鈴音や君の名は

ころく

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三章 人因怨呪

第六十七話 横取 -ハイエナ-

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 比喩では無い。幻覚でも無い。
 猫又が放った篝火が、不巫怨口女を飲み込んでいた火柱が。
 一瞬にして、その巨大な炎の塊が……元から無かったかのように、消えた。消え去った。

「篝火が消えた……!?」

 ついさっき、たった今。ほんの一秒前まで。
 目前で轟々と燃え盛っていた赤い炎はどこにも見当たらない。火柱どころか火の粉すら。一切の痕跡も残さず。
 あんなに赤く照らされていた校舎裏も暗闇だけに戻り、供助と猫又、二人の全てを賭けた一撃は霧のように無となった。

「なん、で……」

 不巫怨口女を燃やし尽くして炎が消失したのか。違う、不巫怨口女は今だ健在。
 体中に黒い焦げを残し、奇声を叫びながらも、まだこの世に姿を留めている。
 猫又の妖力が尽きたのか。それも違う。妖力が尽きての消失ならば、こんな不自然かつ一瞬で消えはしない。もっと余波や余熱がある。
 だとすれば、考えられるは考えたくない可能性。不測の事態、アクシデント、イレギュラー。
 そう、残念ながら悲しくも、供助の考えは正しい。自身にとって良いか悪いかは関係無く、至った答えは当たっていた。


 ――――篝火は消えたのでは無い。消されたのだ。


「して、やられた……!」

 空高く飛んでいた猫又は着地し、膝を崩して苦虫を噛み潰したような表情をさせる。
 声にも激しい怒りが孕み、抑えられない悔しみで強く歯を軋ませていた。

「猫又っ! 一体どうし―――」

 供助が猫又へ駆け寄ると、ある物が目に入って途中で切れる言葉。
 猫又の右腕には、掌ほどの長さをした一本の木針が刺さっていた。

「奴の存在を忘れておった……!」

 額から大粒の汗。眉間に皺。猫又は荒く息をし、忌々しげに言葉を吐く。
 右腕に刺さっていた木針を抜くと、数滴の血が落ちた。

「アアアアァァァアァァァァアァァァアァイィィィィィィィイィイィィィィイィ!!」

 不巫怨口女の絶叫に反応し、供助と猫又は目を向ける。両者の間に立つ、その者に。
 そこに一人の影。一人の商売敵。一人の祓い屋が、いた。

「祓い屋……七篠ッ!」

 黒いニット帽、黒い革ジャン、黒いブーツ。夏らしからぬ服装で身を包んだ、赤毛の男性。
 供助達の商売敵である祓い屋、七篠ななしの言平ことひらが居た。不巫怨口女の前で煙草の煙を空へと揺蕩たゆたわせて。

「イィィィィィィィィイィァアアアアアアアァァァァアァァッ!」
「うっさいなぁ、ちょい黙っとけ」

 奇声、咆哮、絶叫。
 近くで叫びを上げる不巫怨口女の声を不快に感じ、七篠は鬱陶しいと一振りする右手からは。
 猫又の腕に刺さっていた木針と同様の物が投げ飛ばされた。

「アッイィッ!?」

 ――――トッ。微かに聞こえた渇いた音。
 不巫怨口女の叫びは短い悲鳴を漏らし、それを最後に悍ましい発声は止まった。
 喉、胸元、腹。三ヶ所に突き刺さる木針。不巫怨口女の体は小刻みに震え、あれだけ蠢いていた無数の手足も麻痺して動かない。

「てめぇ、手ェ出さねぇと言っといてこれか……!」

 供助は猫又の前に立ち、邪魔をしてきた商売敵へ怒りを表す。

「何をカッカ怒ってるんだ、少年?」

 七篠は振り返り、顎を微かに上げて目深まぶかに被ったニット帽の下から目線を向けてくる。
 その目にも、声にも、表情にも。罪悪感も、後ろめたさも、申し訳なさも、何も無い。
 ごく自然体で、これが日常で当たり前だと。目的を果たせるなら過程など些細なものでしかない。そう言いたげに。
 同業者しょうばいがたきは微笑を浮かべて紫煙を吐き出した。

「言ったろ? “俺の邪魔をしない限りは手を出さない”ってな。君等が俺の邪魔をした、だから手を出した。それだけだ」
「俺等がいつ、てめぇの邪魔ァしたってんだ!?」
「あのまま妖怪ちゃんの技が決まっていれば不巫怨口女は倒されていた。そうなると俺は報酬が貰えなくなる訳だ。それは俺の邪魔以外のなんでも無いだろう?」
「今の今までだんまりしといて、ふざっけんなよ……!」

