上 下
10 / 62
婚約式

衝撃

しおりを挟む
庭に出れば、月の冴え冴えとした輝きが、落ち着きを取り戻させてくれる。
肉厚な花弁は蒼白く、清い光に縁取られて優しく輝いて見えた。
窮屈なコルセットが邪魔だったが、どうにか息を吐き出すと、僕の鼻腔びこうに、強い香水の匂いが滑り込む。

肺に忍び込んでは、呼吸を塞いでいくような…甘く蠱惑的こわくてきで、どこか恐ろしい匂いだった。

───この匂いは…っ

僕の記憶の底から、十年前の記憶が一気に呼び覚まされる。
思わずそちらへ踏み出すと、息と足音を殺して歩いていく。
近付く程に心臓が痛いほどに脈打って、冷や汗が背筋を伝っていった。

香りが一層強くなる場所に近付くと、生け垣を隔てた向こう側から衣擦れの音と、潜められた声が聞こえてきた。

───匂いの主を確かめよう

そう思って踏み出しかけ僕の両足が、凍りついたように固まった。

「愛しい人…瑞々しい唇に触れさせておくれ」
「あら、冗談はよしてヘリオス。あなたには愛しいお姫様がいらっしゃるでしょう?」

男の声に、聞き覚えたがあった。
くすくすと忍び笑う女が囁いた名前が、決定打になる。

「ふん、あんな子供を僕が本気で相手すると思ってるのか?貧相でみすぼらしい身体に、カンディータっていう家名がぶらさがってなければ、相手にもしてない」
「あら、そんなこと仰って…そんなお嬢様と結婚するなんて、可哀想なヘリオス。わたくしの愛で慰めしましょうね」

───聞き、間違えだ

何度も何度も心の中でそう唱えた。

でも、耳に聞こえてくる男の声は、間違いなくヘリオスのもで。
脚が勝手に震え出すのを、止められなかった。
体が言うことを聞かず後ろに倒れそうになる。

───倒れたら、気付かれるっ

息を飲んだ僕の背中に、温かな物が触れた。
驚きの余り声を上げ掛けると、白く滑らかな掌が唇を覆う。

僕は目を見開いて、上を見上げた。

最初に映ったのは、僕を見下ろす薔薇色の瞳だ。
手が静かに僕の唇から離れていくと、人差し指がぴん、と立てられる。
しー、と、静寂を促す仕草に僕は頷いて押し黙ると、足音を殺して二人でその場を後にした。

ようやく声を出しても安心できる距離まできてから、僕は口を開いた。

「フロレンス、いつ戻ってきたの!?」
「ついさっきだよ、ローゼ」

薔薇色の瞳を細め、優しく僕を見つめる彼女の名前は、フロレンス・フォン・ロザモンド。
もう一つの公爵家の次期当主にして、戦場で一騎当千の力を見せつける男装の麗人。
ローゼリンドの一番の親友だ。
優しく微笑む彼女は、僕を優しく胸に抱き締める。

「ローゼを庭で見つけてね、驚かせようと思って後をつけたんだけど…嫌なものを聞いたね」
「フロレンス…このことは…」
「大丈夫だよ。前に約束した通り、私は誰にも言わないから、安心して」
「っ…、…」

ローゼリンドとフロレンスは、以前から知っていたのか。
妹に何も知らされていなかったショックと、ヘリオスに裏切られていた怒りに、唇が戦慄わななく。

「一度休憩室に行こう。顔が真っ青だ」

フロレンスは僕の肩を抱きなおすと、颯爽と歩き出した。
大公子妃専用の休憩室を目指す途中、フロアの熱気から逃げ出してきた令嬢や子息達がこちらに気付くと、小さな悲鳴を上げる。

「フロレンス嬢…三日前に出立したばかりだったんじゃなかったか?」
「もう辺境から戻ってらしたのね!」
「何でも、ルベル紅い精霊のお力で敵を薙ぎ払われて急いで戻ってこられたそうよ」

フロレンスが歩き去っていく後を追いすがる、羨望せんぼうの眼差し。
辺境で起こった小競り合いを収めて戻って来たばかりの彼女からは、芳しい薔薇の香りと共に僅かな汗と土の匂いがした。
それが彼女の猛々しい優美さを一層に引き立てているようだった。

ピンクブロンドの髪を背中に流し、軍の黒い礼服には多くの勲章が燦然さんぜんと輝かせているフロレンスを、隣から見上げる。
幼馴染の彼女に背を抜かされたのはいつだったか、思い出を手繰っていると、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。

