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かつての幸せな日々

3.歳の離れた婚約者

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 シュヴァリエ伯爵家に生まれたわたしには、婚約者がいた。
 相手は、エルランジェ伯爵家の長男であるラファエル。
 どうしてわたしたちの婚約が決まったかというと、わたしと彼の家の何代か前のご先祖様に遡る。

 当時シュヴァリエ伯爵家に生まれた男性とエルランジェ伯爵家に生まれた女性は愛し合ったが、その頃の政界事情から、結婚は許されなかった。
 ふたりはそれぞれ違う人と結婚して子どもを儲けたが、「いずれふたつの家それぞれに男女が生まれたら、一緒にさせてほしい」という言葉を遺したそうだ。

 けれど数代に渡りどちらの家にも男児が続き、今回、女であるわたしがシュヴァリエ伯爵家に生まれた。
 今となってはふたつの家の力も弱まってきており、わざわざこの二家の結びつきを反対するような声もなかった。

 そうしてエルランジェ伯爵家長男のラファエルと、シュヴァリエ伯爵家長女のわたしの婚約が決まった。
 歳は八歳離れていたけれどそう珍しいことではないし、あの頃はまだラファエルの弟であるベルナールも産まれていなかったから、わたしが出生してすぐに婚約が決まったのだ。


 二つの家は元々犬猿の仲だったそうだが、悲劇のご先祖様以降は良好な関係を築いていた。
 だからこの婚約もすぐに決まったし、将来結婚するふたりには仲良くしてもらおうと、幼い頃から互いの領地や家を訪問することがよくあった。

「ラファエルさま!」
「やあ、ブリジット。今日もわたしのお姫様はかわいいね」

 わたしはラファエルのことが大好きで、会えばすぐに彼に抱き着いていた。
 彼はほんとうにかっこよくて、わたしにとって、憧れの王子様だった。

 なめらかな白い肌に、いつだって光の環があるセットされた黒髪。
 彫が深くて男らしい顔なのに、少し垂れた目と灰色の瞳がどこか物憂げで、甘い印象があった。
 それにいつだってわたしを可愛がってくれて、わたしが何をしても笑って許してくれる。
 こんなかっこよくて優しいひとと結婚できるのが、嬉しくてしょうがなかった。

 ラファエルは毎回、駆け寄るわたしを軽々と抱き上げて、頬にキスをしてくれた。
 それが嬉しくてくすぐったくてきゃっきゃと笑っていると、ラファエルもふふっと笑ってくれる。

 とはいえ八歳も離れていればそう話も合わないし、特にわたしが幼い頃なんて、彼にとっては子守りの感覚だっただろう。
 実際、ラファエルの弟――わたしのひとつ下のベルナールとわたしが遊び、ラファエルはそれを見守るということが多かった。
 それでもふとしたときにラファエルを見れば彼はいつだってわたしを見ていて、優しく微笑んでくれた。


 わたしが十二歳の頃になると、家の中だけじゃなくて、外にも連れて行ってくれるようになった。
 ラファエルとふたりきりのお出かけだ。

 手を繋いでお店を見たり、ご飯を食べたり、観劇したりする。
 顔立ちも髪や目の色も違うのに、仲の良い兄妹ねぇと声をかけられると、わたしはむくれた。
 するとラファエルは「ブリジットはかわいいわたしの婚約者だよ」と頬にキスをしてくれて、すぐに機嫌が直った。

 ラファエルは案外女性的な趣味をしているというか、恋愛物のお話が好きだった。
 わたしも年頃になればそういうものを好んだから、本を読んだり劇を見たりして、感想を言い合った。

「どうだった?」

 昼に劇を見た後、近くのカフェに入ると、ラファエルが聞いてきた。

 今日見たのは、犬猿の仲の家に生まれた男女が愛し合うけれど周囲の反対に合って駆け落ちをして、ヒロインの婚約者が追って来るけど決闘をして恋人が勝ち、ふたりで人生をやり直す話だった。

 前半の、愛を深めながらも反対する周囲の声と板挟みになっている様子は、わたしたちのご先祖様もこんな悲しい思いをしていたのかな、と胸を締め付けられた。
 けれど家のお金や宝石をくすねて駆け落ちをしたあたりで、わたしはどうかと思ってしまった。
 彼ら彼女らが今まで生活できていたのは家族や領民のおかげだし、それを家を継いで恩を返さず、あまつさえ領民たちが収めてくれた税で得たものを、家を出る自分たちのためだけに使おうだなんて。

 そこからわたしは主人公たちを応援できなくなって、むしろ当て馬の婚約者に夢中になっていた。
 彼は恋人のように甘い言葉は囁いていなかったし、見目はあまり良くないという設定だった。
 演じていたのも、それに合わせた、なんというか普通の役者さんだった。
 けれど真面目ないい人だったし、最後には追ってきて決闘をするという情熱的な部分も見せた。
 そこから負けた現実を受け止めて静かに舞台を去って行く場面にわたしは大泣きして、その後の、港町に着いて幸せそうにキスをする主役ふたりを恨めしいと思ったほどだった。

 けれどそう思ったことを上手く言葉にできなくて、たどたどしく話すと、ラファエルは呆れたように笑った。

「ブリジットは、良い子だね」

 なんだかその言い方に距離を感じた気がして、わたしは必死に弁明していた。

「わ、わかってるの、そんなこと気にしてたらお話なんて楽しめないって……でもなんだか、そんなあっさり幸せになるんだったら、わたしたちのご先祖様はなんだったの? とか、貴族としての立場は? とか、あの負けた男の人が可哀想とか、色々思っちゃって……」
「そんなことないよ。同じものを見たって、感じ方は人それぞれ違う。そんなに考えて涙まで流して、ブリジットはそれだけ楽しんだんだし、とても良い意見だと思うよ」

 ラファエルはそう言って、テーブルの上のわたしの手を握った。
 温かくて大きな手に、なんだか安心する。
 当て馬の人にこんなに感情を揺さぶられたのは、もしかしたら、わたしと彼を重ねているかもしれない。

 昔は無邪気にラファエルが婚約者であることを喜んでいたし当たり前だと思っていたけれど、わたしももう、彼がわたしには不釣り合いじゃないかと思い始めていた。

 大人になってから知り合ったならまだしも、彼はわたしがミルクを飲んでいる頃から知っている。
 それに彼が社交界で大変人気なことは、まだデビュタントを迎えていないわたしの耳にも届いていた。
 まだ子どものわたしは公の場で彼の隣に立って、婚約者だと胸を張ることもできない。

 いつか他の令嬢と一緒になってしまうんじゃないかという不安が、あの男の人に感情移入させたんだろう。
 だからきっと、純粋に恋物語を楽しめなかったのだ。

「それにわたしは、ブリジットのそういうところが好きだな」

 ラファエルがそう言ったので、俯いていた顔をはっと上げた。
 彼は眩しいものでも見るように目を細めて笑って、わたしの手の甲を指でなぞる。

「だから、そのままの君でいて欲しい」
「うん……」

 嬉しいけれど恥ずかしくて、わたしは小さな声で頷いた。
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