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パン屋になりました

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 静かに降り続く雨の音が、私の心に重くのしかかる。

 婚約破棄――その言葉が頭の中をぐるぐると巡り、胸に鋭く突き刺さる痛みが再び蘇る。まさか、あの優しかった彼が、私にこんな仕打ちをするなんて。結婚の準備を進める中で、一瞬でも不安に思ったことはあっただろうか。いや、あったはずだ。少しずつ距離を感じていたことも、彼の視線が私ではなく別の方向を見つめていることに気づいていた。それでも、私は見ないふりをしていた。これが現実になるなんて、信じたくなかった。

 その日の朝、彼は私に別れを告げた。冷たい声で、婚約を解消すると。

「君とはもうやっていけない」

 その言葉が、私の全てを否定するように響いた。家族や友人たちにどう顔を向ければいいのか、世間の噂にどう対処すればいいのか。すべてがぐるぐると頭を巡り、足元がふらつくような感覚に襲われた。

 何も手に付かず、食欲もないまま、時間だけがただ過ぎていった。そんな私を心配してか、使用人たちは気を使って食事を用意してくれるのだが、口にする気力も湧かない。それでも、無理にでも何かを食べないと身体が持たないということは理解していた。そんな時、キッチンからいい香りが漂ってきた。温かくて、甘い香り。何の香りだろう、と自然と体が動いた。

「お嬢様、もしよろしければこれを召し上がってください」

 使用人のひとりが、木のトレーに乗せたパンを私の前に差し出した。まだ温かいそのパンは、ふっくらと焼き上がり、表面にほんのりとバターが輝いている。

「パン?」

 思わず声に出すと、使用人は少し恥ずかしそうに微笑んで答えた。

「今朝、キッチンで焼いたものです。お口に合うかわかりませんが、少しでも気分が晴れればと思いまして」

 私は戸惑いながらも、そのパンを一口だけ試してみることにした。小さな一片をちぎり、そっと口に運んだ。

 その瞬間、驚きが走った。

 ふわっとした柔らかさと、噛むたびに広がるバターの風味。温かくて、優しい甘さが口いっぱいに広がる。何も考えられず、ただ夢中でそのパンを食べ続けていた。ひとつ、またひとつと、手が止まらない。涙が自然とこぼれてきた。それは、悲しさからではなく、心の奥底から湧き上がる安堵感のようなものだった。

 パンがこんなにも心を癒してくれるものだとは思わなかった。

「こんな美味しいパンを、あなたが作ったの?」

 驚きと感謝の気持ちを込めて聞くと、使用人は照れ臭そうに頷いた。

「はい。私たちのキッチンで作っています。お嬢様が気に入ってくださるとは思いませんでしたが…本当に良かったです」

「すごいわ…本当に」

 こんなにも美味しいパンが、自分の家で作られていたとは。それだけでなく、何もかもが崩れそうな今の私を、ほんの一瞬でも救ってくれたのだ。

「私も…」

 突然の思いつきに、自分でも驚いた。

「私も、パンを作ってみたい」

 使用人は目を見開いて私を見つめた。

「お嬢様が?」

「そうよ。こんなにも心が温かくなるなんて、私もこんなパンを作ってみたい。私も、誰かの心を癒せるかもしれない。婚約破棄なんて、もうどうでもいい。私にも、新しい道があるかもしれない」

 自分の声が不思議と力強く聞こえた。心のどこかで感じていた絶望が、ほんの少しだけ、希望の光に変わっていくような気がした。

 私は使用人に頼んで、さっそくパン作りに挑戦することにした。キッチンに入ると、広々とした空間が目の前に広がり、普段は使用人たちが忙しく立ち回るこの場所が、今は私だけの特別な領域に感じられた。パン作りの道具が整然と並んでおり、全てが新鮮で、少し緊張感が漂う。

