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1巻
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プロローグ
今日で、結婚して二年が経った。
この記念日を一緒に過ごそうと、夫のラファエルは仕事を休んでくれた。
二人で街に出て、買い物と歌劇を楽しみ、夕食を食べてから家に帰った。
就寝にはまだ少し早かったけれど、お風呂に入って、ゆっくりと湯を楽しんだ。
お風呂を出ると、侍女が丹念に香油を塗り、ちょっとセクシーなネグリジェを着せてくれる。
鏡に目を向ければ、ウェーブのかかったやわらかく長い金髪に青い目の、僅かにふくらんだ胸を持つ女が映っていた。
この二年で背丈も少し伸びたし、胸とお尻の肉付きも少しは増している。丸くて大きい目は少し幼さを感じさせるけれど、以前より大人っぽい顔付きに見えた。結婚当初はまだ似合っていなかったネグリジェも、それなりに様になっているように思う。
寝室に入ると、室内履き越しにも感じるやわらかい絨毯が、わたしを優しく迎えてくれた。
すでに中にいたラファエルは、天蓋付きのベッドに座って本を読んでいる。
青いカーテンを閉め切った部屋の中を、ベッドサイドのランプが照らしていた。
その光は、俯いた彼の彫りの深い顔に影を作りつつも、綺麗な黒髪に光の環を輝かせている。
「お、お待たせ」
緊張して、声が震えてしまった。
ラファエルは顔を上げて、わたしを見ると微笑む。
「ああ、ブリジット。今夜はまた、一段とかわいいね」
本を閉じてサイドテーブルに置くと、ゆっくりと立ち上がって、そばまでやってきた。
そしてわたしを抱き締めると、ふふ、と笑う。
低く色気のある声が鼓膜を揺らして、わたしは腰が抜けてしまいそうだった。
「こんな天使のような君と結婚できて、わたしは世界一の幸せ者だ」
抱き締める腕の力を強めて、ラファエルが耳元で囁く。
わたしがぶるりと震えると、彼は深く息を吸い込んだ。わたしの匂いも一緒に吸い込んでいるのが分かって、恥ずかしくなる。
おずおずと彼の背中に手を伸ばすと、嬉しそうに笑われた。
今夜こそはいけるかもしれないという期待と、やっぱり駄目だろうという諦念が混ざり、足元がぐらつくようだった。
彼はいつだって愛を囁いてくれるし、全身で好きだと表現してくれる。
なのにわたしは、いまだに純潔を保っていた。
彼は「ブリジットを大切にしたいんだ」と言ってくれていたが、それはきっと、八歳も年下の妻を女性として見られないという意味ではないか、とずっと不安だった。
けれど、わたしが成人した年に結婚してから、もう二年になる。身体つきも女性らしくなった。
それに今日は一日中、結構良い雰囲気だったと思う。それは、今も。
「じゃあ、お姫様をベッドにご案内しよう」
ラファエルは冗談めかしてそう言うと、わたしを横抱きにした。
がっしりとした首に腕を回すと、彼はそのままベッドの方へと歩いて行く。
そして、優しくシーツの上におろされた。そっと室内履きを脱がされて、冷たい空気に晒されたつま先が丸まる。
彼も、ベッドに乗り上げた。
優しく頭を撫でて、額にかかっている髪を除けられる。唇にキスをされて、わたしは期待に胸を高鳴らせた。
もしかしたら今夜、わたしたちはついに、本当の夫婦になれるのかもしれない。
「かわいいブリジット。君はそのまま、美しい君でいてね」
だが彼は灰色の優しい瞳でそう言うと、もう一度触れるだけのキスをしてから横になってしまった。
あとはわたしに腕枕をして、優しく髪を撫でて――それだけだった。
「あの、ラファエル……」
「なあに?」
「ううん。……わたし、ラファエルのこと、大好きよ」
「わたしもだよ、ブリジット」
そう甘い声で言ってくれたけれど、それ以上のことはなくて。
今日も、わたしたちの関係は進まなかった。
◇ ◇ ◇
それから数日後、これでは駄目だと、わたしはカロリーヌ様に相談することにした。
カロリーヌ様はラファエルの幼馴染で、わたしも姉のように慕っていたし、彼女もわたしを可愛がってくれていた。
そして、わたしが親しくしている人の中で、一番大人の女性だった。
もちろん年齢だけで考えれば他にも母やお義母様もいるが、彼女たちは恋愛相談をするには年が離れすぎているし、なにより身内にそんな話をするのは恥ずかしい。
カロリーヌ様には旦那様もいらっしゃるし、夜会での様子を見ていると、男性に慣れている印象があった。それに、ラファエルのことにも詳しい。
恥ずかしい気持ちもあるけれど、一番力になってくれるのは彼女だと確信していた。
カロリーヌ様のお家の庭にお邪魔させてもらって、紅茶をいただく。
そばには綺麗に手入れのされた庭木や花壇、きらきらと光を反射する大きな噴水があった。
いつもならそんな光景と清々しい空気に包まれて爽やかな気分になるが、今日ばかりはもやもやとした気持ちが晴れない。
「それで、相談ってどうしたの?」
とりとめのない世間話をしたあと、カロリーヌ様が切り出した。
