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第39話 明の容態
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第五章 世 界 編
古波蔵 政彦との試合後、明の目の違和感を検査するため、一行は都内にある歓応(かんのう)私塾(しじゅく)大学医学部付属病院にて検査を受けることとなった。明は目が霞み、ほとんど目が見えていないような状態である。検査の後、五十嵐だけが呼び出され、別室にて話を聞くこととなった。30代前半といったところであろうか、精悍な顔つきの男性が部屋へと入って来た。
「今回、明くんの主治医を務めさせて頂く、堺(さかい) 天(たかし)です。今から明くんの症状について説明させて頂きます」
「先生、状態はどうなんですか。あいつは今、大事な時期なんです。何かあったら困るんです」いつもは冷静な五十嵐だが今回ばかりは焦りの色を隠し切れない。
「お父さん、大変申し上げ難いのですが、明くんは『白内障』を患っています」
白内障は水晶体を構成する蛋白質であるクリスタリンと呼ばれる物質が集まることで変性し、白色または黄白色に濁ることで発症する病である。根本的な原因は21世紀初頭になっても解明されておらず、水晶体の細胞同士の接着力が弱まったり、水分の通りが悪くなったりして起こるのではないかと言われている。発症は45歳以上の中年に多いのだが、明の場合はなんらかの原因により、18歳という若さで症状が出てしまったようだ。
昭和60年において、白内障は不治の病ではない。だが、手術をすることが患者にとって大きな負担になることが多いことに加え、国内では水晶体を取り除いても、代わりのレンズを入れることが法律で許可されていなかった。1980年代の一般的な白内障手術は、濁ってしまった水晶体を凍らせて丸ごと取り出す『水晶体全摘出』であった。
レンズの働きをする水晶体を取ってしまうので、水晶体の度数に相当する虫メガネのような分厚いレンズのメガネをかけなければならなかった。それはつまりボクサーにとっては『現役生活の終わり』を意味する。五十嵐は明の身に起こったことを重く受け止め、父親でないと否定することも忘れ、堺の腕に縋りついた。
「先生、治るんですよね。いや、治してもらわなくては困る。必要なら私の目を代わりにやってもいい。あいつは今から世界チャンピオンになる男だ。こんなところで終わらせる訳にはいかないんです」
顔面蒼白の五十嵐に対し、堺は取り乱すことなく落ち着きを保ったまま答える。
「息子さんの大切な身体のことです。必死になるのも無理はないことですよね。手術自体は問題なく行えるでしょうが、今の医学では明くんにボクシングを続けさせてあげることはできません。ですが、一つだけ光明が――」
「何ですか、それは?それが叶うなら私はどんなことだってします」
「現在、国内の眼科医たちは『眼内レンズ』というものの認可が下りるのを待っています。それは人間の目の水晶体に代わるもので、それさえあれば明くんの目を治せるのですが、後どれくらい時間が掛かるか――」堺にも歯がゆい思いがあるのであろう。
「そんな――明にはボクシングが必要なんです。どうすれば――」
「当院は国内でも有数の最先端医療が受けられる病院です。使用が許可され次第、すぐに連絡を入れます。今、日本医学界の発展のために多くの人が心血を注いでいます。だからこそ約束します。近い将来 『眼内レンズ』は――必ず認可される日が来ると」
「その言葉、信じて待っています」堺医師の強い言葉で五十嵐の目に光が戻った。
“どんなに時間が掛かってもいい、明にもう一度ボクシングをさせてやりたい”五十嵐は強くそう思った。
「嫌だ、今すぐ手術してくれ。俺は今、絶好調なんだ。ロビンソンの奴だって絶対に倒せる自信があるんだ」聞き分けが良くないことなど承知の上だった。
それでも言うべきことは先延ばしにしてはいけない、五十嵐はそう判断した。
「明、お前の気持ちはよく分かる。だが、今はまだ耐えるしかない。手術をしようにも肝心のレンズがないんだ」普段見せないような『圧』を掛けるような話し方で言った。
「うるせえ。じゃあ元の不良に逆戻りか?今までの努力は無駄だってのかよ?」
「そうは言っていない。堺医師は約束してくれた。近い将来、必ず『眼内レンズ』の認可が下りると。それまで待つんだ」
