ワケあり公子は諦めない

豊口楽々亭

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エピローグ

未来へ(2027/08/07 改編)

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降り注ぐ陽射しに縁取られ、若々しい新緑の葉が黄金色に輝いている。
落ちてくる光は草地に日溜りを作り、風が吹き抜ける度に穏やかに揺れていた。

僕は両腕を枕に木陰に身体を横たえて、空を眺めていた。
眠気を誘う麗らかな暖かさにわずかに目蓋が重くなってくる。
伏せてしまいたくなる魅力の抗っていると、下生えを踏みしだく足音がこちらに近付いてきた。

───約束の相手が、来たのだろうか。

逸る気持ちを抑えて上半身を押し上げると、正午の光を反射して輝く湖畔を背に、フロレンスがこちらに向かって微笑んでいた。
美しい薔薇色の瞳が咲き誇り、柔らかく形の良い唇が綻ぶように薄く開いている。

『一緒に逃げよう』

11歳のあの夜、駆け落ちを誓った同じ場所で笑う、彼女を見ると、懐かしい気持ちが込み上げる。
それと同時に、胸が疼くような愛しさが湧き上がってきた。

「待たせたか?ジークヴァルト」
「いや、今来たばかりだよ」

僕を見下ろすように立ち止まったフロレンスの声に、僕は胸を抑えて一度呼吸を落ち着ける。
一つ咳払いをすると、彼女が座れるように胸に納めていたハンカチを傍らに広げてみせた。

「座って、フロレンス」
「いや、しかし…」

彼女が逡巡している間に、僕は手を差し出して掴むように促した。
しばらくして観念したらしいフロレンスは、遠慮がちに僕の手を取った。
成長し筋の目立つ手に、そっと重なった華奢な指を握って引き寄せ、座るように導くと、肩が触れ合いそうになる。

お互いの気配を側に感じながら、僕たち二人は並んで湖畔を眺めていた。
流れる静かな風が、頬を撫でる。
僕と彼女の髪が柔らかく嬲られ、銀と白金の糸が絡むように寄り合った。
こうやって、二人で過ごすのはずいぶん久し振りだった。
成長してしまった姿を隠すため、外出を禁止されている僕と、旅に先立って多忙を極めるフロレンスは、大公城での一件以来、2、3通の手紙をやり取りするだけに留まっていた。

「フロレンス、そっちは少し落ち着いた?」
「まあ、父様が君と私の婚約に未だに反対しているけど、母様が説得してくれてるし……あとは概ね順調だよ。5年間の追放だから、やることも準備も多いけどね」

伸び伸びと足を投げ出して、両手を後ろ手についたフロレンスが軽く肩を竦めてみせる。

「そっちは?ヘリオスとの婚約破棄が発表された後だ。ローゼリンド宛に婚約の申し入れが来てるんじゃないか?」
「流石にまだ様子見、ってところだよ。表向きはヘリオスの病気によるものってなっているけどさ、人の口に戸は立てられないからね。それでも、ローゼが公爵家の跡取りになるって発表されたら、凄そうだけど」

表向き、ヘリオスは病を患い、後継者から退くことになったと発表されている。
同時にローゼリンドとヘリオスの婚約が解消されると、公布された。
急な話に貴族だけでなく、公国全体が混乱を極め、色々な噂が飛び交っていた。
更なる混乱を呼ばないために、ローゼリンドが次期公爵になることと、僕とフロレンスの5年間の追放処分は、発表を控えることになっている。
この混乱と、5年間の不在を埋めるために、フロレンスとアスランの忙しさには拍車が掛かってしまった。

現状を伝えにきたついでに、愚痴っていったアスランの窶れた顔が脳裏をよぎる。
ヘリオスと同様に病気による蟄居と発表された僕としては、労う以上のことはできなかったわけだが。
僕は、アスランと同じように忙殺されているフロレンスの横顔を覗き込んだ。

「少し痩せんじゃないか?フロレンス」
「大丈夫。5年間の休暇を貰うのだから、これぐらいしないと」

僕と目が合うと、彼女は悪戯っぽく眦を細めて笑ってみせた。
その目の下に、薄く隈が滲む。

「無理しないで。これから5年間一緒に過ごすんだ、何かあったらちゃんと、頼ってくれ」

僕は手を伸ばすと、彼女の少しの細くなった頬に指を伸ばし、垂れ掛かる髪を掬って耳に掛けた。
驚いたように僕を見つめる彼女の頬が、薄紅色の熱を宿していくのが分かる。

「あ、りがとう。ジークヴァルト」

途切れ途切れに呟いた彼女に、僕は少しの照れ臭さを覚えながら、視線を再び湖畔に向けた。
僕たちの間に、また沈黙が横たわった。
草木を揺らす風だけが、静かに吹き抜けていく。

「───……シュルツ伯爵家だが」

先に口を開いたのは、フロレンスの方だった。
前を向いたままの彼女の声が、いつもより硬い。
僕は黙ったまま、視線で先を促した。

「ベアトリーチェはマルム王国に送り返さずに、幽閉処置となった。アーベントは、処刑が決まったよ」

それは、僕が一番聞きたかったことだった。
同時に、聞きたくないことでもあった。

覚悟は決めていたが、それでも心が大きく揺さぶられる。
真っ直ぐに見据えた先に広がる湖畔の水面が、鋭利な鋼のように輝いて僕の目を射抜いた。
眼から入った光は、僕の心臓に針のように鋭く突き刺さした。
痛みを受け入れる間、悼む静寂が流れる。
物静かなアーベントの面影と共に、彼を慕っていた一人の少女の姿が思い出された。