一瞬、話すのをやめようか迷ってしまった。でも、ここまで来てそれはないだろうと、膝の上でこぶしを握る。
「その……わたしとラファエル、まだ……所謂、清い関係なんです。それに、悩んでいて……」
カロリーヌ様の青い目がぱちぱちと瞬きして、髪と同じ色の真っ赤な睫毛が揺れた。
「そんな……あなたとラファエルが上手くいっていないなんて、まったく気付かなかったわ」
「上手くいっていないというか……その、仲が悪いわけではないんですけれど……」
ぼそぼそと言うと、カロリーヌ様は眉尻を下げて微笑んだ。
「ええ、ええ。分かっているわ。ごめんなさい、わたくしの言い方が悪かったわね」
そして視線を下げて少ししてから、思い出すような口ぶりで話し始めた。
「わたくしと会っている時も、いつもあなたが可愛くてしょうがないって話をしていたから、そんな悩みがあるなんて思わなくて」
かわいい。普段であれば嬉しい言葉のはずなのに、今はそう受け取れない。
「やっぱりわたしのこと、妹とか、そういうふうに思っているんでしょうか……」
「うーん……どうなのかしら……」
カロリーヌ様は頬に手を当てて、考えているようだった。
そしてしばらくしてから、目を輝かせてわたしを見る。
「そうだ、わたくしが殿方の誘い方を教えましょうか!」
「えっ!?」
驚きの声を上げるわたしに、カロリーヌ様はいたずらっぽく笑った。
「ラファエルも、あなたのことがちゃんと好きだと思うわ。けれど歳が離れているし、少し気が引けているのかも。だからここは、むしろあなたがリードするくらいでいった方が上手くいくかもしれないわ」
「な、なるほど……? でも、わたしにできるでしょうか……」
夫婦の営みがどういったものかは教育されているものの、経験がまったくないのだ。夫としていない以上、当たり前なのだけれど。
「だから、わたくしが教えてあげる。明日の夜、空いているかしら?」
明日はラファエルも仕事で帰ってこないと言っていたので、大丈夫だろう。わたしは頷く。
「じゃあ、南にある『満月』っていう宿屋を知ってる?」
「ええ、聞いたことは……」
『満月』というのは、王都の南の方にある宿屋だった。
敷地内に幾つかある建物を丸々借りるという変わった形式から人気があって、噂に疎いわたしでも聞いたことがあるくらいだ。
宿泊料が高くて、利用するのは名の知れた冒険者や、貴族くらいらしい。だから迷惑な客も少なくゆっくり過ごせると、それがまた人気に拍車をかけていた。
「そこの部屋をとっておくから、いらっしゃい。『満月』までくれば迎えを寄越すから。夜に一人で、わたくしの夫もいる家に来るのは気が引けるでしょう?」
どうしてわざわざそんなところに行かなければならないのだろうと思ったが、気を遣ってくれたようだ。
「はい。ありがとうございます」
そして翌日の夜、わたしは約束どおり『満月』に来ていた。
敷地の入り口にある建物に入ると、見覚えのある女性に声をかけられる。カロリーヌ様の侍女だ。
「一番東の三番の小屋になります。こちらが鍵です。受付に見せれば中に入れます」
「あ、ありがとう」
「奥の部屋で待っておられるそうなので、建物についたらそちらにお入りください」
「分かりました」
鍵を受け取って、受付に進む。言われたとおりに鍵を見せると、受付の人がカウンターを開けて、その奥の扉を指した。
「こちらからどうぞ」
「ありがとう」
そういう仕組みなんだ、と初めての宿屋にどきどきしながら入っていく。
扉をくぐると、草木が手入れされた広い敷地に、ぽつぽつと小屋が建っていた。
とりあえず東に向かって行く。それぞれの建物のそばに数字の書かれた看板が立っていたので、三を探しながら歩いた。
五分ほどで見つけたので、鍵をさして回し、扉を開ける。
そこには、テーブルとソファのある、居間のような部屋が広がっていた。
緊張しながら、そっと入る。
左手には厨房があって、奥と右手には扉があった。
奥の部屋で待っているという話だったので、そちらに近づく。
すると、声が聞こえてきた。小さく断片的だから、内容は分からない。
誰かといるのだろうか? でも侍女はそんなこと言っていなかったし、むしろ入るように言われたし……
迷ったが、とりあえずノックをした。しかし返事はなく、声も止まらない。
しばらく考え込んで、わたしがずっとここにいてもカロリーヌ様を待たせるだけだし、と扉を開けることにした。
彼女だってわたしが来ることを分かっているのだから、突然わたしが現れて困るような状況ではないだろう。
もし込み入った話をしているようだったら邪魔をする前に戻ろうと、そっと扉を開いて、中を覗き込む。
大きなベッドと、その上で絡み合う男女の剥き出しの肌が目に入って、手が止まった。
「あっ、あっ、あっ……ん、もっと、そこっ……」
「なに? また奥に欲しいの?」
「うん……焦らさないでぇっ……」
他人の見てはいけないところを見てしまった驚きで固まってしまったが、すぐに気付いた。
組み敷かれている女性の顔は、ちょうど相手の男性の腕に隠れて見えない。でも、その鮮やかな赤い髪は見覚えのあるものだし、声も、普段とは調子が違うものの聞き覚えのあるものだった。カロリーヌ様だ。