「さて、始めましょうか」

 使用人が準備してくれたレシピを手に取り、私は深呼吸をして生地作りに取りかかった。まずは、強力粉をボウルに入れ、砂糖、塩、ドライイーストを加える。粉を混ぜる感覚は意外と心地よく、すでに何かが始まる予感がしていた。次にぬるま湯と牛乳を少しずつ加えながら、生地を混ぜていく。木のスプーンでぐるぐると混ぜると、だんだんと生地がまとまり始め、手に粘り気が伝わってきた。

「これがパンの生地か…」

 私の手の中で生まれる感触に、わずかな興奮が走る。次はこの生地を捏ねなければならない。両手で生地をつかみ、テーブルの上で押し伸ばす。力を込めて捏ねると、生地は徐々に弾力を帯びていくように感じた。しかし、それと同時に私の腕が疲れてきた。パンを作るのは、思ったよりも体力を使う作業だ。

「まだ、こんなものなの?」

 何度も捏ね続けるうちに、生地が少しべたついてきた。使用人のように美しく滑らかな生地にはならない。何かが違う気がする。

「これで本当にいいのかしら…」

 疑念が湧き上がる。粉の量を間違えたのか、もしくは捏ねる時間が足りないのか。そんなことを考えているうちに、もう一度生地をこね直そうとしたが、うまく伸びてくれない。まとまるどころか、手にくっついて離れなくなってきた。

「困ったわね…」

 焦り始めた私の姿を見て、使用人がそっと近づいてきた。

「お嬢様、無理をなさらないでください。パン作りは難しいですし、最初からうまくいかないことも多いものです」

「でも…こんなにベタベタするなんて、想像してなかったわ」

 私は、生地が手にまとわりつく感触に嫌気がさしながらも、なんとか形を整えようと奮闘していた。しかし、何をどうしても滑らかな生地にはならない。むしろ、余計にひどい状態になっているような気がする。

「うまくいかないわね…」

 結局、焼き上がったパンは見た目も食感も使用人が作ったものとは程遠い。表面が固く、中は妙に詰まっていて、何とも言えない重苦しいパンになってしまった。

「どうしてうまくいかないのかしら…?」

 肩を落としながら、私は失敗作のパンを見つめた。パンを作ることがこんなに難しいとは思わなかった。まるで婚約破棄のように、私の希望を打ち砕くかのようだ。

 そんな私の様子を見て、使用人は少し考えた後、口を開いた。

「お嬢様、もしよろしければ、近くにパン教室があるのですが、そちらに通われてみてはどうでしょうか? プロの方が基礎から教えてくださると思いますし、パン作りがもっと楽しくなるかもしれません」

「パン教室?」

「はい。評判も良く、初心者の方でも安心して通える場所だと聞いております。お嬢様に合うかもしれませんよ」

 私はその提案に耳を傾けた。確かに、今のままでは独学でやっていくのは難しいかもしれない。きちんと学んでみるのも悪くないかもしれない、と考え始めた。

「行ってみようかしら」

 少し不安もあったが、新しい挑戦に対する期待が心の中で膨らんでいく。

 そして、後日、私はパン教室へ向かうことに決めた。ドアを開けると、そこには多くの人々が集まっていた。

 ほんのりと甘い香りが鼻をくすぐり、私の緊張した気持ちを少しだけ和らげてくれた。室内には、大きな作業台を囲むように集まった人々が、楽しげに談笑している。その光景に、少し緊張しながらも、温かい雰囲気が伝わってきた。

 教室全体に漂う和やかな空気は、どこか居心地がよく、日々の苦しみを忘れさせてくれる。講師の女性が柔らかい笑顔で教室の中央に立ち、皆に声をかける。

「皆さん、今日はパン作りにようこそ。リラックスして楽しみながら学んでくださいね。失敗しても大丈夫ですから、まずは楽しむことが一番大切ですよ」

 その言葉に、少し肩の力が抜けた。ここでは、失敗しても笑って過ごせる場所なのかもしれない、とほっとした気持ちになった。講師が、今日のレシピと作り方の流れを丁寧に説明し始める。

