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第一章 帰ってきた幼馴染
朝の散歩の缶コーヒー
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「じゃあ、行こっか」
「どこへ?」
「とりあえずあっち」
青司くんはそう言って、川沿いの道を上流の方に向かって歩きはじめた。
ちなみにわたしの家から青司くんの家を見た時に、右手になっている方が上流である。
この先は点々と家があり、ときたま畑があって、そしてときたま工事現場みたいなところが続く。
「あんまり変わってないね」
「うん……」
青司くんはふうっと自分の手に息を吹きかけて、そのまま青いダウンコートのポケットに手を突っ込んだ。
首をすくめて寒そうにしている。
「ははっ、昔から寒がりだよね、青司くん」
「んー、三月だからだいぶあったかくなったとは思うんだけどね……。でもやっぱりまだ寒いよ」
「イギリス……って、日本より寒かった?」
「どうだろう。緯度的には北海道より少し北なんだよね。でも海流の関係で温かいから北海道と同じくらいだって言われてた。俺は北海道に行ったことがないから、よくわからなかったけど」
「ふーんそうなんだ」
「雪もドカ雪って感じじゃなかったな……。ただ冬は暗くなるのが早かった。逆に夏は夜十時ごろまで明るかったよ」
「へえ、なんか変な感じ」
「うん。緯度が高いからだね。曇りの日が多くてね……。だからこういう晴れた日は貴重だった」
そう言って、青司くんは空を見上げる。
昨日もそうだったけど、今日も気持ちのいい晴天だった。
わたしはふと昨夜の夕飯のことを思いだす。
「あ、そうだ青司くん。昨日ごめんね。お夕飯……うちで食べてく、って訊けばよかった。帰ったらお母さんに誘えば良かったのにって言われてさ」
「え? いや、そんなこと言ってたの? おばさん。気を使わなくていいのに」
「ううん。ひとりで青司くんが夕飯食べてるところを想像したら、わたしもそうすれば良かったって。あ、ご、ごめん……」
「ははっ、何で謝るの。本当に、気を使わなくていいんだよ。昨日はかなり疲れてたから、わりとすぐ寝たくなってたし」
「そうだったの」
「うん。だからそんなに気にしないで。今度もし誘われたら、そのときはありがたく行くけどね。おばさんにもそう言っといて」
「……」
笑いながら、青司くんがそうフォローしてくれる。
なんで。ほんとはわたしがフォローしなきゃいけない立場なのに。逆だよ。余計なことを言って、また青司くんの方に気を使わせちゃった。ああ、もうわたしってバカ……。
急にものすごく恥ずかしくなって、顔をあげられなくなってしまった。
そしたらバランスを崩してこけそうになってしまった。
「うわっ……」
「真白!? 大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ……」
青司くんが驚くが、わたしはなんとか態勢を立て直して転ぶのを回避した。ホッと胸をなでおろす。
こうしていると、まるで昔みたいだなって感じる。
それくらい、青司くんの空気は変わっていなかった。
いや、本当はいろいろと変わってしまったんだろうけれど、あえてそれをわたしに見せないようにしてくれている、というか。それはきっと……わたしがまったく変わってないからかもしれない。変われてない人に、合わせてくれている、それだけなのかもしれない。
それがちょっと悔しくて、情けなかった。
「あの、さ……」
「ん?」
少し前を行く青司くんに、あることを訊こうとした。
青司くんが帰ってきたことをみんなに伝えてもいいものかどうか。
でも、また言えなかった。
あとちょっとで口から出るのに。早く言わないといけないのに。みんなにも連絡しなきゃいけないのに。
どうしても口にできなかった。
「なに?」
「う、ううん。やっぱなんでもない!」
「え? 言いたいことがあるならなんでも言ってよ? 言わなきゃ、わかんないことも……あるんだし」
