ワケあり公子は諦めない

豊口楽々亭

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贖い

動き出す世界

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沈黙が落ちた。
先ほどまでとは比べ物にならない程に重く、痛ましい静けさが、部屋にいる全ての人間を支配していた。

「そんな、そんな事がっ、そんな馬鹿なっ、私の娘だけでなく妻までっ!!!」

感情の行き場を失った父の手が、ローテーブルに叩きつけられる。
鈍い音の余韻が空気を震わせた。
父の手が、赤く腫れていくのが見える。

「証拠は、あるのかい…ジーク」

僕を真っ直ぐに捉える父の眼差しは、復讐心に昏く輝いていたが、それでも必死に感情を飲み込もうとしているようだった。
僕は一瞬躊躇してから、ゆっくりと口を開いた。

「ベアトリーチェの香水です。僕と母、大公妃殿下が飲んだ紅茶から、同じ匂いがしました」
「匂い…、…」

父が考え込むように呟くと、沈黙を守っていたアスランがようやく声を上げた。

「それだけじゃ弱ぇ。他には?」

アスランの挑むような静かな眼差しが、僕を見据えた。
僕はソファから立ち上がると、本棚の一番上から紐で綴った紙束を取り上げ、全員に見えるようにテーブルの上に広げてみせる。

「匂い原料となる花は、隣国はマルムル王国の王家でのみ栽培されている王家の花と呼ばれるものだと考えられます。他に類を見ない特徴的な芳香があり、香水の材料にもなりますが…蜜には神経毒が含まれているのです。症状も僕が味わったものと酷似しています。昔から暗殺に使われていたことも、資料で示唆されていますから…現物が入手できれば僕が生きた証人として立ちましょう。それで、十分訴追できるかと」

母の死を切っ掛けに、幼い頃から僕が纏め続けていた資料をアスランは取り上げると、じっくりと読み込みながら口を開いた。

「毒殺の証明できれば、十全…難しくても、他国から嫁した女が無断で毒花持ち込んでるのは問題になる。ヘリオスとの愛人関係もあるからな、それだけ揃えばマルム王国に送り返す材料にはなる」
「はい」

アスランの言葉に、僕はしっかり頷いてみせた。
資料を父に手渡したアスランが本腰を入れるように上半身を前に傾けると、テーブル越しに僕と距離を詰めた。

「どうやって花を探すつもりだ?」
「シュルツ伯爵家の末娘を、頼ろうと思います」

僕の返事に怪訝な顔をするアスランが、僕の瞳を覗き込んだ。

「金で動きそうなのか?」
「その逆です。善良な女性で、貴族としての矜持を持っている。彼女の良心と誇りを、僕は信じてみたいのです」

一瞬、正気を疑うように目を見開いたアスランだったが、僕の表情から本気であることを悟ると、深く大きな溜息を吐き出した。

「他人の良心頼りか…良いだろう。お前が信じるなら、俺も細かいことは言わん」
「ありがとうございます。アスラン殿下」

どっしりと構えるアスランの態度と言葉が頼もしく思えると、僕は心から感謝を示すように頭を深く下げた。
そんな僕の態度を面倒くさがるように、アスランは武人らしい武骨な手を、軽く払って見せる。

「良い。兄上には俺から話しておく。婚約式の前に、全て片付けるぞ」
「承知いたしました」

話しが纏まってようやく、僕は抱え込んでいた物を全て吐き出すように、肺の底から大きく息を吐き出した。
ほっ、として身体から力を抜くと、傍らから視線を感じて、僕はそちらに顔を向けた。
そこには、フロレンスの悲しそうな、薔薇色の瞳があった。

「ジークヴァルト…リリー様のことを、一人で抱えていたのか?」

どこまでも優しく、心の柔襞に触れるような声だ。
彼女の想いを拒絶したというのに、それでも心を傾けてくれることがどうしようもなく苦しくて、僕の心は締め付けられる。

「フロレンス、これが僕の問題だったんだ…だから、心配しなくて良い」

今すぐフロレンスを抱き締められたなら、どれほど心が満たされ、救われるだろうか。
僕は込み上がろうとする衝動を押し殺し、そっとフロレンスを遠ざけようとした。
それなのに、フロレンスはいつだってこんな僕に、寄り添おうとしてくれる。

「ジークヴァルト…もっと、私を信頼して欲しい。私はいつでも、君の味方だから」

フロレンスの言葉に、僕は目頭が熱く潤むのを感じた。
過ちを犯した時も、今も、彼女は僕を救済しようと惜しみ無く手を差し伸べてくれていた。

「…フロレンス、ありがとう」

全てを捨ててフロレンスを受け入れることもできない癖に、優しさを拒むこともしない。
僕は自分の甘えと、愚かさと、彼女への情愛を噛み締めながら、そっと呟いた。
僕の返事に、フロレンスの柔らかな唇が優しげに綻ぶ。

「明日はアゼリア嬢の元に、一緒に向かおう。今の君の姿だと話を聞いてもらえないだろうから」

僕は、自分の成長した身体を見下ろした。
この姿を見て、誰が僕を公子だと思うだろう。

「そっか…そりゃ、そうだよね。フロレンス、早速だけど頼らせてもらっていいかな?」
「勿論だとも」


頭を掻きながらフロレンスと目を見交わすと、僕たちはほんの少しだけ笑い合った。



「よし、流れは決まったな。俺はこれからソルを連れて、兄上を叩き起こしに行ってくる」

父とアスラン、僕とフロレンスがそれぞれの動きを確認し終えると、アスランは颯爽と立ち上がり、廊下に通じる扉へと向かっていく。
その後を視線で追っていくと、扉を開けたまま廊下の先をじっと見詰めて、アスランは立ち止まっていた。

「どうされました、アスラン殿下」
「…、…いや、何でもねぇ」

訝りながらアスランに声を掛けると、彼は少し考え込んだ後に頭を左右に振って、廊下へと踏み出した。

「アスラン殿下、こちらに。ご案内いたします」

父がアスランの後を追って、ソルが幽閉された地下牢に向かう。
部屋には、僕とフロレンスだけが取り残された。
気まずさが互いの間に垂れ込めてくると、僕は思わずフロレンスを盗み見る。
彼女の瞳は、僕を見詰めいた。

視線が、重り合う。

僕たちは言葉を詰まらせた。
互いの感情を形に出来ないまま、気まずい沈黙が流れる。
そんな中、先に唇を開いたのはフロレンスの方だった。

「…私はローゼのところに戻るよ。おやすみ」

彼女が立ち上がると、目の前をさらさらと髪が流れていく。
淡い色彩は、今にも空に溶けて消えてしまいそうな儚さで、考えるより先に僕は手を伸ばしていた。
捕らえたフロレンスの指が、前よりもか細く感じるのは、僕が少年から男へと変わったせいなのだろう。
そんな違いを知るだけでも、どうしようもなく彼女が愛しくなる。

「どうしたんだ、ジークヴァルト」

何も言わずに見上げる僕に、フロレンスの眼差しが、戸惑うように揺れていた。
僕はフロレンスに伝えたい言葉を心に思い描いては、形にしないまま飲み込み。結局曖昧に笑って、そっと、囁いた。

「いや、何でもないんだ…お休み。フロレンス」
「ああ、ジークヴァルト…また明日」

ゆっくりとフロレンスから手を離すと、彼女は僕が握っていた指を胸に抱き寄せ、部屋から去っていった。
僕は手に残る彼女の体温を抱えたまま、眠れぬ夜を過ごすことになったのだった。
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