「まず、今日は基本的な丸パンを作ります。材料はシンプルですので、気軽にチャレンジしてくださいね」

 材料が一つ一つテーブルに並べられ、目の前には、さっそく大きなボウルと強力粉、イースト、塩、砂糖などが置かれた。講師がゆっくりと実演しながら、パン作りの基本を教えてくれる。

「まず、強力粉をボウルに入れて、イーストと塩と砂糖をそれぞれ加えてください。水を少しずつ加えながら混ぜていきます。焦らず、ゆっくりとね」

 私は言われた通りに、少しずつ水を加えながら生地を混ぜ始めた。しかし、ここでまた問題が発生した。生地が、なぜか全然まとまらない。前回の失敗が頭をよぎり、焦りの色が顔に浮かんできた。

「また失敗かしら…」

 隣を見ると、他の生徒たちはスムーズに進んでいるようで、私だけが手こずっている気がした。どうしてもうまくいかない。

 その時、講師がそっと私の肩に手を置き、優しく声をかけた。

「大丈夫ですよ、お嬢様。少しだけ水を多く入れすぎてしまったようですね。もう少し粉を加えてみましょう」

 言われた通りに少し強力粉を足して生地を混ぜていくと、今度はスムーズにまとまり始めた。講師が見守りながら手際よく指導してくれ、私は少しずつ自信を取り戻していった。

「そうそう、その調子です。生地がまとまったら、しっかりと捏ねていきましょう。パン作りは時間と愛情が必要ですから、焦らずにね」

 彼女の言葉に促され、私は両手で生地を押し伸ばしたり折り畳んだりして、リズムを掴みながら捏ねていった。最初の頃は力の加減がわからず、ただ無我夢中で捏ねていたが、講師が横から「少し力を抜いて、手のひら全体で押し出すように」とアドバイスをくれたおかげで、次第に手に伝わる感覚が変わっていった。

 生地が柔らかくなり、手に吸い付くような弾力が生まれる。

「すごい、少しずつ感覚がわかってきました」

 私の言葉に、講師が優しく微笑んで頷いた。

「ええ、その感覚です。パンは、捏ねることでグルテンがしっかりと伸び、焼き上がった時にふっくらと膨らみます。次はこの生地を休ませて発酵させましょう。温かい場所で少し寝かせて、ふっくらと膨らむのを待ちます」

 生地を休ませ、待つ時間。発酵の過程が進むのを見守る間、少しだけ心が穏やかになる。パン作りには、急がずに時間をかけて向き合うことが大切だと気づかされた。

 発酵が終わり、生地はぷっくりと膨らんでいた。そのふわふわとした手触りに、思わず笑みがこぼれる。再び軽く手を使って形を整え、オーブンで焼き上げる準備を進める。焼き上がりを待っている間、パン作りの達成感が少しずつ私を包んでいく。

 そして、オーブンから漂う香ばしい香りが、パンの焼き上がりを知らせた。

「うまくできた…!」

 丸くて、ほんのりと色づいたパンがそこにあった。まだ少し不格好かもしれないが、私にとっては初めて自分で作り上げた大切なパンだ。触れた瞬間、そのふんわりとした感触に驚いた。前回の失敗作とはまるで別物。

「これなら大成功ね」

 講師もにっこりと笑い、私のパンを褒めてくれた。その温かな言葉が、さらに自信をつけてくれる。

「お見事です、お嬢様。初めてとは思えないほど上手に焼き上がりましたよ。これからも楽しみながら作っていきましょうね」

 私も笑顔を返し、少しだけ未来が明るく見え始めた。そして、パン作りを通じて少しずつ自分の心が癒されていく感覚があった。

 その時、ふと隣の作業台に目を向けると、近くで作業していた青年がこちらに微笑みかけていた。

「すごいですね。初めてでこんなにきれいに焼けるなんて」

「ありがとうございます。でも、まだまだ初心者ですから…」

 少し謙遜しながら返すと、彼は軽く首を振った。

「いや、ほんとにすごいですよ。僕も最初は全然うまくできなかったし、何度も失敗してようやくこのくらいになったんです。何回も捏ねて、焼いて、失敗してを繰り返して。けど、その分だけ、焼き上がったパンが嬉しくなるんですよね」