「うん……」
そう言いながら、やはり訊けなかった。
いつのまにか、わたしたちはかなり先の竹林があるところまできていた。
今度は折り返して下流の方に向かって歩き出す。
のんびり歩きながら、やっぱりこれは夢みたいだと思った。
もしかして、今も本当のわたしは布団の中で寝ていて、こんな夢を見ているんじゃないだろうか……。試しに右のほっぺをつねってみたが、普通に痛くて悲鳴を上げた。
「いたっ……」
「なにやってんの」
青司くんが呆れている。
わたしはあわてて首をふった。
「や、な……なんでもないの!」
「赤くなってる。どうしたの? 眠い? 眠気覚まし?」
「あー、うん……そんなとこ」
どれだけ強く引っ張ってしまったというのだろうか。
恥ずかしすぎて、また青司くんをまともに見られなくなってしまった。
そうこうしていると、青司くんが急にわたしに尋ねてくる。
「……そういえばさ、真白の方は今までどうしてたの?」
「え?」
「だから……あれからさ、真白はどうしてたのかなって。教室の他のみんなもだけど。あ、俺がこんなこと訊く資格は……ない、かもしれないけどさ」
「そんな……」
そんなことない。
そう言おうとして青司くんを見ると、ひどく悲しそうな顔をしていた。
「あのね、青司くん。今までのわたしって……あんまり褒められたことしてなかったから、あんまり言いたくなかったんだ。でも青司くんも話してくれたし、言うよ」
「え、いや、そんな無理にとは……」
「ううん。聞いてほしい。あのね、わたしは……青司くんとは違って、高校を卒業しても特別何かやりたいこととかなくて、ずっと……フリーターをしてたの。いろんなアルバイトをして、今のファミレスは二年間くらい続けてて」
「そう……だったんだ」
「うん。みんなは東京の大学に行って、そのまま向こうで働いてる。みんな地元から離れてっちゃった。残ってるのは……この、わたしだけ」
そう、この町に残ってるのはわたしだけ。
「……」
「……」
ふたりとも無言になってしまった。
十年という月日が、歩み方の違いが、重くわたしたちにのしかかっていた。
青司くんがとても悲しい顔をしている。ああ……そんな風になんてさせたくなかったのに。
「あ、でも、正月やお盆にはみんな帰ってくるよ。あと、たまに集まって遊んだりもするし。その時はもっぱらわたしが東京の方に行くんだけどね。まあ、向こうにいる人の方が多いから――」
あははとわざと明るく笑って話す。
青司くんはじっと地面を見つめていた。それからぽつりとつぶやく。
「じゃあ……絵は? 絵は、みんなまだ描いてる?」
「え?」
「真白も、みんなも……」
「えっと……」
「それとも、もう誰も?」
すぐには答えられなかった。
だって、わたしは全く描いていなかったから。正確には――描けなくなった、が正しい。でも、それを青司くんに伝えるのは申し訳ない気がした。彼は絵を描くのが誰より好きだったんだから。
わたしはすごく悩み抜いたあとに答えた。
「あの……。わたしはね、わたしは描けなくなっちゃったんだ、あれから」
「えっ……描けなく?」
「そう。描こうとするとね、思い出しちゃうの。お絵かき教室のこと。青司くんのこと。それからみんなと笑い合ってた時のこと。あと……桃花先生のこと。それから、それから……もう二度と食べられなくなっちゃった、先生のおやつのこと。だから……」
「真白……」
「みんなはどうかわからないよ? わたしみたいに描けなくなった子もいるかもしれないし。あ、でも、一人だけデザインの仕事に就いたって子がいるかな。人それぞれ、だよ」
「そっか……」
本当に申し訳ない。
青司くんは、海外に行っても絵を描き続けて、それで成功した人なのに。
わたしはずっと何もしないで、先生が教えてくれたいろんなことも全部封印してしまっていた。
今度こそ幻滅された、かな……。
しょんぼりしていると、突然青司くんはタッタッと少し先にある自販機のところに走っていった。
そして飲み物を二つ買うと、こちらにすぐ引き返してきた。
