発情薬

寺蔵

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<抑制剤がきかない>

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 そこまで?

 北村先輩は、このオフィスにオレの話を広めた人だ。

 既婚者に遺伝子が惹かれたことを笑い話にした人だ。この人にとっては浮気も不倫も笑い飛ばせる程度の出来事でしかないんだ。

 オレの痛みを理解して欲しいと思ったことなんてなかったのに、たがが外れてしまった。

「オレの両親、両方とも不倫してたんです。小学校の頃から帰ってこなくなって、高校の頃に出て行きました。二人とも、別の人と子どもを作って、そっちが本当の子どもだって言って、オレには会いにもこなかった。オレは――――オレは! あの人達みたいなことは絶対にしたくない!! 浮気も、不倫もいやだ!!! 結婚してる人に惹かれるぐらいなら抑制剤の副作用で死んだ方がマシだ!!」

「凜……!」

 オレを呼ぶゴロー先輩の声に、はっ、て気が付いた。

 一気に頭の中がクリアになった。

 ここは、オレの職場だ。
 大切な人が沢山居る場所だ。
 こんな大声で何を言っているんだ!
 取り乱して空気を悪くするなんて、

「す――すいません、取り乱しました。オレ、みっともないですね。すいません、今日は早引きさせてください。ほんと、ご迷惑お掛けします」
 俯いて顔を袖で隠す。

「――――!!」

 入り口に、百瀬さんと叶さんが居た。
「凜」
「叶……さん……」

 よかった、ワンシート飲んで……本当によかった。
 ジャケットでさえ興奮したのに、薬が効かないまま顔を合わせてたらとんでもないことになってた。

 下手くそに笑い頭の後ろに手をやる。

「オレ……あの人達と違うと思ってたのに、血は争えないんですね……。大嫌いだったのに、同じことを繰り返してしまいました」

「繰り返してなんかないだろうが。お前は何一つ悪く無い。充分に自身を律してる。自分を追い詰めるな」

 ありがとうございます。
 叶さんの優しい言葉が余計に苦しくて声が掠れるぐらいに小さくなった。

 オレは叶さんに優しくして貰える資格なんてないのに。

「これ、叶さんのですよね? 赤坂先輩が持ってたんです。先輩、なんかよくわかんないこと言ってて……。とにかくお返しします」
 ジャケットを叶さんに返す。それから、デスクから鞄を掴んでまた頭を下げる。

「すいません、午後休の申請書は戻ってから必ず書きますんで、今は帰らせて下さい」
「あぁ。お前の上司には俺から話をしておくよ」
「ありがとうございます……」

 叶さんの好意に甘える。

「ほれ、これを持っていけワンコ。こないだの申請の礼だ」
 渡辺次長がヒヨコ饅頭をくれる。
 渡辺次長は、人事の。

「――次長、オレ、退職したいです。こんなことになって、もう、働けません。皆に合わせる顔もないです。オレ、ここ好きだったのに……!」
 退職するにしてもまずは上司にと頭ではわかってたのに口が勝手に動いた。