「もういい、ジムに帰って練習する。この状態でも、俺は世界チャンピオンになってみせる」
言い出したら聞かないのは誰の目にも明白だった。それから毎日、明はミットを叩き続けた。ひと月たち、またひと月経っても、状況は一向に良くならなかった。ジムに行っては基礎練をする。そんな日々が長く続いた。
「大丈夫だよ。きっと、認可が下りる日が来るよ。明くん、今までもの凄い努力して来たもん。神様は絶対見てくれてるよ」秋奈にはもう励ますことしかできなかった。
だが、明には、その優しさを汲んでやれるだけの余裕がなかった。
「そんなこと言ったって、いつになるか分かんねえだろ。こうしてる間にも勘はどんどん鈍って行っちまってるし、俺には時間がねえんだ。世界に挑むってのは、それほどに過酷なもんなんだ。余計な口挟まないでくれよ」
酷いことを言ったとは思った。けれど、不器用な彼には他の言い方ができなかった。
「明くん――」当人も限界であろう明に、秋奈は掛ける言葉が見つからなかった。
白内障は放置するとやがて眼の中の『水晶体』が膨らみ、前方にある『角膜』との間にある『虹彩』という部分を後ろから押し上げる。それから、眼球内の『房水』と呼ばれる水が排出される『隅角』という部分が狭くなり、完全に塞がると眼圧が一気に上昇する。
結果的に緑内障を引き起こし、『急性緑内障発作』として頭痛、眼痛、吐き気を伴いだす。そして、緊急手術をする頃には視野の欠損がみられることが多く、欠けた視野は二度と元には戻らない。
眼の中の水晶体が白く濁り、物が霞んだりぼやけたりして見える『白内障』と、眼圧が上がることで視神経に障害が起こり、欠けてしまう『緑内障』。古くは白底翳、青底翳とも呼ばれ、似たような名前だが、その結末は大きく違ったものになっている。一般人にとっても視野の欠損は、その生活に支障を来すことはほぼ間違いない。
ましてや、一瞬の攻防で勝敗が決するボクサーにとって、『見えない部分がある』ということは致命的な欠陥になり得る。世界レベルで闘う選手なら尚のことだ。早急な治療が必要ではあるが、この時代には見えなくなるまで待ってから手術をすることも多かった。
「辛いと思うから、今は無理しないでね」
秋奈はもっと言いたいことがあったが、それ以上は何も言わないでおこうと決めた。それから半年間、この病魔は明たちの日常に暗い影を落とした。
古波蔵 政彦との試合後、明の目の違和感を検査するため、一行は都内にある歓応(かんのう)私塾(しじゅく)大学医学部付属病院にて検査を受けることとなった。明は目が霞み、ほとんど目が見えていないような状態である。検査の後、五十嵐だけが呼び出され、別室にて話を聞くこととなった。30代前半といったところであろうか、精悍な顔つきの男性が部屋へと入って来た。
「今回、明くんの主治医を務めさせて頂く、堺(さかい) 天(たかし)です。今から明くんの症状について説明させて頂きます」
「先生、状態はどうなんですか。あいつは今、大事な時期なんです。何かあったら困るんです」いつもは冷静な五十嵐だが今回ばかりは焦りの色を隠し切れない。
「お父さん、大変申し上げ難いのですが、明くんは『白内障』を患っています」
白内障は水晶体を構成する蛋白質であるクリスタリンと呼ばれる物質が集まることで変性し、白色または黄白色に濁ることで発症する病である。根本的な原因は21世紀初頭になっても解明されておらず、水晶体の細胞同士の接着力が弱まったり、水分の通りが悪くなったりして起こるのではないかと言われている。発症は45歳以上の中年に多いのだが、明の場合はなんらかの原因により、18歳という若さで症状が出てしまったようだ。
昭和60年において、白内障は不治の病ではない。だが、手術をすることが患者にとって大きな負担になることが多いことに加え、国内では水晶体を取り除いても、代わりのレンズを入れることが法律で許可されていなかった。1980年代の一般的な白内障手術は、濁ってしまった水晶体を凍らせて丸ごと取り出す『水晶体全摘出』であった。
レンズの働きをする水晶体を取ってしまうので、水晶体の度数に相当する虫メガネのような分厚いレンズのメガネをかけなければならなかった。それはつまりボクサーにとっては『現役生活の終わり』を意味する。五十嵐は明の身に起こったことを重く受け止め、父親でないと否定することも忘れ、堺の腕に縋りついた。
「先生、治るんですよね。いや、治してもらわなくては困る。必要なら私の目を代わりにやってもいい。あいつは今から世界チャンピオンになる男だ。こんなところで終わらせる訳にはいかないんです」
