発情薬

寺蔵

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<抑制剤がきかない>

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「鈴森君、居る?」

 かちゃ、と、ドアの開く音がして、前触れもなく百瀬さんが入って来た。
 ジャケットが顔に掛かったままだから見えはしないけど、アルトとテノールの間の柔らかい声で充分判断できた。

「な……!? 何をしているんですか!?」
 百瀬さんの驚愕の声と、チッっと鳴る舌打ちが重なる。
「勘違いすんじゃねぇぞ。合意の上だからな」
 先輩が立ち上がったのが判った。
 荒い足音が遠くなっていく。入れ替わりに百瀬さんが資料室に入ってきた。

「鈴森君!」
 上半身を覆っていた叶さんのジャケットが取り払われる。

 見ないでください!
 オレ、今、酷い顔してる。
 涙と涎を垂らし顔を真っ赤にさせて発情してる。恥ずかしい。声が出ない。

「……あ、ぅ」
「抑制剤、効かなかったんだね……」

 女性とも男性とも判別の付かない綺麗な顔が悲しげに歪んだ。
 そんな泣きそうな顔をしないでください。
 薬が効くか効かないかなんて体質次第だもん。しょうがないんです。

 百瀬さんがこれ以上苦しむことはありません。
 そう答えたいのに、声が出ない。
 まだまだ体は熱いままで、叶さんの香りに翻弄され続けている。
 このまま、寝転んでいるだけで絶頂してしまいそうだった。

 百瀬さんはジャケットを手に部屋を出て行った。
 すぐに戻ってくる。オレにとっては毒みたいだったジャケットを廊下に出してくれたんだ。

 オレの横に膝をついて顔を覗きこんできた。

「あのね、鈴森君。抑制剤の他にも治験薬を沈める手段があるんだ。免疫情報が違う相手の体液を摂取することで一時的に効果を沈めることができるんだよ。体液、血液、唾液も……」

 少しだけ躊躇ってから百瀬さんは続けた。
「キスしてもいいかな」
 ……はい。百瀬さんが嫌じゃないなら。

 やっぱり声が出せなくて、ただ、頷く。

 オレにキスなんてしたくないだろうに、オレの為にしてくれると言い出してくれたのが嬉しかった。

 百瀬さんの冷たい指が頬に触れて唇が合わさる。

 舌が口に入り、舌先同士が軽く触れ合った。

「ヒッ――――!? あ、あぁああ――!」
「っぅあ……」

 お互いの唾液が交じりあった瞬間、強制的な絶頂が襲った。

 後ろがぎゅうぎゅう痙攣してズボンの中の性器が脈打つ。乳首までびくんっと動いた気がした。

 何これ、気持ちいい、恐い……!!

「あ――、あぁああ――!」
「う、ぁ」

 訳の判らない悲鳴を上げて身を捩らせるオレに百瀬さんがしがみ付いてくる。

 ボタンの外されたシャツをきつく握る指、頬を上気させ喉を逸らす百瀬さんの姿の断片が頭に残っただけで、オレは射精を伴わない絶頂に翻弄され気を失った。


「――りくん、鈴森君」
「……」
 ぺし、と指先だけで軽く顔を叩かれて目を覚ます。

「大丈夫?」
「ぁ……」

 随分長いこと失神してた感覚だったんだけど、百瀬さんもまだ息を上げたままだった。
 失神はほんの一瞬だったみたいだ。
 動かせないぐらい痺れていた体が徐々に冷えて行く。

「どうかな?」
「……落ち着いてきました……。ありがとうございます」

 埃っぽい床から体を起こす。
 仰向けから横向きに体を捻ると、後ろの穴の中からぐじゅと粘着質な音がした。

「ん……」
 ジンとまたそこが疼き始める。くるし……、ぅあ、入れたい、触りたい、駄目だ、嫌だ、

「ももせさん……、も、もういっかい、させてください……」
 横に座ったままだった百瀬さんの腕にすがり付いて懇願する。
 百瀬さんはすぐにキスをくれた。

 百瀬さんとのキスは性的な衝動を伴う。
 だけどそれは体だけで、心は全く欲情しなかった。

 本物の犬になってミルクを舐めてる気分。
 生きるのに必要だから欲しいだけ。
 百瀬さんはミルクをくれる優しい飼い主だ。

 抱き締めあい体の熱が冷めるのを待つ。

「さっきの人は誰? 総務の人かな?」
 オレを抱く百瀬さんの腕に力が入った。

「さっきのは……ほんとに、合意だったんです。オレ、あの人の申し出を受け入れてましたから」

「こんなの合意じゃない! 薬の効力を悪用した犯罪だ!」

 百瀬さんの声は怒りで悲壮に掠れていた。

「ことを大きくしたくないんです。ひょっとしたら明日にも治験薬の効き目が切れるかもしれないし」

「でも……でも……」

「大丈夫です。……オレが一番嫌なのは、ジャケットの持ち主に、オレが惹かれてると知られてしまうことだけなんです。朝も言いましたけど、あのジャケットの持ち主は既婚者です。オレが惹かれてるなんて知られたら、先輩後輩の間柄にも戻れません」

「そう言われて脅された?」
「違います。……心配してくれてありがとうございます」

 やっと百瀬さんから離れて乱れた服を調える。
 スーツが所々埃で白くなってしまった。

 百瀬さんが来てくれて良かった。冷静になってみると、こんな所で、しかも赤坂先輩とするなんてやっぱり嫌だ。

「百瀬さん、どうしてここに? オレに何かご用でしたか?」

「――部屋から居なくなってたから探してたんだ。総務の人がここだと教えてくれて……。いくつか報告があるんだ。まず一つは、山城のことだけど、三ヶ月の減俸処分が下りそうだ。まだ決定じゃないけどこれ以上軽くなることはない。それと、君が望むならこれから午後休が取れるよ。どうする?」

 え、そのためにわざわざ探してくれたんだ。
 休みか……。
 さっきまではちゃんと終業まで働くつもりだったけど、今はちょっときつい。休めるなら休みたいな。

 その前に叶さんにジャケットを返しに行かないと。
 赤坂先輩、どうやって持ち出したんだろう。
 まさか盗んだとか……?