「泣くなワンコ。監査君の言う通りお前は悪くないぞ。合わせる顔が無いなんて言うな。誰もお前を責めたりせんよ。退職届けを持ってきても絶対受理はせんからな」

 ぽんと頭を叩かれ撫で回される。会釈して逃げるみたいに総務部を出た。

「凜」
 叶さんはオレと一緒に出てきてくれた。
 オレの体を支えてくれようと腕を回す叶さんを、百瀬さんがそっと制止した。

「凜君のことは僕に任せて下さい。後をよろしくお願いします」
「百瀬君が……?」
「凜君とは友人なんです」

 オレも百瀬さんにくっついていく。

「叶さん、迷惑ばかりかけてごめんなさい。申請の件、よろしくお願いします」

 頑張って笑う。笑う顔を作る。
 叶さんが一歩近づいてきて。

「――――!!」
 抱き締められた。

 宥めるように背中を摩ってくれる。

「後で連絡する。余計なことを考え過ぎるなよ」
「はい」
 少しだけ叶さんにもたれかかってから、開いたエレベーターに乗り込んだ。

「お先に失礼します」
「気をつけてな」

 エレベーターが閉まるまで頭を下げ、動き出した瞬間に、鞄もヒヨコ饅頭も取り落として百瀬さんに抱きつき、深いキスをした。

「ぁあ……あ……」

 ガクガクと足が震える。叶さんに抱き締められた瞬間、腰が砕けて座りこみそうになった。耳元で囁かれて悲鳴を上げそうになった。

 助けて。気持ち良くて狂う。

 必死に舌に舌を絡ませた。

 エレベーターが一階に下りる。ドアが開く寸前で百瀬さんから離れた。

 一階は静かだった。受付にしか人が居ない。
 オレと百瀬さんは柱の影に隠れ、また、キスをした。
 ちょっと前のオレなら会社内でキスだなんてそれだけでも恥ずかしくて死にそうになったのに。
 しかも綺麗な人とは言えども男性相手に何度も何度もするなんて。

「そろそろ行こう」
「――あ」

 まだ顔の赤みが引いてないのに百瀬さんに引っ張られてしまう。
 覚束ない足で歩き受付にセキュリティカードを返却した。

 この会社は人の出入りが厳重にチェックされてる。
 入り口は登録した社員しかドアを開けないし、出るときはICカードが必要になる。

 カードが無いと内側からさえドアを開くことが出来ないのだ。

 カードを取り出してスキャンする。
 まるで軍事施設のドアみたいな分厚いエントランスドアが自動で開く。

「それじゃ、お先に失礼します」
 後ろに立つ百瀬さんに一礼する。
「うん。お疲れ様――」
 エントランスドアが閉まる寸前に、とん、と、百瀬さんが一歩踏み出し、ドアを抜けた。

「百瀬さん!! 困ります!」

 ドアが閉まり、受付の男性の焦った声が掻き消される。
「走って」
「!?」
 腕を引かれるまま、訳も判らず走り出す。
 オレ達の会社は駅前に程近い。大通りに出るとすぐに空車のタクシーがつかまった。

「どこでもいいから出してください」
 ほとんど車に飛び乗り百瀬さんが運転手さんに告げた。

「はい、」
 車が走り出す。
 騒がしい後ろを振り返る。受付の男性と警備員がこの車を指差していた。

 百瀬さんは振り返りもせずに、車の後部座席に深く体を沈めて瞼を伏せ、ふ、と小さく溜息を付いた。
 まるで、これでようやく呼吸ができるとでも言わんばかりに。

「やっと……、出られた……」
「出られた……? どうしたんですか? こんな抜け出し方したら戒告処分になっちゃいますよ?」
 苦笑してオレに視線を向けてくる。

「ICカードを取り上げられてたんだ。本社に来た時から、ずっと」
「え……!? それ、あそこに軟禁されてたってことじゃ……!? 百瀬さん、一週間前からいましたよね? そんな長い間、ずっと出られなかったんですか!?」

