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86.垂れ落ちる雫
しおりを挟む「……ひっく……うぐっ……」
「ほら、泣いてないでちゃんと言いなさい!」
スピカの《招集》により、バニルたちはみんな無事に小部屋まで戻ってきたものの、失踪劇の発端となったミルウをルシアが叱りつけていて、室内はまたしても重い空気に包まれていた。
「もー、そんなに怒らないの。私が言うから――」
「――ダメよバニル、こういうことはしっかりしておくべきなんだからっ!」
「えぐっ……あ、あのね……ミルウがおしっこしてたら、宝箱見つけて……それで近付いたらワープしちゃって……」
「なるほど。ワープトラップってわけか」
今考えると、『ウェイカーズ』の前に急に気配を見せたパーティーがいたが、どこかのワープトラップを踏んだためにこの辺に飛んできたのかもしれない。
「ミルウ、あんたねえ……あたしたちは初心者じゃないし、宝箱には罠があるかもしれないから、見つけても迂闊に近付いたらダメだってあれほど――」
「――もういいじゃない、ルシア……」
「そうですよぉ。ミルウさんはまだ10歳にも満たないお子様なのですから、許してあげましょう……」
「……」
スピカは忘却症で忘れてそうだが、ミルウはこれでも一応17歳なんだよなあ。ただ、本人が幼いのを売りにしてるっぽいしこれでいいのか。
「もうっ……みんなすぐそうやってこの子を甘やかすんだから!」
今度はルシアが涙目になってしまった。
「しょうがないよ。私だって捜してるうちに罠を踏んじゃったんだし……」
「そ、それはあたしもそうだけど、必死だったからでしょ。どれだけみんな心配したって思ってんのよ……」
「ひっく……ルシア、ありがとぉ。みんなも……」
「ふんっ!」
ルシア、ミルウにお礼を言われて顔を背けたが照れてるのバレバレだ。
「とりあえずその宝箱を開けてみるか」
それだけ踏みやすいトラップの近くにある宝箱なわけだし、レアなアイテムが入ってるんじゃないかっていう期待があった。
「あふぅ。楽しみぃ……」
「もー、あんたってほんっと調子いいんだから!」
ルシアは呆れつつもほっとした様子だった。あれだけ怒ってたのも、それだけミルウのことを思ってたからなんだろうしな。俺もひとまず安心したが、またあいつらが来る恐れもあるので、なるべく攻略を急がないといけない。
「……」
俺ははっとなった。憎い仇が同じダンジョンにいるというのに、自分は何故そんなに恐れてるんだ。あのとき植え付けられた恐怖がそうさせるのか。
《成否率》で調べることによって『ウェイカーズ』は想像以上に強いとは感じた。だからこそ倒しがいがあると言えるんだが、色んな要因が重なったとはいえ俺がそこから逃げ出したのは事実だ。回避するのは仕方ないにしても、それで悔しいんじゃなくてほっとしてるようじゃダメなんだ。
リーダーのベリテスは言っていた。今のお前さんは自分が思っている以上に遥かに強い、と。自分を信じられずに《成否率》に頼ってびくびくしている間は、絶対にやつらには勝てないような気がする。不安もまた確率をマイナスの方向に導いているように思えるからだ。
ダンジョンの攻略を目指しつつ、俺はここでやつらを全員殺そうと思う。そのことから逃げていたら、俺はまたこの先もずっと言い訳をしながら逃げ続けるだろうから。
左手の拳が汗ばむ。見てろ……俺は必ずやってやる。元英雄ベリテスの相棒になるためにも、バニルたちに恩返しをするためにも……。もちろん無謀な挑戦をするつもりはない。その時点で打開策がなければ、今回のように回避することも視野に入れるつもりだ。
◇ ◇ ◇
「なるほどねぇ。やっぱり、か……」
カルバネたちが目の前で消えたことで、ヒントを得たラキルたちもまた宝箱前のワープトラップを利用し、その結果古城内の大広間まで飛んでいた。
陽の当たる床には魔法陣を模した円形が波紋の如く徐々に幅を広げており、ちょうど『ウェイカーズ』の面々はその中心部分に立っていた。
縦横に広大であり、周りを取り囲む列柱でさえも遥か遠方に位置しており、その周辺を徘徊するモンスターも含めて豆粒のように見えるほどであった。
「クソセクトはここから逃げたってわけか。チキンの申し子なだけあって逃げ足だけは成長しやがって……」
「……ま、まったくだ。ウスノロめ……ぎっ!?」
ルベックにいきなり横っ面を殴られて倒れるオランド。
「ひぎっ、顎がっ、顎が外れりゅうぅ。まだジョンビになってにゃいのにい……」
「知るかよ腐ったゴミ。お前がしっかりしてねえから逃げられちまったんだろうが――」
「――お前たちぃ……」
そこに険しい表情のグレスがカチュアとともに割り込んできて異様な空気に包まれる。
「そもそもだあぁ、ゴミセクトはあの部屋にいたんじゃなかったのかぁ……? なんでこっちなんだぁ……」
「ん、んんっ……」
グレスの手は、カチュアの下着の中に潜り込んでいた。
「グレス様……僕の《魔眼》じゃそこまではっきりとは見えませんけど、間違いなくあの小部屋にはいたと思います。多分、こっちが使用を中断したほんの僅かな間に暖炉から煙突を伝って外に出て、中庭の茂みの脇にあったワープゾーンに入ったと、そう考えるのが自然なのかなと。おそらくあれを踏まれると、しばらく《魔眼》に狂いが生じるのでは……」
細い顎に手を置いて色々と推測するラキルだったが、その表情は冴えなかった。
「で、この広間のどこかにセクトはいるのかぁ? それともおぉ……既に遠くまで行かれたとでもいうのかぁ?」
「そ、それは……近くではありませんが、こっちの予想より遥かにセクトの動きが迅速で――」
「――ラキルぅ……お前なあぁ、よく間抜けって言われないかぁ……?」
「へ? 間抜け? えっ、僕が……?」
さも意外そうに目を見開くラキルに対し、グレスがにんまりと笑う。
「ラキルぅ、お前しかいないだろうぅ。ゴミセクトに逃げられたのは事実だろうがぁ……悔しいなら俺と喧嘩するかあぁ? ひひっ……」
「……」
ラキルの表情が一気に沈み込み、両手に作られた握り拳に血が滲む。
「お、おいラキル、やめとけって。な?」
ルベックが慌てた様子で間に入るも、ラキルは手で制した。まもなく、その足元にぽとぽとと雫が落ちる。
「申し訳ありません。グレス様……」
ラキルは涙を流してひざまずき、【悪魔化】すると己の左上腕部を右手の長い爪で一気に貫いた。
「ぐぐっ……ど、どうか……これでお許しを……」
圧倒的な静寂の中、大広間の床に血と涙が垂れ落ちる。
「ふん……まあいいぃ。だが今度は必ず捕えろぉ。二度目はないと思えぇ……」
「はい……ありがたき幸せ……」
ラキルは引き抜いた血まみれの爪をぺろりと舐めて薄く笑った。
「……セクト……この恨み、必ず晴らしてあげるからね……。オモチャの分際でご主人様に逆らった罪……さすがに調子に乗りすぎなんだよゴミムシイィ……!」
「ラ、ラキル……?」
側にいたルベックが後退りするほど、元の姿に戻っているにもかかわらずラキルの怒りの形相は凄まじいものであった。
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