 その言葉に私は少し驚いた。彼の手元には、私のパンよりも美しく形が整い、見事に焼き上がったパンがある。こんなにも上手に作れる人でも、初めは失敗を繰り返していたのだと知ると、少し気持ちが軽くなった。

「失敗しても、それがパン作りの楽しさの一部だってことですか?」

「そうです。失敗から学ぶことも多いし、何度も挑戦していくうちに、自然とうまくなってくるんです。だから、焦らなくて大丈夫ですよ。今日はこれだけうまくできたんですから、次はもっと上手くいきますよ」

 彼の励ましの言葉に、私は少し笑顔を浮かべた。失敗を恐れず、何度も挑戦してみようと思えるようになってきた。パン作りは、ただ技術を学ぶだけでなく、心の余裕や自信も育ててくれるものなのかもしれない。

「でも、あなたもとても上手ですね。ずっとパン作りをされているんですか?」

「いや、始めたのは半年くらい前です。最初は趣味で始めたんですけど、気づいたらはまってしまって。今では週に何度かこうしてパン教室に通っています。あなたも、これから続けていくと楽しくなりますよ」

 彼の話に耳を傾けながら、私は自然と笑顔がこぼれた。こんな風に、パン作りを通じて自分の生活に楽しみを見つけられるようになるのは素敵だと感じた。

「そうですね。私も、少しずつでもいいから続けてみようと思います」

「それがいいですね。何よりも、楽しむことが一番大切ですから」

 彼の言葉には温かさがあり、どこか安心感を与えてくれる。パン作りが失敗や試行錯誤の連続だとしても、それが楽しい過程であることを教えてくれるような、そんな気がした。

 その後も、私たちはパン作りについていろいろと話しながら、焼き上がったパンの出来栄えを確認し合った。彼の言葉はどれも前向きで、私を勇気づけてくれる。気づけば、私も少しずつパン作りに自信がついてきたような気がしていた。

「次はもう少し難しいパンにも挑戦してみようかな」

 ふとそう口にすると、彼は笑顔で頷いた。

「いいですね。僕もいろいろなパンに挑戦してますけど、新しいことに挑むのはいつもワクワクしますよ。次回も教室で一緒に頑張りましょう」

 その言葉に、私は自然と未来を楽しみにする気持ちが湧いてきた。失敗を恐れずに、前向きに挑戦していけるかもしれない。パン作りはまだ始めたばかりだけど、少しずつうまくなっていける気がした。

 教室の時間が終わり、帰り支度を整える頃には、心が軽く、パンを作る楽しさが少しずつ実感として湧いてきた。彼と話しながら、また次回のパン作りが楽しみになっている自分がいた。

 月日が経ち、私はパン作りにすっかり慣れていた。パン教室で学んだことを基に、自分の手で作るパンは日に日に上達し、気がつけば「お店を作ってみたい」という夢を実現することになっていた。

 古びた小さな建物を改装し、温かな雰囲気のパン屋を開いたのはちょうど春の始まり。朝の陽ざしが柔らかく差し込み、窓辺に置かれたカゴには、私が焼き上げたパンがずらりと並んでいる。バゲット、クロワッサン、ふわふわのロールパンなど、教室で習ったパンから自分で考案したものまで様々だ。

 しかし、現実はそう甘くはなかった。オープンから数週間が経っても、お店に訪れるお客さんはまばら。通りすがりの人がふと立ち寄ることはあるものの、ほとんどは何か用事のついでに来るだけで、常連の姿はまだない。