 とにかく、このままほっといたら、赤坂先輩が叶さんに真実を言ってしまうかもしれない。

 その前に、オレが、何事もなかったみたいな顔をしてジャケットを返さなきゃ。

 赤坂先輩が、「鈴森凜が惹かれてる相手は叶直樹だ」なんて言い出しても、「赤坂先輩の勘違いです」と反論できるように。

「ありがとうございます。百瀬さんのお陰で体の熱が引きました。あの、お願いが一つあるんですけど」
「何?」

 奥の棚にでたらめに突っ込まれた段ボールの山を指差す。

「十二年度の研修報告書を探すのを手伝って下さい。早く戻らないと、先輩に怒られちゃいますんで」
「うん、いいよ」

 百瀬さんは笑って引き受けてくれた。

 手伝ってもらったお陰で十分もせずに報告書の詰まった段ボールが見つかった。百瀬さんが見つけ出してくれたんだ。

 オレはてっきり両手で抱えるぐらいにでかい段ボールだと予想してたのに、報告書が入ってたのは厚さが十センチ程度の平べったい箱だった。
 これ、一人で探してたら絶対見逃してたな。百瀬さんが居てくれて助かったよ。

 箱を手に資料室を出る。
 叶さんのジャケットは隣の部屋のドアノブに引っ掛けてあった。

 段ボールを片手で抱えなおしジャケットを手に取る。

「!」

 広がった香りにずきんと疼きはしたものの、さっきみたいに動けなくなるほどでは無かった。
 これなら大丈夫だ。
 さっさと叶さんに返しに行こう。

「面倒が起こったら絶対に連絡すること」
 そう言い残し、詰め所のある階で百瀬さんがエレベーターを降りていく。

 オレも次の階で下り総務部に向かった――のだけど。
 腕に引っ掻けたジャケットの香りが強くなってきた。

 百瀬さんのキスの効き目が切れかけてるんだ。

 いくらなんでも早過ぎる。
 せめて、叶さんにジャケットを返すまではもって欲しかったのに。

(抑制剤を追加で飲めば、少しは耐えられるかも……)

 段ボールを床に置き、ミネラルウォーターを準備して抑制剤を二つ飲む。
 それでも叶さんの香りが堪らなかった。むしろ、どんどん体に火がついていく。
 足りない。全然足りない。
 無我夢中でシートから錠剤を落として一気に呑んだ。
 これで、少しは大丈夫なはず。

 ただ、足に力が入らずに床にしゃがみこんでしまったけど。
 このぐらい、しばらくすれば立てるようになるから大丈夫。

「ん? おい……、凜か? どうした?」

 誰かが呼びかけてくる。
 北村先輩かな?
 酔っ払ったみたいに頭が回り判らない。

「凜?」
 やっぱり北村先輩だ。

 この人も喫煙者だからしょっちゅうオフィスから出歩いてたんだった。

「おい――これ、まさか、抑制剤か!? ワンシートもカラになってるじゃねーか! これ、全部飲んだのか!?」

 はい。飲みました。
 少しだけほっといてください。大事な用があるんです。平気な顔をして叶さんにジャケット返しに行かなきゃならないんです。

「こい!」
 無理やり引っ張られて歩かされる。
 叶さんのジャケット、持って行かなきゃ。
 あ、段ボールが。

 辛うじてジャケットは手に取ったけど、段ボールは置き去りになってしまった。
 北村先輩は殆ど掛け足で通路を進み、オレの手を引いたまま総務部に飛び込んだ。

 人事の渡辺部長がいる。手に、ひよこ饅頭持ってる。それ、オレにくれるのかな? こないだ代理申請したもんね。

 コピー機の前にはゴロー先輩が座ってた。また紙詰まりでも起こしたのかな? ゴロー先輩、不器用だから紙詰まり直すのに時間かかるんだよね。変わってあげなきゃ。

 とりとめもなく四方八方に意識が飛んだ。

「凜が抑制剤をワンシートも飲んでたんだ!! コレ、副作用は!? 誰か、研究所の連中に連絡取ってくれ!」
 北村先輩の金切り声が響く。
「はぁあ!? なんでそんな真似を!? おい、凜!」
 駆けつけてきたゴロー先輩に力一杯肩を掴まれた。

 なんでって、理由は一つだけです。

「くすり……効かなくて」

 頭がぐらぐら回る。

「結婚してる人に迷惑を掛けたくないんです。絶対、そんなの嫌です。人の幸せをかき乱したくない。この薬、効きが悪いからこのぐらい呑んでも平気です。お願いですから、ほっといてください」

「どうしてお前、そこまで……! 結婚してるからって何もそこまで……」

 オレを引っ張ってきた北村先輩が、ドン引きしたみたいに言った。
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