 供助は怒りと苛立ちを表に出し、眉間には深い皺を作る。
 報酬が減るという人道から外れた理由で協力を拒まれ、不巫怨口女を倒すべく全てを賭けた攻撃を邪魔をされ、終いには相棒を傷付けられ。冷静でいられる筈がなかった。
 頭だけになろうとも相手の首を噛み千切る勢いで、供助は鋭くギラついた眼光を七篠へと向ける。

「いやはやしかし、君達がいくらか不巫怨口女を弱らせてくれるまで待ってようと思ったが……まさか倒す寸前までいくとは思わなんだ」
「こっちが必死こいて戦ってる間、てめぇは物陰に隠れてずっとタイミングを図ってたってか……!」
「今回は二重依頼、つまり早い者勝ち。過程どうこうよりも結果が全てだ。少年はまだ学生か? 覚えておきな、過程を評価されるのは学校だけだ」

 七篠は供助の視線を軽く受け流し、まだ半分はある煙草を投げ捨てる。

「ハッ、評価されるような結果じゃなくても生きていける社会もあるっての教えてくれてありがとよ」
「あっはっは! 憎まれ口を言える元気があるなら大丈夫だな。それでももう戦う力は残ってないだろう。そこで大人しく休んでな」

 そう言い、七篠はベルトに掛けていた一本の縄に手を掛ける。
 細い二本の縄を編んで一本に纏めた、神社の鳥居などに付けられている注連縄しめなわ
 それを手に取って霊力を込めると、注連縄からは異様な雰囲気を漂わせ始めた。

「供助……あの注連縄、やはり……普通の物では……ないの」
「あぁ、神物に使われる物にしちゃあ、物騒な空気を発してやがる……!」

 注連縄はよく神社の鳥居に用いられ、現世と神域を隔てる結界の役割とされている。他にも神社の周りや御神体を囲って神域としたり、厄や禍を祓う意味もあると言われている。
 しかし、七篠が使うそれは違う。神聖さが微塵もなく、むしろあるのは邪悪さにも似た黒い感覚のみ。
 霊気とも妖気とも違う、全く異質な存在と言える雰囲気。人も妖も関係無い。形を持つモノとして、己の存在を脅かすモノだと直感が訴えてくる。

「イィィィィィィギイィィィィイィィィアアァァァ!!」

 耳をつんざく悲鳴。なんとも言えぬ痛覚を表す絶叫。
 喉に刺さっていた木針は抜け落ち、不巫怨口女は自由になった口から粘りのある赤い液体を飛び散らせる。
 腕、足、肉、骨、皮、髪。七篠が放った注連縄が全身に巻き付き、不巫怨口女の体を締め付けていく。
 ぎちぎち、ぎりぎり、ぎしぎし。注連縄が絞める巨体はまるで焼豚のようで、一切の身動きを許さない。

「五百年も長ったらしく恨み続けるとはご苦労なこった。ま、お陰で俺は儲ける事が出来た訳だが」
「ア、ア、ィ、ィィ……ィ」

 痛々しく高々に上げていた悲鳴も弱まり、虫の息。不巫怨口女は注連縄による締め付けから天を仰ぎ、徐々に衰退していく自身の体。
 七篠は注連縄へとさらに霊力を流し、左手の握る力を強める。そして、右手には木針を一本だけ指に挟んで。

「さ、仕上げと行こうか」

 ひゅ――――。
 風切り音が鳴った直後、次に聞こえたのは短く渇いた音。
 不巫怨口女の額に、七篠が投げた木針が深々と刺さったのが皮切りとなって。

「アアアアアァァァァァァアァァァァァァァアァァァァァァーーーーッ!!」

 不巫怨口女の大きく開けた口から上げられる、絶命の狼煙。
 耳まで裂けた口を天に向け、ほのかに煌めく白い煙を大量に吐き出していく。
 例えるなら許容量を超えて穴の空いた風船の如く。噴水のように白煙を立ち上らせる。

「なんだ、あの白い煙はよ。奴の瘴気とも妖気とも違ぇ」

 供助は宙で広がる白煙を見上げ、不巫怨口女とは似つかわしくない感覚に戸惑いを見せる。

古々乃木ここのぎ君っ! 田辺君と大森君が……!」
「太一……祥太郎っ!?」

 後ろから叫ぶように名を呼んでくる和歌の声。
 この白煙が何か影響を及ぼし、二人の状態がさらに悪化したんではないかという不安が生まれ。供助は後方に居る三人の方へと振り返った。

