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第一章 帰ってきた幼馴染
紫織さんと菫ちゃんと、ぶどうのムースケーキとジュース(1)
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青司くんがすばやくキッチンの中に入り、お茶の用意をしはじめる。
わたしも何かした方がいいかと思って青司くんの側に行く。
「あ、大丈夫。真白はそっち側に座ってて」
そう言われて追い出された。
たしかに、わたしはまだここの店員じゃない。
だからそういう扱いになるのかもしれないけど……ちょっとさみしく思った。
でも、文句を言うのもなにか違うので、黙ってカウンター席に戻る。
わたしの左隣には紫織さんが座っている。
帰省……というか、旦那さんと喧嘩して避難してきているというのに、今にも仕事に行きそうな雰囲気だ。
ほんと、理想の働く女性って感じ。
一方わたしはというと、休日なので完全にオフモードだった。
表向きは青司くんの手伝いだけど「仕事」という意識は薄い。
わたしは単に青司くんに会いたいから来ているのだ。
青司くんの力になりたいから、好きだから、来ている。
そんなのは社会人とは言えないと思う。
なにせ動悸が不純すぎる。
仕事は仕事って、本来ならそう割り切って真面目に取り組まなきゃならない。
でも、青司くんだって「大概」だ。
さっきみたいな態度をとられたら、わたしはどういう立ち位置でふるまえばいいのかわからなくなる。
もう働くことが決まってるから、「すでに店員」なのか。
それともまだ一応は部外者だから、「まだお客さん」なのか。
どっちつかずだ。
宙ぶらりん。
中途半端で、どうにもきまりが悪い。
こうなっているのは、わたしがまだ今のアルバイト先を辞められていないのが大きな要因となっているんだろうけど。
それでも、紫織さんの前でもこれは……かなり恰好がつかなかった。
「はい、ホットティーです。どうぞ」
二人分の紅茶が紫織さんとわたしの目の前に置かれる。
それはあの、ワイルドストロベリー柄のカップだった。
紫織さんはさっそく一口飲み……満足げに息を吐く。
「はあ……美味しいわ」
「ありがとうございます」
「それにこのカップ……桃花先生を思い出すわね」
「はい。紫織さんは、以前も使ったことありますよね?」
「ええ。でももうずいぶん昔のことよ」
紫織さんはカップを置くと、じっと青司くんを見つめた。
「ねえ……おばあちゃんにも聞いたけど、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫、とは?」
「喫茶店の経営よ。なあに、真白ちゃんもここで働くことが決まってるんですって? 経営の経験はあるの?」
「いえ……」
はあ、と呆れたように天井を仰ぐ紫織さん。
「あのね、飲食ってのはそんな簡単なもんじゃないわよ。クライアントを見ているとつくづくそう思うわ。どんなに広告を打っても、基本ができていないとすぐに赤字になるの。競合店が少なくて、かつ人通りの多い場所とかならまだしも。こんな田舎でちゃんとやっていけるの?」
「……それは」
青司くんは言いよどみながら、冷蔵庫からブドウジュースのペットボトルを取り出した。それを小鍋に入れ火にかける。
表情が少し暗い。
紫織さんから現実的な指摘をされて、真剣に考えているのだろう。
「真白ちゃんにもさっき聞いたわ。あなたは、かつて桃花先生がやっていたみたいなことをしたいそうね。でも、料理をふるまいたいっていうのは、あれはあくまでも先生の『趣味』で、あなたがやろうとしていることは『仕事』よ。そこには大きな違いがあるわ。そしてそれに、真白ちゃんを巻き込もうとしている……その意味をわかってる?」
「紫織さん」
度重なる鋭い指摘に、わたしは思わず口を挟んでしまった。
わたしは自分がどうなろうが構わない。
まず、実家暮らしだし。
たとえお客さんが来なくて儲からなくても、きっとどうにかなる。
青司くんだって、この家は持ち家で、賃貸じゃないんだし。画家の仕事も一応……スランプだけど兼業である。だから、そういう心配事はそんなにないはずだ。