「はい、これ」
「え?」
「缶コーヒー。今度ちゃんと、お店の方では試飲してもらうけど。今は時間がないから、これで」
「あ、ありがとう……?」
お礼を言って、熱々の缶を受け取る。
青司くんはブラック、わたしは微糖だった。
すぐそばの川辺の階段に腰かけて、休憩することにする。
「いただきます」
「うん」
プルタブを開けて一口飲む。
うん、普通の味だ。
特別美味しいとかはないけれど、これはこれでホッとする味だ。芳ばしい香りがほのかに鼻から抜けていく。
「あのさ、真白……」
「うん?」
青司くんは川を眺めながら、何かを言おうとしている様子だった。
「なあに? 言いたいことがあるなら言って。ってさっき青司くんも言ってたじゃん。なになに?」
「俺は……さ」
「うん」
「自分のために帰ってきたところが……あるんだ。でも、真白たちに母さんのおやつをまた食べてほしいって気持ちも大きくて。だから……二度と食べられないなんて、そんな悲しいこと言わないでほしい。また食べさせてあげるから」
「青司くん……」
「って、まだそんな、完璧に作れるようになったわけじゃないんだけどね。レシピは残ってたから、なんとか作れるってだけで。だから真白に、試食してほしいんだ。やっぱりあの味と『同じ』って思ってもらいたいからさ」
「うん……わかった。わたし、責任をもって試食するよ」
くっと、もう一度コーヒーを飲む。
目が覚めるような、ほど良い苦みだった。こんな、コーヒーみたいな存在にになれたらいいのに。
「任せて、青司くん! わたしが『これは先生の味』って太鼓判押せるまで付き合うから!」
「真白……」
「あ、でも……くれぐれも食べさせすぎないでよね。太っちゃったら困るから」
「あははっ。それはそうだね、気を付けるよ。でも、真白なら大丈夫。太ってないし、もし太ってしまってもきっと可愛いから」
「えっ!?」
な、なに。可愛いって。その発言、ちょっと無責任すぎるよ。
本当に太ったらどうするの。責任取って……って。ウソウソ。危険だ。青司くんの今の発言は危険すぎる。
「もう、青司くん。適当なこと言わないで!」
「ふふふっ。ごめんごめん。でも、ほんと心配しなくていいよ。あくまで試食、なんだからさ、昨日みたいに全部食べる必要ないから」
「あっ」
「なに、全部食べるつもりだったの?」
「…………っ!」
わたしはかあっと熱くなって、それ以上そこにいられなくなってしまった。
残りのコーヒーを一気飲みして、自販機横のゴミ箱に捨てに行く。
後ろから青司くんもついてきて、青司くんも缶を捨てた。
「真白。ごめん。別に、全部食べてもいいけど?」
「……いいえ。わかりました。ちゃんと節度を持って臨みます。美味し過ぎたら……その、都度判断することにします」
「ふふっ。そうこなくちゃね。だって、食べてる真白が一番可愛いんだか……むぐっ?」
それ以上言わせたくなくて、わたしは青司くんの口を両手でふさいだ。
手袋越しに青司くんの吐息を感じる。
「もーっ! それ以上、勝手なこと言わないで。本当に太ったら……どうしてくれんの? 責任を……責任……」
以降はものすごく声が小さくなってしまったが、わたしはいたたまれなくなってまたすぐに歩きはじめた。
後ろからくつくつと笑う声がする。
あーもう。
昔からこうだ。こうやってその気にさせるようなセリフを言われて、わたしがそれに動揺して。
完全に掌の上で転がされている感じ。
嫌だけど、本気では嫌じゃないからタチが悪い。
その後は、通っていた小学校や、中学校を見に行ったりした。
幸い、知り合いには誰とも出会わず、ぱらぱらと登校する児童たちとすれ違っただけだった。
近所をひととおり歩いてから青司くんの家まで戻る。
「じゃあ、そろそろ」
「うん。また。わたしももうバイトに行かないと」
「俺は今日は午前中役所に申請に行くから、帰ってくるのは夕方に――」
「『九露木』さん?」
「えっ……?」
「やっぱり。九露木さんちの青司くんだ。おや、そっちは羽田さんちの真白ちゃんじゃないか」