 カウンター越しに、静かな店内をぼんやりと眺めながら、私は少し不安を感じていた。パン作りは順調でも、お店を運営することは簡単ではない。試行錯誤して新しいパンを焼いても、それがすぐに売れるわけではないことを、痛感していた。

 そんなある日、ふいにドアのベルが軽やかに鳴った。振り返ると、そこにいたのはあのパン教室で出会った青年だった。数ヶ月ぶりの再会だったが、彼は変わらず爽やかな笑顔を浮かべている。

「やあ、久しぶりだね。ついにお店を開いたんだって聞いて、立ち寄ってみたよ」

 彼が店内に入ってきた瞬間、ふと心が軽くなった。懐かしさと安心感が同時に押し寄せてくる。彼が手にしていたパン教室での思い出が、鮮やかに蘇った。

「久しぶり。そう、ついに開いたんだけど…なかなか思うようにはいかなくて」

 少し苦笑いを浮かべながら応えると、彼はカウンターの前の椅子に腰掛け、パンの香りを楽しむように深く息を吸い込んだ。

「でも、パンはこんなに美味しそうじゃないか。僕が食べて応援しないとね。今日はどれがオススメ?」

 その言葉に、思わず顔がほころぶ。彼がこうして来てくれることが、何よりも嬉しかった。私はすぐに、特に自信作の一つを取り出し、彼の前に差し出した。

「このバタークロワッサンが今のイチオシよ。サクサクに仕上げたんだけど、どうかな?」

「楽しみだな。それじゃ、さっそくいただくよ」

 彼がクロワッサンを手に取り、一口かじると、その瞬間、パリッという音が響いた。中から溢れるバターの香りが店内を漂わせ、私も少し緊張しながら彼の反応を待つ。

「…うん、これは本当に美味しい!外はカリッと、中はふんわり。このバターの香りがまたたまらないね。これは絶対に売れるよ」

 彼の言葉に、私は心からホッとした。自分の作ったパンが誰かに喜ばれるというのは、やはり嬉しいものだ。

「ありがとう。そう言ってもらえると、少し自信が持てるわ」

「いや、本当に美味しいよ。それに、このお店もすごく居心地がいい。きっと、これからもっと人が集まってくるよ」

 彼のその言葉に、自然と笑顔がこぼれた。パン作りが好きで、夢見たお店が形になった。それでも、不安や悩みは尽きないものだ。でも、こうして誰かが応援してくれるだけで、頑張ろうという気持ちが湧いてくる。

 彼と談笑している間、時間はあっという間に過ぎていった。話す内容はパン作りのことや、教室での思い出、そしてお互いの近況報告。ふと気づけば、店内には夕暮れが差し込み、柔らかなオレンジ色の光が二人の周りを包み込んでいた。

 彼の笑顔を見ていると、ふと心が温かくなる。楽しい時間を過ごすうちに、二人の距離はどんどん近づいていったように感じる。そして、ふと彼の瞳が私をじっと見つめていることに気づいた。

「本当に素敵なお店だね。これからも応援してるよ」

 その一言が、胸の奥まで響いた。彼の優しさと温かさが伝わってくる。

 次の瞬間、二人の距離は一瞬で縮まった。

 二人の距離がぐっと近づいた瞬間、店内に漂うパンの甘い香りがさらに濃く感じられた。彼の瞳が私の目の前に広がり、鼓動が早くなるのを抑えきれなかった。言葉が途切れ、自然と目を閉じた。

 その瞬間、彼の唇がそっと私に触れた。甘く、柔らかいキスだった。心の奥底に響くような、穏やかでいて情熱的な、そんな感覚に包まれる。パンの香りと共に、甘さが増していく。

