小武士 ~KOBUSHI~

崗本 健太郎

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第30話 五十嵐の思い

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 それから一ヶ月間、五十嵐は前々から考えていた『二つの方法』を明に試してみたが、やはりと言うべきか、明には最初に思っていた方法が性に合っているようであった。
「一ヶ月よくぞ耐え抜いた。普通の奴なら一週間と持たずに逃げ出すところを、弱音一つ吐かないとは見上げた根性だ」五十嵐は褒めて伸ばす方を選んだようだ。

「へへっ。ロビンソンに勝つためだ。リベンジマッチは絶対に俺の勝ちで決めなくちゃいけねえからな」
「良い心掛けだ。その意気だぞ。そこで今日から新たに本格的な実戦練習を加えて行く。『スマッシュ』と『クロスアームガード』と『拳圧』極めつけに『マスボクシング』の練習だ」
「ついにこの時が来たか。よろしく頼むぜ」
「ああ。では説明から入る」
「ボクシングでは広背筋でストレート、大胸筋でフックとアッパーを打つんだ。つまり、スリークオーター、フックとアッパーの中間の『スマッシュ』は、大胸筋を使う技が得意なお前にはピッタリの技って訳さ」更に五十嵐は付け加える。

「打ち方だが、全身の力を抜いて一気に『インパクト』まで持って行く。この時に少し掬い上げるような形で衝撃を加えろ。掛ける体重は7から8割でいい。それよりも確実に相手の心臓を貫き、その鼓動を封殺するんだ」
 五十嵐は鋭いシャドーで『スマッシュ』を見せてくれている。
「どうやったら遠心力が掛かるか。アングル、タイミングに気を付けて、残りの一ヶ月間、研究に研究を重ねるんだ。大技の後には必ず小さな隙ができる。それを見逃さず『スマッシュ』を打ち込め」
高等技術であるため口頭での伝達は難しい筈だが、五十嵐は難なく説明できている。

「リラックスして、インパクトの瞬間に一気に力を込めろ。一流選手なら皆やっていることだ。野球選手がガムを噛んでいるのは、そういう理由だ」五十嵐は更に続ける。
「『クロスアームガード』は、左手を前にして横に、右手を後ろにして縦にしろ」
五十嵐は実際に構えてみせた。
「防御技として鉄壁にして最強。これ以上ない技だと俺はその戦歴において確信している」一つ息をした後、五十嵐は言葉を続けた。

「最後に『拳圧』だが、これは生まれつき種類は決まっている。『巧圧』『重圧』『鋭圧』の順に珍しく、才能があるという寸法だ」
興が乗って来たのか、五十嵐は順調に語っている。
「手前味噌だが『巧圧』を持つ者は少ないんだ。まさに『選ばれし者』という訳だな」   
五十嵐は少々誇らしげに話す。

「負ける筈がないというところまで作り込んで行け。自分が、技が、世界水準のものであるか常に意識しろ。武士(もののふ)の心根を持て」これを聞いて明は黙って頷いた。
「それから、スタイルは今まで通り『オーソドックススタイル』で行く。なぜオーソドックスなスタイルが王道と呼ばれ、一番強いか分かるか?一番強いスタイルが勝ち続け、王道となるからだ。まさにチャンピオンになる近道って訳さ」五十嵐は更に話を続ける。

「知識については、何度も何度も説いて行く。それこそ寝言で呟くくらいにな」
 一通り話が終わったところで、五十嵐は一つ深呼吸をした。
「ここまで静かに聞いてくれた訳だが、何か質問はあるか?」
 暫し沈黙が訪れたが、明は思い切ったように話し始めた。

「五十嵐さん、前から気になっていたんだが、なんで俺なんかにボクシングを教えてくれたんだ?もっと優秀な奴だっていたんだろ?」
 明は長年の疑問をぶつけ、それに対して五十嵐は少し改まって話し始める。
「簡単な理由さ。それはな――昔の自分に似ていたからだ。お前を見ていたら、同じ年頃の時分、苦しかった時期を思い出した。だからこそ、何としてでも更生させてやりたかったのさ」明は驚いて目を見開く。
「五十嵐さんにもそんな時代があったのか。とてもそうは見えないぜ」
 五十嵐はまたいつものように不敵な笑みを見せると懐かしそうに話した。

「お前がやったくらいの悪いことは、一通りやったさ。『浦和の暴れん坊』と呼ばれていた頃が昨日のことのように思える」五十嵐は遠い目をしてそう答えた。
「さて、それではラドックのビデオでも見せるかな」
 照れ隠しの意味合いもあるのだろう。五十嵐は意図して話題を変えた。
「らどっく?誰だそりゃ」
明も同じ気持ちであったのだろう。素直にその話題に乗って来た。

「ドノバン・ラドック。『スマッシュ』の生みの親さ。ジャマイカ生まれのカナダ人ボクサーだ。惜しくも世界王者には届いていないが、ヘビー級を制するまで、あと僅かだと考えている者も少なくない」
 そう言いながら五十嵐はデッキにビデオを入れ、映像を流し始めた。その光景を明は食い入るように見つめる。
「これって本来、左手で打つもんなんじゃねえか?いいのかよ、右手で練習してて」
 俄かに五十嵐の顔付きが変わる。