でも、それは楽観視しすぎていたのだろうか。
急に不安になってきて、すがるような思いで紫織さんを見つめる。
そんなわたしたちを見て、紫織さんはハッとなってうつむいた。
「あ、ごめんなさい……。ついつい、こういう細かいことが気になってしまうの。わたしの悪い癖だわ。それで夫とも喧嘩したのに……。ほんと、余計なことだったわ。新しいことにチャレンジしようとしているときに、水を差すようなことを言って」
「いえ。ご心配なさるのも、当然です」
青司くんは重々しい口で語りながら、沸騰しはじめた鍋の火を止めた。
そして、そこに粉ゼラチンを振り入れる。
「正直、見切り発車なんです。甘いと言われても否定はできません。俺は喫茶店で働いたこともありませんし、所詮は母の趣味の延長です。それすらも……真似事でしかない。真白には、悪いと思っています。こんな不安定な仕事に付き合わせることになって。でも……」
お玉でかき混ぜられ、粉ゼラチンがジュースに溶けていく。
一通り混ぜ終わったら、青司くんは冷蔵庫で冷やしていたムースケーキを取り出した。
「ここで、いろいろとやり直したいんです。みんなとのことも……。その方法が、これしかなかったんです。貯金なら結構あります。だから、出来る限りやってみたいんです……」
調理台に型に入ったケーキを置き、青司くんはようやく真正面から紫織さんに向き合った。
それが、青司くんの覚悟の表れだった。
わたしは少しホッとする。この人についていくだけでいい。そう思った。
「そう。そこまで決意してるなら、もうなにも言うことはないわ。頑張って。……って、私も人の心配より、まずは自分のことよね……」
紫織さんは苦笑いを浮かべると、また一口紅茶を飲んだ。
わたしもつられていただく。
周囲にはブドウジュースの甘い香りが漂っており、その匂いを嗅ぎながら飲むと、さながらぶどう味の紅茶を飲んでいるみたいだった。
「そういえばさっきからそれ、何を作っているの?」
紫織さんが青司くんの手元を見ながら質問する。
青司くんは、いつの間にか生のぶどうを房から一粒ずつもぎ取り、それをそれぞれまな板の上でたて半分に切っていた。
巨峰のような濃い紫の大きなぶどうだ。
ひとつずつ、それを丁寧にムースケーキの型の上に並べていく。
「これは、ぶどうのムースケーキです。あと三十分くらい冷やしたら、食べられます」
花弁のように放射線状にぶどうを並べ終えた青司くんは、さらにその上に先ほど作ったブドウジュースのゼラチン液をお玉でかけはじめた。
かけたのは、あくまでも少量である。
それをまた冷蔵庫にしまい、残ったゼラチン液は適当なグラスに注ぎはじめる。
「こっちはもったいないからただのゼリーにしておきます。良かったらあとで持って帰ってください」
「あ、ええ。それは、ありがとう……」
紫織さんは、青司くんのあまりの手際の良さに驚いているようだった。
「料理が上手ねえ。その点は心配なさそうね」
「恐れ入ります」
二人ともそう言って笑い合って、ようやく少しだけ和やかな空気になった。
青司くんはぶどうゼリーのグラスも冷蔵庫にしまった。
「あれ? そういえば菫ちゃん、戻ってきませんね。このブドウのジュースでも出してあげようかと思ってたんですけど」
「あら、そうね」
青司くんに言われて、紫織さんも菫ちゃんの姿を探す。
サンルームの方を覗くと、なんと奥の扉が開いていた。
「えっ、嘘。まさか外に出ていっちゃったの?」
慌てて走り出す紫織さん。
サンルームは外に通じるドアが付いていて、紫織さんはそこから庭に出ていった。
わたしも青司くんもその後をついていく。
庭ではいなくなった菫ちゃんが、森屋園芸さんと一緒にいた。
にこにこと機嫌が良さそうに花壇の花を見つめている。
紫織さんは仕事中の森屋さんに近づくと、深々と頭を下げた。
「あっ、すみません、うちの子が。お仕事の邪魔を……」
「いや……」
「ほら、菫、戻るわよ。青司くんがブドウジュースくれるって」
森屋さんはそんなことはないと言うように大きく首を振っていた。
けれど紫織さんは菫ちゃんの手を引っ張って、部屋に戻ろうとする。
「……ん、んんん~~~!」