背後からそう呼びかけられた。振り返ると、青司くんの家の隣に住む「大貫のおばあさん」がいた。
「どこへ?」
「とりあえずあっち」
青司くんはそう言って、川沿いの道を上流の方に向かって歩きはじめた。
ちなみにわたしの家から青司くんの家を見た時に、右手になっている方が上流である。
この先は点々と家があり、ときたま畑があって、そしてときたま工事現場みたいなところが続く。
「あんまり変わってないね」
「うん……」
青司くんはふうっと自分の手に息を吹きかけて、そのまま青いダウンコートのポケットに手を突っ込んだ。
首をすくめて寒そうにしている。
「ははっ、昔から寒がりだよね、青司くん」
「んー、三月だからだいぶあったかくなったとは思うんだけどね……。でもやっぱりまだ寒いよ」
「イギリス……って、日本より寒かった?」
「どうだろう。緯度的には北海道より少し北なんだよね。でも海流の関係で温かいから北海道と同じくらいだって言われてた。俺は北海道に行ったことがないから、よくわからなかったけど」
「ふーんそうなんだ」
「雪もドカ雪って感じじゃなかったな……。ただ冬は暗くなるのが早かった。逆に夏は夜十時ごろまで明るかったよ」
「へえ、なんか変な感じ」
「うん。緯度が高いからだね。曇りの日が多くてね……。だからこういう晴れた日は貴重だった」
そう言って、青司くんは空を見上げる。
昨日もそうだったけど、今日も気持ちのいい晴天だった。
わたしはふと昨夜の夕飯のことを思いだす。
「あ、そうだ青司くん。昨日ごめんね。お夕飯……うちで食べてく、って訊けばよかった。帰ったらお母さんに誘えば良かったのにって言われてさ」
「え? いや、そんなこと言ってたの? おばさん。気を使わなくていいのに」
「ううん。ひとりで青司くんが夕飯食べてるところを想像したら、わたしもそうすれば良かったって。あ、ご、ごめん……」
「ははっ、何で謝るの。本当に、気を使わなくていいんだよ。昨日はかなり疲れてたから、わりとすぐ寝たくなってたし」
「そうだったの」
「うん。だからそんなに気にしないで。今度もし誘われたら、そのときはありがたく行くけどね。おばさんにもそう言っといて」
「……」
笑いながら、青司くんがそうフォローしてくれる。
なんで。ほんとはわたしがフォローしなきゃいけない立場なのに。逆だよ。余計なことを言って、また青司くんの方に気を使わせちゃった。ああ、もうわたしってバカ……。
急にものすごく恥ずかしくなって、顔をあげられなくなってしまった。
そしたらバランスを崩してこけそうになってしまった。
「うわっ……」
「真白!? 大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ……」
青司くんが驚くが、わたしはなんとか態勢を立て直して転ぶのを回避した。ホッと胸をなでおろす。
こうしていると、まるで昔みたいだなって感じる。
それくらい、青司くんの空気は変わっていなかった。
いや、本当はいろいろと変わってしまったんだろうけれど、あえてそれをわたしに見せないようにしてくれている、というか。それはきっと……わたしがまったく変わってないからかもしれない。変われてない人に、合わせてくれている、それだけなのかもしれない。
それがちょっと悔しくて、情けなかった。
「あの、さ……」
「ん?」
少し前を行く青司くんに、あることを訊こうとした。
青司くんが帰ってきたことをみんなに伝えてもいいものかどうか。
でも、また言えなかった。
あとちょっとで口から出るのに。早く言わないといけないのに。みんなにも連絡しなきゃいけないのに。
どうしても口にできなかった。
「なに?」
「う、ううん。やっぱなんでもない!」
「え? 言いたいことがあるならなんでも言ってよ? 言わなきゃ、わかんないことも……あるんだし」
「うん……」
そう言いながら、やはり訊けなかった。
いつのまにか、わたしたちはかなり先の竹林があるところまできていた。
今度は折り返して下流の方に向かって歩き出す。