 彼の温もりが伝わるたびに、胸の高鳴りが止まらなくなった。お互いをそっと包み込むようなキスが続き、時間が止まったかのように感じた。

「甘いね…」

 彼が小さく囁く。

「パンの香りのせいかもね」

 私は少し照れくさそうに笑い返し、再び彼と目が合った。

 彼とのキスは、まるで時間が溶けていくように、止まらなかった。甘く、優しい感触が繰り返されるたびに、私の心はさらに深く彼に引き寄せられていく。

 キスは一瞬では終わらず、続いていく。唇が触れるたびに、彼の温もりが全身に広がり、まるでパンを焼いている時のような、心地よい熱が私たちを包み込んでいた。甘さと温かさが混ざり合い、二人だけの世界が広がるようだった。

 何度も触れ合う唇。互いの呼吸が重なり、二人のキスは止まらない。言葉なんて必要ない。ただ、彼との甘いキスが、いつまでも続いてほしいと願った。

 二人は、何度も唇を重ねていた。彼とのキスが続くたびに、胸の奥から湧き上がる感情が止められなくなる。お互いを求め合うように、さらに深く、さらに強く引き寄せられていく。まるで何もかもを忘れてしまうかのように、彼の温もりに浸っていた。

 彼の手が私の肩に触れ、そっと抱き寄せられる。私も自然と彼に身を預け、二人の間にあった距離は完全に消えていた。心も体も、彼の存在を感じたいという思いが強まっていく。

 再び唇が重なり合い、甘いキスが続く。彼の呼吸が私の肌に触れるたびに、心臓が高鳴り、全身に心地よい痺れが走る。お互いを求める気持ちはますます強まり、どこまでもこの瞬間が続いてほしいと思う。

 しかし、突然、店のドアが軽やかに開く音が響き渡った。キスの甘さに包まれていた二人の間に、現実が戻ってきた瞬間だった。

「お客さん…」

 彼と私はお互いを見つめ、恥ずかしさと共に笑い合った。急いで距離を取り、私はエプロンを整えながらカウンターへと向かう。

「いらっしゃいませ!」

 少し慌てながらも、笑顔でお客さんを迎え入れる。彼も静かに立ち上がり、私の隣で控えめに微笑んでいた。接客に集中しながらも、心の片隅にはまだ、彼との甘いひとときが残っていた。

 月日が経ち、店は少しずつ評判を呼び、いつしか人気店に成長していた。最初は閑散としていた店内も、今では開店と同時に多くの客が訪れるようになり、忙しい毎日が続いていた。それでも、彼との時間だけは特別だった。パン作りを通して深まった絆は、今やただの友情や協力を超え、より深い関係へと変わっていった。

 彼との関係は、まるで時間をかけて発酵していくパンのように、じっくりと、でも確実に強くなっていた。忙しい営業中でも、ふとした瞬間に彼と目が合うだけで、心が温かくなる。そして、そんな彼との時間は、私にとってかけがえのないものになっていた。

 ある日、営業が一段落して、店内に客がいない時間が訪れた。カウンター越しに彼が笑顔を見せ、自然と私の方に近づいてきた。彼の存在を感じるだけで、胸の鼓動が早まるのがわかる。何気ない仕草の一つ一つが、今は愛おしい。

「少し休憩しようか」

 彼が優しく囁き、私たちは無言のままお互いに引き寄せられた。店内の静けさが、二人だけの空間を作り出す。彼の顔がすぐ目の前に迫り、そっと唇が重なった。最初は控えめなキスだったが、次第にその甘さと深さは増していく。

 唇が触れ合うたびに、体中に電流が走るような感覚が広がり、心は彼への想いで満たされていく。彼もまた、私を強く抱きしめ、まるで離れたくないかのようにキスを続けた。甘く、切なく、そして深いキス。お互いの存在を確かめ合うように、言葉では伝えきれない感情が唇を通して伝わる。

「君とこうしていると、時が止まったみたいだ」

 彼の囁きが私の耳に届き、その言葉に胸が締め付けられる。もっと彼を感じたい。もっと彼に触れていたい。そう思いながら、私は彼にさらに近づいた。二人の呼吸が重なり、キスは止まらない。