ここにわたしを呼び寄せたのは彼女だから、それは良い。
わたしが来ることを分かっていたのに、なぜ情事に溺れているのだろうという疑問と驚きはあるが、ここにカロリーヌ様がいること自体はおかしくない。
問題は、男性の方だった。
こちらからはカロリーヌ様に覆い被さる背中しか見えないが、その体格や黒い髪、声は、わたしのよく知っている人に似ていた。
「あっあっあっ!」
「これで、満足? はは……っ、聞かなくても、分かるか。気持ち良さそう」
「うん、うん、気持ち良い……!」
男性が腰を打ち付けるように動かして、カロリーヌ様はそれに甘い悲鳴をあげる。
嬌声と、くちゃくちゃとした濡れた音と、肌がぶつかる乾いた音が部屋中に響いた。
ノックの音が聞こえなかったのも無理はない。そう思ってしまうほど、彼女たちは盛り上がっているようだった。
耳を塞ぎたいのに、手が動かない。見てはいけない。すぐにここを離れなければと思うのに、足も動かない。
あの男性がわたしの知る人ではないという確信が欲しくて、でもどうしたらいいのか分からない。
わたしは、はくはくと口を開いたり閉じたりすることしかできなかった。
すると、身を捩らせた拍子にカロリーヌ様の顔がこちらを向き、目が合った。
彼女は一瞬目を見張ると、口角を上げて、男性の首に腕を回す。
「ねえ、ラファエル。キスしてぇっ……」
彼女が呼んだ名前を耳にして、どくんと心臓が飛び出しそうになった。
男性は、求められるままにカロリーヌ様へ口付けをする。
わたしの知るキスはちゅっと軽く触れあうようなものだったけれど、彼女たちのそれはまったく違った。
長い時間唇を合わせて、時折「んっ」「あっ」と甘い声や吐息が漏れている。
わたしは息苦しくなって、は、は、と浅い呼吸を繰り返した。
背を向けて睦事に夢中になっている彼には聞こえていないようで、キスを続けている。
唇を離すと、カロリーヌ様は男性に抱き着いた。彼の逞しい肩に顎を乗せて、わたしからもその表情がはっきりと見える。
彼女は笑って、男性の耳に囁いた。
「あ、あ、好きよ、ラファエルっ……気持ち良いっ……! 好き、好きっ……!」
喘ぎながらのその言葉に、ラファエルと呼ばれた男性は身体を起こした。
「俺も好きだよ、カロリーヌ」
ついにわたしの身体から力が抜けた。
座り込んだ拍子にお尻が床にぶつかって、どすんと音を立てる。
流石に、あの男性にも聞こえたらしい。彼はびくりと身体を揺らすと、振り返った。
「……ブリ、ジット……?」
大きく見開かれたその瞳は、よく知っている色をしていた。
カロリーヌ様を抱いていたラファエルは、わたしの夫だったのだ。
第一章 かつての幸せな日々
シュヴァリエ伯爵家に産まれたわたしには、婚約者がいた。
相手は、エルランジェ伯爵家の長男であるラファエルだ。
どうしてわたしたちの婚約が決まったかというと、わたしと彼の家の、何代か前のご先祖様の話に遡る。
当時、両家に産まれた男女は愛し合っていたが、その頃の政界事情から、結婚することを許されなかった。二人はそれぞれ違う人と結婚して子どもをもうけたが、『いずれ二つの家それぞれに男女が産まれたら、一緒にさせて欲しい』という言葉を遺したそうだ。
しかし数代にわたってどちらの家にも男児が続き、今回、女であるわたしがシュヴァリエ伯爵家に産まれた。今となっては両家の力も弱まってきていて、この二つの家の結びつきを反対するような声もなくなっていた。
そうして、わたしたちの婚約が決まったのだ。
歳は八歳離れていたがそう珍しいことではないし、あの頃はまだベルナール――ラファエルの弟だ――も産まれていなかったから、わたしが出生してすぐに婚約が決まったそうだ。
そして、将来結婚する二人には仲良くしてもらおうと、幼い頃から互いの家を訪問することがよくあった。
わたしが十二歳の頃になると、家の中だけでなく、二人で外に出かけるようになった。
ラファエルは案外女性的な趣味をしているというか、恋愛物のお話が好きで、一緒に劇を見たあと、近くのカフェで感想を話し合うのがわたしたちのデートの定番だった。
『どうだった?』
ラファエルが聞いてくる。
その日に観たお話は、犬猿の仲の家に生まれた男女が愛し合うが、周囲に反対されて駆け落ちをする。親が決めたヒロインの婚約者が追って来るも、決闘をして恋人が勝ち、二人で人生をやり直す、というものだった。前半は面白かったのだが、ヒロインと恋人が家のお金や宝石をくすねて駆け落ちをしたあたりで、わたしはどうかと思ってしまった。
彼女たちが今まで生活できていたのは、家族や領民のおかげだ。なのに家を継いで恩を返すこともせず、領民たちが納めてくれた税で得たものを、家を出る自分たちのためだけに使うなんて。
そこからわたしはヒロインたちを応援できなくなって、当て馬の婚約者に夢中になっていった。
彼は恋人とは違い、甘い言葉を囁いていなかったし、見目もあまり良くないという設定だった。
