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1話 あの日に帰りたい
しおりを挟む「クロム君、そんなに改まって一体どうしたのかね?」
「はい、ギルドマスター様。自分は――クロム=ハビストは――今日限り、この支援者ギルドを辞めます」
ギルドマスターのダランの前で、僕は辞表を提出するとともにそう宣言する。
30年もの間、ずっと真面目に働いてきたこの仕事場から離れることになったんだ。油断すると泣きそうになる。冬は支援者ギルドがもっとも忙しくなる時期なのに。
「よくぞ決断してくれた。ああいう噂を信じたくはないが信用が大事だし、お前とは付き合いが長いのでこっちからは言い出し辛かったからな」
「…………」
僕の支援術が著しく衰えたとか、上級支援者であることを利用して新人の女性支援者や患者にセクハラしているとか、根も葉もない噂をばら撒いた張本人のくせによく言う。
地位も名誉もいらない、ただ支援者として命を救う仕事を続けさせてほしいと言った僕に、ギルドマスターはそんなものボランティアでやればいいと突っぱねてきた。
このダランという男は、それじゃ僕が生きていけないとわかってて言ってるんだ。支援者ギルドから除名されると同時に、支援術士の資格を剥奪されるわけだからね。
こういう地方の町であっても、資格がないのに支援者として活動したという事実が発覚したら牢獄行きだそうだ。なんせギルドと王国はズブズブの関係だから。
既にギルドメンバーもダランに忠実なやつらで固められているし、僕の居場所はない。だから、無惨に追い出される前にこっちから辞めることにしたんだ。
「そうかそうか、わかった。止めはしない。では早く去りなさい。ん、どうした? 何か文句でもあるのかね?」
「いえ、何もありません……」
当たり前ではあるが、同時期に同じ支援者見習いとして入ったのに、今やギルドマスターまで上り詰めたダランからはお疲れ様の一言もなかった。
小馬鹿にしたような、蔑むような視線を送られただけだ。あれだけさぼってきたことの尻拭いを僕がしてやったというのに、こんなものか。
思えば昔からダランは狡賢く、要領のいいやつだった。僕はずっとこの男の近くにいて醜い本性を知っていることもあり、早く辞めさせたかったんだろう。それと、僕の支援術を絶賛した新人を問答無用で首にしてしまったことから、能力に嫉妬しているってのもあると思う。
世渡りはずば抜けて上手なものの、支援の腕は平凡で怠け癖があるダラン、天才的な技術の持ち主だがお人よしで要領が悪く、バカ真面目のクロム、秀才で欠点の見当たらない完璧主義者のヴァイス。
このギルドに入ってから1年後くらいに、僕たち支援者はよく周りからそう呼ばれて比較されたものだ。この三人が特徴的で、誰かがトップを取るだろうと言われた。
結果は、ダランがギルドでナンバーワンの美少女とギルドマスターの位置を射止めて、ヴァイスはエリートが集まる王都の支援者ギルドに引き抜かれ、僕は仲間すらおらず孤立し、今日付けで退職まで追い込まれた。
「…………」
僕が項垂れながらギルドを去るも、声をかけてくれる人は誰一人いなかった。
『クロム、お前は人がよすぎるんだ。それじゃ誰かに利用されるだけだぞ』
ヴァイスが言っていたことを思い出す。ちょっとお節介なところはあるけど、はっきりと意見を言える人物だった。
『俺はより良い条件を選ぶ。クロム、お前ももっとしっかり自分の意見を持てよ』
『ダランってやつには特に気をつけろ』
『いいか? 優しい人っていうのはな、ただの悪口だ。都合のいい道具にされているにすぎない』
『お前が正しい道を選択したとき、必ず抵抗がある。でも、それこそが本物の反応だ。殻を破るときは痛みを伴う。嫌われてもいいから、自分のために生きろ』
「……ははっ……」
正しかった、あんたは正しかったよ、ヴァイス。
僕は優しい人だなんて周りから褒められて、支援者という立場なのもあってこの職業に合っている性格だと思って浮かれていた。嫌われたくなくて、周りの期待に応えたくて面倒なことを引き受けてばかりだった。
でも、それで僕が得られたものはなんだ?
