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一時の逢瀬
邂逅
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走り出した僕の手から、花が落ちていく。
まるで思い出が零れていくように。
それでも僕は走るのを止められなかった。
今にも人の波の合間に隠れて、見失ってしまいそうな男の姿を必死に追っていく。
人の間を掻き分けて距離を詰めていくと、フードを被ったアーベントの背中が建物の合間に入っていくのが見えた。
僕は慌てて建物まで辿り着くと、アーベントを追って角を曲がる。
細い路地から更に裏に入り込むと、壁を飾るエスメラルダの花はその姿を減らしていき、比例して薄汚れた煉瓦の壁が剥き出しになっていった。
行き交う人は少なくなり、変わりに靴の音がやけに高く響いて聞こえた。
いつの間にか腕の中にあったはずの花は全て消え失せ、無くした分だけ心細さがのし掛かった。
僕は増していく不安を振り切るように、通路を曲がったアーベントを足音を殺して追い駆け、見失わないように食らいつく。
何度、同じことを繰り返しただろうか。
僕は再び次の角を曲がろうとした瞬間、低い声が響いた。
「遅いぞ、こんな薄汚れた場所でいつまで待たせる気だ」
僕の鼓動が一気に跳ね上がる。
覗かせかけた頭を引っ込めて、慌てて壁に背中を張り付かせると、息を殺すために両手で口許を塞いだ。
「……黙れ。貴様の不出来が招いた種だ」
凍えるような冷徹な声は聞き覚えがあった、先ほど僕を助けたアーベントのものだ。
───もう一人の声は、誰だ?
僕は必死に、声に意識を集中させる。
「私を侮辱する気かっ!娼婦の使いっぱしり風情がっ」
「……貴様を見れば、お前の主がどれ程のものか知れるな」
声を荒げて罵倒する男の熱量に反して、アーベントの声は冷酷に響いた。
相手の男の吐き出す息が、怒りに震えているのが分かる。
男が再び口を開いてわめく前に、アーベントの低い声が地を這った。
「貴様の主が寵愛する娼婦の望みは唯一つ。星の凋落だ……約束が果たされていないのを、忘れたか?」
「だからっ、何度も言ってるだろう!公女は確かに私の手で殺したんだ!!」
隠すことを忘れた男の声が、荒々しく僕の耳朶を強かに叩いた。
────公女を、殺した?
頭が言葉を理解した途端、地面が揺れた。
天変地異が起こったのかと思ったが、そうじゃない。
僕の足が、震えているのだ。
気づいてしまえば、余計に力が萎えて立っていられなくなる。
僕は耐えきれず、壁を伝うようにして崩れ落ちた。
────聞きたくない
現実を拒否したくて両手で耳を塞いでも、アーベントと男の声は容赦なく鼓膜を穿って、僕に現実を突きつける。
アーベントの呆れと侮蔑を含んだ溜息が、地面に落ちた。
「なら、婚約式に現れた公女は誰だ」
「私だって知りたい……公女は確実に死んだはずだ。証拠に切った髪を渡しただろう」
星のようにきらきらと輝き、絹のごとく滑らかなローゼリンドの髪。
母に撫でてもらった記憶と一緒に、髪を大切に慈しんでいた妹の朗らかな笑顔が脳裏をよぎる。
空虚になった僕の中に、小さな炎が灯る。
赤黒く、血潮にも似た禍々しい憎悪の炎。
僕は両手を耳から離し、アーベントと男の言葉を心臓に刻み付けていく。
「川に落ちて亡骸は確かめられていない、と聞いたが」
「っ……確かにそうだが!ちゃんと腹を切り裂いているんだ、それで川に落ちて助かるはずがないっ」
嗚咽が漏れそうになるのを、僕は唇を噛み締めて耐えた。
食い破られた唇から滲み出す血が、舌に触れる。
鉄錆の味の重さが広がっていった。
「お前の愚かな主に伝えろ。公女の亡骸を見つけ出し、野に晒せ。そうでなければ、お前の娼婦は二度と足を開かんとな」
アーベントの声が、男に叩きつけられる。男達のいる角の先から、靴音が響いてきた。
────こちらに来る
逃げるには時間がない。僕は壁を支えに立ち上がり急いで周囲に視線を向けると、寄りかかっていた壁に扉を見つけた。
焦燥感に突き動かされながら、鍵が開いていることを願ってドアノブに触れ、押してみる。
開かない。
冷や汗が背中を流れていった。
走って逃げるか、誤魔化すか。
────駄目だ、きっと殺される
公女を殺そうとする男たちが、今さら庶民の女一人を見逃すとは思えなかった。
死が間近に迫る音が、聞こえてくる。
今にも靴音の持ち主が角から出てくるのではないかと思うと、僕の心は恐怖に震えた。
何もできずに死ぬことが、何よりも恐ろしい。
見開いた瞳で角を凝視しながら僕は扉に手を置いたまま、決意を固めた。