でも真面目でいい人だったし、最後にはヒロインを追ってきて決闘をするという情熱的な面も見せた。
負けた現実を受け止めて、『二人の愛に胸を打たれました。……お幸せに』と残して静かに去って行く場面にわたしは大泣きして、その後の、港町に着いて幸せそうにキスをする主役二人を恨めしいと思ったほどだった。
けれど上手く言葉にできなくて、たどたどしく話すと、ラファエルは呆れたように笑った。
『ブリジットは、良い子だね』
なんだかその言い方に距離を感じて、わたしは必死に弁明した。
『わ、分かってるの、そんなこと気にしてたらお話なんて楽しめないって。でもなんだか、そんなあっさり幸せになれるんだったら、わたしたちのご先祖様の苦悩はなんだったの? とか、貴族としての立場は? とか、あの負けた男の人が可哀想とか、色々思っちゃって……』
『そんなことないよ。同じものを見たって、感じ方は人それぞれ違う。そんなに考えて涙まで流して、ブリジットはそれだけ楽しんだということだし、とても良い意見だと思うよ』
ラファエルはそう言って、テーブルの上のわたしの手を握った。
温かくて大きな手に、なんだか安心する。
『それにわたしは、ブリジットのそういうところが好きだな』
ラファエルがそう言ったので、俯いていた顔を上げた。
彼は眩しいものでも見るように目を細めて笑い、わたしの手の甲を指でなぞる。
今までとは少し違う触れ方に、どくんと胸が高鳴った。
『だから、そのままの君でいて欲しい』
『うん……』
嬉しいのと同時に恥ずかしくて、わたしは小さな声で頷いた。
そして成人を迎えると、社交界に出ることになる。
王都では毎年、成人した貴族の子女が主役となる舞踏会――デビュタントが行われていた。
新成人のお披露目と同時にお見合いの場にもなるが、わたしのようなすでに婚約者がいる人には、そういった駆け引きは関係ない。
わたしはもちろん、ラファエルと一緒に出席した。
初めての社交の場に緊張したけれど、この日のために用意したドレスやアクセサリーで着飾ると気分が高揚したし、ついにラファエルと公の場に出られるという喜びもあった。
そしてその時に、カロリーヌ様と知り合ったのだ。
『やあ、ラファエル』
『これはこれは、オベール伯』
話しかけてきたのは、ラファエルより一回りほど年上のような紳士だった。
その隣には真っ赤な髪の美しい女性がいて、思わず目を奪われる。
『彼女はブリジット。シュヴァリエ伯爵家の一人娘で、わたしの婚約者です』
『初めまして、ブリジット嬢。ラファエルが首っ丈と噂の婚約者殿とお会いできて、嬉しいよ』
『あ、ありがとうございます。わたしも、伯爵とお会いできて嬉しいです』
挨拶をしながらも、嬉しい話を聞けて頬が赤くなる。
『ブリジット、彼はオベール伯爵。そしてその隣が、オベール夫人だ』
『初めまして、カロリーヌと申します。あなたとお会いできる日を楽しみにしておりましたわ』
『ありがとうございます、夫人』
この場には美しい女性がたくさんいたが、彼女は一際綺麗で、色気があった。真っ赤なリップが似合っていて、わたしが想像する大人の女性そのものだ。
『妻はバラチエ子爵の娘でね。昔からラファエルと交流があったようで、今日君に会えるのをとても楽しみにしていたんだ』
『まあ……ありがとうございます』
バラチエ子爵領は、ラファエルの父親が治めるエルランジェ伯爵領の隣だ。
『いつも、婚約者は天使のように愛らしいって自慢されていたの。あまりにもうるさいから、正直、惚れた欲目じゃないかしらと思っていたのだけれど……本当に、とっても愛らしいレディね』
『あ、ありがとうございます』
顔が燃えるように熱くなる。ラファエルを見ると、照れたように笑いかけてくれた。
ラファエルとオベール伯が一言二言話して、彼女たちとはお別れする。
そしてラファエルが、わたしを会場の端に案内してくれた。
『疲れただろう。飲み物を取って来るよ』
『ありがとう』
一人で待っていると、女性のクスクスという笑い声が聞こえて、自然と目が向く。
わたしより少し年上のような女性が二人、こちらを見ながら笑っていた。
話の内容は聞こえないから何とも言えないが、陰口を言われているようで嫌な感じだ。
あたりを見回して、ラファエルを捜す。
でも彼は見える範囲にいなくて、居心地が悪くなったわたしは俯いた。
『ねえ、あなた、どちらのお嬢さん?』
話しかけられて顔を上げると、そこにいたのは、つい先程わたしを見て笑っていたうちの一人だった。
今も笑みを浮かべているが、その瞳には明らかな敵意がある。
関わりたくないけれど、無視するのも失礼なので、答えるしかなかった。
『あの、わたし……シュヴァリエ伯爵の娘で……』
『まあ! じゃあ、あなたがブリジット?』
『え、ええ……』
すると彼女は、ぷっと噴き出すように笑った。
『それはそれは、失礼しました。どこかの子どもが迷い込んだのかと思って』
『え……』
『まさかあのシュヴァリエ伯爵令嬢が、こんなに幼い子だとは思わず……』
こうもはっきりと悪意を向けられたのは初めてで、どうしたら良いのか分からなかった。