「うん。利用してごめんね。――――あ」

 百瀬さんの白衣からデフォルト設定のままのシンプルな着信音が鳴った。ポケットからスマホを取り出してしばし目を瞑り躊躇ってから、通話を繋ぐ。

「はい。百瀬です」
『弁明を聞きましょうか』

 スマホから漏れてくるのは八雲部門長の声だった。

「ありません。ただ、外に出たかったんです」
『そうですか』

 部門長は少し笑ったみたいだった。

『戻ってきてください。今なら許してあげますよ』



「――――――!!!」



 ひゅっと百瀬さんの喉が鳴った。横で見て判るぐらいに体が震え始める。

 視線が下がる。戻ろうか迷っている。

 百瀬さん。
 抱きついて背中を撫でる。叶さんがしてくれたみたいに。

「…………」

 百瀬さんがオレの頭に頬擦りした。
 一つ深呼吸して言う。

「今は戻りません。本社に居る間は戻れません。研究所に戻してもらえるならいつでも戻ってきます。治験薬の効き目を消す拮抗薬の研究をさせてください」

『子どもみたいな我侭を言うんですね。またお仕置きをされたいんですか?』

 百瀬さんはばっと耳からスマホを離し、壊れるぐらい強くタップして電源を切った。

 体を折り硬直する百瀬さんの額に冷や汗が流れる。

 運転手さんがバックミラーを見てないのを確認してから、流れた汗を舐め取った。

 ん。

 唾液ほどじゃないけど体温が上がり興奮してしまった。
 狭い車内にいるせいで百瀬さんから香る甘い匂いが強くなったから、美味しそうだと思ってついつい舐めてしまった。

 体液は興奮しちゃうこと忘れてた。

「しばらく身を隠してれば向こうから折れてきますよ。百瀬さんは会社になくてはならない優秀な研究者ですもん」
「――……ありがとう……」

 それからオレ達はタクシーを二台乗り継いだ。

 タクシーを警備員さん達に見られていたからだ。タクシー会社に連絡されればオレ達の行く先がばれてしまうから。――それだけじゃなく、途中、薬を吐かされもしたし。過剰摂取したことをめちゃくちゃ怒られて危うく病院に叩き込まれるところだった。

 乗り継ぎながら、オレも会社に連絡を入れた。
 部長に確認も取らず帰宅してしまった謝罪と、休みの申請の為に。

 総務の部長は五十代の男性だ。恰幅のいい恵比須顔の気のいいおじさんで、オレにもよく声を掛けてくれる。

 怒られるのを覚悟してたのに部長は大様に言った。

『話は内三の叶君から聞いたぞー。守秘義務を守らなかった研究員のせいでえらいことになったなぁ! 叶君が有給を使わせてやって欲しいと言ってきたが、使うか?』

「え!? い、いいんですか!?」

『当然だろうが。君達が消化しないと俺が人事に怒られるしなぁ。丁度いい。二十日残っているから一気にとってしまえ。フォローは北村と三田と真美君と恋子君とゴロー君がやってくれるそうだからな』

 わっはっは、と大声で笑う。部長の笑顔が脳裏に浮かんでオレまで笑ってしまった。

『君をからかったのを反省してたぞー。まぁ、言いたい事はあるだろうが許してやってくれ』

「いえ、あれはボクが悪かったんです。部の空気を乱してすいませんでした。先輩達には必ず謝罪します」

『やめとけやめとけ。また調子に乗ってからかわれるからなー! 出勤日は来月の二十日だ。間違えないように気を付けろよー』
 わっはっはと、笑い声を残して通話が切れた。

 それから、叶さんにも連絡した。

『凜』

 スマホから流れてきた叶さんの声――機械を通しているのに、体の奥が少しだけ熱くなる。

「叶さん……、その、色々とすいませんでした。有給も取れるよう計らってくれて……本当に助かりました」
 平静を取り繕いまずはお礼を言う。

『一々謝るな。今回は事態が事態だからな。お前の同僚達にも、凜から連絡が来るまではそっとしてほしいと言っておいた。ゆっくり休んで、落ち着いてからメールでも送ってやれ』

「あ――ありがとうございます!」

 まだ、誰にも連絡したくなかった。それでも、先輩から連絡が来れば返さないわけには行かない。実は少しだけうんざりとしていた。

 頭が冷えるまで時間が貰えるのはありがたい!

『俺もしばらくはお前に連絡するのを控える。だが、月末以降も連絡がないようだったら俺から連絡するからな』

「はい。……本当に、ごめんなさい。叶さん」

『謝る必要はないぞ。ゆっくり休め』
 叶さんが知らないだけで、百回謝っても謝り足りないぐらいなんです。

 通話を切る。


「有給が取れたんだね」
「はい。二十日も貰えました」

 ウチは完全週休二日制で途中に祝日もある。出勤日が来月の二十日なら、一ヶ月近く休めることになる。こんなに時間があれば薬の効力も切れるだろう。
 叶さんとも離れられるし本当に助かった!

「凜君」
 百瀬さんが少しだけ開いた足の間で手を組んで俯く。

「はい?」
「厚かましいお願いで申し訳ないんだけど……、休みの間、僕と一緒に居て欲しいんだ。会社にも家にも戻れないからホテルを転々とすることになるけど……」

「構いませんよ。そんな改まって言わなくてもいいのに。百瀬さんには助けられっぱなしなんですから今度はオレが助ける番です」

「……ありがとう……」
 百瀬さんの額がオレの肩に乗る。

 オレの存在で――オレの匂いで百瀬さんを安心させられるんだ。

 八雲部門長が折れるまでは傍にいてあげなきゃ。


 百瀬さんを一人で怖がらせたくなんかない。
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