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<水無瀬葉月>

「そうか。それが葉月の傷だったんだな」

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 え?


 喉まで心臓が上がってきたんじゃないかってぐらいに心音が高く鳴る。




 何が、起こってる?




 どうして、暖かいんだろう?





 背中に回った腕が身動き一つできなくなるぐらいにきつく僕を抱き締めてる。

 大きな掌が頭を撫でてくれてる。








「ぼくは、きたな――」







 反射的に体を押し返しながら、生まれた頃から言われ続けてきた言葉を、まるでそれしか知らないみたいに繰り返してしまう。





「葉月は汚くないよ」





 いたわりを含んだ遼平さんの低い声が、はっきりとそう告げた。




 どう、して。

 なにを、いって?


「葉月に罪は無い。汚いのはお前の父親だ。子供に全部被せるなんて最低だ。親から汚いといわれるなんて、辛かったな。俺が、ちゃんと解決してやるから、全部任せておけ」

 罪はない――――?

 違う、違う、遼平さんは何も知らないだけだ。

「僕を産んだお母さんは、お父さんを薬で眠らせて、僕を、妊娠した、犯罪者で、産まれた僕を捨てて、」

「なぁ、葉月。ひょっとしてそれは、浮気したっていうお前の親父の言葉だけで証拠は無いんじゃないか? 葉月、あのな、大人の中にはずるい嘘を付く性質の悪いのがいるんだ。そんな連中は、自分を悪者にしない為なら平気で嘘をつく。お前がどんな風に扱われてきたか山本さんに聞いたよ。俺は、お前の父親の言葉が真実だとはとても思えない」



 遼平さんの掌が僕の前髪をかき上げ、唇が、涙で汚れた僕の唇に触れた。


 ぅ、ぅ。


 益々涙が溢れる。





「親から言われた言葉は忘れろ。葉月は汚くない」





 きっぱりとした口調で繰り返された。






「きたなく、ない……」





「あぁ。汚くないよ。――――水無瀬葉月は」


 そう僕の名前を呼んで、言った。


「この世で一番大事な、俺の宝物だよ」




 ――――――!!!!




 向けられた笑顔はこれまでに何度も見た笑顔と全く同じものだった。

 体の奥から、制御できない感情が沸きあがってきて声と涙になって溢れた。


「う……うぅう……! あ、ぐぅ、うぁあ…………!!」


 泣きわめきながらありったけの力で抱きつく。



 汚くない。
 汚くない。
 汚くない。



 そう言ってもらったのが息が止まるぐらいに嬉しい。
 あぁ、もう、このまま死んでしまいたい!
 ありがとう、遼平さん。



 この世で一番優しい人。僕の命よりも大事な人!!











 ――――――――――――?


 いつの間に眠っていたのか、見知らぬ部屋の簡素なベッドの上で目を覚ました。

 ここはどこ?
 どうしてここに?

 遼平さんは?
 遼平さんが居ない。

 ――――――――?

 居ない?

 どうして?

 あ、そっか。




 やっぱり捨てられたんだ。
 ぼくがきたないから。



(水無瀬葉月はこの世で一番大事な、俺の宝物だよ)



 遼平さんの声が耳の奥に響く。

 結局捨てられちゃったけど、汚くないって言われたのほんとに嬉しかったなぁ。

 幸せだったなぁ。

 嬉しくて嬉しくて笑顔になったまま体を起こす。

 痛っ……!

 あれ?
 肱の内側から、血が流れていた。

 いつ怪我をしたんだろう……?
 兄さんに蹴られた時かな?


 ゆっくりと赤い血が流れていく。


 ……。



 僕みたいな人間でも、血は、血なんだな。





 ――――あれ?


 血は、血のはずだ。

 それなのに、よく、目をこらしたら、血が蠢き始めた。

 僕から流れているのは血じゃなかった。

 腐った汚泥だった。
 ゴミ袋に沸いていた無数の白い虫と一緒に、傷口から湧き出してくる!

「――――――うわああああああ――――――!!?」


 どうして、僕の体からこんなものが!!?

「いや……うそだ、こんなの、いやだ……!!!」

『水無瀬君! どうしたんだ、水無瀬君!』
 遠くで知らない男の人の声がする。

「血が、血が腐って、虫が……!! ――――いや、ああああ!」


 怖い、怖い、怖い!!


 僕の中に流れてたのは血じゃなかったんだ。
 こんなきたないものが流れてたんだ!!


「葉月!」


 遼平さんの声――――!?

 いやだ、遼平さんに見られたくない!!


「――遼平さん、み、ないで、やだ――――!!!」

 逃げ出そうとした僕を大きな掌が捕まえた。

 汚い血が流れているのは右手の肱の裏だ。
 左手で必死に隠すものの、ヘドロは指の隙間からも流れて行く。

 見られたくない、これ以上嫌われたくない――――!!!


「葉月」


 傷を隠す手を押しのけられる。

「はなして――……!!!」

 生まれてこの方出したことの無いぐらいの大声で叫んで、生まれてこの方初めてだっていうぐらいの力で暴れた。

 だけど振り払えなかった。
 腕を押えられ虫の沸く傷口が露わになる。

「葉月は汚くないって言っただろ?」

 遼平さんが優しくそう言った。

 何を言ってるんだ!

 今、遼平さんの目の前で、僕の体から虫の沸いた泥が流れているのに!!


「嫌だ――――僕は汚い――――」


 息もできないぐらいに叫ぶ僕を押さえつけて、僕から流れる汚い泥を、虫ごと、舐めた。



 ひぅ。



 混乱と絶望に僕の喉が鳴る。
 舐めないで、遼平さんまで汚れてしまう!!


 手首まで垂れた体液をゆっくりと舐めとって、肱の裏の柔らかい皮膚に出来た傷口にキスをした。


 そして、笑顔で言った。

「汚くない。お前は綺麗だ」

 ――――――!!?

「虫なんていないよ。俺と同じ普通の赤い血だ。なんなら、俺の血も見るか?」

 遼平さんが自分の腕に歯を立てようとする。

「やめて――――!」


 傷を作る必要なんて無い!

 飛びつくけど、遅かった。
 ガリっと酷い音を立てて腕に傷をつけた。

「ほら」

 遼平さんが腕を差し出す。
 痛々しく噛み千切られた皮膚から赤い血が流れ出している。

 僕の体液と、遼平さんの血が重なる。

「……!」

 僕から流れる血は泥じゃなかった。

 遼平さんと同じ、赤い血だった。


「同じだろ?」

 遼平さんが悪戯に笑って、僕の頭をなでた。

「遼平さん…………ごめ……さい…………」

 傷口から血の滴が次から次に溢れだしてくる。

「謝るな。俺のこんな傷なんか葉月が抱えてきた心の痛みに比べたら些細なもんだ。葉月は汚くない。この世で一番綺麗だ」

 遼平さんが微笑む。

 僕は、罪悪感と喜びに泣いて、また、眠りについた。

 それから、何回か目が覚めた。

 酷い夢を見る事もあった。
 短い覚醒の時間に酷い幻覚を見る事もあった。

 その度に遼平さんが傍にいて、『大丈夫』と抱き締めてくれた。

『だい……ぅ、ぶ?』
『あぁ。大丈夫。全部俺に任せておけって言っただろう?』

 ごめんなさい……。

『謝るな。葉月が傍に居てくれるなら俺は何でもするよ。退院したらでっかい魚を観に水族館に行こうな。約束だぞ』



 ――うん!


 その後の眠りは、ひどく穏やかだった。
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