怖くて、逃げたくて。
しかし立ち去るわけにもいかず、視線を下げる。
今日で、結婚して二年が経った。
この記念日を一緒に過ごそうと、夫のラファエルは仕事を休んでくれた。
二人で街に出て、買い物と歌劇を楽しみ、夕食を食べてから家に帰った。
就寝にはまだ少し早かったけれど、お風呂に入って、ゆっくりと湯を楽しんだ。
お風呂を出ると、侍女が丹念に香油を塗り、ちょっとセクシーなネグリジェを着せてくれる。
鏡に目を向ければ、ウェーブのかかったやわらかく長い金髪に青い目の、僅かにふくらんだ胸を持つ女が映っていた。
この二年で背丈も少し伸びたし、胸とお尻の肉付きも少しは増している。丸くて大きい目は少し幼さを感じさせるけれど、以前より大人っぽい顔付きに見えた。結婚当初はまだ似合っていなかったネグリジェも、それなりに様になっているように思う。
寝室に入ると、室内履き越しにも感じるやわらかい絨毯が、わたしを優しく迎えてくれた。
すでに中にいたラファエルは、天蓋付きのベッドに座って本を読んでいる。
青いカーテンを閉め切った部屋の中を、ベッドサイドのランプが照らしていた。
その光は、俯いた彼の彫りの深い顔に影を作りつつも、綺麗な黒髪に光の環を輝かせている。
「お、お待たせ」
緊張して、声が震えてしまった。
ラファエルは顔を上げて、わたしを見ると微笑む。
「ああ、ブリジット。今夜はまた、一段とかわいいね」
本を閉じてサイドテーブルに置くと、ゆっくりと立ち上がって、そばまでやってきた。
そしてわたしを抱き締めると、ふふ、と笑う。
低く色気のある声が鼓膜を揺らして、わたしは腰が抜けてしまいそうだった。
「こんな天使のような君と結婚できて、わたしは世界一の幸せ者だ」
抱き締める腕の力を強めて、ラファエルが耳元で囁く。
わたしがぶるりと震えると、彼は深く息を吸い込んだ。わたしの匂いも一緒に吸い込んでいるのが分かって、恥ずかしくなる。
おずおずと彼の背中に手を伸ばすと、嬉しそうに笑われた。
今夜こそはいけるかもしれないという期待と、やっぱり駄目だろうという諦念が混ざり、足元がぐらつくようだった。
彼はいつだって愛を囁いてくれるし、全身で好きだと表現してくれる。
なのにわたしは、いまだに純潔を保っていた。
彼は「ブリジットを大切にしたいんだ」と言ってくれていたが、それはきっと、八歳も年下の妻を女性として見られないという意味ではないか、とずっと不安だった。
けれど、わたしが成人した年に結婚してから、もう二年になる。身体つきも女性らしくなった。
それに今日は一日中、結構良い雰囲気だったと思う。それは、今も。
「じゃあ、お姫様をベッドにご案内しよう」
ラファエルは冗談めかしてそう言うと、わたしを横抱きにした。
がっしりとした首に腕を回すと、彼はそのままベッドの方へと歩いて行く。
そして、優しくシーツの上におろされた。そっと室内履きを脱がされて、冷たい空気に晒されたつま先が丸まる。
彼も、ベッドに乗り上げた。
優しく頭を撫でて、額にかかっている髪を除けられる。唇にキスをされて、わたしは期待に胸を高鳴らせた。
もしかしたら今夜、わたしたちはついに、本当の夫婦になれるのかもしれない。
「かわいいブリジット。君はそのまま、美しい君でいてね」
だが彼は灰色の優しい瞳でそう言うと、もう一度触れるだけのキスをしてから横になってしまった。
あとはわたしに腕枕をして、優しく髪を撫でて――それだけだった。
「あの、ラファエル……」
「なあに?」
「ううん。……わたし、ラファエルのこと、大好きよ」
「わたしもだよ、ブリジット」
そう甘い声で言ってくれたけれど、それ以上のことはなくて。
今日も、わたしたちの関係は進まなかった。
◇ ◇ ◇
それから数日後、これでは駄目だと、わたしはカロリーヌ様に相談することにした。
カロリーヌ様はラファエルの幼馴染で、わたしも姉のように慕っていたし、彼女もわたしを可愛がってくれていた。
そして、わたしが親しくしている人の中で、一番大人の女性だった。
もちろん年齢だけで考えれば他にも母やお義母様もいるが、彼女たちは恋愛相談をするには年が離れすぎているし、なにより身内にそんな話をするのは恥ずかしい。
カロリーヌ様には旦那様もいらっしゃるし、夜会での様子を見ていると、男性に慣れている印象があった。それに、ラファエルのことにも詳しい。
恥ずかしい気持ちもあるけれど、一番力になってくれるのは彼女だと確信していた。
カロリーヌ様のお家の庭にお邪魔させてもらって、紅茶をいただく。
そばには綺麗に手入れのされた庭木や花壇、きらきらと光を反射する大きな噴水があった。
いつもならそんな光景と清々しい空気に包まれて爽やかな気分になるが、今日ばかりはもやもやとした気持ちが晴れない。
「それで、相談ってどうしたの?」
とりとめのない世間話をしたあと、カロリーヌ様が切り出した。
一瞬、話すのをやめようか迷ってしまった。でも、ここまで来てそれはないだろうと、膝の上でこぶしを握る。
「その……わたしとラファエル、まだ……所謂、清い関係なんです。それに、悩んでいて……」