のんびり歩きながら、やっぱりこれは夢みたいだと思った。
もしかして、今も本当のわたしは布団の中で寝ていて、こんな夢を見ているんじゃないだろうか……。試しに右のほっぺをつねってみたが、普通に痛くて悲鳴を上げた。
「いたっ……」
「なにやってんの」
青司くんが呆れている。
わたしはあわてて首をふった。
「や、な……なんでもないの!」
「赤くなってる。どうしたの? 眠い? 眠気覚まし?」
「あー、うん……そんなとこ」
どれだけ強く引っ張ってしまったというのだろうか。
恥ずかしすぎて、また青司くんをまともに見られなくなってしまった。
そうこうしていると、青司くんが急にわたしに尋ねてくる。
「……そういえばさ、真白の方は今までどうしてたの?」
「え?」
「だから……あれからさ、真白はどうしてたのかなって。教室の他のみんなもだけど。あ、俺がこんなこと訊く資格は……ない、かもしれないけどさ」
「そんな……」
そんなことない。
そう言おうとして青司くんを見ると、ひどく悲しそうな顔をしていた。
「あのね、青司くん。今までのわたしって……あんまり褒められたことしてなかったから、あんまり言いたくなかったんだ。でも青司くんも話してくれたし、言うよ」
「え、いや、そんな無理にとは……」
「ううん。聞いてほしい。あのね、わたしは……青司くんとは違って、高校を卒業しても特別何かやりたいこととかなくて、ずっと……フリーターをしてたの。いろんなアルバイトをして、今のファミレスは二年間くらい続けてて」
「そう……だったんだ」
「うん。みんなは東京の大学に行って、そのまま向こうで働いてる。みんな地元から離れてっちゃった。残ってるのは……この、わたしだけ」
そう、この町に残ってるのはわたしだけ。
「……」
「……」
ふたりとも無言になってしまった。
十年という月日が、歩み方の違いが、重くわたしたちにのしかかっていた。
青司くんがとても悲しい顔をしている。ああ……そんな風になんてさせたくなかったのに。
「あ、でも、正月やお盆にはみんな帰ってくるよ。あと、たまに集まって遊んだりもするし。その時はもっぱらわたしが東京の方に行くんだけどね。まあ、向こうにいる人の方が多いから――」
あははとわざと明るく笑って話す。
青司くんはじっと地面を見つめていた。それからぽつりとつぶやく。
「じゃあ……絵は? 絵は、みんなまだ描いてる?」
「え?」
「真白も、みんなも……」
「えっと……」
「それとも、もう誰も?」
すぐには答えられなかった。
だって、わたしは全く描いていなかったから。正確には――描けなくなった、が正しい。でも、それを青司くんに伝えるのは申し訳ない気がした。彼は絵を描くのが誰より好きだったんだから。
わたしはすごく悩み抜いたあとに答えた。
「あの……。わたしはね、わたしは描けなくなっちゃったんだ、あれから」
「えっ……描けなく?」
「そう。描こうとするとね、思い出しちゃうの。お絵かき教室のこと。青司くんのこと。それからみんなと笑い合ってた時のこと。あと……桃花先生のこと。それから、それから……もう二度と食べられなくなっちゃった、先生のおやつのこと。だから……」
「真白……」
「みんなはどうかわからないよ? わたしみたいに描けなくなった子もいるかもしれないし。あ、でも、一人だけデザインの仕事に就いたって子がいるかな。人それぞれ、だよ」
「そっか……」
本当に申し訳ない。
青司くんは、海外に行っても絵を描き続けて、それで成功した人なのに。
わたしはずっと何もしないで、先生が教えてくれたいろんなことも全部封印してしまっていた。
今度こそ幻滅された、かな……。
しょんぼりしていると、突然青司くんはタッタッと少し先にある自販機のところに走っていった。
そして飲み物を二つ買うと、こちらにすぐ引き返してきた。
「はい、これ」
「え?」
「缶コーヒー。今度ちゃんと、お店の方では試飲してもらうけど。今は時間がないから、これで」
「あ、ありがとう……?」
お礼を言って、熱々の缶を受け取る。