「アゼリアは?」
「彼女は憔悴しきったシュルツ伯爵を支えて、よくやってる。アスラン殿下も気に掛けて、しょっちゅう顔を見に行ってるみたいだ」

か弱く見えて、アゼリアには自分の正しさを貫こうとする強さがある。
それでも、母を失い兄と慕う人を一度に失う恐ろしさは、耐えられるものではないだろう。
同じ経験をした僕が、彼女から家族を奪った事実が、重くのし掛かる。
後悔はしていないが、それでもアスランが居てくれることに少しだけ、心が軽くなるのを感じた。

「それから、ヒルデが廃嫡となった」

僕は一瞬何を言われたか分からず、ぽかん、と間抜けに口を開く。
一拍おいてようやく理解が追い付くと、フロレンスの方に勢いよく身を乗り出した。

「どうして!?」
「アーベントとベアトリーチェの娘である可能性があるからだ」
「あ……」

僕は、ベアトリーチェがアーベントに向かって叫んだことを、思い出した。

「マルム王国の色素は受け継がれ難いから、それでか」

フロレンスは静かに頷き、僕の言葉を肯定した。
マルム王国民の特徴である黒髪と赤い瞳という色素は、子供に受け継がれ難い。
他国の民と子をなすと、ほとんどの場合、子供は他国の特徴を引き継ぐことになる。
だからこそ、マルム王国は自分達を稀少な人種だと考え、他国を支配しようとしていた。
だが、内密な処理といっても悪事は暴かれたのだ。
僕の知るよしもないが、水面下で行われている和平交渉の良い取引に材料になるだろう。しばらくは、一触即発だった国境線も落ち着くかもしれない。

公国に、平和が訪れようとしていた。

僕の因縁もようやく、断ち切られようとしている。だというのに、心には薄ぼんやりと雲が掛かったようだった。

「全てが決まったところで、気が晴れる。という訳でもないんだな。初めて知ったよ」

これが、終わりというものなのだろうか。
フロレンスの方へと乗り出した身体から力が抜けると、僕は再び草地に両手をついて、空を見上げた。

「そうか」

小さく漏れた彼女の相槌が、優しく僕に寄り添ってくれた。
慰めるでも、励ますでもなく、ただ側に居てくれるフロレンスの存在が、僕には堪らなく愛しかった。
だからこそ、僕には伝えなければならないことがあった。


─────

僕は改めて、フロレンスの方へと向き直る。
おもむろに腰を上げて騎士のように片膝をつくと、長い睫毛を瞬かせた彼女が、目を丸くして僕を見つめていた。

「どうしたんだ?そんなにあらたまって」
「フロレンス、僕たちの結婚ことで話があるんだ」

謁見の間で伝えられないまま終わってしまった気持ちを、今度こそ告げようと、僕は口を開いた。

「ああ、政略結婚のことだろう?ちゃんと弁えているから、心配するな」

好きだと、告げるはずだった僕の想いは、フロレンスの切れ味の良い声によって、言葉になる前に切り捨てられた。

「え?」

思わず、間の抜けな声が漏れる。

「お前が国と家族を、大切に思っていることは分かっている。公爵家の繋がりをより強固なものにし、公国とローゼリンドを支えていくために必要な婚姻だからな、私も異論はない」

フロレンスは、まるで僕のことを完璧に理解していると言わんばかりだった。
実際、ローゼリンドが女公爵としての地盤固めをするためにも、そして公国内の結束を強固なものにするためにも、必要な婚姻だ。
端から見れば、見事な政略結婚だけれども、僕にとっては、違う。
望んで、フロレンスを妻にしたいと思った。
そして、彼女の夫になりたいと、願っていた。

「フロレンスっ、待って!!違うんだっ」

フロレンスの肩を掴むと、華奢でしなやかな肩が僕の手の中で跳ねた。

「どうした?」

驚きに見開かれた薔薇色の瞳に、焦りと恋しさに歪む僕の顔が映し出される。

「フロレンス、僕は、君のことが好きなんだっ!!」

フロレンスが押し黙る。
その沈黙に、僕は勢いに任せて告白したことを猛烈に後悔し始めた。
本当なら彼女の想いを無碍にしたことを詫びて、それからもう一度、愛してると伝えようと思っていたのに。
居たたまれなくなってくると、僕の頭の中は羞恥と混乱で煮詰まっていき、重さを増していく。
耐えきれずに項垂れると、僕の耳元に、柔らかな声が降ってきた。

「ありがとう。だが気を遣わなくて良い。一度は振られた身だ、理解している」

フロレンスの肩が僕の手の中からすり抜けるように、立ち上がる。
彼女を追い掛けて見上げた先には、苦し気に微笑む端正な顔があった。
眉間に寄せられた柔らかな陰影に、切なさが宿り、濃く繁った睫毛の奥には、微かな期待が息を潜めていた。

「私はそろそろ戻るよ、ジーク」

フロレンスが一瞬だけ覗かせた心の内は、明るく笑う彼女の瞳の奥に、すでに隠れてしまっていた。
彼女の気持ちを捕まえ損ねた僕を置いて、フロレンスは颯爽と踵を返して歩き出していた。真っ直ぐに伸びた背中が、僕を置いて遠ざかっていく。
思わず追い掛けたくなる衝動を、僕は、必死に抑え込んだ。
今、告白しても、彼女を追い詰めて余計に心を頑なにさせてしまうだけだ。

────ジーク

そう、昔のように呼んでくれた。
今はそれだけで、十分だ。

「先は長い。さしあたっては5年間、その間にどうにか君を、振り向かせるよ。フロレンス」

一人呟くと、僕は立ち上がった。
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