菫ちゃんはまだここにいたいのか、全力で抵抗する。
「もう、言うこときいて! おじさんの邪魔をしたら悪いでしょう」
「イヤ!!! まだお花、見るぅ!!!」
顔を赤くして紫織さんの手を振りほどこうとしている。
そんな菫ちゃんの様子に、あの森屋さんが意外なことを言った。
「待て」
「え?」
「いたいなら、まだいさせてやれ」
引っ張るのをやめて、紫織さんが森屋さんを見る。
「で、でも……ご迷惑に……」
「俺は平気だ。だから、その子の気が済むまでいさせてやってくれ」
「そ、そうですか……? じゃあ……」
ちらりと、紫織さんがこちらを見る。
わたしと青司くんはそろって大丈夫と頷いてみせた。
「森屋さんがそう言ってくれるなんて、すごく珍しいことなんですよ。ですから遠慮なくお願いしておきませんか?」
「そうですよ紫織さん。森屋さんがいるなら、大丈夫です」
そう。
だって森屋さんは、ずーっと桃花先生ひとすじだったんだから。
ひとりの人を大切に思い続けられる人だから。
だから、大丈夫。
子ども好きかどうか……まではよく知らないけれど、でもなんとなくこの二人は相性が良さそうだと感じた。
菫ちゃんはさっきから花にしか興味がないようだし、森屋さんは森屋さんで何かをしながらもいつも視界の隅に菫ちゃんの姿を入れている。
「じゃあ……よろしくお願いします。菫、飽きたらすぐ戻ってくるのよ」
「……」
菫ちゃんはもうお花に意識が向いてしまったのか、お母さんの言葉が耳に入っていないようだった。
呆れた様子で紫織さんがため息を吐く。
頼まれた森屋さんは軽く頷き、また作業に戻っていった。
その背中に、青司くんが声をかける。
「あ、森屋さん」
森屋さんははたと動きを止める。
どうやら今日は仕事中でも補聴器を着けているようだ。
「今日も、良かったらこのあと休憩にいらしてください。またケーキを作ったので。できあがりにはあと三十分ばかりかかるんですけど、その後だったらいつでも大丈夫です」
「……わかった」
青司くんは、ぶっきらぼうでもそう答えてくれた森屋さんににっこりとほほ笑んだ。
わたしたち三人はまた店の中に戻り、カウンター席に座った。
そして、紫織さんの身の上話を聞くことになったのだった。
わたしも何かした方がいいかと思って青司くんの側に行く。
「あ、大丈夫。真白はそっち側に座ってて」
そう言われて追い出された。
たしかに、わたしはまだここの店員じゃない。
だからそういう扱いになるのかもしれないけど……ちょっとさみしく思った。
でも、文句を言うのもなにか違うので、黙ってカウンター席に戻る。
わたしの左隣には紫織さんが座っている。
帰省……というか、旦那さんと喧嘩して避難してきているというのに、今にも仕事に行きそうな雰囲気だ。
ほんと、理想の働く女性って感じ。
一方わたしはというと、休日なので完全にオフモードだった。
表向きは青司くんの手伝いだけど「仕事」という意識は薄い。
わたしは単に青司くんに会いたいから来ているのだ。
青司くんの力になりたいから、好きだから、来ている。
そんなのは社会人とは言えないと思う。
なにせ動悸が不純すぎる。
仕事は仕事って、本来ならそう割り切って真面目に取り組まなきゃならない。
でも、青司くんだって「大概」だ。
さっきみたいな態度をとられたら、わたしはどういう立ち位置でふるまえばいいのかわからなくなる。
もう働くことが決まってるから、「すでに店員」なのか。
それともまだ一応は部外者だから、「まだお客さん」なのか。
どっちつかずだ。
宙ぶらりん。
中途半端で、どうにもきまりが悪い。
こうなっているのは、わたしがまだ今のアルバイト先を辞められていないのが大きな要因となっているんだろうけど。
それでも、紫織さんの前でもこれは……かなり恰好がつかなかった。
「はい、ホットティーです。どうぞ」
二人分の紅茶が紫織さんとわたしの目の前に置かれる。
それはあの、ワイルドストロベリー柄のカップだった。
紫織さんはさっそく一口飲み……満足げに息を吐く。
「はあ……美味しいわ」
「ありがとうございます」
「それにこのカップ……桃花先生を思い出すわね」