「一瞬でも怯ませられれば……」
僕は喉の奥で低く、押し潰すように呟き、拳を握った。
まるで思い出が零れていくように。
それでも僕は走るのを止められなかった。
今にも人の波の合間に隠れて、見失ってしまいそうな男の姿を必死に追っていく。
人の間を掻き分けて距離を詰めていくと、フードを被ったアーベントの背中が建物の合間に入っていくのが見えた。
僕は慌てて建物まで辿り着くと、アーベントを追って角を曲がる。
細い路地から更に裏に入り込むと、壁を飾るエスメラルダの花はその姿を減らしていき、比例して薄汚れた煉瓦の壁が剥き出しになっていった。
行き交う人は少なくなり、変わりに靴の音がやけに高く響いて聞こえた。
いつの間にか腕の中にあったはずの花は全て消え失せ、無くした分だけ心細さがのし掛かった。
僕は増していく不安を振り切るように、通路を曲がったアーベントを足音を殺して追い駆け、見失わないように食らいつく。
何度、同じことを繰り返しただろうか。
僕は再び次の角を曲がろうとした瞬間、低い声が響いた。
「遅いぞ、こんな薄汚れた場所でいつまで待たせる気だ」
僕の鼓動が一気に跳ね上がる。
覗かせかけた頭を引っ込めて、慌てて壁に背中を張り付かせると、息を殺すために両手で口許を塞いだ。
「……黙れ。貴様の不出来が招いた種だ」
凍えるような冷徹な声は聞き覚えがあった、先ほど僕を助けたアーベントのものだ。
───もう一人の声は、誰だ?
僕は必死に、声に意識を集中させる。
「私を侮辱する気かっ!娼婦の使いっぱしり風情がっ」
「……貴様を見れば、お前の主がどれ程のものか知れるな」
声を荒げて罵倒する男の熱量に反して、アーベントの声は冷酷に響いた。
相手の男の吐き出す息が、怒りに震えているのが分かる。
男が再び口を開いてわめく前に、アーベントの低い声が地を這った。
「貴様の主が寵愛する娼婦の望みは唯一つ。星の凋落だ……約束が果たされていないのを、忘れたか?」
「だからっ、何度も言ってるだろう!公女は確かに私の手で殺したんだ!!」
隠すことを忘れた男の声が、荒々しく僕の耳朶を強かに叩いた。
────公女を、殺した?
頭が言葉を理解した途端、地面が揺れた。
天変地異が起こったのかと思ったが、そうじゃない。
僕の足が、震えているのだ。
気づいてしまえば、余計に力が萎えて立っていられなくなる。
僕は耐えきれず、壁を伝うようにして崩れ落ちた。
────聞きたくない
現実を拒否したくて両手で耳を塞いでも、アーベントと男の声は容赦なく鼓膜を穿って、僕に現実を突きつける。
アーベントの呆れと侮蔑を含んだ溜息が、地面に落ちた。
「なら、婚約式に現れた公女は誰だ」
「私だって知りたい……公女は確実に死んだはずだ。証拠に切った髪を渡しただろう」
星のようにきらきらと輝き、絹のごとく滑らかなローゼリンドの髪。
母に撫でてもらった記憶と一緒に、髪を大切に慈しんでいた妹の朗らかな笑顔が脳裏をよぎる。
空虚になった僕の中に、小さな炎が灯る。
赤黒く、血潮にも似た禍々しい憎悪の炎。
僕は両手を耳から離し、アーベントと男の言葉を心臓に刻み付けていく。
「川に落ちて亡骸は確かめられていない、と聞いたが」
「っ……確かにそうだが!ちゃんと腹を切り裂いているんだ、それで川に落ちて助かるはずがないっ」
嗚咽が漏れそうになるのを、僕は唇を噛み締めて耐えた。
食い破られた唇から滲み出す血が、舌に触れる。
鉄錆の味の重さが広がっていった。
「お前の愚かな主に伝えろ。公女の亡骸を見つけ出し、野に晒せ。そうでなければ、お前の娼婦は二度と足を開かんとな」
アーベントの声が、男に叩きつけられる。男達のいる角の先から、靴音が響いてきた。
────こちらに来る
逃げるには時間がない。僕は壁を支えに立ち上がり急いで周囲に視線を向けると、寄りかかっていた壁に扉を見つけた。
焦燥感に突き動かされながら、鍵が開いていることを願ってドアノブに触れ、押してみる。
開かない。
冷や汗が背中を流れていった。
走って逃げるか、誤魔化すか。
────駄目だ、きっと殺される
公女を殺そうとする男たちが、今さら庶民の女一人を見逃すとは思えなかった。
死が間近に迫る音が、聞こえてくる。
今にも靴音の持ち主が角から出てくるのではないかと思うと、僕の心は恐怖に震えた。
何もできずに死ぬことが、何よりも恐ろしい。
見開いた瞳で角を凝視しながら僕は扉に手を置いたまま、決意を固めた。
「一瞬でも怯ませられれば……」
僕は喉の奥で低く、押し潰すように呟き、拳を握った。
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