青司くんはブラック、わたしは微糖だった。
すぐそばの川辺の階段に腰かけて、休憩することにする。
「いただきます」
「うん」
プルタブを開けて一口飲む。
うん、普通の味だ。
特別美味しいとかはないけれど、これはこれでホッとする味だ。芳ばしい香りがほのかに鼻から抜けていく。
「あのさ、真白……」
「うん?」
青司くんは川を眺めながら、何かを言おうとしている様子だった。
「なあに? 言いたいことがあるなら言って。ってさっき青司くんも言ってたじゃん。なになに?」
「俺は……さ」
「うん」
「自分のために帰ってきたところが……あるんだ。でも、真白たちに母さんのおやつをまた食べてほしいって気持ちも大きくて。だから……二度と食べられないなんて、そんな悲しいこと言わないでほしい。また食べさせてあげるから」
「青司くん……」
「って、まだそんな、完璧に作れるようになったわけじゃないんだけどね。レシピは残ってたから、なんとか作れるってだけで。だから真白に、試食してほしいんだ。やっぱりあの味と『同じ』って思ってもらいたいからさ」
「うん……わかった。わたし、責任をもって試食するよ」
くっと、もう一度コーヒーを飲む。
目が覚めるような、ほど良い苦みだった。こんな、コーヒーみたいな存在にになれたらいいのに。
「任せて、青司くん! わたしが『これは先生の味』って太鼓判押せるまで付き合うから!」
「真白……」
「あ、でも……くれぐれも食べさせすぎないでよね。太っちゃったら困るから」
「あははっ。それはそうだね、気を付けるよ。でも、真白なら大丈夫。太ってないし、もし太ってしまってもきっと可愛いから」
「えっ!?」
な、なに。可愛いって。その発言、ちょっと無責任すぎるよ。
本当に太ったらどうするの。責任取って……って。ウソウソ。危険だ。青司くんの今の発言は危険すぎる。
「もう、青司くん。適当なこと言わないで!」
「ふふふっ。ごめんごめん。でも、ほんと心配しなくていいよ。あくまで試食、なんだからさ、昨日みたいに全部食べる必要ないから」
「あっ」
「なに、全部食べるつもりだったの?」
「…………っ!」
わたしはかあっと熱くなって、それ以上そこにいられなくなってしまった。
残りのコーヒーを一気飲みして、自販機横のゴミ箱に捨てに行く。
後ろから青司くんもついてきて、青司くんも缶を捨てた。
「真白。ごめん。別に、全部食べてもいいけど?」
「……いいえ。わかりました。ちゃんと節度を持って臨みます。美味し過ぎたら……その、都度判断することにします」
「ふふっ。そうこなくちゃね。だって、食べてる真白が一番可愛いんだか……むぐっ?」
それ以上言わせたくなくて、わたしは青司くんの口を両手でふさいだ。
手袋越しに青司くんの吐息を感じる。
「もーっ! それ以上、勝手なこと言わないで。本当に太ったら……どうしてくれんの? 責任を……責任……」
以降はものすごく声が小さくなってしまったが、わたしはいたたまれなくなってまたすぐに歩きはじめた。
後ろからくつくつと笑う声がする。
あーもう。
昔からこうだ。こうやってその気にさせるようなセリフを言われて、わたしがそれに動揺して。
完全に掌の上で転がされている感じ。
嫌だけど、本気では嫌じゃないからタチが悪い。
その後は、通っていた小学校や、中学校を見に行ったりした。
幸い、知り合いには誰とも出会わず、ぱらぱらと登校する児童たちとすれ違っただけだった。
近所をひととおり歩いてから青司くんの家まで戻る。
「じゃあ、そろそろ」
「うん。また。わたしももうバイトに行かないと」
「俺は今日は午前中役所に申請に行くから、帰ってくるのは夕方に――」
「『九露木』さん?」
「えっ……?」
「やっぱり。九露木さんちの青司くんだ。おや、そっちは羽田さんちの真白ちゃんじゃないか」
背後からそう呼びかけられた。振り返ると、青司くんの家の隣に住む「大貫のおばあさん」がいた。
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