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第六章 二つの愛が交わる瞬間
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◇ ◇ ◇
朝早くにやってきた美澄が、店の前で軽くクラクションを鳴らした。それを聞いた藤崎は勝手口から顔を出す。エンジンをかけたまま運転席にいる美澄と目が合い、ニコリと笑いかけ扉に鍵をかけた。
「……っくしゅ!」
おはようございますの挨拶の代わりに出たのはくしゃみだった。
「えっ、まだ風邪治ってないのか?」
「い、いえ……違うんです。おはようございます……」
風邪は治っているし、今のは朝の冷たい空気に鼻腔が反応しただけだ。けれどくしゃみをするたびにクリスマスの日のことを思い出す。寒い部屋の中で真宮と肌を合わせ、お互いに汗や他のものでぐちゃぐちゃになった後、今朝の藤崎のようにくしゃみをしたのは真宮だった。
初めてなのにすごくやさしくしてくれたと思っている。どれほど緊張して戸惑ったのかと思えば、もうそれだけで胸いっぱいだった。眠るために一緒に布団へ入ってからも、藤崎は気持ちが昂ぶって寝付けず、ほとんど睡眠時間はなかったに等しい。隣で子供のように熟睡している真宮を眺めているうちに朝を迎えた程だった。
年末の忙しい時期を何とか乗り切り、今日は明けの市だ。真宮も連れて行こうと思ったが、今日は美澄と話しをしたくてそれを諦めた。
助手席に乗り込んで教習所の進み具合を話していると、あと一ヶ月といったところだな、と言われた。
「でも、クランクが難しいんです。どうしても脱輪してしまって。それで何度も補修を……」
「クランク? そんなところで躓いてるのか?」
「そんな所って、言わないでください。結構、頑張ってるんですよ?」
あからさまに怒ってみせると、偉い偉い、と言いながら視線を前へ向けたまま、美澄はまだ開けていない缶コーヒーを藤崎の前に差し出した。
「ありがとうございます」
ためらうことなく受取ると、それはまだ暖かかった。ドリンクホルダーには美澄のコーヒーがあるのを見て、これは自分の為に買ってくれたのだと知ると、彼のやさしさが胸に染みる。
「美澄さん」
「ん~?」
眠そうな返事をした美澄はブレーキを踏み、車はゆっくりと信号で停車した。
「あの、美澄さんに、もう一回ちゃんと返事を、したくて」
「……なに、なんかあったのか? ――真宮と」
「……っ。あ、ありました。それから、美澄さんが僕の許可を得ないで、浩輔のことを話したのも知ってます」
「あ、もうバレたの?」
「彼が言ってました」
藤崎の言葉に、美澄は「そっかぁ」と言ったきりで、横目でその表情を窺うと、なぜか少し微笑んでいて、すべて彼の手のひらの上かと思うと悔しくなった。
「もういいのか?」
美澄の言葉に顔を上げた藤崎は、彼が何のことを言っているのか一瞬分からなかったが、憂いを帯びたような表情で煙草に火を付けたのを見て「はい」と返事をする。
浩輔のことはもういいのか、と彼はそう言っているのだと思った。
「美澄さんの告白の意味に、気付かなかったというのは言い訳だと分かってます。でもこんな気持ちになったのは、浩輔を亡くしてから……初めてなんです」
奥村が亡くなってから今までは、美澄に支えられて生きてきたようなものだった。何かあるとすぐに奥村を思い出し、自分以外の誰かに気持ちを預ける事を怖がった。奥村を思い出し立ち止まった藤崎を押したのは美澄だった。けれど立ち向かうことを教えてくれたのは真宮だった。
「そうか」
美澄の口からはため息混じりの返事と紫煙が一緒に立ち上る。それを追い出すために運転席側の窓が開けられると、替わりに冷たい空気が入ってくる。熱くなった頬が程よく冷まされていった。美澄は窓の外を見たままで表情は見えず、信号が変わって車を進めるために前を向いた彼の顔は、いつもと変わらなかった。
車内には美澄の鼻歌が小さな声で聞こえていて、何の曲かは分からなかったが懐かしい気持ちになった。
冬の空のように心がどこか晴れ上がっている。クリアに高く澄んで、目に染みるような青だ。
「もう着くぞ」
美澄の声に藤崎は顔を上げる。
年明けの市場はいつもよりも人が多かった。初競りというのもあるかもしれない。いつもと同じ場所に来た藤崎は、見慣れた景色がどこか新鮮に見えることに驚きながら、振り返った美澄に声をかける。
「美澄さん。僕、もう大丈夫です」
ありがとうございました、と笑顔で言えば、そうかよ、と言って彼が右手を上げた。その顔はどこか満足げで、それを見届けた藤崎は市場の人混みに向かって駆けだした。
