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第六十話 おしまい
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車から降りて、開いたドアに手をかけながら渡辺は尋ねた。
「君はどうする? 待っているのか?」
それに対して美冬は、フロントガラス越しに前のアパートを見つめたまま答えた。
「おじさんが逃げ出さないか。ここで見て待ってる」
「そうか。じゃあ、エンジンはかけたままにしておくよ。夜は冷える」
目を合わせない美冬の横顔を見ながら渡辺はそう言うと、静かにドアを閉める。
それから車の前を遮る様に、渡辺は歩き出した。
助手席の美冬からはアパートに向かって歩く渡辺の背中が見える。そしてそれは段々と小さくなって行った。
「はあ~」
次の瞬間緊張が解けたのか、美冬は溜息を一つ付くと、椅子から腰を前に少しずらして、背もたれに背中を預ける様に当てた。
表情も少し和らぎ、笑顔で渡辺の背中を見送る。
『期待してもいいのだろう。きっと彼女はある程度根回しをして、それなりの確証を持って俺を此処に連れて来たに違いない。色々調べたのか? 親父さんの力も借りているに違いない。言ってないなんて話は嘘だな。瀬川さんも人がいい。あんな目に合ってもまだ俺に力を貸してくれるのか。全く、今の俺は一人じゃない気がしてくるよ。美冬ちゃん、安藤君、舞ちゃん。みんないい子たちだった。きっと君たちが俺の背中を押してくれているんだ。ああ。今回は断られたとしてもしぶとく粘るさ。俺は今まで自分が悪いからと、直ぐに諦めすぎていた。自分が悪いという事に何も変わりはないが、それでもどうしようもない位の恋しさが家族にあるんだ。ギリギリまで話し合うさ。ちゃんと、思いを伝える。あのアパートの扉を開けたら、俺はもう大丈夫だ。後は自分でやれる。だから安藤君、後の事は任せたぞ。約束を守ってくれよ。今日はあの、大切な日なんだ』
渡辺はアパートの家族の住む部屋の前で立ち止まった。
そして呼び鈴を押した。
ドアが開き、渡辺が中に入って行くのが、車の中の美冬からも見えた。
そしてドアが閉まるのを見届けると、美冬は運転席の方に手を伸ばして、車の鍵を回してはエンジンを止めた。
それから助手席のドアを開けると、地面に足をつけて車から降りるとドアを閉めた。
ほっとした。
渡辺がアパートの部屋の中に入って行くのを見届けた美冬は、全身の力が抜ける程安堵した。
だから自分の役目が終ったのだと思うと、歩きたくなったのだ。
車に鍵をかけると鍵を制服のポケットに落とす。
美冬は灯りを求めて大きな通りのある方へと歩き出した。
十メートルも狭い路地を歩くと走る車の音が次々と聞こえ始めて来た。
交通量の多い、大きな通りの街灯や、立ち並ぶ店の照明が前方を明るくして行く。
そして路地を抜けると、目の前を横切る四車線の道路が現れた。
反対側にコンビニの灯りも見える。
直ぐ側に横断歩道を見つけ、美冬はそちらに行き、数人の人達と一緒に信号が青に変わるのを待った。
役目を終えたかの様な安堵感が、美冬の気持ちを楽にしていた。
自分でも気付かぬうちに顔も綻んでいる。
その時、
『なんだろう、この開放感。あー、今ならこのまま死んでもいいような…』
そういう気持ちに駆られて、美冬は足を一歩踏み出した。
頭は麻酔でもされたかの様に少し霧のかかった状態だったが、心は乱れてはいなかった。
静かな、落ち着いた気持ちだった。
丁度、心と体が切り離された様に。足はゆっくりと二歩、三歩と前に出た。
「美冬!」
その時だった。
突然自分を呼ぶ声が聞こえ、美冬は誰かに右手首を捕まれた。
だからハッキリしない頭で声の方を振り返る。
その先に立っていたのは、安藤と舞だった。
舞は掴んでいた美冬の右手首を引っ張ると、自分の方へと引き寄て抱きしめた。
「美冬…」
舞のその声は涙声だった。抱きしめられた美冬の頬に舞の涙が流れ落ちる。
信号は青に変わり、信号待ちの人達が三人の周りを何事かと覗きながら通り過ぎて行く。
「渡辺さんに頼まれたんだ」
「おじさんに…」
安藤の言葉にまだハッキリしない頭で、美冬が顔を上げて呟いた。
「そう」
言いながら安藤は舞の制服の袖を掴み、信号機の側から二人を後ろへと下がらせた。
通行の邪魔にならない様に歩道の隅に固まる三人。
舞は近くに自動販売機を見つけると、急いで買いに走って行った。
「渡辺さんが、この前の山登りの時に言ったんだ。頼み事があるって」
「頼み事?」
まだ美冬は少しボーッとしている様子だった。
「ああ、瀬川さんの自殺ゲームの最終日。開始から十四日目の今日。この日だけは注意しろよって。俺はその時側にいないかも知れない。お前は男だから、お前に頼んだぞって」