「はい。紫織さんは、以前も使ったことありますよね?」
「ええ。でももうずいぶん昔のことよ」
紫織さんはカップを置くと、じっと青司くんを見つめた。
「ねえ……おばあちゃんにも聞いたけど、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫、とは?」
「喫茶店の経営よ。なあに、真白ちゃんもここで働くことが決まってるんですって? 経営の経験はあるの?」
「いえ……」
はあ、と呆れたように天井を仰ぐ紫織さん。
「あのね、飲食ってのはそんな簡単なもんじゃないわよ。クライアントを見ているとつくづくそう思うわ。どんなに広告を打っても、基本ができていないとすぐに赤字になるの。競合店が少なくて、かつ人通りの多い場所とかならまだしも。こんな田舎でちゃんとやっていけるの?」
「……それは」
青司くんは言いよどみながら、冷蔵庫からブドウジュースのペットボトルを取り出した。それを小鍋に入れ火にかける。
表情が少し暗い。
紫織さんから現実的な指摘をされて、真剣に考えているのだろう。
「真白ちゃんにもさっき聞いたわ。あなたは、かつて桃花先生がやっていたみたいなことをしたいそうね。でも、料理をふるまいたいっていうのは、あれはあくまでも先生の『趣味』で、あなたがやろうとしていることは『仕事』よ。そこには大きな違いがあるわ。そしてそれに、真白ちゃんを巻き込もうとしている……その意味をわかってる?」
「紫織さん」
度重なる鋭い指摘に、わたしは思わず口を挟んでしまった。
わたしは自分がどうなろうが構わない。
まず、実家暮らしだし。
たとえお客さんが来なくて儲からなくても、きっとどうにかなる。
青司くんだって、この家は持ち家で、賃貸じゃないんだし。画家の仕事も一応……スランプだけど兼業である。だから、そういう心配事はそんなにないはずだ。
でも、それは楽観視しすぎていたのだろうか。
急に不安になってきて、すがるような思いで紫織さんを見つめる。
そんなわたしたちを見て、紫織さんはハッとなってうつむいた。
「あ、ごめんなさい……。ついつい、こういう細かいことが気になってしまうの。わたしの悪い癖だわ。それで夫とも喧嘩したのに……。ほんと、余計なことだったわ。新しいことにチャレンジしようとしているときに、水を差すようなことを言って」
「いえ。ご心配なさるのも、当然です」
青司くんは重々しい口で語りながら、沸騰しはじめた鍋の火を止めた。
そして、そこに粉ゼラチンを振り入れる。
「正直、見切り発車なんです。甘いと言われても否定はできません。俺は喫茶店で働いたこともありませんし、所詮は母の趣味の延長です。それすらも……真似事でしかない。真白には、悪いと思っています。こんな不安定な仕事に付き合わせることになって。でも……」
お玉でかき混ぜられ、粉ゼラチンがジュースに溶けていく。
一通り混ぜ終わったら、青司くんは冷蔵庫で冷やしていたムースケーキを取り出した。
「ここで、いろいろとやり直したいんです。みんなとのことも……。その方法が、これしかなかったんです。貯金なら結構あります。だから、出来る限りやってみたいんです……」
調理台に型に入ったケーキを置き、青司くんはようやく真正面から紫織さんに向き合った。
それが、青司くんの覚悟の表れだった。
わたしは少しホッとする。この人についていくだけでいい。そう思った。
「そう。そこまで決意してるなら、もうなにも言うことはないわ。頑張って。……って、私も人の心配より、まずは自分のことよね……」
紫織さんは苦笑いを浮かべると、また一口紅茶を飲んだ。
わたしもつられていただく。
周囲にはブドウジュースの甘い香りが漂っており、その匂いを嗅ぎながら飲むと、さながらぶどう味の紅茶を飲んでいるみたいだった。
「そういえばさっきからそれ、何を作っているの?」
紫織さんが青司くんの手元を見ながら質問する。
青司くんは、いつの間にか生のぶどうを房から一粒ずつもぎ取り、それをそれぞれまな板の上でたて半分に切っていた。
巨峰のような濃い紫の大きなぶどうだ。
ひとつずつ、それを丁寧にムースケーキの型の上に並べていく。
「これは、ぶどうのムースケーキです。あと三十分くらい冷やしたら、食べられます」