 その瞬間、店のベルが突然鳴り、二人はハッと現実に引き戻された。店の扉が開き、客が入ってきたのだ。彼も私も急いで距離を取り、少し照れながら互いに目を合わせる。

「お客さんだね」

 彼が小さく笑い、私は軽く頷いた。

「接客、しなくちゃね」

 顔がほんのり赤くなりながらも、私はエプロンを直し、彼と一緒にカウンターへと向かった。店の雰囲気は戻り、再び営業の時間が始まる。でも、心の中にはまだ、彼との甘いキスの余韻が残っていた。

 数ヶ月が過ぎ、私たちのパン屋は地元の人々に愛される場所となっていた。おいしいパンの香りが漂い、毎日たくさんの客が訪れる。週末には行列ができるほどで、私たちは忙しい日々を送っていた。その中で、彼との関係はますます深まり、お互いの絆を実感する瞬間が増えていった。

 ある日のこと、二人でパンを焼いているとき、彼がふと私の手を優しく包み込むように握った。驚いて顔を上げると、彼の真剣な眼差しが私を見つめていた。

「これからもずっと、一緒にいたい。結婚しよう」

 その言葉に心が躍った。嬉しさと感動で涙が溢れそうになり、私は彼の頷きを待った。彼も、私と同じように幸せそうに微笑んでいる。

「もちろん、結婚するわ。私もあなたとずっと一緒にいたい」

 二人はそのまま、互いに強く抱きしめ合い、約束を交わした。その後、親しい友人たちや家族を招いて、小さな結婚式を開くことにした。日差しが心地よい穏やかな日、パン屋の前に飾られた花々が風に揺れる中で、私たちは誓い合った。

「これからは、あなたと共に手を取り合って、人生を歩んでいきます」

 彼の言葉に、私は心から同意した。家族や友人たちに見守られながら、愛を誓うことができたその瞬間、世界で一番幸せな気持ちになった。

 結婚後、私たちのパン屋はますます繁盛していった。新作のパンを次々と考案し、彼との息の合ったコンビネーションでお客さんを喜ばせることができた。彼のアイデアと私の技術が融合し、毎日のように新しい挑戦が待っていた。お客さんの笑顔を見られることが、何よりの喜びだった。

 繁忙な日々の中でも、私たちはお互いに支え合い、恋に仕事に充実した日々を過ごしていた。仕事が終わった後は、一緒に料理をしたり、散歩をしたりする時間も大切にした。小さな幸せが積み重なり、心が満たされていく。

 お店の常連客が増え、口コミで広がる評判のおかげで、地元のイベントにも参加するようになった。地域の祭りや市場での出店を通じて、より多くの人々に私たちのパンを届けることができた。その度に彼と私は、新しい出会いや素晴らしい経験を共有し、ますます絆が深まっていった。

 時が経つにつれ、パン屋は単なる仕事の場ではなく、私たちの夢や愛を育む場所となった。繁忙期には一緒に働き、ゆったりとした日には二人で笑い合い、心から楽しむことができた。毎朝、焼きたてのパンの香りが広がると、幸せが胸に広がる。

 結婚してからの生活は、私たちが思い描いていた以上に充実していた。お互いを理解し、尊重し合う関係が、私たちの人生を豊かにしていった。そして、何よりも大切なのは、愛する人と一緒に夢を追い求められることだった。

 いつも笑顔が絶えないパン屋は、私たちの愛の象徴となった。パンを通じて、たくさんの人々と繋がり、幸せを分かち合うことができたことが、私たちの人生の中で最も素晴らしい経験だった。

 これからもずっと、二人で手を取り合い、パン屋を守り続ける。そして、どんな時も笑顔を絶やさず、愛を育みながら充実した人生を歩んでいこうと心に誓った。
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