「おじさんが」
「そうなんだって。最近になって私も聞いて、驚いちゃった。日曜日の事で、渡辺さんの事少し誤解していたけれど。あの人にはあの人なりの考えがあったのかも知れないね。はい」
飲み物を買って戻って来た舞は、そう言うと美冬にホットのミルクセーキを渡した。
「あったかい。ありがとう。少しずつ頭もハッキリして来た」
美冬はそう言うと蓋を回して開けては飲み始める。
「あれ、コーヒーは? 全部ミルクセーキなの?」
不満そうに舞の差し出すミルクセーキを見ながら言う安藤。
「文句言わないの。それより話!」
そう言われて舞に押し付けられたミルクセーキを渋々持つと、安藤は再び話し始めた。
「渡辺さんは、瀬川さんの自殺願望は、そう簡単には直らないだろうって言っていた。だから俺と佐々木さんがいて良かったって。二人で瀬川さんの面倒を見てくれって言われた。確かに何年にも及ぶ心の傷が、元凶が解決したからって、消える訳じゃないもんな。夕方渡辺さんから電話があったんだ。瀬川さん、この三日間学校終ると直ぐ何処かに行っていただろ。そういうのも全部話して、渡辺さんは瀬川さんから連絡があってこれから何処か行くって言うし。でもそれは多分離婚した元奥さんの所じゃないかって渡辺さんが言い出して」
「それで安藤君と先回りして、アパートの駐車場に隠れていたの」
安藤の話を引き継いで、微笑みながら舞が言った。
「何だろう? 急にね、『今なら死ねるな。死んでもいいな』って気持ちになって。それでね、頭がボーッとして、体が勝手に、足が勝手に歩き出しちゃって」
「今は怖いと思ってる?」
美冬の話に安藤が尋ねる。
「うん、思ってる」
「じゃあ大丈夫だよ。時間が解決してくれる。僕らも新しいマンションにもちょくちょく遊びに行くよ」
安藤は微笑みながら言った。
「じゃあ私は毎週末泊まってあげる!」
舞は嬉しそうに元気な声で言う。
「えっ」
それには少し困った様な顔で、美冬が微かに声をあげた。
側の道路では相変わらず車が途切れる事なく走っていた。
時間は七時を回っている。
夜は一層暗さを増して、街灯や店の灯りがよりはっきりと輝きを際立たせていた。
こんな世界、多分空から見れば、地上は星空の様に見えるのかも知れない。
そして頭上の空は、分厚い雲がゆっくりと流れていて、今日は星の見えない夜だった。
おしまい
おわっちまった~!
「君はどうする? 待っているのか?」
それに対して美冬は、フロントガラス越しに前のアパートを見つめたまま答えた。
「おじさんが逃げ出さないか。ここで見て待ってる」
「そうか。じゃあ、エンジンはかけたままにしておくよ。夜は冷える」
目を合わせない美冬の横顔を見ながら渡辺はそう言うと、静かにドアを閉める。
それから車の前を遮る様に、渡辺は歩き出した。
助手席の美冬からはアパートに向かって歩く渡辺の背中が見える。そしてそれは段々と小さくなって行った。
「はあ~」
次の瞬間緊張が解けたのか、美冬は溜息を一つ付くと、椅子から腰を前に少しずらして、背もたれに背中を預ける様に当てた。
表情も少し和らぎ、笑顔で渡辺の背中を見送る。
『期待してもいいのだろう。きっと彼女はある程度根回しをして、それなりの確証を持って俺を此処に連れて来たに違いない。色々調べたのか? 親父さんの力も借りているに違いない。言ってないなんて話は嘘だな。瀬川さんも人がいい。あんな目に合ってもまだ俺に力を貸してくれるのか。全く、今の俺は一人じゃない気がしてくるよ。美冬ちゃん、安藤君、舞ちゃん。みんないい子たちだった。きっと君たちが俺の背中を押してくれているんだ。ああ。今回は断られたとしてもしぶとく粘るさ。俺は今まで自分が悪いからと、直ぐに諦めすぎていた。自分が悪いという事に何も変わりはないが、それでもどうしようもない位の恋しさが家族にあるんだ。ギリギリまで話し合うさ。ちゃんと、思いを伝える。あのアパートの扉を開けたら、俺はもう大丈夫だ。後は自分でやれる。だから安藤君、後の事は任せたぞ。約束を守ってくれよ。今日はあの、大切な日なんだ』
渡辺はアパートの家族の住む部屋の前で立ち止まった。
そして呼び鈴を押した。
ドアが開き、渡辺が中に入って行くのが、車の中の美冬からも見えた。
そしてドアが閉まるのを見届けると、美冬は運転席の方に手を伸ばして、車の鍵を回してはエンジンを止めた。
それから助手席のドアを開けると、地面に足をつけて車から降りるとドアを閉めた。
ほっとした。
渡辺がアパートの部屋の中に入って行くのを見届けた美冬は、全身の力が抜ける程安堵した。
だから自分の役目が終ったのだと思うと、歩きたくなったのだ。