カロリーヌ様の青い目がぱちぱちと瞬きして、髪と同じ色の真っ赤な睫毛が揺れた。
「そんな……あなたとラファエルが上手くいっていないなんて、まったく気付かなかったわ」
「上手くいっていないというか……その、仲が悪いわけではないんですけれど……」
ぼそぼそと言うと、カロリーヌ様は眉尻を下げて微笑んだ。
「ええ、ええ。分かっているわ。ごめんなさい、わたくしの言い方が悪かったわね」
そして視線を下げて少ししてから、思い出すような口ぶりで話し始めた。
「わたくしと会っている時も、いつもあなたが可愛くてしょうがないって話をしていたから、そんな悩みがあるなんて思わなくて」
かわいい。普段であれば嬉しい言葉のはずなのに、今はそう受け取れない。
「やっぱりわたしのこと、妹とか、そういうふうに思っているんでしょうか……」
「うーん……どうなのかしら……」
カロリーヌ様は頬に手を当てて、考えているようだった。
そしてしばらくしてから、目を輝かせてわたしを見る。
「そうだ、わたくしが殿方の誘い方を教えましょうか!」
「えっ!?」
驚きの声を上げるわたしに、カロリーヌ様はいたずらっぽく笑った。
「ラファエルも、あなたのことがちゃんと好きだと思うわ。けれど歳が離れているし、少し気が引けているのかも。だからここは、むしろあなたがリードするくらいでいった方が上手くいくかもしれないわ」
「な、なるほど……? でも、わたしにできるでしょうか……」
夫婦の営みがどういったものかは教育されているものの、経験がまったくないのだ。夫としていない以上、当たり前なのだけれど。
「だから、わたくしが教えてあげる。明日の夜、空いているかしら?」
明日はラファエルも仕事で帰ってこないと言っていたので、大丈夫だろう。わたしは頷く。
「じゃあ、南にある『満月』っていう宿屋を知ってる?」
「ええ、聞いたことは……」
『満月』というのは、王都の南の方にある宿屋だった。
敷地内に幾つかある建物を丸々借りるという変わった形式から人気があって、噂に疎いわたしでも聞いたことがあるくらいだ。
宿泊料が高くて、利用するのは名の知れた冒険者や、貴族くらいらしい。だから迷惑な客も少なくゆっくり過ごせると、それがまた人気に拍車をかけていた。
「そこの部屋をとっておくから、いらっしゃい。『満月』までくれば迎えを寄越すから。夜に一人で、わたくしの夫もいる家に来るのは気が引けるでしょう?」
どうしてわざわざそんなところに行かなければならないのだろうと思ったが、気を遣ってくれたようだ。
「はい。ありがとうございます」
そして翌日の夜、わたしは約束どおり『満月』に来ていた。
敷地の入り口にある建物に入ると、見覚えのある女性に声をかけられる。カロリーヌ様の侍女だ。
「一番東の三番の小屋になります。こちらが鍵です。受付に見せれば中に入れます」
「あ、ありがとう」
「奥の部屋で待っておられるそうなので、建物についたらそちらにお入りください」
「分かりました」
鍵を受け取って、受付に進む。言われたとおりに鍵を見せると、受付の人がカウンターを開けて、その奥の扉を指した。
「こちらからどうぞ」
「ありがとう」
そういう仕組みなんだ、と初めての宿屋にどきどきしながら入っていく。
扉をくぐると、草木が手入れされた広い敷地に、ぽつぽつと小屋が建っていた。
とりあえず東に向かって行く。それぞれの建物のそばに数字の書かれた看板が立っていたので、三を探しながら歩いた。
五分ほどで見つけたので、鍵をさして回し、扉を開ける。
そこには、テーブルとソファのある、居間のような部屋が広がっていた。
緊張しながら、そっと入る。
左手には厨房があって、奥と右手には扉があった。
奥の部屋で待っているという話だったので、そちらに近づく。
すると、声が聞こえてきた。小さく断片的だから、内容は分からない。
誰かといるのだろうか? でも侍女はそんなこと言っていなかったし、むしろ入るように言われたし……
迷ったが、とりあえずノックをした。しかし返事はなく、声も止まらない。
しばらく考え込んで、わたしがずっとここにいてもカロリーヌ様を待たせるだけだし、と扉を開けることにした。
彼女だってわたしが来ることを分かっているのだから、突然わたしが現れて困るような状況ではないだろう。
もし込み入った話をしているようだったら邪魔をする前に戻ろうと、そっと扉を開いて、中を覗き込む。
大きなベッドと、その上で絡み合う男女の剥き出しの肌が目に入って、手が止まった。
「あっ、あっ、あっ……ん、もっと、そこっ……」
「なに? また奥に欲しいの?」
「うん……焦らさないでぇっ……」
他人の見てはいけないところを見てしまった驚きで固まってしまったが、すぐに気付いた。
組み敷かれている女性の顔は、ちょうど相手の男性の腕に隠れて見えない。でも、その鮮やかな赤い髪は見覚えのあるものだし、声も、普段とは調子が違うものの聞き覚えのあるものだった。カロリーヌ様だ。
ここにわたしを呼び寄せたのは彼女だから、それは良い。