顔面蒼白の五十嵐に対し、堺は取り乱すことなく落ち着きを保ったまま答える。
「息子さんの大切な身体のことです。必死になるのも無理はないことですよね。手術自体は問題なく行えるでしょうが、今の医学では明くんにボクシングを続けさせてあげることはできません。ですが、一つだけ光明が――」
「何ですか、それは?それが叶うなら私はどんなことだってします」
「現在、国内の眼科医たちは『眼内レンズ』というものの認可が下りるのを待っています。それは人間の目の水晶体に代わるもので、それさえあれば明くんの目を治せるのですが、後どれくらい時間が掛かるか――」堺にも歯がゆい思いがあるのであろう。
「そんな――明にはボクシングが必要なんです。どうすれば――」
「当院は国内でも有数の最先端医療が受けられる病院です。使用が許可され次第、すぐに連絡を入れます。今、日本医学界の発展のために多くの人が心血を注いでいます。だからこそ約束します。近い将来 『眼内レンズ』は――必ず認可される日が来ると」
「その言葉、信じて待っています」堺医師の強い言葉で五十嵐の目に光が戻った。
“どんなに時間が掛かってもいい、明にもう一度ボクシングをさせてやりたい”五十嵐は強くそう思った。
「嫌だ、今すぐ手術してくれ。俺は今、絶好調なんだ。ロビンソンの奴だって絶対に倒せる自信があるんだ」聞き分けが良くないことなど承知の上だった。
それでも言うべきことは先延ばしにしてはいけない、五十嵐はそう判断した。
「明、お前の気持ちはよく分かる。だが、今はまだ耐えるしかない。手術をしようにも肝心のレンズがないんだ」普段見せないような『圧』を掛けるような話し方で言った。
「うるせえ。じゃあ元の不良に逆戻りか?今までの努力は無駄だってのかよ?」
「そうは言っていない。堺医師は約束してくれた。近い将来、必ず『眼内レンズ』の認可が下りると。それまで待つんだ」
「もういい、ジムに帰って練習する。この状態でも、俺は世界チャンピオンになってみせる」
言い出したら聞かないのは誰の目にも明白だった。それから毎日、明はミットを叩き続けた。ひと月たち、またひと月経っても、状況は一向に良くならなかった。ジムに行っては基礎練をする。そんな日々が長く続いた。
「大丈夫だよ。きっと、認可が下りる日が来るよ。明くん、今までもの凄い努力して来たもん。神様は絶対見てくれてるよ」秋奈にはもう励ますことしかできなかった。
だが、明には、その優しさを汲んでやれるだけの余裕がなかった。
「そんなこと言ったって、いつになるか分かんねえだろ。こうしてる間にも勘はどんどん鈍って行っちまってるし、俺には時間がねえんだ。世界に挑むってのは、それほどに過酷なもんなんだ。余計な口挟まないでくれよ」
酷いことを言ったとは思った。けれど、不器用な彼には他の言い方ができなかった。
「明くん――」当人も限界であろう明に、秋奈は掛ける言葉が見つからなかった。
白内障は放置するとやがて眼の中の『水晶体』が膨らみ、前方にある『角膜』との間にある『虹彩』という部分を後ろから押し上げる。それから、眼球内の『房水』と呼ばれる水が排出される『隅角』という部分が狭くなり、完全に塞がると眼圧が一気に上昇する。
結果的に緑内障を引き起こし、『急性緑内障発作』として頭痛、眼痛、吐き気を伴いだす。そして、緊急手術をする頃には視野の欠損がみられることが多く、欠けた視野は二度と元には戻らない。
眼の中の水晶体が白く濁り、物が霞んだりぼやけたりして見える『白内障』と、眼圧が上がることで視神経に障害が起こり、欠けてしまう『緑内障』。古くは白底翳、青底翳とも呼ばれ、似たような名前だが、その結末は大きく違ったものになっている。一般人にとっても視野の欠損は、その生活に支障を来すことはほぼ間違いない。
ましてや、一瞬の攻防で勝敗が決するボクサーにとって、『見えない部分がある』ということは致命的な欠陥になり得る。世界レベルで闘う選手なら尚のことだ。早急な治療が必要ではあるが、この時代には見えなくなるまで待ってから手術をすることも多かった。
「辛いと思うから、今は無理しないでね」
秋奈はもっと言いたいことがあったが、それ以上は何も言わないでおこうと決めた。それから半年間、この病魔は明たちの日常に暗い影を落とした。
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