花弁のように放射線状にぶどうを並べ終えた青司くんは、さらにその上に先ほど作ったブドウジュースのゼラチン液をお玉でかけはじめた。
かけたのは、あくまでも少量である。
それをまた冷蔵庫にしまい、残ったゼラチン液は適当なグラスに注ぎはじめる。
「こっちはもったいないからただのゼリーにしておきます。良かったらあとで持って帰ってください」
「あ、ええ。それは、ありがとう……」
紫織さんは、青司くんのあまりの手際の良さに驚いているようだった。
「料理が上手ねえ。その点は心配なさそうね」
「恐れ入ります」
二人ともそう言って笑い合って、ようやく少しだけ和やかな空気になった。
青司くんはぶどうゼリーのグラスも冷蔵庫にしまった。
「あれ? そういえば菫ちゃん、戻ってきませんね。このブドウのジュースでも出してあげようかと思ってたんですけど」
「あら、そうね」
青司くんに言われて、紫織さんも菫ちゃんの姿を探す。
サンルームの方を覗くと、なんと奥の扉が開いていた。
「えっ、嘘。まさか外に出ていっちゃったの?」
慌てて走り出す紫織さん。
サンルームは外に通じるドアが付いていて、紫織さんはそこから庭に出ていった。
わたしも青司くんもその後をついていく。
庭ではいなくなった菫ちゃんが、森屋園芸さんと一緒にいた。
にこにこと機嫌が良さそうに花壇の花を見つめている。
紫織さんは仕事中の森屋さんに近づくと、深々と頭を下げた。
「あっ、すみません、うちの子が。お仕事の邪魔を……」
「いや……」
「ほら、菫、戻るわよ。青司くんがブドウジュースくれるって」
森屋さんはそんなことはないと言うように大きく首を振っていた。
けれど紫織さんは菫ちゃんの手を引っ張って、部屋に戻ろうとする。
「……ん、んんん~~~!」
菫ちゃんはまだここにいたいのか、全力で抵抗する。
「もう、言うこときいて! おじさんの邪魔をしたら悪いでしょう」
「イヤ!!! まだお花、見るぅ!!!」
顔を赤くして紫織さんの手を振りほどこうとしている。
そんな菫ちゃんの様子に、あの森屋さんが意外なことを言った。
「待て」
「え?」
「いたいなら、まだいさせてやれ」
引っ張るのをやめて、紫織さんが森屋さんを見る。
「で、でも……ご迷惑に……」
「俺は平気だ。だから、その子の気が済むまでいさせてやってくれ」
「そ、そうですか……? じゃあ……」
ちらりと、紫織さんがこちらを見る。
わたしと青司くんはそろって大丈夫と頷いてみせた。
「森屋さんがそう言ってくれるなんて、すごく珍しいことなんですよ。ですから遠慮なくお願いしておきませんか?」
「そうですよ紫織さん。森屋さんがいるなら、大丈夫です」
そう。
だって森屋さんは、ずーっと桃花先生ひとすじだったんだから。
ひとりの人を大切に思い続けられる人だから。
だから、大丈夫。
子ども好きかどうか……まではよく知らないけれど、でもなんとなくこの二人は相性が良さそうだと感じた。
菫ちゃんはさっきから花にしか興味がないようだし、森屋さんは森屋さんで何かをしながらもいつも視界の隅に菫ちゃんの姿を入れている。
「じゃあ……よろしくお願いします。菫、飽きたらすぐ戻ってくるのよ」
「……」
菫ちゃんはもうお花に意識が向いてしまったのか、お母さんの言葉が耳に入っていないようだった。
呆れた様子で紫織さんがため息を吐く。
頼まれた森屋さんは軽く頷き、また作業に戻っていった。
その背中に、青司くんが声をかける。
「あ、森屋さん」
森屋さんははたと動きを止める。
どうやら今日は仕事中でも補聴器を着けているようだ。
「今日も、良かったらこのあと休憩にいらしてください。またケーキを作ったので。できあがりにはあと三十分ばかりかかるんですけど、その後だったらいつでも大丈夫です」
「……わかった」
青司くんは、ぶっきらぼうでもそう答えてくれた森屋さんににっこりとほほ笑んだ。
わたしたち三人はまた店の中に戻り、カウンター席に座った。
そして、紫織さんの身の上話を聞くことになったのだった。
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