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☆渡さないと

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 岩田とごたごたあってから十分ほど経過。僕たちは床下暖房のリビングで受験勉強をしている。
 K大の偏差値ぎりぎりの岩田が黙々とペンを走らせているのを前にして、僕はキッチンから注がれる視線を気にしていた。
 愛里が何をするでなく、ただ僕をじぃ~っと睨んでいるのだった。

 怒っているのだろうやっぱり……。
 恨んでいるのだろうなトイレの事を。
 普通そうだろう。僕は性器まで見せた変態露出狂なわけだから、軽蔑されて当然である。 
『お兄ちゃんに会いたかったかも』とか、『いらっしゃい。お兄ちゃん』とか嬉しい事を言うものだから、愛里はトイレの事を何とも思ってなくて、逆に歓迎してくれているんじゃないかと、つい錯覚をしてしまった。
 
 僕はバカじゃないのか。虫がよすぎるだろう。 
 冷静に考えれば『お兄ちゃんに会いたかった』と言ったのは、『よく来たわね、トイレでどうしてあんな酷い事をしたのか、親と兄の前でちゃんと説明してちょうだい』との意味だろうし、『いらっしゃい。お兄ちゃん』は、『あんな酷い事をしておいて、よくのこのこ来れたわね』の裏返しとも取れる。
 僕が可愛いと言って顔を赤くしたのは、トイレでの自分の下半身を想像されているのかと、恥ずかしくて赤面したのだろう。
 都合の良い解釈をしてどうすんだ。あれほど罪を償おうと心に決めたのに。

 愛里が三十分は僕を睨み続けただろうか、やがてホットカルピスとケーキを持ってきてテーブルに置き、リビングから出て行ってしまった。

 いつまで経っても謝らない僕に幻滅したのだろうか。
 トイレの事を隠蔽するつもりだと思われただろうか。

 ち、違うんだよ、愛里。
 この勉強会が終わったら、愛里ママにちゃんと謝罪文を渡そうと思っているんだ。
 でも肝心のママは、こうやってもう一時間はいるが、一度も顔を出さない所をみるとまだ仕事から帰ってないのかもしれない。
 いつごろ帰宅するのだろうか……。
 
 岩田は広げたK大入試過去問題集を真剣に見ている。

「あ……岩田」

「なんだ」

 集中を削がれてやや不満気味の岩田が顔を起こす。

 訊き難いなあ……。

「今日は岩田の母さんって仕事?」

 じろりと見つめられる。
 
「あっ、いや、どうと言うわけじゃーないんだが。岩田の母さんを見たことなかったから。ほら、昔モデルしてたって。すっげー美人なのかなあーなんて。いつごろ帰るのかなーなんて……」

「……、……」

「さて……。集中集中っと」

 問題集に注目する以外に道は無かった。
 やがて六時をまわり、岩田が勉強会を終えようと言い出した。
 母親の帰宅が遅い、いや、予定の行動かもしれないが、夕食の準備やら何かあるのだろう。
 もっと続けないか、とも言い難く、おずおずと勉強道具を収め終え、僕はポケットの中に手を入れそれを握った。

 ――謝罪文が入った封筒。

 岩田ママより先に岩田に渡してしまうか? 悲惨な事になるかもしれないが……。
 ひたすら謝罪し、岩田ママの帰宅を待たせてもらう流れにするしかなさそうだ。
 待っている間に僕の母さんにメールを送る。文面は昨日打って保存してあるから送信するだけ。シナリオは完璧にできている。

「かなり集中できた。苦手な数学もお前のお陰で少しばかり自信がついてきた。感謝する」

 そう言って岩田は僕の帰宅を促すように、リビングのドアを開けて押さえている。

「あ、ううん。こっちもありがとな……」

 帰る流れだよな、これって……。
 あぁ、もうここから出るしかないじゃないか。

 作り笑顔で返し、ここで手紙を渡そうと思ったが、岩田が廊下に出たので後を追った。

「入試まで、もう二週間を切ったな」

 歩きながら岩田が言う。

「ああ」 

「俺は必至だ。どうしてもK大を受かりたいからな。お前は余裕だろうが」

「そうでもないぞ。当日のテストが酷かったらドボンだろう」

「そう言うヤツが一番出来が良かったりする。ふふふ」

「そうかあ? ははは」

 ほのぼの会話しているどころじゃないんだが。早く手紙を渡せ僕。もう玄関じゃないか。
 
「じゃあ。山柿」

「あ、ああ」

 いよいよ靴を履くだけになっちまった。
 ここに来て臆病風に吹かれている自分が情けない。

「バイバイ。お兄ちゃん」

「!」

 突然愛里の声。振りかえると岩田の後ろ、身体半分だけだした愛里が元気なく手をふりふりしていた。
 少し驚いたが、納得した。兄の手前、一応挨拶したというわけか……。僕はお客さまになるのだからな。なるほど。

「ばいばい……」

 僕もそう返事をしたが、愛里は黙ったままだった。 

「おおっ! 雪が降ってる」

 岩田が窓の外を見ながら、子供みたいに騒ぎだした。
 ほんとうだ。今日は雪マークは無かったはずなのに、まあどうでもいいけど……。

「帰るとき転ばないように気をつけろよ。お前、得意だから。まあ受験は転ばないだろうけどな。ふふふ」

「そうだな。はは……」

 愛想笑いをしながら愛里をみたが、笑いもせず、やっぱり岩田の後ろに隠れるようにして僕を覗いている。大きな瞳が疑惑で揺れている。艷やかな長い黒髪が告白を求めているみたいで、問い詰められているみたいで心が痛かった。

 今謝らないとマジで後悔する。このまま帰ったらダメだ。
 言葉は出ないが、なんとかポケットから手紙を出すことはできた。

 渡しちまえコレをっ!! 
 それで終わる。
 K大入試も教師になる夢までひっくるめて全部。

「傘いるか?」

 急に岩田に向かれ、慌ててポケットに突っ込んだ。

「あ、いや、大丈夫」

「じゃあ。気を付けて」

 そう言われて、

「ああ。またな……」

 僕は靴を履き、手を上げて岩田兄妹に別れをして玄関を出る。背後で閉まるドアの音がした。
 とぼとぼ少し歩いて家の柵から出て立ち止まる。振りかえって岩田豪邸を見上げた。
 ポケットの中には渡せなかった謝罪文。

 本来ならとっくに愛里が兄や母親にトイレ事件を打ち明けていて、岩田家で大騒ぎになっているところ。
 それをしないのは、僕が兄の友人だからと我慢してくれただけなのかもしれない。受験を前にした大事な時期でもあるしと。勉強を頑張っている兄の姿を見ている妹だから、K大受験がどれほど重要かは小学生でも肌で感じ取っているのだろう。
 それに愛里くらいだと、性の恥じらいは芽生えているだろうから、自分がああいう恥ずかしい事をされてしまったのは、誰にも知られたくないだろう。

 そこまで知ってて手紙を渡せず、謝りもしない僕は……、

 卑怯者。卑怯者。卑怯者。卑怯者。卑怯者だ――――――っ! 
 最低の男だあああ――――っ!

 雪交じりの冷たい冬風を浴びながら、とぼとぼと家路についた。

「ふわっ、ふわっ……ふわっ……くしゅん!!」

 何処かでのんきなおっさんのくしゃみが聞えた。

 
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