「ん、んん……?」
「あ、れ……ぼく……」

 しかし、供助の不安は懸念で終わる。付き添っていた和歌の隣で、太一と祥太郎が意識を取り戻し始めていたのだ。
 それどころか、ついさっきまで土気色だった顔には血色が戻り、唇にも赤みが見える。

「まさか、あの白い煙は……」
「恐、らく……不巫怨口女が吸い取って、いた、生徒達の生気……だろう、の」
「猫又、無理すんな。大人しく寝てろ」
「ふ、ん……腹立たしい事この上、無い、が……彼奴きゃつが、不巫怨口女を倒した、という、証拠だ、の」

 今にも倒れ込みそうなのを何とか耐え、猫又は苦しそうに息をする。
 限界を超えて妖気を消費し、こうして人間の姿でいるのも辛い状態であろう。

「あれだけ、の、生気を……短時間で妖気に変換、するの、は、まず無理、だの……」
「って事ぁ、借りモンはそのまま持ち主に戻るってんだな」
「完全に、とはいかん、だろうが……それに近い形では、あるはずだの」

 不巫怨口女の口から漏れ出る大量の生気は校舎内へと流れていき、生徒達の元へと戻って行く。

「ア、ア、アァ……」

 吸い取った生気を全て吐き出し、不巫怨口女は天を仰いだまま弱々しい声だけを零す。
 そして、あんなにも強大で強力だった妖気も底を突き。大量の手足はぴくりとも動かなくなった。

「じゃ、お疲れさんのさよならさん」

 軽く。日常会話と変わらない口調。
 七篠が両手で注連縄を強く引き、霊力を流したのを最後に。

「――――――ァ」

 ぼしゅう。そんな音を残して、最大にして最難であったあやかし……不巫怨口女は。
 祓い屋の手により、この世から姿を消し去られた。

「一丁上がり、ってな」

 七篠は地面に落ちた注連縄を見下ろし、完全に目標が消え去ったのを確認する。
 怨念の塊だった妖怪の消滅と共に、辺りに充満していた瘴気も綺麗に無くなった。

「ん?」

 からん。小さな音と一緒に、先程まで不巫怨口女が居た場所に何かが落ちた。
 七篠は注連縄を纏めながら歩き、拾い上げてみるとそれは竹櫛たけぐしだった。

「ああ、そう言えば元々はこれに封印されてたんだったか」

 華やかな装飾は無く、黒一色で漆塗りされた小さな竹櫛。
 かなり古い物で所々が剥げ、漆塗りの特徴である光沢は殆んど無い。

「依頼完遂の証拠として貰っとくか。二重依頼を平気でやる依頼主だ、難癖を付けてきて報酬を下げてくる事も考えられる」

 七篠は革ジャンの胸ポケットに竹櫛を仕舞い、入れ替わる形で煙草の箱を取り出した。
 一本の煙草を口に咥え、銀色のジッポで火を着けて煙を楽しみ始める。

「大仕事を終えた後の一服はうまいわー」
「大仕事だぁあ? おいしいトコだけを横取りしただけのクセに、よく言うじゃねぇか」

 自分へ鞭を打ち、重くなった体を引き摺って。供助は七篠へと怒りが籠った言葉を投げる。
 体力も残り僅かで、体中に痛みが走る。それでも供助の眼の鋭さは、眼光は衰えていない。

「言ったろ。今回は二重依頼である以上、早い者勝ちだ。横取りした俺をどうこう言うよりも、それを許した自分の未熟さを恨むんだな」
「あぁ、ここまで自分の馬鹿さを恨んだのは初めてだよ。けどよ、それが誰かを傷付けていい理由にはならねぇな」
「相棒の妖怪ちゃんの事かい? 腕を切り落とされなかっただけでも有り難いと思って欲しいねぇ」

 むしろ気を使ってやったんだと。七篠は肩を竦ませながら、やれやれと呟く。
 他人事のような言動、立ち振る舞い。供助の怒りはさらに煽られていく。
 もし体調が万全の状態だったならば、感情のままに今この場で殴りかかっていただろう。

「っと、無駄話をしてないでさっさとおいとまするか。除霊以外の面倒な事は俺の仕事じゃないんでな」

 七篠は注連縄を定位置のベルトのホックに掛け、口に咥えた煙草からは長くなった灰が形を崩した。

「それじゃあな、少年」

 右手をぷらぷらと振り、七篠は校舎裏のフェンスを越えて雑木林の中へと消えていった。
 その場に残された煙草の臭いが鼻を突き、供助は収まらず向け場のない怒りに、ただただ奥歯を噛み締めるしかなかった。