わたしが来ることを分かっていたのに、なぜ情事に溺れているのだろうという疑問と驚きはあるが、ここにカロリーヌ様がいること自体はおかしくない。
問題は、男性の方だった。
こちらからはカロリーヌ様に覆い被さる背中しか見えないが、その体格や黒い髪、声は、わたしのよく知っている人に似ていた。
「あっあっあっ!」
「これで、満足? はは……っ、聞かなくても、分かるか。気持ち良さそう」
「うん、うん、気持ち良い……!」
男性が腰を打ち付けるように動かして、カロリーヌ様はそれに甘い悲鳴をあげる。
嬌声と、くちゃくちゃとした濡れた音と、肌がぶつかる乾いた音が部屋中に響いた。
ノックの音が聞こえなかったのも無理はない。そう思ってしまうほど、彼女たちは盛り上がっているようだった。
耳を塞ぎたいのに、手が動かない。見てはいけない。すぐにここを離れなければと思うのに、足も動かない。
あの男性がわたしの知る人ではないという確信が欲しくて、でもどうしたらいいのか分からない。
わたしは、はくはくと口を開いたり閉じたりすることしかできなかった。
すると、身を捩らせた拍子にカロリーヌ様の顔がこちらを向き、目が合った。
彼女は一瞬目を見張ると、口角を上げて、男性の首に腕を回す。
「ねえ、ラファエル。キスしてぇっ……」
彼女が呼んだ名前を耳にして、どくんと心臓が飛び出しそうになった。
男性は、求められるままにカロリーヌ様へ口付けをする。
わたしの知るキスはちゅっと軽く触れあうようなものだったけれど、彼女たちのそれはまったく違った。
長い時間唇を合わせて、時折「んっ」「あっ」と甘い声や吐息が漏れている。
わたしは息苦しくなって、は、は、と浅い呼吸を繰り返した。
背を向けて睦事に夢中になっている彼には聞こえていないようで、キスを続けている。
唇を離すと、カロリーヌ様は男性に抱き着いた。彼の逞しい肩に顎を乗せて、わたしからもその表情がはっきりと見える。
彼女は笑って、男性の耳に囁いた。
「あ、あ、好きよ、ラファエルっ……気持ち良いっ……! 好き、好きっ……!」
喘ぎながらのその言葉に、ラファエルと呼ばれた男性は身体を起こした。
「俺も好きだよ、カロリーヌ」
ついにわたしの身体から力が抜けた。
座り込んだ拍子にお尻が床にぶつかって、どすんと音を立てる。
流石に、あの男性にも聞こえたらしい。彼はびくりと身体を揺らすと、振り返った。
「……ブリ、ジット……?」
大きく見開かれたその瞳は、よく知っている色をしていた。
カロリーヌ様を抱いていたラファエルは、わたしの夫だったのだ。
第一章 かつての幸せな日々
シュヴァリエ伯爵家に産まれたわたしには、婚約者がいた。
相手は、エルランジェ伯爵家の長男であるラファエルだ。
どうしてわたしたちの婚約が決まったかというと、わたしと彼の家の、何代か前のご先祖様の話に遡る。
当時、両家に産まれた男女は愛し合っていたが、その頃の政界事情から、結婚することを許されなかった。二人はそれぞれ違う人と結婚して子どもをもうけたが、『いずれ二つの家それぞれに男女が産まれたら、一緒にさせて欲しい』という言葉を遺したそうだ。
しかし数代にわたってどちらの家にも男児が続き、今回、女であるわたしがシュヴァリエ伯爵家に産まれた。今となっては両家の力も弱まってきていて、この二つの家の結びつきを反対するような声もなくなっていた。
そうして、わたしたちの婚約が決まったのだ。
歳は八歳離れていたがそう珍しいことではないし、あの頃はまだベルナール――ラファエルの弟だ――も産まれていなかったから、わたしが出生してすぐに婚約が決まったそうだ。
そして、将来結婚する二人には仲良くしてもらおうと、幼い頃から互いの家を訪問することがよくあった。
わたしが十二歳の頃になると、家の中だけでなく、二人で外に出かけるようになった。
ラファエルは案外女性的な趣味をしているというか、恋愛物のお話が好きで、一緒に劇を見たあと、近くのカフェで感想を話し合うのがわたしたちのデートの定番だった。
『どうだった?』
ラファエルが聞いてくる。
その日に観たお話は、犬猿の仲の家に生まれた男女が愛し合うが、周囲に反対されて駆け落ちをする。親が決めたヒロインの婚約者が追って来るも、決闘をして恋人が勝ち、二人で人生をやり直す、というものだった。前半は面白かったのだが、ヒロインと恋人が家のお金や宝石をくすねて駆け落ちをしたあたりで、わたしはどうかと思ってしまった。
彼女たちが今まで生活できていたのは、家族や領民のおかげだ。なのに家を継いで恩を返すこともせず、領民たちが納めてくれた税で得たものを、家を出る自分たちのためだけに使うなんて。
そこからわたしはヒロインたちを応援できなくなって、当て馬の婚約者に夢中になっていった。
彼は恋人とは違い、甘い言葉を囁いていなかったし、見目もあまり良くないという設定だった。
でも真面目でいい人だったし、最後にはヒロインを追ってきて決闘をするという情熱的な面も見せた。
負けた現実を受け止めて、『二人の愛に胸を打たれました。……お幸せに』と残して静かに去って行く場面にわたしは大泣きして、その後の、港町に着いて幸せそうにキスをする主役二人を恨めしいと思ったほどだった。