朝早くにやってきた美澄が、店の前で軽くクラクションを鳴らした。それを聞いた藤崎は勝手口から顔を出す。エンジンをかけたまま運転席にいる美澄と目が合い、ニコリと笑いかけ扉に鍵をかけた。
「……っくしゅ!」
おはようございますの挨拶の代わりに出たのはくしゃみだった。
「えっ、まだ風邪治ってないのか?」
「い、いえ……違うんです。おはようございます……」
風邪は治っているし、今のは朝の冷たい空気に鼻腔が反応しただけだ。けれどくしゃみをするたびにクリスマスの日のことを思い出す。寒い部屋の中で真宮と肌を合わせ、お互いに汗や他のものでぐちゃぐちゃになった後、今朝の藤崎のようにくしゃみをしたのは真宮だった。
初めてなのにすごくやさしくしてくれたと思っている。どれほど緊張して戸惑ったのかと思えば、もうそれだけで胸いっぱいだった。眠るために一緒に布団へ入ってからも、藤崎は気持ちが昂ぶって寝付けず、ほとんど睡眠時間はなかったに等しい。隣で子供のように熟睡している真宮を眺めているうちに朝を迎えた程だった。
年末の忙しい時期を何とか乗り切り、今日は明けの市だ。真宮も連れて行こうと思ったが、今日は美澄と話しをしたくてそれを諦めた。
助手席に乗り込んで教習所の進み具合を話していると、あと一ヶ月といったところだな、と言われた。
「でも、クランクが難しいんです。どうしても脱輪してしまって。それで何度も補修を……」
「クランク? そんなところで躓いてるのか?」
「そんな所って、言わないでください。結構、頑張ってるんですよ?」
あからさまに怒ってみせると、偉い偉い、と言いながら視線を前へ向けたまま、美澄はまだ開けていない缶コーヒーを藤崎の前に差し出した。
「ありがとうございます」
ためらうことなく受取ると、それはまだ暖かかった。ドリンクホルダーには美澄のコーヒーがあるのを見て、これは自分の為に買ってくれたのだと知ると、彼のやさしさが胸に染みる。
「美澄さん」
「ん~?」
眠そうな返事をした美澄はブレーキを踏み、車はゆっくりと信号で停車した。
「あの、美澄さんに、もう一回ちゃんと返事を、したくて」
「……なに、なんかあったのか? ――真宮と」
「……っ。あ、ありました。それから、美澄さんが僕の許可を得ないで、浩輔のことを話したのも知ってます」
「あ、もうバレたの?」
「彼が言ってました」
藤崎の言葉に、美澄は「そっかぁ」と言ったきりで、横目でその表情を窺うと、なぜか少し微笑んでいて、すべて彼の手のひらの上かと思うと悔しくなった。
「もういいのか?」
美澄の言葉に顔を上げた藤崎は、彼が何のことを言っているのか一瞬分からなかったが、憂いを帯びたような表情で煙草に火を付けたのを見て「はい」と返事をする。
浩輔のことはもういいのか、と彼はそう言っているのだと思った。
「美澄さんの告白の意味に、気付かなかったというのは言い訳だと分かってます。でもこんな気持ちになったのは、浩輔を亡くしてから……初めてなんです」
奥村が亡くなってから今までは、美澄に支えられて生きてきたようなものだった。何かあるとすぐに奥村を思い出し、自分以外の誰かに気持ちを預ける事を怖がった。奥村を思い出し立ち止まった藤崎を押したのは美澄だった。けれど立ち向かうことを教えてくれたのは真宮だった。
「そうか」
美澄の口からはため息混じりの返事と紫煙が一緒に立ち上る。それを追い出すために運転席側の窓が開けられると、替わりに冷たい空気が入ってくる。熱くなった頬が程よく冷まされていった。美澄は窓の外を見たままで表情は見えず、信号が変わって車を進めるために前を向いた彼の顔は、いつもと変わらなかった。
車内には美澄の鼻歌が小さな声で聞こえていて、何の曲かは分からなかったが懐かしい気持ちになった。
冬の空のように心がどこか晴れ上がっている。クリアに高く澄んで、目に染みるような青だ。
「もう着くぞ」
美澄の声に藤崎は顔を上げる。
年明けの市場はいつもよりも人が多かった。初競りというのもあるかもしれない。いつもと同じ場所に来た藤崎は、見慣れた景色がどこか新鮮に見えることに驚きながら、振り返った美澄に声をかける。
「美澄さん。僕、もう大丈夫です」
ありがとうございました、と笑顔で言えば、そうかよ、と言って彼が右手を上げた。その顔はどこか満足げで、それを見届けた藤崎は市場の人混みに向かって駆けだした。
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