「フロレンス様が男性だったら、ぜったいに結婚を申し込んでいるのに!」
「あら、私は同性でも構いませんわ、私のことも抱きしめてくれないかしら…」

背中を嫉妬混じりの視線に突き刺されながら、僕たちは二階にある休憩室に滑り込んだ。
静かに扉を閉ざすと、ずっと緊張していた体から力が抜けるようだ。

僕はフロレンスに支えられながら、部屋のカウチに腰を下ろした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

政略より愛を選んだ結婚。~後悔は十年後にやってきた。~

つくも茄子
恋愛
幼い頃からの婚約者であった侯爵令嬢との婚約を解消して、学生時代からの恋人と結婚した王太子殿下。 政略よりも愛を選んだ生活は思っていたのとは違っていた。「お幸せに」と微笑んだ元婚約者。結婚によって去っていた側近達。愛する妻の妃教育がままならない中での出産。世継ぎの王子の誕生を望んだものの産まれたのは王女だった。妻に瓜二つの娘は可愛い。無邪気な娘は欲望のままに動く。断罪の時、全てが明らかになった。王太子の思い描いていた未来は元から無かったものだった。後悔は続く。どこから間違っていたのか。 他サイトにも公開中。

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

【コミカライズ決定】地味令嬢は冤罪で処刑されて逆行転生したので、華麗な悪女を目指します!~目隠れ美形の天才王子に溺愛されまして~

胡蝶乃夢
恋愛
婚約者である王太子の望む通り『理想の淑女』として尽くしてきたにも関わらず、婚約破棄された挙句に冤罪で処刑されてしまった公爵令嬢ガーネット。 時間が遡り目覚めたガーネットは、二度と自分を犠牲にして尽くしたりしないと怒り、今度は自分勝手に生きる『華麗な悪女』になると決意する。 王太子の弟であるルベリウス王子にガーネットは留学をやめて傍にいて欲しいと願う。 処刑された時、留学中でいなかった彼がガーネットの傍にいることで運命は大きく変わっていく。 これは、不憫な地味令嬢が華麗な悪女へと変貌して周囲を魅了し、幼馴染の天才王子にも溺愛され、ざまぁして幸せになる物語です。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

[完]本好き元地味令嬢〜婚約破棄に浮かれていたら王太子妃になりました〜

桐生桜月姫
恋愛
 シャーロット侯爵令嬢は地味で大人しいが、勉強・魔法がパーフェクトでいつも1番、それが婚約破棄されるまでの彼女の周りからの評価だった。  だが、婚約破棄されて現れた本来の彼女は輝かんばかりの銀髪にアメジストの瞳を持つ超絶美人な行動過激派だった⁉︎  本が大好きな彼女は婚約破棄後に国立図書館の司書になるがそこで待っていたのは幼馴染である王太子からの溺愛⁉︎ 〜これはシャーロットの婚約破棄から始まる波瀾万丈の人生を綴った物語である〜 夕方6時に毎日予約更新です。 1話あたり超短いです。 毎日ちょこちょこ読みたい人向けです。

婚約破棄された親友の悪役令嬢に成り代わり王太子殿下に果たし合いします!

家紋武範
恋愛
王太子リック、その婚約者である公爵令嬢ライラ、そして王太子剣術指南ジンの三人は親友同士。 普段は仲の良い三人。ジンは将来夫婦になるであろうリックとライラを微笑ましく見ていた。 だが、リックは正式な場でライラに対し婚約破棄を言い渡す。 ジンはライラに成り代わり、リックに決闘を申し込むも返り討ちにあい押し倒されてしまう。 そして、気持ちを伝えられるのだ。男装の麗人ジンへの恋心を。

炎華繚乱 ~偽妃は後宮に咲く~

悠井すみれ
キャラ文芸
昊耀国は、天より賜った《力》を持つ者たちが統べる国。後宮である天遊林では名家から選りすぐった姫たちが競い合い、皇子に選ばれるのを待っている。 強い《遠見》の力を持つ朱華は、とある家の姫の身代わりとして天遊林に入る。そしてめでたく第四皇子・炎俊の妃に選ばれるが、皇子は彼女が偽物だと見抜いていた。しかし炎俊は咎めることなく、自身の秘密を打ち明けてきた。「皇子」を名乗って帝位を狙う「彼」は、実は「女」なのだと。 お互いに秘密を握り合う仮初の「夫婦」は、次第に信頼を深めながら陰謀渦巻く後宮を生き抜いていく。 表紙は同人誌表紙メーカーで作成しました。 第6回キャラ文芸大賞応募作品です。

処理中です...