飛ばした。森末の信行のこの家老は、生来の戦好き。日常の政務よりも戦場の方が、数倍実力を発揮できる。
信長への協力を、筆頭家老の林美作守通具が渋るのを、
「あの大うつけが滅んでは、信行様の明日もござらぬ。俺は行かせてもらう」
と、強引に参戦した。
家中随一の武勇を誇る勝家の参戦だ。若い秀隆も、良勝、信時、秀長、般若介も槍を掴んで立ち上がった。
恒興は悟った。清州で簗田弥右衛門が「任せろ!」と、言ったのはこのことだったのだ。
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