車に鍵をかけると鍵を制服のポケットに落とす。
美冬は灯りを求めて大きな通りのある方へと歩き出した。
十メートルも狭い路地を歩くと走る車の音が次々と聞こえ始めて来た。
交通量の多い、大きな通りの街灯や、立ち並ぶ店の照明が前方を明るくして行く。
そして路地を抜けると、目の前を横切る四車線の道路が現れた。
反対側にコンビニの灯りも見える。
直ぐ側に横断歩道を見つけ、美冬はそちらに行き、数人の人達と一緒に信号が青に変わるのを待った。
役目を終えたかの様な安堵感が、美冬の気持ちを楽にしていた。
自分でも気付かぬうちに顔も綻んでいる。
その時、
『なんだろう、この開放感。あー、今ならこのまま死んでもいいような…』
そういう気持ちに駆られて、美冬は足を一歩踏み出した。
頭は麻酔でもされたかの様に少し霧のかかった状態だったが、心は乱れてはいなかった。
静かな、落ち着いた気持ちだった。
丁度、心と体が切り離された様に。足はゆっくりと二歩、三歩と前に出た。
「美冬!」
その時だった。
突然自分を呼ぶ声が聞こえ、美冬は誰かに右手首を捕まれた。
だからハッキリしない頭で声の方を振り返る。
その先に立っていたのは、安藤と舞だった。
舞は掴んでいた美冬の右手首を引っ張ると、自分の方へと引き寄て抱きしめた。
「美冬…」
舞のその声は涙声だった。抱きしめられた美冬の頬に舞の涙が流れ落ちる。
信号は青に変わり、信号待ちの人達が三人の周りを何事かと覗きながら通り過ぎて行く。
「渡辺さんに頼まれたんだ」
「おじさんに…」
安藤の言葉にまだハッキリしない頭で、美冬が顔を上げて呟いた。
「そう」
言いながら安藤は舞の制服の袖を掴み、信号機の側から二人を後ろへと下がらせた。
通行の邪魔にならない様に歩道の隅に固まる三人。
舞は近くに自動販売機を見つけると、急いで買いに走って行った。
「渡辺さんが、この前の山登りの時に言ったんだ。頼み事があるって」
「頼み事?」
まだ美冬は少しボーッとしている様子だった。
「ああ、瀬川さんの自殺ゲームの最終日。開始から十四日目の今日。この日だけは注意しろよって。俺はその時側にいないかも知れない。お前は男だから、お前に頼んだぞって」
「おじさんが」
「そうなんだって。最近になって私も聞いて、驚いちゃった。日曜日の事で、渡辺さんの事少し誤解していたけれど。あの人にはあの人なりの考えがあったのかも知れないね。はい」
飲み物を買って戻って来た舞は、そう言うと美冬にホットのミルクセーキを渡した。
「あったかい。ありがとう。少しずつ頭もハッキリして来た」
美冬はそう言うと蓋を回して開けては飲み始める。
「あれ、コーヒーは? 全部ミルクセーキなの?」
不満そうに舞の差し出すミルクセーキを見ながら言う安藤。
「文句言わないの。それより話!」
そう言われて舞に押し付けられたミルクセーキを渋々持つと、安藤は再び話し始めた。
「渡辺さんは、瀬川さんの自殺願望は、そう簡単には直らないだろうって言っていた。だから俺と佐々木さんがいて良かったって。二人で瀬川さんの面倒を見てくれって言われた。確かに何年にも及ぶ心の傷が、元凶が解決したからって、消える訳じゃないもんな。夕方渡辺さんから電話があったんだ。瀬川さん、この三日間学校終ると直ぐ何処かに行っていただろ。そういうのも全部話して、渡辺さんは瀬川さんから連絡があってこれから何処か行くって言うし。でもそれは多分離婚した元奥さんの所じゃないかって渡辺さんが言い出して」
「それで安藤君と先回りして、アパートの駐車場に隠れていたの」
安藤の話を引き継いで、微笑みながら舞が言った。
「何だろう? 急にね、『今なら死ねるな。死んでもいいな』って気持ちになって。それでね、頭がボーッとして、体が勝手に、足が勝手に歩き出しちゃって」
「今は怖いと思ってる?」
美冬の話に安藤が尋ねる。
「うん、思ってる」
「じゃあ大丈夫だよ。時間が解決してくれる。僕らも新しいマンションにもちょくちょく遊びに行くよ」
安藤は微笑みながら言った。
「じゃあ私は毎週末泊まってあげる!」
舞は嬉しそうに元気な声で言う。
「えっ」
それには少し困った様な顔で、美冬が微かに声をあげた。
側の道路では相変わらず車が途切れる事なく走っていた。
時間は七時を回っている。
夜は一層暗さを増して、街灯や店の灯りがよりはっきりと輝きを際立たせていた。
こんな世界、多分空から見れば、地上は星空の様に見えるのかも知れない。
そして頭上の空は、分厚い雲がゆっくりと流れていて、今日は星の見えない夜だった。
おしまい
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