何もない。そんなもの、唯一の居場所だった人を助ける仕事場まで失った以上、何一つありはしないじゃないか。
そうだ、むしろ減るばかりだ。
お人よしであることで舐められて、みくびられて、他人の出世の踏み台にされた。こうして自分の居場所すら守れなかった……。
僕はくたびれたロバだ。年を取って乗り捨てられた哀れなロバ。飲み干されて道端に転がったポーション瓶。
『人間ってのはな、高等に見えるがあくまでも動物なんだよ。最後は理屈じゃなく感情で動く生き物だ。それを忘れるな』
「…………」
ヴァイス、あんたは賢かった。僕はバカだった。
きっと、僕も無意識のうちに期待していたんだと思う。
いいことをすれば報われると勝手に信じていた。
でも、そうじゃないんだ。
綺麗事だけじゃ生きられない。幸せになるためには、誰かを蹴落とす覚悟がいる。自分の領域を持つためには、プライドだってかなぐり捨てなきゃいけないときが来る。
周りの意見に振り回されないように声を上げなきゃいけない、抵抗しなきゃいけない、強くならなきゃいけない……。
「ううっ……」
でも、もう遅い。真実に気付いたときには47歳になり、頭部には白髪が目立つ。
家族だっていやしないんだ。同僚たちはみんな結婚したのに、僕だけ独身のまま生涯を終えてしまうだろう。人を助ける仕事を失うことに比べたらちっぽけなことだけど、全てを失った今、味方が一人もいない僕には耐えられそうになかった。
ギルドから出ると雪が降り始めた。
僕は手を震わせつつ、懐から分厚いメモ帳を取り出して開くと、自分がここに入ってからの30年間の思い出がざっと記されていた。
特に印象に残ったことしか書かれてないけど、読むたびに今から考えるとああすればよかった、こうすればよかったと、涙とともに後悔が滲み出てくる。僕の技術や心が未熟なために救えなかった命について、幾つも書いてあるからだ。
僕は天才と言われながらも、勇気がなくてそういう難病を治療することは避けていたからね。治療することで、出世欲の強い人たちから目をつけられやしないかって遠慮してたってのもあるけど……。
「――ここは……」
僕は考え事をしながらフラフラと歩いていて、気が付くと夕暮れを映す小さな池の前まで来ていた。
30年前は見渡す限り広大な湖だったのが、今じゃ開発が進んで大半が埋め立てられ、この小さな池を見ればわかるように極端に狭くなってしまっているんだ。
そうだった……かつては支援者ギルドの周りは湖を臨む花畑で溢れ、30分くらい歩いた先にはお洒落なカフェもあったんだったな。
それが、現在だと便利にはなったが花畑はなくなり店舗や住宅だらけになってしまっているし、カフェもとっくに潰れてしまった。
随分と様変わりしたものだ。あの頃は不便でも、心は豊かだったし、何より希望があった。戻りたいなあ……。
「…………」
池に入水することで死のうとしたが、僕は直前で踏みとどまってしまい、どうしても足が前に進まなかった。
死ぬことすらもまともにできないのか、僕は……。
『戻りたいのか?』
「え……?」
誰だ……? 周囲を見渡すが、誰もいない。何か、脳内に直接響くような感じの声だった。
『水面を見なさい』
「あ……」
池の水面に大きな影があると思ったら、そこから魚が顔だけを出していた。
さ、魚が喋った……?
『戻りたいなら、その願いを叶えてやろう』
「ま、まさか、神様……?」
『その質問には答えられない。戻りたいなら、私の顔を見ながら一心に祈りなさい。あの日に帰りたい、と』
「…………」
あの日に帰りたい。僕は心の底からそう願った。まだ支援者ギルドに入ったばかりのあの頃に戻って、何もかもやり直したいと……。
『了承した』
それからまもなく、意識が徐々に沈み込んでいくのがわかった……。
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