「良い質問だ。左手より右手で打った方が心臓までの距離が近い。つまり、瞬速の型である『ハート・ブレイク・スマッシュ』を俺よりも使い熟せる毛色があるということさ。決め技は利き手で打った方が良いからな」明は妙に納得して話す。
「そうだったのか。だけど、本当に良い技だよな。これさえあればロビンソンの野郎にも負けなかったってのによ」五十嵐は微かに眉を潜めた。
「お前はロビンソンに負けたのではない、自分に負けたんだ。自分を律することのできない者は対戦相手と向き合うまでに至らないからな」
 厳しい言葉だが、明は戒めとして聞き入れることにした。

「確かにその通りかもな。けど、黒星が付いちまったのは、はっきり言ってショックだったぜ」五十嵐はまたしても明を諭すように語る。
「負けた時に失態だ、汚点だと考えているようだと二流だな。誰に負けても不思議じゃない。俺なら例えデビュー戦のボクサーでも全力で闘うぞ」
 その言葉に明はひどく感銘を受けた。

「そうだな。油断や慢心は何よりも自分を狂わすもんだよな。だけど俺も、早く五十嵐さんみたいな最強のチャンピオンになりたいぜ」
 男にとって『最強』とは言われて悪い気のする言葉ではない。
「目指してくれるのは、有難いことだな。まあ俺的には尊敬するボクサー『黄金のバンタム』エデル・ジョフレのようになってほしいものだがな。勝ち負けを超えて強い者を称賛できる姿こそ、ボクサーとしてあるべき姿だと思う」
 そうは言っても、五十嵐はどう見ても喜んでいる。

「エデル・ジョフレか。その人なら俺でも知ってるぜ。ビデオで見た、何度でも立ち上がる姿は、本当に男らしかった」
 最近、明は熱心に研究に打ち込んでいる。それが花開く日も近い事であろう。
「ダウンしていても、ポイントで巻き返せる。諦めるなんてことは、勝負の世界では、あってはならない愚行なのさ。それは良いVTRを見たものだな」
 五十嵐も素直に明の成長が喜ばしかった。

「ああ。あんな風に強くなれるんだったら、どんな試練にだって耐えてみせるぜ」
 少し大げさな表現だが、本心であろう。それほど明はボクシングに入れ込んでいた。
「良い心掛けだ。だが、強さと引き換えに大切なものを失ってはいけない。俺はそういう奴を何人も見て来た。ボクサーたる者、大切な人を守るために力を振るうような者であるべきだ」
 賛同してはいるものの、五十嵐は明のためになることなら何でも話す気概であった。

「そうだな。だけど大切な人ってどういう人のことなんだ?周りの人とかそんな感じなのか?」漠然と考えてはみたものの、曖昧な答えしか出ないので納得が行かない。
「それは半分正解で半分誤答だ。人間という生き物は、価値がないと判断した者に対しては恐ろしく冷たくなれるものなんだ。地位を失った途端、蜘蛛の子を散らすように取り巻きが居なくなるなんてのはよくある話さ。負けた時、苦しい時に側に居てくれるのが本当の仲間なんだ。そういう人だけを大切にしろ」五十嵐は己の来た道を思い返していた。
「なるほどな。調子の良い時だけ擦り寄って来て、借金抱えたら逃げて行くような女は特にそういう傾向が強いのかもな」
 明は何も考えていないようで、妙に本質を見抜く時がある。

「そうだ。良い女というのは、どんな時も裏切らず、自分を高めてくれる女だ。心当たりがない訳ではなかろう」五十嵐は少し揶揄うように言った。
「まあな。今回も心配掛けちまったし、もう二度と負けたくねえ。その為にはもっともっと自分を追い込まねえとな」明は否定するでもなく、思いの丈を語った。

「その通りだ。だが、一つの失敗、不運で、努力が無に帰すこともある。どれほど積み重ねても、天賦の才に勝てぬこともある。だが、忘れるな。全力でやった時、命を懸けて挑んだ時、そこに必ず後悔はない。何があっても手を抜く奴にだけはなるな」
 明は黙って集中しながら話を聞いている。

「今日頑張ったら明日笑顔でいられる。今日手を抜いたら明日泣顔になる。苦しさを乗り越えた者だけが、真の勝者となれるんだ」
 五十嵐もそれに応えるように力を込めて話し続ける。
「今が一番悩む時期だろう。だが、悩まないと強くなれないもんなのさ。苦しさを乗り越えた時、一皮剥けた存在になれるんだ」明は一言一言噛み締めるように聞いている。

「負けることを恐れては大儀は成せない。序列で言ったら『勝った』『負けた』『やらなかった』だ。逃げなかったということがいつか、大きな自信となる」
 五十嵐は良い機会だからと、ここぞとばかりに持論を展開する。
「あとは、相手の弱点を責めるのは定石だ。情けだなんだ言ってる奴は、永久に勝ちを拝めない甘ちゃんなのさ」
少し眠たくなって来たのであろう、明は頷くことで返事に代えている。

「毎朝卵5個と鶏のササミを食べるのだけは忘れるな。食を正すことも一流であることの条件だからな。とまあ今日はこれくらいにしておくか」
 ボクサー同士で話は尽きることがなかったが、その日は早めに切り上げることにして床に就いた。
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