けれど上手く言葉にできなくて、たどたどしく話すと、ラファエルは呆れたように笑った。
『ブリジットは、良い子だね』
なんだかその言い方に距離を感じて、わたしは必死に弁明した。
『わ、分かってるの、そんなこと気にしてたらお話なんて楽しめないって。でもなんだか、そんなあっさり幸せになれるんだったら、わたしたちのご先祖様の苦悩はなんだったの? とか、貴族としての立場は? とか、あの負けた男の人が可哀想とか、色々思っちゃって……』
『そんなことないよ。同じものを見たって、感じ方は人それぞれ違う。そんなに考えて涙まで流して、ブリジットはそれだけ楽しんだということだし、とても良い意見だと思うよ』
ラファエルはそう言って、テーブルの上のわたしの手を握った。
温かくて大きな手に、なんだか安心する。
『それにわたしは、ブリジットのそういうところが好きだな』
ラファエルがそう言ったので、俯いていた顔を上げた。
彼は眩しいものでも見るように目を細めて笑い、わたしの手の甲を指でなぞる。
今までとは少し違う触れ方に、どくんと胸が高鳴った。
『だから、そのままの君でいて欲しい』
『うん……』
嬉しいのと同時に恥ずかしくて、わたしは小さな声で頷いた。
そして成人を迎えると、社交界に出ることになる。
王都では毎年、成人した貴族の子女が主役となる舞踏会――デビュタントが行われていた。
新成人のお披露目と同時にお見合いの場にもなるが、わたしのようなすでに婚約者がいる人には、そういった駆け引きは関係ない。
わたしはもちろん、ラファエルと一緒に出席した。
初めての社交の場に緊張したけれど、この日のために用意したドレスやアクセサリーで着飾ると気分が高揚したし、ついにラファエルと公の場に出られるという喜びもあった。
そしてその時に、カロリーヌ様と知り合ったのだ。
『やあ、ラファエル』
『これはこれは、オベール伯』
話しかけてきたのは、ラファエルより一回りほど年上のような紳士だった。
その隣には真っ赤な髪の美しい女性がいて、思わず目を奪われる。
『彼女はブリジット。シュヴァリエ伯爵家の一人娘で、わたしの婚約者です』
『初めまして、ブリジット嬢。ラファエルが首っ丈と噂の婚約者殿とお会いできて、嬉しいよ』
『あ、ありがとうございます。わたしも、伯爵とお会いできて嬉しいです』
挨拶をしながらも、嬉しい話を聞けて頬が赤くなる。
『ブリジット、彼はオベール伯爵。そしてその隣が、オベール夫人だ』
『初めまして、カロリーヌと申します。あなたとお会いできる日を楽しみにしておりましたわ』
『ありがとうございます、夫人』
この場には美しい女性がたくさんいたが、彼女は一際綺麗で、色気があった。真っ赤なリップが似合っていて、わたしが想像する大人の女性そのものだ。
『妻はバラチエ子爵の娘でね。昔からラファエルと交流があったようで、今日君に会えるのをとても楽しみにしていたんだ』
『まあ……ありがとうございます』
バラチエ子爵領は、ラファエルの父親が治めるエルランジェ伯爵領の隣だ。
『いつも、婚約者は天使のように愛らしいって自慢されていたの。あまりにもうるさいから、正直、惚れた欲目じゃないかしらと思っていたのだけれど……本当に、とっても愛らしいレディね』
『あ、ありがとうございます』
顔が燃えるように熱くなる。ラファエルを見ると、照れたように笑いかけてくれた。
ラファエルとオベール伯が一言二言話して、彼女たちとはお別れする。
そしてラファエルが、わたしを会場の端に案内してくれた。
『疲れただろう。飲み物を取って来るよ』
『ありがとう』
一人で待っていると、女性のクスクスという笑い声が聞こえて、自然と目が向く。
わたしより少し年上のような女性が二人、こちらを見ながら笑っていた。
話の内容は聞こえないから何とも言えないが、陰口を言われているようで嫌な感じだ。
あたりを見回して、ラファエルを捜す。
でも彼は見える範囲にいなくて、居心地が悪くなったわたしは俯いた。
『ねえ、あなた、どちらのお嬢さん?』
話しかけられて顔を上げると、そこにいたのは、つい先程わたしを見て笑っていたうちの一人だった。
今も笑みを浮かべているが、その瞳には明らかな敵意がある。
関わりたくないけれど、無視するのも失礼なので、答えるしかなかった。
『あの、わたし……シュヴァリエ伯爵の娘で……』
『まあ! じゃあ、あなたがブリジット?』
『え、ええ……』
すると彼女は、ぷっと噴き出すように笑った。
『それはそれは、失礼しました。どこかの子どもが迷い込んだのかと思って』
『え……』
『まさかあのシュヴァリエ伯爵令嬢が、こんなに幼い子だとは思わず……』
こうもはっきりと悪意を向けられたのは初めてで、どうしたら良いのか分からなかった。
怖くて、逃げたくて。
しかし立ち去るわけにもいかず、視線を下げる。
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