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一 お福の決意

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「おふくこれからどうするのだ?」
 まだ、生まれて日の浅い赤児あかごを胸に抱き、愛おしそうに乳を噛(は)ませるお福は、狭い足軽長屋で、夫、池田いけだつねとしの上役森寺もりだら秀勝ひでかつから決断を迫られている。
「私は、一人でもこの子を育てたいと思っております」
 返事を聞いた中年の秀勝は同席している恒利の兄に当たる滝川一勝たきがわかずかつに「お前からも言ってくれ」といわんばかりにうったえた。
 お福の夫池田恒利は、戦場で上役である秀勝を庇って重傷を負い床から離れられない体になった。一家を支える働き手を失った池田家は、赤児を含めて家族を集め、これからの身の振り方を話し合っているのだ。
 お福は、今年、初産ういざんした二十一歳の健康的な娘だ。きれいな黒髪を後ろでまとめ、意志の強いキリリとした眉に、人を疑うことのない団栗どんぐりのような大きな瞳で真っすぐ相手を見つめる。口は小さく控えめで、大声でぺちゃくちゃ話すことはない。足軽長屋にはめずらしい育ちの良い娘だ。
吉法師きちほうし様の乳母うばになる話は悪い話ではないではないか?」
 一勝が、すまなさそうにお福に尋ねた。この一勝と、恒利の兄弟は織田家へ仕官して日が浅い。近江での浪人時代から付き合いのあった、先に織田家へ仕官した面倒見のよいお福の父政秀まさひでに口を利いて貰い仕官したのだ。
 その際、政秀は一つだけ条件を出した。男子がいない池田家へ弟の恒利に娘のお福夫として婿養子むこようしに入ることだ。まったく滝川の兄弟にとって都合のよい提案だ。たったそれだけのことで食うや食わずの浪人暮らしから、織田家への仕官を了解した政秀はまさに恩人だ。
 お福は恩人の娘である。いくら互いに貧しい足軽の身分であっても捨て置くことはできない。
 義兄の一勝にしても、上役の秀勝にしても、このお福の先行きを見捨てることはできないのだ。
「私が、この子と夫も含めて一人で面倒をみます」
 先ほどから、お福は、先行きを心配する男二人から持ち掛けられた、吉法師の乳母になる話をいくら説得しても強情を通して聞き入れようとしない。
「お福、なぜにそこまで必要にこの話を断るのだ?」
 頭を下げまくって、ようやく話を取り付けてきた秀勝が尋ねた。
「見て欲しいものがあります」
 と、お福は立ち上がって、貧しい足軽長屋には似つかわしくない塗りの葛籠つづらを引っ張り出して、中から『丸に二つ引き』の紋の入った西陣織にしじんおりの刀袋から短刀を二人の前に差し出した。
「これは、足利将軍家の家紋ではないか」
 秀勝が、出された短刀に目を丸くして尋ねた。
「父が亡くなるときに池田家の家宝だと託してくれました」
「このような逸品がどうして池田家に?」
 確かに、お福の父政秀は、尾張の織田家へ落ち着くまでに、京の都で何某かの大名に仕官していたと聞いたことがある。それがまさか、足利将軍家であったとは、これを出されるまでお福を含めて誰も知らなかった。
「まさか、盗品ではあるまいか?」
 思いついたように一勝が尋ねた。
「父はそのような方ではございません」
 それはそうだ。尋ねた一勝にしても、ここに居る誰もが篤実温厚とくじつおんこうな政秀の人柄を誰しも知っている。万が一にも“盗み”を働くような人物ではなかったと口から出た言葉を反省するよりなかった。
「しかしなお福よ。昔のことは知らないが、そのような将軍家への義理立てが何の役に立つ。いまや、池田家は床に臥す恒利もあることだし、織田家へこそ忠義を示さねばならぬ立場ではないのか」
 と、秀勝が念押しするように言った。
 核心かくしんをつかれたお福は、心のどこかで現在いまの身の上に折り合いをつけて生きねばならぬと観念かんねんしたように、胸に抱く愛しい我が子の顔を覗き込むと絞り出すように呟いた。
「わかりました。吉法師様の乳母のお話をお受けいたします」
「そうか、引き受けてくれるか、これでワシの肩の荷も下りる」
「ただし、条件があります」
 そう言ってお福は、名残惜しそうに赤児のふっくらした頬を指で突くと、覚悟を決めたように、赤児と足利将軍家の家紋の入った短刀を秀勝に差し出した。
「織田家の嫡男吉法師様の乳母になることは、我が子を育てながらできるような生半可な気持ちでできることではございません。この子と池田家家宝の刀は、守り刀としてお預けいたします」
 お福が吉法師、後の織田信長の乳母となったのは、桜が綺麗に咲いた初春のことであった。
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