「古々乃木君、猫又さん、大丈夫っ!?」
「委員長……無事じゃあねぇけどまぁ、こうして五体満足だ」

 供助は祓い屋への憤怒を飲み込み、駆け寄ってきた和歌へと振り返る。
 七篠の行いは許せるものでは無いが、今は不巫怨口女を祓えた事を喜ぼう。それだけで充分な結果である。

「太一と祥太郎は?」
「まだ動くのは辛いみたいだけど、意識は戻って話せるまで回復してる」
「そうか、良かった……」

 供助は小さく息を吐き出し、安堵する。
 無理をしてまで助けてくれた二人の友人が、そのせいで体力を消費して危ない状況に陥っていた。
 助けてくれた事への感謝もあれば、それ以上に自分が原因で危険な目に逢わせてしまったという罪悪感が強く心に伸し掛っていた。
 だがそれも、二人が死なず無事に気を取り戻した事で胸を撫で下ろした。

「猫又さん、腕から血が……っ!」
「大丈夫、だの。傷自体、は、大したものでは……な、い」

 猫又の腕には小さな穴が空けられ、七篠に付けられた傷口から少量の血が流れ出ていた。
 滴る血を見て和歌が心配し、裸の猫又に着ていたジャージの上着を掛けてやる。

「もう少し経てば増援が来る。その中に救護員も居る筈だ。それまで耐え……」
「いや、すまん。供助……限界だ、の」
「おい、猫又……くっ」

 ぼふんと煙を上げ、猫又の背中に掛けられていたジャージがひらひらと地に落ちた。

「猫又さんが、消え……っ!?」
「安心しろ。猫の姿に戻っただけだ」

 供助が地面に落ちたジャージを捲り上げると、その下に黒猫の姿になった猫又がいた。
 妖力を完全に底を突き、人間の姿を留めておく事も不可能になり、少しでも回復を早める為に元の姿である黒猫に戻った。
 かなりの無理をした反動もあり、猫又は猫の姿になっても苦しそうで呼吸も荒い。だが、もう妖力を消耗する心配は無い。安静にしていれば次第に良くなっていくだろう。

「古々乃木君、さっき話していたあの赤い髪の人は誰なの……?」
「簡単に言や、ありゃ同業者だ。不巫怨口女に止めを刺すのを隠れて待ってたんだとよ。お陰で報酬は貰えねぇでタダ働きだ」
「あんなに古々乃木君と猫又さんが頑張って戦っていたのに……」
「奴に邪魔されたのは腹ぁ立つが……ま、委員長達が死なずに済んだなら充分だ」

 色々とアクシデントはあったが、学校に訪れた危機は去った。張っていた緊張の糸も緩み、供助は溜め息を吐いて前髪を掻きあげる。
 力み、握り、殴りまくった両手。大きく開いてみると、曲げっぱなしだった指の関節が痛む。
 戦闘で受けた傷に比べれば屁でもないと、供助は痛みに耐えながら商売道具である軍手を手から外した。

「古々乃木君」
「あん?」

 供助は肌に付いた軍手の網目を眺めながら、筋肉が張ったままの指をストレッチしていると。
 隣にいた和歌から名前を呼ばれ、供助が振り向く。

「私達を助けてくれて……守ってくれて、ありがとう」

 和歌は優しく微笑んで、そう言った。
 ずっと昔、もう何年も前の思い出。花火帰りに助けてくれた、あの時のように。
 自分の身をていし、危険を冒して戦ってくれた幼馴染へ。心からの感謝を口にした。

「……ちっ、疲れ過ぎて余計な事を言っちまった」

 そこで、供助は自分がらしくない事を言ったのに気付き、和歌から目線を外して頭をぶっきらに掻いた。
 委員長達が死なずに済んだだけで充分だ、なんて。普段じゃ決して言わない台詞を漏らしてしまった。
 いつも怠惰感を出して、他人に興味がなさそうな態度。そんな自分がガラにもない事を言ってしまったと、供助は自分の不覚から後悔と気恥かしさにさいなまれる。
 だがそれも、供助が通う高校を襲っていた驚異が去り、友人も無事に助ける事が出来た安心と安堵からである。
 少し離れた所で座りながら手を振っている二人の友人が目に入り、供助は小さく笑って。
 なんとか難題を解決できた実感と達成感を噛み締めながら、重く感じる腕を上げて手を振って返した。
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